五章 三輪山 七話 先鋒の試練
二世紀後半、秋。
世界を襲った寒冷化の波は出雲にも容赦なく押し寄せていた。夏になっても気温は上がらず、田畑の実りは例年の半分にも届かない。山の木々は早く葉を落とし、海の魚も減っていた。倉に積まれた食糧は日に日に減り続け、このままでは次の収穫を迎える前に多くの民が飢え死にすることは誰の目にも明らかだった。
須佐之男は東方遠征を決断した。
名目は近畿進出による勢力拡大と大倭壱国への献上。しかし真の目的は違う。出雲が生き残るための食糧確保だった。
奪わなければ滅ぶ。
だから奪う。
誰も望んだ戦ではなかったが、反対できる者もいなかった。
こうして出雲軍は東へ向かったのである。
瀬戸内海を東へ進んだ先鋒軍は、最初の目標である尾道の村を包囲した。飢饉に苦しむ村に出雲軍へ抗う力はなく、村長はほどなく降伏を申し出る。八千矛は無益な流血を避けるため武装解除だけを命じ、その日のうちに村の占領は完了した。
数日後、後続の大年軍が到着した。
荷車の列と兵たちを眺めながら、八千矛は複雑な表情を浮かべる。
「後は食糧の回収か」
「そうなるな」
隣に立つ大年も村へ視線を向けたまま答えた。二人とも、この先に何が行われるのか理解している。倉を開き、食糧を運び出し、船団へ積み込む。それは出雲の民を生かすために必要な仕事であり、同時に他国の民から生きる糧を奪う行為でもあった。
「正直なところ、戦より気が重い」
八千矛が苦笑混じりに漏らすと、大年もまた小さく笑った。
「奇遇だな。私もだ」
そのやり取りを聞いていた少彦名は腕を組みながら鼻を鳴らす。
「お前たちは甘い」
「そうかもしれない」
八千矛は素直に認めた。敵兵と戦う覚悟も、命を奪う覚悟もできている。だが飢えた民から冬を越すための糧を奪うことだけは、どうしても割り切れなかったのである。
やがて兵たちが蔵へ向かい始めると、大年は静かに息を吐いた。
「では始める。出雲が生き残るためだ」
「ああ」
八千矛は短く頷く。その言葉に反論できる者は誰もいなかった。
出雲の民を生かすためには、誰かがこの役目を背負わなければならない。大年はその現実を胸に刻みながら、黙々と指揮を執り始めるのだった。
占領した村の倉が開かれ、兵たちが中に積まれていた米俵や粟袋を次々と運び出していく。しかし、その量は決して多くなかった。世界的な寒冷化の影響はこの地にも及んでおり、村人たち自身が飢えと隣り合わせの暮らしを送っていたのである。
やがて一人の老いた村長が大年の前へ進み出ると、地面に額を擦り付けるように頭を下げた。
「お願いでございます……全部は持っていかないでくだされ。せめて冬を越す分だけでも残していただきたい」
震える声だった。
大年はその願いを聞きながらも首を縦には振れなかった。ここで情に流されれば、今度は出雲の民が飢える。そう理解していたからこそ、何も答えず兵たちへ作業の継続を命じるしかなかった。
その時、小さな少女が駆け出し、一俵の米にしがみついた。
「それは冬の分なの……お願い、持っていかないで……」
兵が少女を引き剥がす。少女は泣きながらなおも米俵へ手を伸ばし続けた。
大年は目を逸らせなかった。頭を下げ続ける村長の姿も、泣き叫ぶ少女の姿も、そのすべてが胸に突き刺さる。それでも運び出された食糧は荷車へ積まれ、海岸で待つ八島士奴美の船団へ次々と運ばれていった。
大年にとって、この任務は戦よりも辛かった。だが、自分がやらなければならないとも理解していた。八島士奴美なら必要以上に村を荒らすかもしれず、五十猛は優しすぎて最後まで命令を実行できないだろう。だからこそ、自分が汚れ役を引き受けるしかない。
『私がやるしかない』
その言葉を何度も心の中で繰り返しながら、積み込まれていく食糧を静かに見つめ続けるのだった。
