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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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五章 三輪山 十話 登美決戦前編

 二世紀後半、冬。

 近畿へ迫った出雲軍は一度進軍を止めた。敗走した長髄彦軍を追撃せず、大年は須佐之男へ慎重に進言し、防御陣地の構築を優先させていた。


「まずは守りを固めましょう。敵地でございます。こちらが焦る必要はありませぬ」


 須佐之男は黙って頷く。


「うむ。好きにせい」


 その一言で兵たちは周囲の高台へ木柵を築き始め、見張り台や土塁、弓兵の射場を次々と整備していった。大年は敵地にありながらも、自軍が崩れない土台を築くことを何よりも優先したのである。


 同時に、長髄彦軍を見失わぬよう足の速い斥候を密かに放ち、さらに各地へ密偵を送り出した。


「決して戦うな。ただ居場所だけを探れ」


 命を受けた斥候たちは森へ姿を消し、撤退する敵軍の足跡を追っていく。一方、密偵たちには敵情だけでなく、山々の高低や川の流れ、湿地の位置、街道の幅、集落や拠点の位置、渡河できる浅瀬まで、戦に関わるあらゆる情報を調べさせた。


 数日後、小さな天幕には各地から次々と報告が集まり、大年はその一つひとつを確認しながら絵図へ書き加えていく。


「こちらは街道が狭い……」

「この湿地は軍勢が通れぬか」

「川幅は広いが、浅瀬が一か所だけあるな」


 夜更けまで続いた報告によって、絵図には墨の線が幾重にも引かれ、敵の位置と地形が少しずつ浮かび上がっていった。

 大年はふと筆を止め、描きかけの絵図へ静かに目を落とした。


 もし少彦名がここにいたなら、山の尾根や湿地、川の流れを見ながら何を語っただろうか。互いに張り合い、皮肉を言い合うことは多かったが、その知略だけは誰よりも認めていた。それだけに、もう意見を交わせない現実が胸に小さな痛みを残す。


 大年は静かに息を吐くと、その思いを振り払うように再び筆を走らせた。

 その様子を眺めていた八千矛は、不思議そうに腕を組む。


「そこまで調べる必要があるのか?」


 大年は静かに笑みを浮かべた。


「勝敗は戦場で決まるのではない」


 木簡を一本手に取り、絵図の横へ静かに置く。


「戦う前に、すでに決めてしまうことが、大事なのだ」


 八千矛は広げられた絵図を見つめながら、静かに拳を握り締めていた。


 「勝敗は戦う前に決まる」


 その言葉を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのは少彦名の姿だった。


『情報を集めよ。地形を知れ。敵を知れ』


 幾度となく聞かされた忠告だった。あの時も少彦名は進軍を止め、本軍との合流を待つよう訴えたにもかかわらず、自分は功を焦り、自らの力だけで登美を落とそうとして耳を貸さなかった。その結果、少彦名は殿を務め、命を落としたのである。


『……すまない』


 胸の内で詫びても、もう返事は返ってこない。


 もし今ここに少彦名がいたなら、大年の策に真っ先に賛同し、いつものように「だから申したではないか」と皮肉を口にしただろう。その姿を思い浮かべた八千矛は思わず小さく口元を緩めたが、その笑みはすぐに消えた。


 二度と同じ過ちは繰り返さない。

 そう固く心に誓い、八千矛は大年の言葉へ静かに耳を傾け続けた。


 八千矛は思わず息を呑んだ。

祖父・伊邪那岐から兵法を学び続けた大年は、剣よりも先に情報を集めることの重みを誰よりも理解していた。

 やがて最後の密偵が天幕へ駆け込んだ。


「申し上げます。長髄彦軍は宇治の高台に防御陣地を築き、出雲軍を待ち受けております」


 大年は静かに目を閉じると、机上の絵図へ一本の線を引いた。


「やはり、そこか……」


 そして静かに顔を上げた。


「ようやく戦場が見えてきたな」


 大年は集められた地図代わりの木板へ視線を落とした。


 登美の勢力は大きく二つに分かれていた。一つは長髄彦が率いる主力軍、もう一つは兄・安日彦が北方の砦で守る防衛拠点である。この二か所を突破すれば、その先には登美の中心地が広がる。逆に言えば、この二つこそが登美を守る最後の盾だった。


「まずは長髄彦軍を動かさねばなりませぬ」


 大年は静かに口を開いた。


 当時の河内平野は後の世とはまるで姿が違い、広大な低地の多くが海と湿地に覆われていたため、陸路だけで登美へ向かうには湾を大きく迂回しなければならない。その唯一とも言える進軍路の途中、宇治の高台には長髄彦が堅固な防御陣地を築き、細い水路を塞ぐ栓のように街道を押さえていた。


