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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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一章 徐福伝説 六話 始皇帝の影

 紀元前二百八年 春。


 熊野へ根を下ろしてから二年が過ぎ、徐福がもたらした変化は田畑や建物だけでなく、人々の学びにも及んでいた。村の若者たちは定期的に徐福の館へ集まり、文字の読み書きから農耕技術、薬草学、医術、天文、航海術、治水技術まで幅広い知識を学んでいた。

 徐福は常々言っていた。


「知識は財宝より価値がある」


 金銀は失われても、知識は人から人へ受け継がれ、世代を超えて人々を支える。それこそが真の財産だと徐福は語っていた。

 この日も館の広間には二十人ほどの若者たちが集まり、漣と那岐も最前列に座って期待に満ちた眼差しを方士へ向けていた。教壇代わりの机の前に立つのは、白髪交じりの髭を蓄えた年配の学者で、徐福と共に海を渡ってきた人物だった。

 教えることを好む老人で、倭人の那岐や移民の漣にも分け隔てなく丁寧に教えてくれる。

 彼は床に広げた大きな板へ炭で線を引いた。


「今日は治水について学ぶ」


 方士はそう言いながら板の上へ一本の線を引き、それを川に見立てて周囲へ田畑や集落を書き加えていった。若者たちは自然と顔を上げ、次々と増えていく炭の線へ視線を集中させる。方士は川を表す波線を描きながら、人は水なくして生きられないが、水は恵みであると同時に災いにもなるのだと静かに語った。


「雨が降りすぎれば川は溢れ、畑は流され、家は壊れ、人も死ぬ。だからこそ人は川を理解しなければならない」


 熊野は山が多く、大雨のたびに川が荒れることを誰もが知っていたため、若者たちは自然と身を乗り出し、方士もその反応を確かめるように一同を見渡して話を続けた。


「では、洪水を防ぐにはどうするか」


 方士は板へさらに線を書き足した。川幅の調整や堤の建設だけでなく、森を守る重要性についても語った。木々が雨水を蓄えることで洪水を和らげるという説明は、若者たちにとって新鮮な驚きだった。

 方士は山の絵を描き加えながら続けた。


「森があれば雨はゆっくり地面へ染み込む。しかし木を切り過ぎれば雨水は一気に川へ流れ込み、洪水を引き起こす」


 那岐は板に描かれた山と森を見つめながら首を傾げた。


「でも先生、木を切ればその分だけ田畑を増やせますよね」


 方士は満足そうに頷いた。


「その通りだ。だから多くの国で同じ過ちが繰り返される」


 そう言うと方士は炭を取り、山に描かれた木々を次々と消していった。


「人は目の前の一年を考える。しかし国を治める者は十年後、百年後を考えねばならぬ。森を失えば洪水は増え、土地は痩せ、水も枯れていく」


 方士は炭を置き、教え子たちを見渡した。


「土地を開くことも大切だ。だが自然から奪うことだけを考えてはならぬ。人は子や孫から土地を借りて生きているのだからな」


 広間は静まり返った。

 難しい話だった。百年先など誰にも想像できない。しかし若者たちは皆、真剣な顔で方士を見つめている。


 漣は慌てて筆を走らせた。書き写す文字は次第に乱れ始めていたが、それでも一言も聞き逃すまいと必死だった。学ぶほどに知らないことが増えていく。その事実が悔しくもあり、嬉しくもあった。


 隣では那岐が腕を組んで唸っている。

 森を守ることが川を守ることに繋がるなど、これまで考えたこともなかった。田を増やすために木を切るのは良いことだと思っていたが、その先に洪水や渇水が待っているという話は衝撃だった。

 周囲の若者たちもざわめいていた。


「山の木が川を守るのか……」

「そんなこと初めて聞いた」

「だから上流の森が大事なんだな」


 誰もが驚きを隠せない。

 方士はそんな反応を見て微笑んだ。


「知識とは先人たちの失敗の記録でもある。同じ過ちを繰り返さぬために学ぶのだ」


 その言葉に、那岐は思わず背筋を伸ばした。

 授業が終わる頃には板は無数の線と文字で埋め尽くされていたが、それ以上に若者たちの心には新たな世界への驚きが刻み込まれていた。

 館を出た那岐は興奮気味に語った。


「徐福様たちは本当に色々なことを知ってるな。山の木と洪水が繋がってるなんて考えたこともなかった」

「私もよ。文字だけじゃなくて、星も薬草も船も知ってる。まるで世界そのものを知ってるみたい」


 漣も頷いた。この二年間で多くの知識を得たはずなのに、学べば学ぶほど知らない世界が広がっていく。その果ての見えなさこそが、徐福たちの知識の深さを物語っているようだった。

 授業を終えて館を出ようとしていた時、使用人が漣を呼び止めた。


「漣、徐福様の部屋へお茶を運んでくれ」

「あ、はい」


 木の盆へ湯飲みを載せ、漣は館の奥へ向かった。

 徐福の正殿は高台に面した静かな場所にある。

 正殿の前まで来た漣は、扉へ手を伸ばしかけて動きを止めた。中から聞こえてきた徐福たちの声には、普段の穏やかさがなく、重苦しい緊張が滲んでいたからだ。その異様な静けさに、漣は思わず足を止める。


 館の一室では徐福と側近たちが灯火を囲んでいたが、昼間の穏やかな表情は消え失せ、揺れる炎に照らされた顔には誰もが重い影を落としていた。


「二年か……いまだ霊薬らしきものは見つからぬ」


 年長の方士が重い溜息とともに呟くと、室内には誰も口を開こうとしない沈黙が広がった。


 不老長寿の霊薬……それは天下統一を成し遂げた始皇帝が執着した願いであり、その探索のため海を渡ったのが彼らだった。しかし現実には、二年もの歳月を費やしてなお成果らしい成果は得られていない。


「仮に帰国したとして、何と報告する」


 重い言葉だった。

 若い方士が顔を曇らせる。


「霊薬は見つかりませんでした」


 そう報告した瞬間、自分たちの首が飛ぶだろうと誰もが理解していた。莫大な費用と人員を費やした国家事業である以上、一族まで罪を問われる可能性すらあった。


 秦の法は苛烈であり、皇帝の勅命に失敗した者へ情けが掛けられることはない。まして莫大な資金と船団、人員を与えられた国家事業であればなおさらで、ただ失敗しましたという報告だけで許されるはずもなかった。


「では逆に、本当に霊薬を見つけた場合はどうする」


 一人の方士の問いに、年長の方士は苦い表情のまま首を横に振った。


「それでも死だ。陛下は必ず疑われる。我らが先に霊薬を試したのではないか、と。不老長寿となった臣下を、あの御方が許容されるとは思えぬ」


 室内は静まり返った。徐福たちは誰よりも始皇帝を知っていた。天下を統一した偉大な皇帝であると同時に、自らの権威を脅かす可能性を決して見逃さず、必要とあれば臣下さえ容赦なく切り捨てる人物でもある。

 長い沈黙の末、徐福は揺れる灯火を見つめながら静かに口を開いた。


「始皇帝は天下を統一し支配した。戦乱を終わらせ、文字や度量衡を統一し、諸国を一つへまとめ上げた。その功績は歴代の王たちと比べても抜きん出ている」


 一同は黙って耳を傾ける。


「だが、人の寿命までは支配できぬ。どれほど偉大な王であろうと老いから逃れることはできず、死を恐れる心もまた人と変わらぬ」


 その言葉は皇帝を非難するものではなく、人という存在の限界を語るものだった。

 徐福は居並ぶ方士たちへ視線を向けた。


「私は陛下を欺くつもりはない。だが死ぬために帰る気もない。我らは勅命を受けて海を渡ったが、生きている限りは自らの命を守る責務もある」


 故郷へ帰りたいという想いは誰の胸にもあった。しかし帰国すれば失敗の責を問われる。仮に霊薬を見つけたとしても、その効能を確かめた時点で疑いを掛けられる可能性は高く、結局は死から逃れられない。

