五章 三輪山 十一話 登美決戦後編
夜明けとともに、登美北方の平野は無数の兵で埋め尽くされていた。
北には穏やかな海が広がり、その海岸線から南へ垂直に延びるように出雲軍は長大な横陣を築いていた。中央には黒い外套を羽織った須佐之男が悠然と立ち、その周囲には近寄ることすら躊躇わせる妖気がゆらりと揺れている。まるで一人で軍勢そのものを支えているかのような圧倒的な存在感だった。
左翼には八千矛率いる大名持軍、右翼には八島士奴美の軍勢が布陣し、さらに後方には予備戦力として五十猛の軍勢が控えていた。七尺近い巨躯を誇る若き将は腕を組み、父から命が下る瞬間を静かに待っている。
八千矛は槍を握り締めたまま前方を見据えていた。少彦名を失った傷は今も癒えていない。それでも今日こそ失敗は許されない。その決意だけが胸にあった。
一方、土煙を巻き上げながら登美軍も平野へ姿を現す。先頭に立つ長髄彦は六尺半の長身に大鎧をまとい、長槍を肩へ担ぎながら真っ直ぐ須佐之男を見据えた。
「……あれが出雲王か」
低く呟くと、登美軍もまた中央に長髄彦を据え、左右へ歴戦の兵を均等に並べた横陣を敷き、正面から出雲軍を迎え撃つ。
両軍合わせて一万を超える兵が無言のまま対峙し、草原を渡る風だけが無数の軍旗をはためかせていた。
やがて、その静寂を破ったのは大年だった。須佐之男の一歩後ろに立つ青年は戦場全体を見渡し、静かに口を開く。
「王よ。準備は整いました」
須佐之男は不敵に笑う。
「うむ。ならば始めよう」
その一言で伝令が一斉に駆け出し、法螺貝が大地へ響き渡る。ついに、登美決戦の幕が上がった。
先に動いたのは出雲軍だった。
大年の指示が全軍へ伝わると、横一線に並んだ兵たちは一斉に前進を開始する。しかし、その歩調は部隊ごとに異なっていた。最左翼を率いる八千矛隊だけが他の部隊より速く進み、中央の須佐之男本隊、右翼の八島士奴美隊と右へ行くほど前進速度を落としていく。
その結果、出雲軍の戦列は左が大きく前へ突き出し、右へ行くほど後方へ下がる、斜めに傾いた陣形を描き始めた。
さらに後方では、予備兵を率いる五十猛隊が左翼へ向けて静かに移動を開始している。
中央で全軍を見渡していた長髄彦は、その布陣に眉をひそめた。
「……妙だ」
隣の将が戦場を見つめながら口を開く。
「雁行の陣でしょうか」
長髄彦は静かに首を横へ振った。
「いや、違う。雁行なら各隊はもっと間隔を空ける。だが奴らは互いに支援できる距離を保ったまま斜線を作っている。あれは雁行ではない」
敵の狙いが読めなかった。
出雲軍が何を考えているのか分からない以上、まずは最も前へ出た部隊を叩くしかない。
「弓隊、最左翼へ集中射撃!」
号令とともに弓兵たちは一斉に弦を引き絞り、空を覆うほどの矢が唸りを上げながら、先頭を進む八千矛隊へ降り注いだ。
左翼の八千矛隊が必死に前進し続けた。
兵たちは身の丈ほどもある木製の大盾を構え、降り注ぐ矢の雨を受け止めながら一歩ずつ距離を詰めていく。無数の矢が盾へ突き刺さり、衝撃で身体が揺らいでも歩みは止まらない。
「進めぇ!」
八千矛の号令が響くと、兵たちは弓の間合いを突破した瞬間に盾を捨て、槍と剣を抜いて敵陣へ雪崩れ込んだ。怒号と金属音が戦場を埋め尽くし、八千矛自身も先頭で敵兵を斬り伏せながら、出雲軍左翼は瞬く間に激しい乱戦へと変わる。
その背後では、出雲軍の半数を預かった五十猛率いる予備部隊が土煙を巻き上げながら出雲軍左翼へ前進していた。激戦を続ける八千矛隊との距離はみるみる縮まり、大年が描いた斜線陣は完成へ向けて動き始める。
対照的に、中央の須佐之男本隊と右翼の八島士奴美隊は前進をほぼ止めたまま敵軍と睨み合いを続けていた。互いに槍を構えて間合いを測るだけで、どちらも不用意には動かず、戦場では出雲軍左翼だけが激しく燃え上がっているかのようだった。
