五章 三輪山 五話 五十猛(いたける)
五十猛は幼い頃から父を英雄として見て育った。
須佐之男……出雲を統べる王にして、誰よりも強い男。海賊たちが暴れていた時代も、須佐之男が現れれば戦いは終わった。反抗する豪族も武勇を誇る戦士たちも敵にならず、その身から放たれる妖気は獣すら怯えさせる。巨大な体躯から繰り出される拳は岩を砕き、振るわれる剣は数え切れない戦場を制してきた。
五十猛にとって須佐之男は父である前に憧れそのものだった。だからこそ認められたかったし、いつか父のような男になりたいと願っていた。そして胸の奥には、幼い頃から変わらない一つの夢がある。
一度だけでいい。父に勝ちたい。
須賀の宮では定期的に須佐之男との相撲稽古が行われていた。五十猛はそのたびに挑み続けたが、結果は変わらない。組み合えば投げ飛ばされ、押し合えば押し負ける。ようやく掴んだと思った次の瞬間には地面に転がされており、須佐之男は息一つ乱さず笑っているだけだった。
「甘いぞ」
そう言われるたびに立ち上がり、再び挑む。しかし何度繰り返しても勝てない。しかも父は本気ですらなかった。
周囲の兵たちは口を揃えて五十猛を称賛した。出雲でも屈指の猛者であり、その巨体と腕力は父に迫っていると誰もが認めている。実際、五十猛の身長は七尺近くまで伸び、鍛え上げられた肉体は岩のように逞しかった。純粋な力だけなら出雲でも並ぶ者はほとんどいない。
それでも届かない。
理由は分かっていた。
妖力である。
須佐之男は戦う時、呼吸をするように自然に妖力を纏う。須勢理や兄弟たちも程度の差こそあれ妖力を扱えた。しかし自分だけは違った。どれほど鍛えても、どれほど戦っても、その力だけは目覚めない。
力では負けていないはずだった。技でも大きく劣っているとは思わない。それでも父との間には見えない壁が存在し、その壁を越えることができなかった。
川面に映る自分の姿を見つめながら、五十猛は静かに拳を握る。
「父上に認めてほしいだけなのにな……」
呟きは風に溶け、静かな川の流れる音だけが耳に残った。
五十猛が伊邪那岐を訪ねたのは、須賀の宮で講義が開かれている日のことだった。
広間には二十人ほどの若者たちが集まり、竹簡を手に熱心に話へ耳を傾けている。那岐は文字の読み書きから農耕技術、薬草学、医術、天文、航海術、治水技術まで幅広い知識を教えており、その穏やかな語り口は多くの若者たちから慕われていた。
そんな中、一人だけ明らかに場違いな巨体が立っていた。
七尺近い体躯を持つ五十猛である。
若者たちが机代わりの板に向かって文字を書き取る中、武人そのものといった風貌の五十猛は妙に目立っていた。
講義が終わるのを待っていた五十猛は、立ち上がった那岐へ歩み寄る。
「おじい様」
声を掛けられた那岐は振り返り、優しく微笑んだ。
「あれ、五十猛じゃないか。どうしたの?」
「妖力を教えて欲しい」
思いがけない言葉に那岐は目を瞬かせた。
「須佐之男から聞けばいいのでは?」
「父上は感覚で使っているから分からぬそうだ」
那岐は思わず苦笑した。
「それは確かにあの子らしいね」
「父上は『気合だ』としか言わぬ」
「うん、それは駄目だね」
那岐が額を押さえると、五十猛も真顔で頷いた。
「私もそう思う」
その様子に那岐は小さく吹き出した。
「分かった。少し付き合おうか」
その日の午後、二人は須賀の宮から離れた山中へ入っていた。辿り着いたのは清流が流れる川の上流で、人の気配はなく、水の音だけが静かに響いている。
五十猛は周囲を見回しながら懐かしそうに呟いた。
「久しぶりだ」
「好きだったんだろう?」
那岐は微笑んだ。幼い頃の五十猛はよくこの場所へ来ていた。稽古に疲れた日も、父に叱られた日も、ただ川の流れを眺めながら過ごしていたのである。