占領地の統治は大年に任されていた。
食糧の徴発は行う。しかし無用な殺生は許さない。女や子供に手を出すことも禁じる。武器を取って抵抗する者にのみ対処せよ。それが大年の定めた規律だった。
だが、人が千を超えれば必ず規律を破る者が現れる。
事件が起きたのは占領から数日後だった。一人の若い女が兵に襲われ、抵抗した末に殺されたのである。報告を受けた大年は即座に調査を命じ、生き残った村人たちの証言を集めさせた。事実は明白だった。
翌日、大年は村の広場へ全軍を集めた。
縛られた犯人の兵は顔面を蒼白にしながら叫ぶ。
「お、お待ちください! 一度の過ちです!」
だが大年は静かに首を横へ振った。
「過ちか」
感情を抑えた声だった。
「我らは食を求めてここへ来た。しかし獣になるために戦っているのではない」
広場は水を打ったように静まり返る。
「私は殺生を禁じた。暴行も禁じた。それでもお前は命令を破った」
男は何度も額を地面へ擦り付けた。
「申し訳ありません!」
「違う」
大年は冷静に言い切った。
「お前が謝るべき相手は私ではない」
男は言葉を失った。
殺された女の家族が遠くで涙を流している。その姿を見つめながら、大年は処刑を命じた。
やがて刑は執行され、広場に重苦しい沈黙が落ちる。
大年は兵たちを見回した。
「女を襲った者は死罪。略奪を私欲に使った者も死罪。命令を破り村人を殺した者も死罪だ」
その静かな宣告に誰も反論しなかった。
「出雲が生き残るために戦うことと、人としての道を踏み外すことは別だ。次はない」
兵たちは深く頭を下げるしかなかった。
大年は広場を後にしたが、その足取りは重い。人気のない場所まで来ると深く息を吐き、どこまでも続く灰色の空を見上げた。敵と戦う覚悟ならとっくに決めていた。だが、自らの兵を裁き、命を奪う決断を下す役目まで背負うことになるとは思っていなかったのである。
目を閉じれば、食糧を奪われ泣いていた村人たちの姿が浮かぶ。殺された女の無念も、処刑された兵の断末魔も、すべてが胸の奥へ沈殿するように積み重なり、重苦しい澱となって心に残っていた。
「……初陣がこんな役目とはな」
現実の戦とは、人を守るために人を裁き、国を生かすために他国から奪うことでもあった。その苦さを噛み締めながら、大年はこれが戦なのだと初めて思い知るのだった。
出雲軍の進軍は順調だった。尾道の村を制圧してから幾日かが過ぎ、八千矛軍は瀬戸内沿いを東へ進み続けていた。
戦闘は小規模だった。ほとんどの村は降伏し、進軍は続いていた。だが瀬戸内沿岸のある小国だけは徹底抗戦を選んだ。神谷川を天然の防壁として利用し、出雲軍の進路を塞ぐように対岸へ木柵の砦を築き、橋を落として守りを固めていたのである。
砦を眺めながら八千矛は腕を組んだ。
「兵を集めて正面から押し潰せば落とせるだろう」
しかし少彦名は首を横に振ると、一人で川沿いを歩き始めた。八千矛たちも後を追う。
神谷川は思った以上に川幅が広く、水流も速かった。対岸には木柵が幾重にも築かれ、その後方には弓兵が並んでいる。さらに砦の背後は緩やかな斜面となっており、高所から川辺を見下ろせるようになっていた。
少彦名は川岸へしゃがみ込み、ぬかるんだ土を指先ですくい上げる。先日の雨の影響で地面はまだ柔らかく、兵が踏み込めば足を取られることは明らかだった。
しばらく地形を眺めた後、少彦名は小さく息を吐く。
「よく考えられているな」
「そんなに厄介か?」
八千矛が尋ねると、少彦名は川の向こうを見据えたまま答えた。
「川を渡る間に隊列は乱れ、ぬかるみに足を取られる。その上で矢を浴びせられ、ようやく柵へ辿り着いても今度は上から石を落とされるだろう」
少彦名は視線を斜面へ向けた。
