五章 三輪山 十二話 大倭壱国(やまといちこく)
二世紀後半、冬。
登美の戦いに勝利した出雲軍は、戦後の処置を定めるため、政務館を接収して評定を開いていた。広間には須佐之男をはじめ、八島士奴美、五十猛、大年、八千矛ら諸将が並び、敗れた登美の豪族である長髄彦と安日彦も縄を解かれたまま座らされている。勝者と敗者が同じ場で今後の国の行く末を見届ける、張り詰めた空気が漂っていた。
やがて上座の須佐之男が静かに立ち上がる。
「此度の遠征は、出雲が領土を広げるためだけの戦ではない。大倭壱国の倭国統一を助けるため、東方へ道を切り開く戦であった。」
その言葉に広間は静まり返る。
「よって登美は今後、大倭壱国へ献じる重要な地となる。そのため、この地には新たな統治者を置く。」
須佐之男はゆっくりと大年へ視線を向けた。
「大年。この地の統治は、お前に任せる。」
突然の任命に広間はどよめいた。大年は静かに立ち上がると、深く頭を下げる。
「謹んで、お受けいたします。」
その声は落ち着いていたが、統治という重責を前にした覚悟が滲んでいた。
須佐之男は満足そうに頷いたが、やがて表情を引き締めると口を開いた。
「さて、降伏した安日彦と長髄彦だが……」
その言葉を遮るように、大年が一歩前へ進み出る。
「父上、お待ちください。二人にはすでに命は助けると約しております。ここで約定を違えれば、今後、誰も降伏を信じなくなりましょう」
広間が静まり返る中、須佐之男は腕を組んだまま黙って耳を傾けていた。
「さらに、私をこの地の統治者に任じてくださるのであれば、安日彦殿と長髄彦殿の処遇も、どうか私にお任せください」
その言葉を聞いた長髄彦は、思わず大年を見上げた。
助命を願った覚えはない。敗れた以上、命はないものと覚悟していた。だからこそ、自分を討つよう進言されるなら理解できた。しかし、大年はその逆を口にしたのである。
隣の安日彦も静かに目を伏せ、小さく息を吐いた。勝者が敗者を討ち、首を晒す。それが乱世の常であり、二人もまた、その運命を受け入れていた。
だが大年は違った。約束を違えず、人を生かして国を治めようとしている。その姿に、長髄彦は拳を握り締め、安日彦は静かに頭を垂れる。
『この御方なら、登美の民も救われるかもしれぬ』
二人は言葉を交わさなかったが、その胸には敗者としてではなく、一人の統治者として大年を認め始める思いが静かに芽生えていた。
しばらく大年を見つめていた須佐之男は、やがて豪快に笑った。
「はっはっはっ! よかろう!」
怒りではない。その笑顔には、戦だけでなく人を治める器を備え始めた息子への喜びが溢れていた。
「大年。この地も、あの二人の処遇も、お主に任せる」
「はっ」
深々と頭を下げる大年を見つめながら、須佐之男は胸中で静かに頷く。
『戦に勝つだけでは王にはなれぬ。人を生かしてこそ、国は治まるか……』
病弱だったあの息子が、いつの間にか自分の知らぬところまで成長していたことを、須佐之男は誰よりも嬉しく感じていた。
大年は一歩前へ進み、静かに頭を下げた。
「父上。登美を治めるのであれば、一つお願いがございます」
「申してみよ」
「今回の遠征は、大倭壱国の倭国統一に力を貸すという大義のもとに行われました。ならば登美の統治も、女王日巫女様へ戦の経緯を報告し、正式にお認めいただいて初めて正当なものとなります。私は筑紫へ赴き、その許しを得て参りたく存じます」
評定の間は静まり返った。須佐之男は腕を組んだまま大年を見つめ、しばらく考え込んでいたが、やがて力強く頷いた。
「よかろう。行ってこい」
「ありがとうございます」
大年が深く頭を下げると、須佐之男は続いて八千矛へ視線を向けた。
「大年が戻るまで、八千矛は登美へ残れ。代理として領内を治めるとともに、長髄彦らの動きを見張れ」
「承知いたしました」