 正面から攻めれば、狭い地形に押し込められた出雲軍は一方的に矢を浴び、大きな損害を受けるのは明らかだった。


 地図を指先でなぞりながら大年は言う。


「ここを正面から攻めるのは敵の思う壺です。突破することではなく、長髄彦自身をこの防御陣地から引きずり出すことこそ、勝利への第一歩になります」


挿絵(By みてみん)


 その場にいた将たちは、大年の言葉に静かに頷いた。

 須佐之男の本陣では、広げられた絵図を囲み軍議が開かれていた。大年は木札を手に取ると宇治の高台へ静かに置き、居並ぶ将たちを見渡しながら口を開く。


「長髄彦は、この防御陣地を拠点に我らを迎え撃つつもりです。正面から攻めれば、多くの兵を失うでしょう」


 先日の戦で待ち伏せを受けた八千矛軍の惨状を思い出し、将たちは無言で頷いた。


「ですので、攻めませぬ」


 その一言に広間がざわめく中、大年は木札を宇治から湾へ滑らせ、そのまま登美へ置いた。


「八島士奴美兄さま。瀬戸内各地に待機させている輸送船と軍船を、すべて大阪湾へ集結させてください。我らは船で湾を渡り、防御陣地を迂回して直接登美へ迫ります」

「おう! 船で戦うのか?」


「いいえ。戦う必要はありません。長髄彦が守るべきものは宇治ではなく登美です。領地が危険に晒されれば、防御陣地に留まり続ける理由はなくなり、必ず自ら南下して我らを迎え撃つでしょう」


 大年は再び木札を動かし、長髄彦軍と出雲軍を平野へ並べた。


「その時こそ野戦です。戦場は敵ではなく、我らが選びます」


 須佐之男は腕を組んだまま絵図を見つめていたが、やがて不敵な笑みを浮かべる。


「面白い。陣地を攻めるのではなく、守りそのものを無意味にするわけだな」

「はい」


 須佐之男は豪快に立ち上がった。


「よかろう。大年の策を採る。八島士奴美、直ちに船団を集結せよ!」

「はっ!」

「全軍、出航の準備だ!」


 王の号令が響くと、将たちは一斉に持ち場へ散り、出雲軍は大年の策に従って大阪湾へ大船団を集結させるのだった。


 八島士奴美は、瀬戸内各地から徴発していた輸送船を次々と大阪湾へ集結させた。普段は米や鉄、木材を運ぶために使われていた船までも戦に転用され、その数は百隻近くに達している。大小無数の帆が湾内を埋め尽くし、海上にはまるで一つの町が浮かんでいるかのような光景が広がっていた。


「出航!」


 号令とともに船団は一斉に帆を張る。潮風を受けた船列は整然と湾を横断し、波間を白く裂きながら登美北方の砦沖へ一気に迫っていった。


 登美にも漁船はあった。しかし、それらは沿岸漁を生業とする漁師たちの小舟に過ぎず、軍として編成された水軍ではない。大型の輸送船を中心に隊列を組む出雲船団を前に対抗できる力はなく、沖へ出ることすら叶わなかった。


 気付けば、後の世に大阪湾と呼ばれる入海は出雲軍のものとなっていた。


 海上補給路を確保したことで、兵も食糧も武器も絶え間なく送り込める。一方の登美は海からの監視も連絡も封じられ、戦場の主導権は完全に出雲軍の手へ移っていく。


 長髄彦は眼下の海を睨みつけた。


 沖合には百隻近い出雲の船団が帆を張り、一斉に湾を横断している。整然と進むその船列は、まるで海そのものを埋め尽くす巨大な壁のようだった。


 宇治の防御陣地は陸路を塞ぐために築いた要害である。敵は必ずこの道を通ると読み、兵を集め、木柵を巡らせ、幾重にも防備を固めてきた。だが、大年はその守りと正面から戦うことを選ばず、大船団を集結させて一気に湾を渡り、防御線の背後へ兵を送り込んだ。


 戦わずして、防御線は突破されたのである。


「長髄彦様、このままでは登美が無防備になります!」


 駆け寄った部将の声に、長髄彦は拳を強く握り締めた。


 砦が残っていても意味はない。敵はすでに背後へ回り込み、村も田畑も家族も危険に晒されている。ここを守り続ければ守るほど、本当に守るべき登美を失うだけだった。


「……やられた。出雲め、最初からこの防御陣地など相手にしていなかったか。全軍、宇治の防御陣地を放棄する。直ちに南へ転進し、出雲軍を追撃せよ。何としても登美で迎え撃つ!」


「はっ!」


 法螺貝が高らかに鳴り響き、兵たちは築き上げた防御陣地を後にして一斉に南へ向かった。


 長髄彦は一度だけ木柵を振り返る。幾日もかけて築いた堅固な要害は、一矢交えることなく役目を終えた。


 その瞳には、強大な出雲軍への警戒と闘志が静かに宿っていた。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。


 歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。


 少しでも面白いと感じていただけましたら、感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると励みになります。


 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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