一章 徐福伝説 五話 新天地での生活
紀元前二百八年 春。
徐福一行が熊野へ根を下ろしてから、二年の歳月が流れようとしていた。
海辺に仮小屋を並べて暮らしていた頃の面影は、もはやほとんど残っていない。
海を見下ろす高台には徐福の館が建てられ、その周囲には方士や弟子たちの住居が整然と並び、さらに海辺には船着き場が築かれて漁船や輸送船が往来するようになっていた。
さらに内陸へ目を向ければ、新たに開かれた田畑が広がり、かつて森だった土地は切り拓かれ、水路が整備され、田へと姿を変えていた。
徐福がもたらした鉄器や灌漑技術、農地整理の知識、さらには薬草学は熊野の人々に大きな恩恵をもたらし、人々は異国から来た彼らを徐々に受け入れ始めていた。
もちろん徐福たちは無償で与えたわけではない。
徐福は土地を得るために知識を与え、人々は豊かな暮らしを得るために労力と協力を差し出す。
互いに利益を分け合う関係こそが、この新天地で生き残るために必要なものだと徐福は理解していた。
その現実的な判断は正しく、熊野の人々との関係は極めて良好だった。だが徐福は、人の縁ほど移ろいやすいものはないと知っていた。
徐福は館の広間で報告書を広げながら静かに頷いた。
「南の海岸線は問題ありません」
報告しているのは偵察隊の責任者だった。
熊野を拠点に周辺へ派遣された小部隊は、定期的に情報を持ち帰っている。
徐福は新天地へ到着した当初から、拠点の安定化を最優先としていた。不老長寿の霊薬を探すことも重要だ。しかし生き残らなければ何も始まらない。まずは足場を固め、それが徐福の方針だった。
「東方には大きな川があります。川沿いにはいくつかの集落が確認されました」
「我らに敵意はあったか?」
「今のところありません」
徐福は視線を地図へ向けた。手作業で描かれたその地図には、周辺の地形が少しずつ書き加えられている。
まだ白い部分の方が圧倒的に多く、未知の土地は広大だった。
報告を聞いた徐福は安堵したように頷いたが、方士の一人は慎重な表情を崩さなかった。
「ですが、今のうちに周辺の集落を従わせておけば、後々の脅威を減らせるのではありませんか」
その意見に数人の方士も同意するように顔を見合わせた。しかし徐福は即座に否定せず、しばらく地図へ視線を落としたまま考え込むと、やがて静かに口を開いた。
「武によって従わせた者は、いずれさらに強い武によって離れていく。だが利益で結ばれた者は違う。我らがこの地へ来てからの二年間を思い出してみよ」
徐福は広間に集まった者たちを見渡した。地図の上へ指を置き、周囲に記された集落をゆっくりとなぞる。
「国とは城でも土地でもない。そこに生きる人々そのものだ。人が集まり、互いを信じ、明日も共に生きたいと願った時、初めて国は形を持つ。だから敵を探す必要はない。まずは友を増やせ。土地は奪うものではなく、人が集まることで結果として我らのものになる」
その言葉には長い歳月を生きてきた学者としての知恵と、数千人を率いて海を渡った指導者としての確信が込められていた。
「急ぐ必要はない。この土地に深く根を張るには、人と人との繋がりこそが何より大切なのだからな」
広間は静まり返り、方士たちは深く頭を下げた。徐福の視線は再び地図へ戻る。その先に広がる未知の土地を見つめる横顔には、一人の学者ではなく、新たな国の礎を築こうとする統治者の風格が宿っていた。
熊野の地は劇的な変化を遂げ、徐福一行の拠点確保は成功しつつあった。
その頃、仕事を終えた漣と那岐は、山菜採りのため籠を持って山へ入った。
表向きは春の恵みを集めるためだったが、二人にとってはそれ以上の意味を持つ時間になっていた。
通訳として忙しい日々を送る中で、こうして二人だけで過ごせる時間は決して多くなかったからである。
新緑に覆われた山道を歩きながら、二人はワラビやタラの芽を摘み取り、籠を少しずつ満たしていった。漣はワラビを摘みながら微笑んだ。
「熊野へ来たばかりの頃は、食べられる草を探すだけで必死だったのにね」
那岐も懐かしそうに頷く。
「あの頃は畑も少なかったしな。今は田も増えたし、魚も獲れる。みんな食べ物の心配をしなくて済むようになった」
柔らかな陽射しが山肌を照らし、新緑は眩しく、谷を渡る風は草木の香りを運んでくる。コシアブラの新芽から漂う青い香りはどこか懐かしく、鳥たちのさえずりが静かな山に響いていた。
漣は籠を腰に下げ、斜面を登りながらワラビを探していた時だった。
漣が岩場へ足を掛けた瞬間、踏みしめた土が崩れ、小さく悲鳴を上げながら体勢を崩した。その身体が斜面へ倒れそうになった時、那岐は反射的に腕を伸ばし、その手首をしっかりと掴む。
「大丈夫か? この辺は見た目より足場が悪いんだ。山菜を探すのに夢中になると危ないぞ」
引き寄せられるようにして踏みとどまった漣は、驚いたまま何度か瞬きを繰り返し、それからようやく安堵したように息を吐いた。
「うん……ありがとう。本当にびっくりしたわ。もう少しで転ぶところだった」
「怪我がなくてよかった。山は慣れていても油断すると危ないからな。もし足でも挫いたら山を下りるだけでも大変だ」
那岐はそう言いながらもすぐには手を離さず、漣がしっかり足場を確保したことを確かめてから、ようやく指を解いた。
「ありがとう。助かったわ」
「気にするなよ。漣に怪我でもされたら困るし、みんなだって心配する」
何気ない言葉だったが、その言葉に漣の胸は小さく高鳴った。
「ふふっ、何それ。まるで私が子供みたいじゃない」
「そういう意味じゃない。ただ……その、漣は昔から無茶することがあるだろ。だから少し心配になっただけだ」
照れたように視線を逸らす那岐の横顔を見ていると、漣の頬には自然と笑みが浮かぶ。
「そっか。じゃあ、その心配してくれたことにはちゃんとお礼を言っておくわ」
春の日差しを受けたその笑顔は柔らかく眩しく見え、那岐は思わず言葉を失った。やがて気まずさを隠すように山の奥へ視線を向けると、少し早口で言う。
「ほら、あっちにワラビが生えてる。早く行こう」
「はいはい」
漣はくすりと笑いながら後を追ったが、手が離れた後もなぜか心は落ち着かなかった。春風が頬を撫でているはずなのに顔はどこか熱く、少し前を歩く那岐の背中がいつもより頼もしく見えてしまう。
その理由を考えないようにしながら、漣は静かに歩みを進めた。
少し前を歩く那岐が振り返る。
「漣、こっち」
指差した先にはワラビが群生していた。
漣は思わず笑う。
「よく見つけるよね~」
「慣れだよ」
那岐は得意そうに胸を張り、二人は並んでしゃがみ込み、若い芽を摘んでいく。
しばらくするとタラの芽も見つかる。採った山菜を籠へ入れながら、二人は他愛のない話を続ける。
村の出来事や工事の進み具合、徐福の話や子供たちの話をしながら歩く時間は穏やかで、言葉が途切れても不思議と気まずさはなかった。
同じ景色を見て、同じ風を感じているだけで心が満たされる。いつの間にか二人は人里から離れた場所まで来ていた。周囲には誰もいない。
聞こえるのは鳥の声と風の音だけだった。やがて人里から離れた岩場へ辿り着いた時、那岐は若葉を見つけて足を止めた。
「コシアブラだ」
嬉しそうに声を上げる那岐の隣へ漣も近寄り、同じ若葉へ手を伸ばした。すると二人の指先が触れ合い、そのまま互いの手が重なる。
ほんの些細な偶然だった。しかし二人とも動きを止め、けれど、その瞬間だけは時間の流れが止まったかのように感じられた。
山を渡る風が木々の葉を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。那岐が静かに顔を上げると、すぐ近くに漣の瞳があった。透き通るような黒い瞳は驚きと戸惑い、そして隠しきれない想いを宿している。
那岐はその手を離さず、漣も手を引くことはなかった。触れた温もりを失いたくない。
むしろ確かめるように指へ力を込めながら、逃がしたくないという気持ちを伝えるように優しく握り返す。
漣は恥ずかしそうに微笑みながら少しだけ背伸びをし、そのままゆっくりと顔を近づけた。
那岐の唇は漣の唇へそっと重なり、その温もりは驚くほど短い時間でありながら、永遠にも等しい長さを持って二人の心へ刻まれていった。
唇が離れても、二人はすぐには動けなかった。
漣の瞳はわずかに潤み、那岐は何かを伝えようとして唇を開きかけたものの、胸の内に溢れる想いを言葉へ変えることができなかった。好きだと言うだけでは足りない気がしたし、大切だと伝えるだけでも、この胸に満ちる感情のすべてを表せるとは思えなかったからだ。
だから二人は何も言わず、ただ見つめ合った。共に過ごしてきた歳月が、今はどんな言葉より雄弁に互いの想いを伝えてくれている気がした。
やがて漣が恥ずかしそうに目を伏せて微笑む。その仕草を見た瞬間、那岐の胸には愛おしさが込み上げ、この笑顔を守りたい、これからもずっと隣で見ていたいという願いが自然と芽生えていた。しかし、その想いを口にする勇気まではまだなく、二人は頬を赤く染めたまま照れくさそうに視線を交わしていた。
やがて那岐が照れ隠しのように笑う。
「……山菜、採らないと」
そう言って照れ隠しのように頭を掻くと、漣もようやく我に返って頷いたものの、胸の鼓動も頬の熱も少しも収まってはいなかった。
「そ、そうね……」
それから再び歩き始めた二人だったが、同じ籠に山菜を入れようとして手が触れるたびに意識し、目が合うたびに互いを意識してしまう。
春の山は変わらず穏やかで、新緑は風に揺れ、鳥たちは自由に空を舞っていた。
二人はまだ知らない。
この春の日の温もりが、いつか生涯忘れられない記憶になることを。
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