こうして方針は定まり、須佐之男率いる本軍は勝利を携えて出雲への帰路につき、八千矛は登美の地に残って戦後の復旧と統治にあたることとなった。一方の大年は少数の供を従えて船に乗り込み、女王日巫女への報告と正式な任命を受けるため、西の海を越えて筑紫の大倭壱国へ向かうのだった。
伊邪那岐は大倭壱国へ戻り、南の地でひ孫の瓊瓊杵と静かな日々を送っていた。
冬の澄んだ青空の下、収穫を終えた田には一面に青々とした大豆が育っている。筑紫の温暖な気候を生かした二毛作で、秋に稲を刈り取った田を休ませることなく大豆が植えられ、祖父とひ孫は肩を並べて豆の莢を確かめたり畦の草を抜いたりしながら畑を歩いていた。かつて数百年にわたり国を築き続けた男は、今では一人の農夫として土と向き合う穏やかな毎日を楽しんでいる。
瓊瓊杵は天孫降臨を果たしたばかりだった。
天孫降臨……それは三種の神宝を携え、新たな土地へ赴き、その地の豪族の娘を娶ることで現地の人々と血を結び、争いではなく婚姻によって支配地を広げていく大倭壱国の統治方法である。武力だけでは国は続かず、血を交わし文化を交わして一つの国となる。それこそが日巫女の目指す国造りだった。
「ひいおじい様、そっちは俺がやります」
「ありがとう。じゃあ私は畦の草を抜いておくね」
穏やかな時間は、一人の使者が息を切らせながら畦道を駆けてきたことで終わりを告げた。
「伊邪那岐様!」
汗に濡れた使者は那岐の前まで駆け寄ると、その場へ膝をつき深く頭を下げた。
「女王日巫女様より急使にございます。至急、本国へお戻りいただきたいとの仰せです」
那岐は手を止めて冬空を見上げ、小さく肩を落とした。
「えぇ……また? 私はもう隠居なんだけどなぁ……」
そう呟くと、瓊瓊杵の袖を両手で掴み、その場にしゃがみ込む。
「にーにーぎぃーーー……」
情けない声に、瓊瓊杵も負けじと那岐の腕へしがみついた。
「ひいおじいさまぁーーー!」
「帰りたくないよぉ……」
「帰しません!」
「私が守ります!」
「ありがとう。でも無理だと思うなぁ……」
本気とも冗談ともつかない祖父とひ孫のやり取りに、使者は困ったように額へ手を当てた。
「……申し訳ございませんが、お二人とも女王様のご命令です」
二人はぴたりと動きを止め、顔を見合わせると声を揃えた。
「……はい」
「……はい」
こうして伊邪那岐は、未練たっぷりに何度も振り返りながら本国への帰路につくのだった。
数日後、那岐は使者に伴われ、大倭壱国の主祭殿へと足を運んでいた。
広間の奥には、十代後半の頃と変わらぬ若々しい姿の日巫女が静かに座している。その前へ進み出た那岐は、小さく息を吐いた。
「呼ばれたから来たよ」
「随分とのんびりしていたわね、お父様」
「ひ孫と畑仕事が忙しかったからね」
日巫女はくすりと笑う。
「ふふっ。瓊瓊杵が『ひいおじいさまぁー!』って泣いていましたよ」
「私も『にーにーぎぃー!』って泣いていたよ」
呆れたように肩を竦めた日巫女は、少し頬を膨らませた。
「まるで私が悪者みたいじゃないですか」
「実際、連れて来たのは姫だしね」
「姫ではなく、日巫女ですわ」
那岐は苦笑するだけだった。
やがて日巫女は卓上の青銅鏡へ視線を向ける。鏡面には薄い靄が揺らぎ、一隻の船と、その甲板で海を見つめる青年の姿が映し出されていた。
「……大年だね」
「ええ。もうすぐ着きます」
鏡を見つめたまま、日巫女は静かに続ける。
「出雲が登美を支配する理由は聞いています。でも、それだけではない気がするのです。私は大年自身の考えが知りたい」
「考えとは?」
「出雲は何を望み、大年は何を望んでいるのか。何を見て、何を目指しているのか……お父様なら聞き出せるでしょう?」
「……また難しいことを言うね」
「お願いします」
「報告もしろ、と?」
「もちろんです」
那岐は困ったように頭を掻いた。
「私は隠居なんだけどなぁ……」
「だから頼めるのです。大年はお父様を誰よりも慕っていますから、警戒もしないでしょう」
しばらく黙っていた那岐は、小さく肩を落として頷いた。
「わかったよ」
気乗りしない返事だったが、その表情には自然と笑みが浮かんでいた。
「久しぶりに孫に会えるのは楽しみだからね」
日巫女はそんな父の横顔を見つめ、満足そうに微笑む。
「やっぱり、お父様に頼んで正解でした」
大倭壱国へ到着した大年は、役人へ女王日巫女への謁見を願い出た。しかし返ってきたのは「公務が立て込んでおりますので、数日お待ちください」という返事だった。
用意された客舎で荷を解いていると、不意に戸が叩かれる。
「大年、いるかい」
聞き覚えのある穏やかな声に戸を開けると、そこには伊邪那岐が立っていた。相変わらず少年のような姿のままだが、隠居生活が長くなったせいか、どこか肩の力が抜けた柔らかな雰囲気を纏っている。
「おじい様!」
嬉しそうな大年に、那岐は微笑みながら言った。
「せっかく来たんだから宿じゃなくて、私の家でご飯でも食べよう」
那岐の家は古かった。
雨風をしのぐには十分だったが、壁には何度も補修した跡が残り、家具らしい家具もほとんどない。囲炉裏と寝具、最低限の食器があるだけで、かつて一国を治めた人物の住まいとは思えないほど質素だった。
部屋を見回した大年は、不思議そうに口を開く。
「おじい様ほどのお方なら、もっと立派なお住まいでもよろしいのではありませんか」
那岐は椀を静かに置き、照れくさそうに笑った。
「そうしたかったんだけどね。実は大年のせいで、お金がなくなっちゃったんだ」
「……私のせいですか?」
「昔、兵法書を読んでみたいって何度もお願いしてきただろう。私も最初は交易で手に入ると思っていたんだけど、実際はそう甘くなかった。兵法書は国家の機密だから、商人がおいそれと売るような代物じゃなかったんだ」
那岐は懐かしむように目を細める。
「だから私財を投じて大漢の貨幣を集めてね。役人や商人にずいぶん賄賂を渡して、ようやく写本を譲ってもらったんだよ」
穏やかに語るその口調とは裏腹に、その代償の大きさを大年は悟った。
家に物が少ない理由は、それだった。
幼い頃は、祖父が惜しみなく知識を与えてくれることを当たり前だと思っていた。しかし今なら分かる。その一冊一冊は、自らの暮らしを削ってまで用意してくれたものだったのだ。
大年は思わず頭を下げた。
「おじい様……私は、なんとお礼を申し上げればよいのか……」
すると那岐は苦笑しながら肩にそっと手を置いた。
「そんなこと考えなくていいよ。私はね、こうして立派に育った大年を見られただけで十分なんだ。あの時に使ったお金も、苦労も、何一つ無駄じゃなかった。本当に嬉しいし、私はお前を誇りに思っているよ」
その優しい笑顔を見た大年は胸が熱くなり、しばらく何も言葉を返すことができなかった。
夜も更け、二人は布団を並べて横になっていた。窓の外では虫の音が静かに響き、しばらく天井を眺めていた那岐が、小さく息を吐く。
「大年。」
「はい、おじい様。」
「実はね、姫から頼まれごとをされているんだ。君が何を考えているのか、ちゃんと聞いてきてほしいって。」
那岐は苦笑を浮かべると、穏やかな声で続けた。
「その上で、聞くよ。大年は統治者として、どう考え、どう行動していくつもりなんだい?」
静かな沈黙が流れる。
大年は祖父の横顔を見つめた。那岐はそれ以上何も言わない。しかし、その穏やかな表情だけで十分だった。
これは姫へ報告するための問いだ。ならば、この場では自分に都合のよい答えを語ればいい……祖父はそう伝え、自分を守ろうとしてくれている。その優しさが胸に痛いほど伝わってきた。
だからこそ、大年は静かに口を開く。
「……申し訳ありません、おじい様。」
「私は、おじい様には、本心を語りたいです」
そう言って大年は、自らが統治者として目指す道を、何一つ隠すことなく語り始めた。
大年は静かに息を吐き、那岐を真っ直ぐ見つめた。
「私は、神託政治によって倭が統一されるべきではないと考えております」
那岐は何も言わず、続きを促すように穏やかな視線を向けた。
「神の御意志は、人の心を一つにする大きな力になります。ですが、その力はあまりにも強すぎます」
大年は言葉を選ぶように続ける。
「神のお告げを理由に政策が決められるようになれば、それに異を唱える者は神への冒涜と見なされるでしょう。正しい諫言であっても、誰も口にできなくなります」
部屋には静かな夜風だけが流れていた。
「さらに神託は、真偽を確かめる術がありません。後の世で、権力を望む者が都合の良い神託を語れば、人々はそれを疑えないでしょう。神の名を借りた簒奪は、いくらでも起こり得ます」
那岐は黙って聞いていた。
「そうなれば、人は理をもって国を論じなくなります。掟も評議も形だけとなり、感情や私欲が神の言葉としてまかり通る世になりかねません」
大年は一度目を伏せ、小さく息を吸う。
「日巫女様は違うことでしょう」
その言葉だけは迷いがなかった。
「日巫女様ほど聡明で、公平に民を想える御方。だからこそ今の大倭壱国は栄えております」
しかし、と大年は続けた。
「その後はどうなるのでしょうか」
静かな問いだった。
「日巫女様の後継も、さらにその先も、皆が同じ器とは限りません。むしろ日巫女様ほどの御方は、倭の歴史でも二度と現れない奇跡かもしれません」
その視線はまっすぐだった。
「国は、一人の天才の神託に頼ってはならないのです。たとえその方が、偉大な為政者だとしても」
言い終えた大年は深く頭を下げた。
「私は私の信じる道を歩みます。人の知恵で国を支える道を切り開きたい。そのためなら、誰に理解されなくとも構いません」
部屋は静まり返っていた。
那岐は何も言わず、ただ孫の横顔を静かに見つめる。
……この子は、妖力も不老も持たない、どこまでも普通の人間だ。それでも倭で最も大きな力を持つ女王へ、武ではなく思想で挑もうとしている。その道がどれほど険しいものか、那岐には痛いほど分かっていた。
止めることもできる。だが、それは違う。
子や孫の歩む道を決めるために、自分は長く生きてきたのではない。見守るために生き残ったのだ。
穏やかに微笑んだ那岐は、小さく頷いた。
「……信じる道を、行きなさい」
それだけだった。
大年は目を丸くしたあと、ふっと苦笑する。
「おじい様……困りました」
「どうして?」
「そのように言われてしまうと、おじい様は日巫女様への報告に困るではありませんか」
那岐も困ったように笑った。
「そうだねぇ……でも、誤魔化すのは昔から得意なんだ」
二人は思わず笑い合い、その笑い声は静かな夜の闇へと溶けていった。
翌朝、大年は女王日巫女より謁見を許され、主祭殿へと足を運んでいた。
白木造りの長い回廊には朝の柔らかな陽光が差し込み、巫女たちが一言も発することなく両脇に整列している。その先の巨大な扉が静かに開かれると、大年はゆっくりと殿内へ進み、玉座へ向かって深く一礼した。
「出雲王国、大年にございます。本日はお目通りの栄を賜り、恐悦至極に存じます」
静寂の中、やがて澄み切った声が広間に響く。
「面を上げよ」
大年は静かに顔を上げ、玉座へ視線を向けた。
そこにいたのは、息を呑むほど美しい若き女王だった。陽光を受けた黒髪は艶やかに輝き、白い祭服には金糸で太陽と稲穂の紋様が織り込まれている。その神々しい美貌だけでなく、静かにこちらを見つめる瞳には人の心を見透かすような深い知性と、国を背負う者だけが持つ揺るぎない威厳が宿っていた。
その姿に大年は一瞬だけ息を止めたが、すぐに心を落ち着かせ、真っ直ぐに女王を見据えた。
今日ここへ来たのは神に拝礼するためではない。同じく国を治める者として、自らの信じる道を胸に、一人の統治者と向き合うためだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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