その異様な布陣を見つめた長髄彦は、わずかに眉をひそめる。
「……何を狙っている?」
その時だった。
出雲軍左翼へ向かっていた五十猛率いる予備部隊が土煙を巻き上げながら八千矛の最前線へ到着し、そのまま戦列へ雪崩れ込んだ。
「五十猛様だ!」
「本隊が来たぞ!」
歓声が上がり、疲弊していた出雲軍左翼の兵たちの士気は一気に高まる。五十猛は巨大な体に妖力を纏わせて先頭を駆け、精鋭たちを率いて長髄彦軍右翼へ猛攻を仕掛けた。盾は弾き飛ばされ、槍衾は押し崩され、怒号と金属音が戦場を埋め尽くす中、長髄彦軍右翼はついに耐えきれず大きく後退を始める。
「右翼が押されております!」
伝令の報告に長髄彦は思わず、
「援軍を……」
と口を開きかけたが、その言葉を飲み込んだ。中央では須佐之男の本隊が正面から圧力をかけ続け、左翼でも八島士奴美の軍勢が一歩も引かず対峙している。どちらかへ兵を動かせば、その瞬間に戦列へ穴が開くことは明らかだった。
「……動かせぬか」
拳を強く握り締めた長髄彦は、そこでようやく出雲軍の狙いを悟る。
戦場全体へ視線を走らせる。長髄彦軍右翼は押し潰されつつあり、中央も左翼も動かせない。いや、最初から動かせないように仕組まれていたのだ。
「そういうことか……」
思わず苦笑が漏れた。
兵をどこへ進め、どこで止め、どこへ戦力を集中させるか。そのすべてが計算され尽くしていた。武勇では負けていない。敗れたのは、自らの軍略だった。
長髄彦は槍を握る手に力を込め、唇を強く噛み締めた。武人として戦場で敗れることよりも、自分の読みが一手も二手も先まで見切られていたことが、何より悔しかった。
それでも、その鮮やかな采配には畏敬すら覚える。
「見事な軍略だ……」
中央と右翼を敵に縛り付けたまま左翼へ戦力を集中し、局地的な兵力差で一角を崩して戦列全体を瓦解させる……そのための斜線陣だったのである。
ついに八千矛と五十猛が率いる出雲軍左翼が、長髄彦軍右翼の戦列を打ち破った。勢いそのままに敵陣の側面へ回り込むと、横腹へ食らいつくような猛攻を開始し、長髄彦軍の陣形はみるみるうちに乱れていく。
その様子を見届けた大年は、静かに前進を命じた。
「中央、右翼……前進。」
これまで敵を正面で釘付けにしていた須佐之男率いる中央軍と、八島士奴美率いる右翼軍が一斉に前進する。正面から須佐之男、側面から八千矛と五十猛に圧力をかけられた長髄彦軍は、もはや戦列を維持できず、各隊は連携を失って次々と崩壊していった。
勝敗は決した。登美軍は完全に押し潰され、戦場の主導権は完全に出雲軍の手へと移った。
長髄彦は崩れ始めた戦列を見渡すと、歯を食いしばりながら槍を振り上げた。
「全軍、東へ退却せよ! 立て直すぞ!」
怒号が戦場に響き渡る。しかし、その命令が届く頃には勝敗はすでに決していた。
出雲軍は勝機を逃さず一斉に追撃へ移る。八千矛の軍が崩れた敵側面へ雪崩れ込み、五十猛の軍が猛然と押し寄せる。さらに中央では須佐之男自らが進軍を開始し、退路を狭められた登美軍は各所で分断されていった。
長髄彦は何度も兵を呼び戻そうとしたが、混乱の中で隊列は崩れ、生き延びようとする兵たちは散り散りに逃げていく。一度潰えた戦列は、もはや武将一人の声で立て直せるものではなかった。
やがて長髄彦の周囲に残ったのは、最後まで主君と運命を共にしようとする僅かな精兵だけだった。彼らは小高い丘へ退いて円陣を築くが、その丘もまた出雲軍に四方から包囲され、ついに逃げ道は完全に断たれる。
それでも長髄彦は静かに槍を握り直し、丘の麓を埋め尽くす敵軍を真っ直ぐ見据えた。
「まだ終わりではない。最後の一人になるまで、この地は渡さぬ。」
その言葉に残された兵たちは黙って武器を構える。誰一人として降伏を口にする者はなく、死を覚悟した武人たちの静かな気迫だけが、夕暮れの丘を満たしていた。