「まずは感じることからかな」
那岐は川辺の岩へ腰を下ろした。
「感じる?」
「うん。妖力そのものを探そうとしなくていい。まずは呼吸を整えて、風や水の流れに意識を向けてごらん」
五十猛は言われた通り目を閉じた。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出しながら、頬を撫でる風や絶え間なく流れる川の音へ意識を向ける。だが数日が過ぎても変化はなく、五十猛は次第に焦りを募らせていった。
川辺に腰を下ろしたまま、五十猛は険しい顔で呟く。
「何も分からぬ」
「焦らなくていいよ」
那岐は穏やかに答えたが、五十猛は首を振った。
「だが父上はもっと若い頃から使えていた」
「あの子を基準にしてはいけないよ」
那岐は苦笑しながら空を見上げる。
「須佐之男は昔から少し特別だった。あの子と比べれば、大抵の人は自信を失ってしまう」
五十猛は黙り込んだ後、静かに拳を握った。
「それでも私は父上に認められたい」
その言葉に見栄や野心はなかった。ただ尊敬する父の背中を追い続けてきた息子の純粋な願いだけが込められている。
那岐はそんな五十猛をしばらく見つめると、小さく頷いた。
「そうか」
そして何かを思いついたように微笑む。
「なら、少し別のやり方を試してみようか」
那岐はしばらく五十猛の様子を眺めていた。
川辺の岩に腰を下ろした五十猛は、目を閉じて何度も呼吸を整えている。だが妖力の気配はまるで感じられない。須佐之男の子なのだから素質そのものは受け継いでいるはずだった。欠けているのは力ではなく、その存在を認識する感覚だった。
「駄目ですか」
目を開いた五十猛に、那岐は首を横に振る。
「駄目じゃないよ。ただ、何を探せばいいのか分からないだけかな」
少し考え込んだ後、那岐は五十猛の肩へそっと手を置いた。
「少しだけ流すね」
次の瞬間、五十猛の身体に見えない何かが流れ込んだ。熱いような冷たいような、不思議な感覚が血管とは別の流れとなって全身を巡り、指先から足先に至るまで身体の奥深くを駆け抜けていく。
「なんだ……これは」
驚く五十猛に、那岐は穏やかに微笑んだ。
「それが妖力だよ」
五十猛は呆然とした。父や兄弟たちが当たり前のように扱う力。それが今、自分の身体の中を確かに流れている。
「これが……妖力」
「うん。その感覚を忘れないようにね」
那岐が手を離すと流れは消えたが、その感覚だけは五十猛の中に鮮明に残った。
それからの日々、五十猛は毎日のように川へ通った。朝から夕暮れまで岩の上に座り、呼吸を整えながら身体の奥へ意識を向け続ける。最初は何も見つからなかったが、那岐から流された妖力の感覚だけを頼りに探し続けた。
それから数日後、いつものように瞑想を続けていた五十猛は、胸の奥で小さな火種のような熱が揺らめくのを感じた。
「見つけた……」
その熱は血流に乗るように全身へ広がり、握った拳には今まで感じたことのない力が満ちていく。ついに五十猛自身の妖力が発現したのだ。
妖力を見つけてからの五十猛は、まるで新しい武器を手に入れた子供のようだった。朝から日が沈むまで川辺へ通い続け、自分の内側に生まれた力を何度も確かめる。最初に試したのは腕へ妖力を流すことだった。
身体の奥から湧き上がる力を拳へ集中させると、五十猛は近くに転がっていた大岩へ向かって思い切り拳を振り下ろした。轟音と共に岩は粉々に砕け散り、その光景に五十猛は思わず歓声を上げる。
「できた……! 本当にできた!」
だが喜びも束の間だった。行き場を失った妖力が腕の中で暴れ始め、筋肉を内側から引き裂くような痛みが走る。慌てて力を抑え込もうとしたものの制御は上手くいかず、その日は腕を大きく腫らしたまま須賀の宮へ戻る羽目になった。