 徐福は再び炎へ目を落とした。


「霊薬を持ち帰れば奪われる。効能を確かめれば疑われる。確かめなければ偽物と断じられる。どちらへ転んでも死だ」


 自嘲気味の笑みが広がる中、徐福は低く言葉を続けた。


「我らは最初から帰る場所を失っていたのだ」


 その一言は重く室内へ沈み、誰一人として反論できなかった。

 やがて側近の一人が意を決したように口を開く。


「ならば……帰らぬという道もあります」


 その一言によって室内の空気は大きく変わったが、誰もすぐには賛同できなかった。帰らないという選択は、ただ熊野へ留まるという意味ではなく、海の向こうに残してきた故郷や家族との別れを受け入れることに等しかったからである。

 重苦しい沈黙の中、年長の方士が俯いたまま低く呟いた。


「私には斉に息子がおります」


 その言葉をきっかけに、一同の胸にはそれぞれの故郷の記憶が蘇った。妻を残してきた者、老いた両親を故郷へ置いてきた者、幼い子供の成長を見届けられないかもしれない者。誰もが海の彼方に大切な人々を残しており、帰国を諦めるということは、その者たちとの再会を諦めることでもあった。


 徐福もまた静かに目を閉じる。

 脳裏に浮かんだのは、生まれ育った斉の海だった。港に並ぶ船、潮風に乗って響く商人たちの声、若き日に学問へ没頭した日々。始皇帝によって斉という国は滅び去ったが、故郷で過ごした記憶まで失われたわけではない。海を渡る前は、この任を果たした後に再び故郷の土を踏める日が来ると信じていたが、その願いも今となっては叶わぬものになろうとしていた。


 長い沈黙の末、徐福はゆっくりと目を開き、窓の外に広がる熊野の村へ視線を向けた。そこには自分たちが切り拓いた田畑があり、港があり、懸命に暮らす人々の姿がある。


「故郷を忘れる必要はない。だが生きるためには前を向かねばならぬ」


 静かな声だったが、その言葉には迷いよりも覚悟が込められていた。


「我らは時を買う。この地で人を育て、力を蓄え、秦が我らを追う余裕を失う日を待つ」


 側近たちは無言のまま頷いた。その決断が祖国との決別を意味すると理解しながらも、もはや他に生き残る道は残されていなかったのである。

 徐福はしばらく村を見つめた後、静かに言葉を結んだ。


「海を渡ったあの日、我らは故郷を失った。ならば今度は、この地を新たな故郷としよう」


 その言葉に反対する者は誰一人いなかった。こうして徐福たちは祖国への帰還を諦め、熊野で生きる未来を選んだのである。

 徐福は灯火の炎を見つめながら呟く。


「もし本当に不老長寿へ至る術が存在するなら、それは権力者の独占物にしてはならぬ」


 揺れる灯火を見つめながら、徐福は静かに自らの進む道を定めていた。もはや彼は始皇帝の命を果たすための使者ではなく、海を渡ってきた者たちを導く長として、この地で生き延びる未来を選んだのである。


 漣は閉ざされた扉から目を離せなかった。

 徐福は遠い大陸から海を渡ってきた賢者だった。文字を教え、農耕を広め、病を治し、人々へ様々な知識を与える存在であり、漣にとっても那岐にとっても、分からないことがあれば教えを請う相手だった。いつしか彼女の中で徐福たちは、何でも知っている特別な人々になっていた。


 しかし先ほど耳にした会話は、その認識を静かに変えていた。

 故郷へ帰れなくなるかもしれない不安に苦しみ、海の向こうへ残してきた家族を想い、それでも仲間たちを生かすための道を探し続ける姿は、漣が思い描いていた超越者のものではない。悩み、迷い、未来を恐れながらも前へ進もうとする、一人の人間の姿だった。


 胸の奥にあった尊敬の念は今も変わらない。だがその隣には、これまでとは違う親しみが静かに芽生えていた。

 漣は閉ざされた扉へ一度だけ小さく頭を下げると、誰にも気付かれぬよう静かにその場を後にした。廊下の先でふと振り返ると、扉の隙間から漏れる灯火が静かな闇の中で小さく揺れている。

 その光は人々へ知識を与え、この地を豊かにしてきた光だった。だが人の願いは、ときに理を越えてしまう。

 揺れる炎が未来に何を照らし、何を焼き尽くすことになるのか。まだ誰も知らなかった。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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