長髄彦軍を包囲した出雲軍は陣形を崩さず、丘の上では僅かな兵を従えた長髄彦が四方を敵に囲まれ、退路を失っていた。しかし大年は総攻撃を命じることなく、静かに言った。
「包囲を維持してください。敵を追い詰めても、無用な血は流しませぬ」
兵たちは戸惑いながらも命に従い、丘を取り囲んだまま槍を構え続ける。
大年は須佐之男の前へ進み出た。
「王よ。長髄彦を降伏させるには、北の砦を先に落とすべきです。砦が落ちれば援軍の望みも絶たれます。すぐに破城槌を製作させましょう」
須佐之男は腕を組んだまま話を聞き、低く笑うとゆっくり首を横へ振った。
「……破城槌? そんなものはいらぬ」
大年が目を瞬かせる。
「では、どうやって門を破るのでしょうか」
須佐之男は不敵に口角を吊り上げ、後ろに控える五十猛へ視線を向けた。七尺近い巨躯に獣のような闘気を纏う青年は、その顔にどこか少年らしい笑みを浮かべている。
「俺の出番ですな、お任せあれ」
須佐之男は豪快に笑った。
「門など木で出来ておる。壊す道具を作るくらいなら、お前一人で十分だ」
五十猛は不敵な笑みを浮かべ、小さく頭を下げる。
「承知いたしました」
その短い返答だけで十分だった。周囲の将たちは思わず顔を見合わせる。破城槌の代わりに一人の男を送り込む……常識では考えられぬ命令だったが、それが須佐之男軍では常識だった。
出雲軍は登美の北に築かれた砦へ到達した。
木柵の上では登美の兵たちが弓を構え、一斉に矢を放つ。無数の矢が雨のように降り注いだが、先頭を進む五十猛はまるで意に介さなかった。全身に纏った妖力が矢を次々と弾き返し、その巨体は勢いを緩めることなく門へ迫る。
「門を開ける!」
雄叫びとともに最後の数歩を駆け抜けた五十猛は、そのまま全身を門へ叩きつけた。凄まじい衝撃が砦を震わせ、太い閂は轟音とともに砕け散る。さらに門扉そのものが閂ごと吹き飛び、砕けた木片を巻き上げながら内側へ倒れ込んだ。
「今だ!」
開かれた門から出雲軍が一斉になだれ込み、砦の内部は瞬く間に戦場へと変わる。砦を守っていた登美の兵は、主力を長髄彦の下へ送り出していたため、残されていたのは老兵や少年兵が大半だった。出雲軍の猛攻を受けて防衛線は次々と崩れ、各所で武器を捨てる兵も現れ始める。
砦の中央で戦況を見つめていた指揮官・安日彦は、もはや勝敗が決したことを悟ると、静かに剣を下ろした。
「降伏する。武器を収めよ。これ以上の戦いは無益だ」
その一言で登美の兵たちも次々と戦いを止め、砦は出雲軍の手に落ちた。
大年は安日彦へ静かに歩み寄った。
「長髄彦殿は、ご無事です」
安日彦は弾かれたように顔を上げた。
「本当か……!」
「はい。丘の上で包囲しております。討ち取ることは容易ですが、私はその命を奪いたくありませぬ。兄である貴殿が説得すれば、長髄彦殿も耳を傾けるでしょう」
安日彦は拳を握り締めたまま深く頭を下げた。
「……恩に着る」
大年は兵を伴わせ、安日彦を包囲中の丘へ向かわせた。
丘の上では、傷だらけの長髄彦がわずかな兵を従え、それでもなお槍を手放さず立っていた。兄の姿を認めると驚きに目を見開く。
「兄上……!」
安日彦は静かに首を横へ振った。
「もう終わりだ、長髄彦。戦えても勝てぬ。大年殿は、お前も私も助けると仰せになった。討ち取ることもできたはずなのに、それを選ばれなかった」
長髄彦は包囲する出雲軍を見渡した。兵たちは攻め込むことなく、ただ静かに包囲を維持し、返答を待っている。
やがて長い沈黙の末、長髄彦は槍を地へ突き立て、ゆっくりと膝をついた。
「……分かった。登美は降る」
降伏の報は瞬く間に全軍へ伝わり、こうして登美の戦いは終結した。
この戦で出雲軍最大の切り札である須佐之男王が、その圧倒的な力を振るうことは最後までなかった。