翌日、その話を聞いた那岐は苦笑しながら薬草をすり潰していた。
「妖力は出せるようになってからが大変なんだよ。力を解放することより、必要なところで止めることの方がずっと難しい」
五十猛が不思議そうな顔をすると、那岐は川の流れへ視線を向けながら続けた。
「川の水を流すだけなら簡単なんだよ。でも、水路を作って田に流し、溢れないように調整するのは難しいだろう? 妖力も同じなんだ。力を出すことより、思い通りに扱う方がずっと難しい」
五十猛は納得したように頷いたが、その後も失敗は続いた。
脚へ妖力を集中させて跳躍した時には、自分でも予想できない高さまで飛び上がってしまい、着地に失敗して川へ真っ逆さまに落ちた。大きな水柱が上がり、岸辺で見ていた那岐は珍しく声を上げて笑う。
「だから言ったでしょう。力が増えたからといって、すぐ思い通りになるわけじゃないんだよ」
全身ずぶ濡れになった五十猛は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「父上は当たり前のように使っておられたので、もっと簡単なものだと思っていました」
「あの子を基準にしたら駄目だよ。須佐之男は昔から少しおかしいからね」
那岐がさらりと言うと、五十猛は思わず吹き出した。
それからも修行は続いた。妖力を身体へ巡らせることには成功したものの、今度は力が漏れ続けてしまい、近くにいた鳥たちが一斉に飛び立ち、川魚までも逃げ出してしまう。出せるようになっただけでは意味がない。必要な時だけ力を解放し、不要になれば静かに消す。その繊細な制御こそが本当の修行なのだと五十猛は少しずつ理解していった。
そして何度も失敗を重ねた末に、ついに妖力を自在に操れるようになる。拳へ集中させることも、脚へ巡らせることも、全身へ纏わせることも思いのままになった。
その様子を見届けた那岐は満足そうに頷きながら言う。
「もう十分だよ。今の君なら、妖力を持つ者として一人前だ」
その言葉を聞いた五十猛は、ようやく胸を張って笑った。父へ追いつく道のりはまだ遠い。それでも確かに一歩前へ進めたことだけは実感できたのである。
褒められた五十猛は満面の笑みを浮かべた。
「これなら父上にも勝てるかもしれません!」
だが那岐は微妙な表情のまま首を傾げる。
「うーん……それはどうだろうね」
「え?」
「相手は須佐之男だからね。妖力を使えるようになったからといって、すぐ勝てる相手ではないと思うよ」
五十猛は固まった。
那岐は冗談を言っている様子ではない。
「正面からぶつかったら、たぶん負けるかな」
「そんな……せっかく妖力を身につけたのに……」
五十猛は目に見えて肩を落とした。
ようやく父との差を埋められると思ったのだ。
「父上はそんなに強いのですか」
「うん。私が知る限り、一番強いかな。力も妖力も桁違いだし、あの子は戦うことに関しては本当に天才だからね。正直なところ、まともに戦うのはあまりおすすめしないかな」
あまりにもあっさり言われてしまい、五十猛は頭を抱えた。
何日も修行を重ね、ようやく妖力を使えるようになったというのに、それでも届かないと言われてしまったのである。
そんな孫を見ながら、那岐はしばらく考え込んでいた。やがて何かを思いついたように微笑む。
「でもね、勝てないわけじゃないと思うよ」
その言葉に、五十猛は弾かれたように顔を上げた。
「本当ですか!?」
「うん。ただし、まともにぶつかったら駄目だと思う。須佐之男は強すぎるからね。私でも正面から戦いたいとは思わないかな」
さらりと言われた言葉に、五十猛は思わず息を呑んだ。
父が強いことは知っている。だが、その父を育てた祖父にまでそこまで言わせるとは思わなかった。
