五章 三輪山 六話 東方遠征
二世紀後半の秋。
世界規模で寒冷化の波が押し寄せ、それは出雲の地にも到来し、かつて誰も経験したことのない異変に見舞われていた。
数年前から続いていた気候の乱れは年を追うごとに深刻さを増し、夏になっても十分な暑さが訪れない。冷たい風が吹き続け、空には厚い雲が垂れ込める日が増えていた。
本来なら青々と育つはずの稲は背丈も伸びず、穂を付けても中身は痩せ細っている。田を見回る農民たちは顔を曇らせ、手に取った稲穂を握り締めながら首を振るしかなかった。
「これでは収穫にならん……」
そんな嘆きが各地で聞かれるようになっていた。
被害は田畑だけではない。
山へ入っても木の実はほとんど実らず、鹿や猪の姿も減っている。川では魚影が薄くなり、海へ出た漁師たちも空の網を抱えて帰る日が増えていた。
出雲全土から食べ物が消え始めていた。
まだ飢える者は多くなかった。今年だけなら各地の倉に蓄えられた備蓄で冬を越すことはできる。しかし人々が恐れていたのは来年だった。この異常な冷夏が再び訪れれば、備蓄は急速に減り、いずれ底を突く。各地の豪族や村長たちは倉の中身を確認するたび顔を曇らせていた。
「今年は耐えられる」
「だが来年は分からぬ」
と不安を口にするようになっていた。
やがて各地から須賀の宮へ使者が送られ始める。
「来年に備えて備蓄を分けていただきたい」
「今のうちに対策を講じねばなりません」
「この異常気象が続けば危険です」
使者たちは口々に危機感を訴え、須賀の宮の門前には順番を待つ者たちの列ができていた。しかし宮の倉もまた無限ではない。役人たちは帳面を片手に備蓄量を計算し続けていたが、その表情から余裕は失われつつあった。
出雲はまだ滅んではいない。
だが誰もが理解していた。
国は今、静かに破滅へ向かい始めているのだと。
やがて須佐之男は各地の豪族たちを須賀の宮へ招集し、国の命運を決める評議を開くことを決断する。
「分かった。各地の豪族を須賀の宮へ集めよ」
須賀の宮の評議の間には、各地の豪族たちが集められていた。
大年が広げた竹簡には、出雲各地から届いた報告が並んでいる。
「今年の収穫量は平年の半分以下です。北部では三分の一にまで落ち込んだ地域もあります」
その言葉に驚く者はいなかった。
すでに豪族たちは、自らの領地で凶作の現実を目にしている。
「備蓄も減少を続けています。このまま配給を続ければ、来年の秋を迎える前に底を尽くすでしょう」
大年はさらに続けた。
「伯耆、因幡、丹波、吉備も同様に凶作です。余剰食糧を持つ国は確認できませんでした。交易による補填は期待できません」
言葉が終わると、広間に低いざわめきが広がった。
苦しんでいるのは出雲だけではない。空そのものが実りを奪い、広い地域を飢えへ追い込んでいる。その事実を、誰もが改めて突き付けられていた。
「備蓄を厳しく管理するしかない」
「開墾を進めれば、来年には少しでも……」
「狩りや漁を増やせぬか」
意見は次々と上がったが、そのどれもが根本的な解決にはならなかった。滅亡の時を、わずかに先へ延ばすだけである。
やがて、一人の豪族が苦しげに口を開いた。
「……人口を減らすしかないのではないか」
その瞬間、広間の空気が変わった。
誰も賛同しなかった。
だが、誰も否定できなかった。
来年も凶作が続けば、老人から順に食を減らし、弱い者から死んでいく。それは誰も口にしたくない未来でありながら、誰もが胸の奥で思い描いていた未来でもあった。
その時、須佐之男がゆっくりと立ち上がった。
巨体が動くだけで、広間の視線が一斉に集まる。
「東へ向かう。近畿の登美を目指し、軍を進める」
どよめきが走った。
須佐之男はそれを意に介さず、居並ぶ豪族たちを見渡した。
「名目は東方平定だ。登美を制圧し、大倭壱国の日巫女へ献上する」
そこで一度言葉を切る。
「だが、それは建前に過ぎぬ。儂は綺麗事を言うつもりはない。本当の目的は食料だ。道中の村や小国家を制圧し、食料を徴発する。奪った食料は出雲へ送り、民を生かすために使う」
誰も声を発しなかった。
「これは侵略であり、略奪でもある」
その一言が、広間に重く落ちた。
須佐之男は自らの行いを飾らなかった。正義の戦とも、神の意志とも言わなかった。ただ、出雲を生かすために他国から奪うのだと、王自らが明言したのである。
やがて一人の豪族が立ち上がった。
「他国にも民がおります」
その言葉をきっかけに、別の豪族たちも口を開く。
「戦になれば多くの血が流れましょう」
「罪なき者たちまで苦しめることになります」
「それでも本当に行うのですか」
反対の声は上がった。
だが、その響きには迷いが滲んでいた。
彼らもまた領地と領民を抱えている。出雲の民を飢えさせたくないという思いは同じだった。だからこそ、他国の民を思いやりながらも、自らの民を見捨てる決断などできなかった。
須佐之男は全ての声を聞き終えると、静かに頷いた。
「お前たちの言うことは正しい。ゆえに、この命は儂が下す。恨みも呪いも、すべて儂が受ける。後の世で暴君と呼ばれようと構わぬ。だが、出雲の子らを飢え死にさせることだけは、王としてできぬ」
反論する者はいなかった。
誰もこの道を正しいとは思っていない。それでも他に国を救う術を見つけられなかったことも事実だった。減り続ける備蓄、各地から届く凶作の報告、そして来年の秋まで持たないという現実が、その答えを容赦なく突き付けていた。
須佐之男は静かに視線を巡らせ、やがて一人の青年である大年へ目を向ける。
「大年。お前ならどうする」
突然の問いに、大年は一瞬だけ目を伏せた。広間に集う豪族たちの視線が一斉に自分へ向けられる。
若輩者。それが多くの者たちの抱く評価だった。武勇に秀でているわけでもなく、妖力も持たず、不老長寿ですらない。ただ祖父・那岐から学び続けてきただけの青年。しかし大年は、その立場だからこそ誰よりも考え続けていた。どうすれば出雲を生かせるのかを。
静かに立ち上がると、大年は広間中央に広げられた地図の前へ進んだ。
「まず時間がありません。既に秋です。間もなく冬が訪れます。来春まで待てば兵糧は尽きるでしょう」
そう言って指先で出雲から東へ伸びる道筋をなぞる。
「東へ向かうのであれば山陰道は避けるべきです。冬の山陰は雪に閉ざされ、補給も進軍も困難になります。兵糧の消耗だけが増えるでしょう」
指先は日本海沿岸から南へ移った。
「我が軍は瀬戸内へ出るべきです。瀬戸内は波が穏やかで船を利用できます。徴発した食料をそのまま船で出雲へ送り返せば、陸路より遥かに効率よく運搬できます」
豪族たちの視線が地図へ集まり、八島士奴美も感心したように頷いた。
「確かに船なら一度に運べる量も多い」
「はい。兵は前へ進み、食料は後方へ送る。その流れを維持できれば遠征は長期間継続できます」
大年はさらに東へ指を滑らせ、登美の地を示した。
「目標は登美です。そこを制圧し、大倭壱国へ献上する形を取ります」
広間がざわめく。
「我らは倭国統一へ協力するという大義名分を得られますし、日巫女との関係悪化も避けられるでしょう。無論、それは建前に過ぎません。しかし戦には建前が必要です」
その言葉に反論する者はいなかった。
大年は登美の位置を軽く叩く。
「だからこそ登美そのものからの略奪は避けるべきです。献上する土地を荒らしてしまえば価値を失います。土地と民を維持したまま支配下へ組み込み、統治者を置いて管理する。民に耕作を続けさせ、収穫の一部を税として納めさせる方が、一時の略奪より遥かに大きな利益を生みます」
それは軍事だけでなく、補給や外交、さらには統治まで見据えた献策だった。
広間は静まり返る。先ほどまで飛び交っていた声は消え、豪族たちは皆、大年へ視線を向けていた。若者の口から出たとは思えないほど完成された方策に、誰も容易には言葉を返せなかったのである。
やがて須佐之男がゆっくりと立ち上がった。その巨体が動くだけで場の空気が引き締まる。
「良い策だ」
力強い声が広間に響いた。
「儂が考えていた方針とも一致する。大年の策を今回の基本方針としよう」
須佐之男は居並ぶ豪族たちを見渡したが、異論を唱える者はいない。
「方針は決まった。これより軍を編成する」
その宣言とともに評議の空気は大きく変わった。もはや迷いや議論の場ではない。出雲が生き残るための戦へ向けて、全てが動き始めたのである。
「総大将は儂。本軍を率い全軍の指揮を執る。五十猛は儂の直属とし、本軍副将として主力軍を率いよ」
「必ずや期待に応えてみせます」
力強く頭を下げる五十猛を見て満足そうに頷くと、須佐之男は続いて八島士奴美へ視線を向けた。
「八島士奴美には輸送船団を任せる。瀬戸内航路を押さえ、徴発した食料を全て出雲へ送れ。港の確保もお前の役目だ」
「お任せください」
「八千矛。お前は天之冬衣の名代として大名持軍を率いよ。先鋒を任せる。近畿までの道を切り開き、各地を制圧して補給路を確保せよ」
先鋒軍司令という大任に広間がざわめく。しかし八千矛は怯むことなく須佐之男を見据えた。
「必ずや成し遂げます」
力強く答えながらも、その胸中は静かに揺れていた。
先鋒とは誰よりも先に敵地へ踏み込み、道を切り開く役目である。危険は大きいが、それ以上に功績も大きい。須勢理との婚姻を果たし、出雲王家の一員として歩む未来がようやく現実のものとして見え始めていた八千矛にとって、この任命は間違いなく大きな機会だった。
だが同時に、胸の奥には拭いきれない重さも残っていた。これから行うのは国を守るための戦ではなく、食料を得るために他国へ踏み込み、人々から糧を徴発する戦である。出雲の民を生かすためとはいえ、その結果として苦しむ者たちがいることも理解していた。
自分たちが生き延びるために、誰かが飢える。その現実を思えば素直に喜ぶことはできなかったが、それでも出雲には須勢理がいる。父の天之冬衣がいる。自分を支えてくれた少彦名もいる。彼らを飢えさせるわけにはいかなかった。
正しい道ではないのかもしれない。それでも今の出雲には進む以外の道が残されていない。
八千矛はゆっくりと拳を握り、顔を上げた。この戦の先に何が待っていようとも、自分は先鋒として道を切り開く。その覚悟だけを胸に、須佐之男の言葉を静かに受け止めた。
「大年は先鋒軍の後方で同行しろ。占領地の管理、食料徴発、輸送計画、そして先鋒が苦戦していた場合は八千矛を支えよ」
思いもよらぬ任命に大年は息を呑んだ。軍議の中枢へ加わるのは初めてだったが、その表情に迷いはない。
「承知いたしました」
最後に須佐之男は天之冬衣へ向き直った。
「天之冬衣は出雲に残れ。国内統治と治安維持、そして送られてくる物資の管理を任せる」
「承知した」
こうして全てが決まった。
誰も望んだ戦ではなかった。しかし、このまま何もしなければ出雲は滅ぶ。飢えに苦しむ民を見捨てることもまた、王にはできない。
生き残るためには進むしかない。
こうして出雲王国は東方遠征への道を歩み始める。その決断が、やがて倭全土を巻き込む数十年に及ぶ倭国大乱の始まりとなることを、この時まだ誰も知らなかった。
評議が終わった後も、須賀の宮には重苦しい空気が漂っていた。
東方遠征が決まったとはいえ、誰一人としてその決断を喜ぶ者はいない。豪族たちは沈んだ表情のまま宮を後にし、広間に残された灯火だけが静かに揺れていた。
大年は宮の外へ出ると、冷たい風を受けながら曇天を見上げた。秋だというのに冬のような寒さだった。山々から吹き下ろす風は鋭く、空を覆う灰色の雲は今にも雪を降らせそうに見える。
「これが正しいのか」
隣から聞こえた声に、大年はゆっくり振り返った。
そこには腕を組んだ少彦名が立っていた。いつもなら皮肉の一つも飛んできそうなものだったが、今の彼の表情には迷いしかなかった。
大年はすぐには答えられなかった。
食料を得るために他国へ攻め込むことは、どう言い繕おうと略奪に他ならない。だが何もしなければ出雲の民が飢えて死ぬこともまた事実であり、その現実はどれほど目を背けようとしても変わらなかった。
「正しいとは思わない」
しばらく沈黙した後、大年は静かに口を開いた。
「食料を奪うために他国へ攻め込むのだからな。だが、出雲の民を見捨てることもできない。このままでは来年を迎える前に多くの者が死ぬ。結局のところ、私たちには他の道が残されていないんだ」
少彦名は黙って聞いていた。反論しようと思えばできたのかもしれない。しかし彼自身もまた答えを持っていなかった。
二人とも分かっていたのである。これはもはや戦ではない。国家が生き残るために行う大規模な略奪であり、それでもなお避けることのできない選択だった。
出陣準備は急速に進められた。