「落とせない砦ではない。だが正面から攻めれば多くの兵を失う。それこそ敵が望んでいる戦い方だ」
八千矛は腕を組みながら砦を見つめた。確かに守る側にとっては理想的な地形であり、力任せに攻めれば勝てたとしても被害は避けられそうにない。
その様子を見ていた少彦名は、ふと川の上流へ視線を向ける。
「だから戦場を変える」
「戦場を変える?」
「ああ。敵は川を利用しているが、ならばこちらも川を利用すればいい」
そう言うと、少彦名は不敵な笑みを浮かべ、そのまま上流へ向かって歩き出した。
少彦名は川岸を歩き回り、周囲の地形を調べ始めた。やがて上流の岩場に辿り着くと、草木の倒れ方や岸に残る泥の跡を見つめ、小さく笑う。
「なるほど、そういうことか」
その夜、少彦名は選抜した兵を率いて上流へ向かった。そこには豪雨の際に水を溜め込む天然の堰のような地形があり、流木や岩が絡み合って大量の水をせき止めている。
少彦名の指示で兵たちが堰に更に石を積み、木材で補強して溜まっている水量を増やした。
数日後、水量が増えたのを確認してから、梃子や縄を使って流木を外すと、堰は轟音とともに崩れ去った。
解放された濁流は夜の闇の中を一気に流れ下り、川沿いに築かれていた木柵へ襲いかかる。
激しい水流に打たれた柵は次々と折れ、見張り台や足場もろとも押し流された。砦の中では悲鳴と怒号が響き渡り、兵たちは何が起きたのかも分からぬまま混乱に陥る。
八千矛は濁流が収まるのを待ってから攻勢に出た。
「今だ!」
八千矛は剣を抜き放った。
出雲軍は川を渡り、先頭に立つ八千矛は崩れた柵を飛び越え、そのまま敵陣へ突入する。
混乱した守備兵たちは抵抗らしい抵抗もできず、砦は短時間で制圧された。
戦後、八千矛は流された木柵を眺めながら感心したように言う。
「最初からこれを狙っていたのか」
少彦名は肩をすくめた。
「兵は畑から生えてこない。使わずに勝てるなら、その方がいい」
八千矛は苦笑しながら頷いた。力だけでは辿り着けない勝利があることを、この小さな軍師はよく知っていたのである。
占領地の管理は後続の大年軍へ引き継ぎ、先鋒である彼らは近畿を目指してひたすら前進する。
その夜も野営地には焚き火が並び、兵たちは束の間の休息を取っていたが、静寂は見張りの悲鳴によって突然破られた。
「敵襲だ!」
次の瞬間、闇の中から無数の火矢が降り注ぎ、乾いた音とともに野営幕が燃え上がる。兵たちの怒号と悲鳴が飛び交う中、八千矛は飛び起きて剣を掴み、炎の中へ駆け出した。
「起きろ! 武器を持て!」
だが敵の目的は最初から襲撃による混乱だったらしく、少数の兵で火を放つと素早く後退を始める。出雲兵たちが態勢を整えた頃には、敵はすでに闇へ溶け始めていた。
「待て!」
八千矛が叫んだその時、燃え盛る野営幕を背に一人の男が姿を現した。
鎧の上からでも分かる鍛え上げられた体躯、獣のように鋭い眼光、そして肩に担いだ槍。その男は炎を背負うように立ちながら不敵な笑みを浮かべる。
「ほう。貴様が出雲の将か」
八千矛は剣を構えたまま応じた。
「俺は出雲の八千矛。名を名乗れ」
男は胸を張る。
「俺は吉備の主……吉備冠者!」
その名に周囲の兵たちがざわめいた。吉備地方を束ねる豪族にして、東方への道を塞ぐ最大の勢力。その当人が目の前に立っていたのである。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
少しでも面白いと感じていただけましたら、感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると励みになります。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました




