五章 三輪山 九話 長髄彦(ながすねひこ)
西暦百八十四年、秋。
近畿の登美の地にも寒冷化の影響は確実に及び、山々は例年より早く色づき、吹き抜ける風には冬の気配が混じっていた。収穫を終えた田畑では人々が忙しく働いていたものの、その表情に実りの喜びはなく、不安だけが静かに広がっている。
そんな折、政務を執る広場へ地面を揺らすような重い足音が響いた。
ドカ、ドカ、と役人たちが思わず振り返る中、六尺半を超える筋骨隆々の大男が肩に大槍を担いで歩いてくる。登美の武を担う豪族……長髄彦である。
広場の中央では、兄の安日彦が竹簡を広げ、各地から届いた報せに目を通していた。
長髄彦は兄の前まで歩くと腕を組み、低い声で切り出した。
「兄者。出雲の軍が吉備を抜けた。吉備冠者は山城へ退き、奴らはそのまま東へ進軍を続けている。このままなら、ほどなく登美へ到達するだろう」
その報告に、安日彦は竹簡から目を上げ、静かに息を吐いた。
「いよいよ来るか……。出雲軍侵攻の噂は諸国へ広がっていたが、ついに我らの番というわけだな」
瀬戸内沿岸の村々が占領され、蔵の食糧が運び去られたこと。抵抗した豪族が敗れたこと。そして須佐之男率いる強大な軍勢が東へ向かっていることは、すでに近畿一帯の誰もが知るところとなっていた。
安日彦はゆっくりと立ち上がり、広げていた竹簡を閉じる。
「私は新たに築いた北の砦へ移り、防衛の指揮を執る。敵をこの地へ容易く踏み込ませるわけにはいかぬ」
長髄彦は力強く頷いた。
「ならば俺は主力軍を率いて迎え撃とう。兄者は砦を、俺は戦場を守る。それで十分だ」
二人は互いに頷き合った。
幼い頃から、兄は政を、弟は武を担い、この国を支えてきた。今さら多くを語る必要はない。
登美を守るため、それぞれが果たすべき役目は決まっていた。
吉備を越えたことで、登美まではあとわずかだった。
ここまでの道のりは決して平坦ではない。幾つもの小国家を降し、吉備冠者との激戦を乗り越え、ようやく近畿の入口へ辿り着いた。その先頭には常に自分がいた。
八千矛は街道の彼方を見つめながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。
『あと少しだ』
須佐之男王の本軍が追いつく前に登美を落とすことができれば、この遠征最大の武功は自分のものになる。天之冬衣の子でありながら冷遇され続けてきた自分も、ようやく誰もが認める将として胸を張れる日が来るかもしれない。
その想いは期待であると同時に、いつしか焦りへと姿を変え始めていた。
幾つもの村や小国家を降し、吉備では激戦の末に勝利を収めながら進軍してきた兵たちは疲労を隠せなかったが、あと一歩で登美へ届くという思いが士気を支えていた。
しかし、軍議の席で少彦名だけは静かに首を横へ振る。
「ここから先は急ぐべきではない。敵の本拠地が目前だというのに、地形も兵数も布陣も分からぬまま攻め込むのは危険すぎる」
広げた地図を指先でなぞりながら、少彦名は淡々と続けた。
「須佐之男王の本軍と合流し、十分に偵察を行って敵情を把握してから戦端を開いても遅くはない。我らの目的は登美を落とすことであって、一戦で武名を上げることではないのだから」
八千矛は腕を組んだまま黙って聞いていたが、やがてゆっくりと首を横へ振る。
「……いや、進む」
少彦名が眉をひそめる。
「須勢理を妻に迎え、王家の一員となった今だからこそ、誰の後ろ盾でもなく、自分自身の力で立ちたい」
少彦名は静かに目を閉じる。その願いは理解できたが、理解できることと賛成できることは別だった。
「……功を焦れば、足元をすくわれる」
「敵も我らがこれほど早く近畿へ到達するとは思っていない。今こそ好機だ」
八千矛は地図を巻き取り、その一言で軍議を終わらせた。不吉な予感を胸の奥に押し込みながら、少彦名は静かに立ち上がった。
八千矛は軍を東へ進めた。目指すは登美。須佐之男本軍が到着する前にこの地を制圧し、自らの力を示したいという焦りが、慎重さを少しずつ奪っていた。
街道はやがて左右の尾根が迫る狭い谷へ入り、木々は風もないのに不自然なほど静まり返っている。耳を澄ませても聞こえるのは兵たちの足音と鎧の擦れる音ばかりで、本来なら響いているはずの鳥や獣の気配はどこにもなく、斥候も予定の時刻を過ぎても戻ってこなかった。
その異様な光景を見渡した少彦名は、谷の左右に連なる尾根へ目を向けた。
「八千矛、このまま進むのは危険だ。斥候は戻らず、谷も静かすぎる」
少彦名は足元の地面を杖でなぞり、谷の形を描くように線を引いた。
「ここへ軍が入ったところで左右から矢を浴びせられれば、前にも後ろにも動けなくなる。敵が待ち伏せを仕掛けるには、これ以上ない地形だ」
八千矛も谷を見渡したが、岩肌と木々が続くだけで敵影はどこにも見当たらなかった。
「だからこそ今しかない。俺の力でこの地を落とし、武功を立ててみせる」
少彦名はしばらく黙って八千矛を見つめ、やがて静かに息を吐いた。
「お前がそこまで決めたなら、もう止めない。ただ、この嫌な予感だけは外れてほしい」
八千矛は無言で頷き、軍へ進軍を命じた。
谷を見下ろす尾根の上では、長髄彦が静かに戦場を見渡していた。背後には弓兵たちが息を潜め、引き絞った弓を構えたまま命令を待っている。しかし長髄彦は一切焦る様子を見せず、谷へ吸い込まれていく出雲軍を黙って見つめ続けていた。
先頭が谷へ入り、中軍が続き、荷駄隊までもが狭い谷間へ入り込む。それでも長髄彦は動かない。敵を討つことより、逃げ道を断って一撃で勝負を決める方が確実だと知っていたからだ。
やがて最後尾まで谷へ入ったのを見届けると、長髄彦はゆっくりと右手を上げ、鋭い眼差しのまま静かに命じた。
「今だ。退路は塞いだ。谷ごと敵を呑み込め」
その号令と同時に法螺貝が山々へ響き渡り、左右の尾根から無数の矢が一斉に降り注いだ。
「盾を構えろ! 前へ出ろ!」
八千矛は声を張り上げたが、敵は決して距離を詰めようとはせず、矢だけが絶え間なく降り続く。隊列は瞬く間に崩壊し、兵たちは次々と倒れ、八千矛自身も肩口を矢で射抜かれて鮮血を散らした。
「退け! 全軍退却だ!」
苦渋の決断とともに出雲軍は潰走を始めるが、その背後へ迫る長髄彦軍の追撃は容赦なかった。
その時、少彦名が二十人にも満たない弓兵を率いて馬を進めると、「八千矛、生きて戻れ。それがお前の役目だ」とだけ告げ、自らしんがりを引き受ける。
少彦名は敵が近づけば矢を放ち、距離を詰められれば素早く退き、再び振り返って射るという一撃離脱を繰り返しながら追撃軍を巧みに翻弄した。そのわずかな時間が、八千矛軍本隊に態勢を立て直し、戦場から離脱する猶予を与えていく。
しかし最後まで踏み止まった少彦名は、いつしか左右から回り込まれ、退路を断たれていた。それでも静かに弓を引き絞り、放った最後の一矢は先頭を駆けてきた敵兵の喉を貫く。だが、その直後、一筋の矢が一直線に飛来して胸を深く射抜き、心臓を貫かれた衝撃に小さな身体はぐらりと揺れた。
少彦名は膝をつき、弓を杖代わりに身体を支えながら、霞む視界の先に遠ざかっていく八千矛軍の旗を見つめる。
『何者にもなれないと思っていた』
小人として生まれ、後継ぎにもなれず、誰にも期待されなかった。それでも知識だけは裏切らないと信じて学び続け、那岐と出会い、そして八千矛という、自分の知恵を心から信じてくれる将に巡り会えた。
『短い時間だった……だが、十分だった。もっと、お前の国造りを見届けたかったが……』
その想いとともに口元へ穏やかな笑みが浮かぶ。
『八千矛……後を頼む』
静かな祈りを胸に、少彦名はゆっくりと地へ倒れ込んだ。戦場を吹き抜ける秋風が小さな身体を静かに撫で、弓を握る指だけが、まだわずかに動いていた。
八千矛の小さな助言者は、誰にも看取られることなくその生涯を閉じた。
少彦名が静かに地へ倒れると、追撃してきた登美軍の先頭へ立つ長髄彦は、その小さな亡骸を一瞥した。