須賀の宮には出雲各地から兵たちが集まり始め、武具蔵には槍や剣が次々と運び込まれていく。職人たちは傷んだ弓弦を張り替え、鍛冶場では鉄を打つ音が昼夜を問わず響き続けていた。
海辺でも八島士奴美の指揮の下で輸送船団の整備が進められ、大型船の船底は補修され、帆は新しいものへ張り替えられていく。船大工たちは冷たい潮風に吹かれながらも休むことなく木槌を振るい続けた。
しかし、その光景に勇ましさはなかった。集められた兵たちは皆やせ細り、見送る家族たちも同じように疲弊していた。母親は子供を抱きしめながら夫を見送り、父親は黙って息子の肩を叩き、幼い子供たちは不安そうな目で大人たちを見上げている。
誰も笑ってはいない。
これは名誉や栄光を求める戦ではなく、出雲という国が生き残るための戦だった。
出陣の日、厚い雲が空を覆い、冷たい風が大地を吹き抜けていた。
須賀の宮の前には数千の兵が整列し、その中央には総大将である須佐之男が立っている。傍らには副将の五十猛が控え、本軍を率いる準備を整えていた。海では八島士奴美が率いる輸送船団が出航を待ち、瀬戸内海への航路確保と食料輸送という重責を担う。
一方、八千矛は天之冬衣の名代として先鋒軍を率い、近畿へ至る道中の村々や小国家を制圧しながら補給路を確保する役目を与えられていた。大年もまた先鋒軍へ同行し、占領地の統治や食料徴発、輸送計画の策定を担う軍師として八千矛を支えることになる。
出雲へ残る天之冬衣には国内統治と治安維持、そして送られてくる物資の管理という重要な役目が課せられていた。それぞれが国の命運を背負い、自らの持ち場へ向かおうとしていたのである。
須佐之男は整列した兵たちをゆっくりと見渡した。そこにいる誰もが飢えを知り、家族を残してここへ立っている。戦を望む者など一人もいなかったが、それでも進まなければ出雲は滅びる。その現実だけは全員が理解していた。
「これは名誉のための戦ではない。富を求める戦でもない。我らが生きるための戦だ。出雲の子らを飢えさせず、家族を生かし、国を残すための戦だ」
須佐之男の声は静かだったが、誰よりも重かった。
「我らは生き残る。そのために進む」
一瞬の静寂の後、兵たちの喉から雄叫びが上がった。その声に歓喜はなく、あるのは覚悟だけだった。
出陣の列へ向かおうとした八千矛を呼び止めたのは須勢理だった。秋風に長い髪を揺らしながら立つその表情には不安が滲んでいる。これまで幾度も言葉を交わしてきたはずなのに、いざ見送りの時を迎えると何を言えばよいのか分からなくなってしまったのだろう。
「必ず帰ってきてください」
ようやく絞り出したような声に、八千矛は思わず微笑んだ。これから向かう先が危険な戦場であることは誰よりも理解している。それでも不思議と心は軽くなった。
「もちろんだ」
そう答えると、須勢理は少しだけ安心したように笑みを浮かべる。
「約束ですよ」
「ああ」
その短いやり取りだけで十分だった。須勢理の待つ場所へ帰ることが、八千矛にとって新たな戦う理由になったのである。
須勢理と別れた後、八千矛は少し離れた場所に立つ父の姿に気付いた。天之冬衣は何も言わず、ただ静かに息子を見つめている。
幼い頃から父は多くを語る人ではなかった。褒められた記憶も少ない。しかし八千矛には分かっていた。今の父がどれほど自分を案じているのかを。
しばらく無言のまま視線を交わした後、天之冬衣は小さく頷いた。
八千矛が深く頭を下げると、天之冬衣は何も言わず再び頷いた。その姿を胸に刻みながら、八千矛は東へ向かう軍列の中へ歩み出した。
やがて軍勢は動き出した。八千矛率いる先鋒軍が東へ向かい、その後を須佐之男の本軍が追う。海では八島士奴美の船団が瀬戸内へ漕ぎ出し、その光景を見送りながら大年と少彦名もまた歩き始めた。
こうして東方遠征は始まった。その先に待つのは栄光ではなく、血と飢え、そして数十年に及ぶ泥沼の戦争である。
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歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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