「……手間を取らせやがって」
吐き捨てるように呟くと、それ以上は一切興味を示さない。
「追撃を続ける。狙うは敵将、八千矛だ。逃がすな!」
号令とともに登美軍は少彦名の遺体の脇を駆け抜けていく。
土煙が舞い上がり、兵たちの足音が大地を震わせた。踏み荒らされた落ち葉が、小さな身体へ静かに降り積もる。
振り返る者は誰一人いない。
八千矛は血に染まった鎧のまま、辛うじて逃げ延びた兵たちを集め、負傷者の手当てや散り散りになった部隊の再編に追われていた。倒れた者を運び、水を配り、指示を飛ばし続けるものの、その表情には疲労と焦燥が色濃く滲んでいる。
「少彦名はどうした」
何度問いかけても兵たちは俯いたまま答えようとしなかった。重苦しい沈黙が続いた末、一人の弓兵が震える声で口を開く。
「少彦名様は……殿軍を務められました。追撃してきた登美軍を食い止め、我らを逃がしてくださいました。しかし……お連れ戻しすることは叶いませんでした」
その報告を聞いた瞬間、八千矛の思考は止まった。
「……嘘だ」
掠れた声が漏れる。
「あの人は俺を止めた。待つべきだと言った。それなのに俺は……」
忠告を退け、功を焦って進軍を命じたのは自分だった。その結果、少彦名は命を落とした。握り締めた拳から血が滲んでも、八千矛は痛みすら感じなかった。
「俺が……死なせてしまった……」
深い後悔に沈む八千矛を現実へ引き戻したのは、見張りの兵の叫びだった。
「敵襲! 長髄彦軍が追撃してきます!」
長髄彦は逃げ惑う敵兵ではなく、ただ一つ、八千矛の軍旗だけを見据えていた。
「将はまだ生きている。首を獲れば、この軍は終わる」
短く命じると、精鋭だけが八千矛目掛けて一直線に駆け出す。兵を無駄に散らさず、勝敗を決める一点だけを狙う。その判断の速さこそ、長髄彦が登美最強の武人と呼ばれる所以だった。
山道の彼方から土煙が立ち昇り、撤退したはずの登美軍が再び姿を現す。疲弊した出雲軍には矢も槍も尽きかけ、負傷者も多く、もはや迎え撃つ力は残されていなかった。
八千矛は立ち上がろうとしたが、膝が笑って動かない。それでも剣を取ろうとした。少彦名が命を捨てて逃がした命を、ここで終わらせるわけにはいかなかった。
誰もが敗北を覚悟した、その時だった。
地を震わせる重々しい足音が山々へ響き渡り、進軍していた長髄彦軍はぴたりと足を止める。兵たちが一斉に街道の先へ視線を向けた瞬間、張り詰めていた空気は一変した。それは援軍の到着ではない。災厄そのものが軍勢を従え、ゆっくりと歩み寄ってくるような、言葉では言い表せぬ威圧感だった。
姿が見えるより先に、誰もが肌を刺すような濃密な妖気を感じ取り、本能のまま息を呑む。やがて街道の彼方から現れたのは、全身に妖気を纏った須佐之男である。その右には七尺近い巨躯を誇る五十猛、左には静かな眼差しで戦場を見渡す大年が並び、背後には寸分の乱れもなく隊列を組んだ本軍が続いていた。
須佐之男は武器を構えてすらいなかった。それでも、その前へ踏み出そうとする者は一人もいない。人の姿をしていながら、人ではない何かを目の当たりにしたかのような圧倒的な存在感が、戦場の空気そのものを支配していた。
長髄彦は街道の先に現れた須佐之男を見据え、その妖気を肌で感じた瞬間、小さく目を細めた。
「全軍、退け」
角笛が鳴り響き、登美軍は秩序を保ったまま後退していく。今ここで須佐之男本軍と激突すれば勝機はない。その判断は武人として冷静だった。
戦場に静寂が戻る中、八千矛は須佐之男の前へ進み出ると、深く膝をついた。
「……申し訳ございません」
須佐之男はすぐには答えず、焼け落ちた野営地と横たわる兵たち、そして帰らぬ少彦名が残した戦場を静かに見渡した。
やがて低く響く声で、ただ一言だけ告げる。
「ここからは、儂が指揮を執る」
その短い言葉だけで十分だった。
敗走を重ね、絶望に沈んでいた兵たちの瞳に再び光が宿る。
最強の王が、ついに登美の戦場に立った。