「では、どうすれば……」
那岐は手招きすると、五十猛が身を乗り出した。周囲に誰もいないことを確認してから、小声で囁く。
「油断させたらいいんだよ」
須賀の宮の相撲場には朝から大勢の兵や家臣たちが集まり、中央の土俵では出雲王・須佐之男と、その息子である五十猛が向かい合っていた。
須佐之男は腕を組んだまま豪快に笑う。
「来い、五十猛」
「はい、父上」
静かに構えた五十猛の表情は落ち着いていたが、その胸の内では心臓が激しく脈打っていた。祖父の那岐と川で過ごした修行の日々、何度も繰り返した鍛錬、そしてようやく掴んだ妖力……今日こそ勝つ。その想いだけが全身を満たしている。
須佐之男はそんな息子を見て眉をひそめた。
「どうした。今日は妙に静かだな」
五十猛は答えない。妖力は身体の奥深くへ沈めたまま隠し続けていた。那岐から授かった秘策である。正面から力比べをして勝てる相手ではない以上、まずは油断を誘うしかなかった。
「いつでもどうぞ、父上」
「ほう?」
須佐之男が口元を歪める。
「ならば行くぞ!」
須佐之男が地を蹴った瞬間、その巨体は暴風のような勢いで迫った。兵たちの目には黒い塊が突撃してきたようにしか見えない。五十猛は真正面から迎え撃ち、飛び込んできた父の腕を掴む。
その瞬間、身体の奥に潜ませていた妖力を一気に解放した。
凄まじい妖気が噴き上がり、轟音にも似た気配が土俵を包む。兵たちが息を呑む中、須佐之男の目が初めて大きく見開かれた。
「なにっ!?」
須佐之男が相手の成長に驚きを見せたのは初めてだった。
五十猛は身体を深く沈めながら父の突進力と体重、その勢いすべてを利用し、
「おおおおおおおっ!」
咆哮と共に身体を回転させる。
次の瞬間、須佐之男の巨体が宙を舞った。
誰も理解できなかった。出雲最強にして無敵の王が空を飛んでいる。その光景に兵たちは目を疑う。
やがて轟音と共に大地が震え、須佐之男の身体は土俵へ叩きつけられた。
場内は水を打ったような静寂に包まれる。風の音だけが響く中、土俵の中央では須佐之男が仰向けに倒れ、五十猛もまた荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。
勝った。
本当に勝ってしまった。
その事実を誰よりも信じられないのは五十猛自身だった。
誰も動かず、誰も言葉を発しない沈黙が続いた後、須佐之男の肩が小さく震える。
「……くっ」
「くくく……」
やがて、静まり返った稽古場に須佐之男の豪快な笑い声が響いた。
「がははははははは!」
地面に仰向けになったまま腹を抱えて笑う姿に、周囲の兵たちは呆然としていた。誰もが信じられなかったのだ。出雲最強の王である須佐之男が、真正面から挑んだ五十猛によって投げ飛ばされたのである。
当の五十猛も荒い息を吐きながら立ち尽くし、自分が成し遂げたことをまだ受け止め切れていなかった。
「父上……?」
恐る恐る呼びかけると、須佐之男はようやく笑いを収め、大きな身体を起こして立ち上がった。その表情には怒りも悔しさもなく、ただ心の底からの喜びだけが浮かんでいる。
須佐之男は五十猛の前まで歩み寄ると、その肩を力強く叩いた。
「見事だ!」
その一言に、五十猛は目を見開いた。
幼い頃から何度も聞きたかった言葉だった。尊敬する父に認められたくて鍛錬を重ね、何度敗れても立ち上がり続けた。しかし須佐之男は滅多に褒めることがない。だからこそ、その短い言葉はどんな褒賞よりも重く胸に響いた。
五十猛の目に涙が滲む。
「ようやく……ようやく勝てました」
震える声でそう告げると、須佐之男は再び豪快に笑った。
「勘違いするなよ、五十猛。戦場の儂なら、今の一手は二度と通じぬ」
須佐之男はそう言いながらも、顔には隠しきれない笑みを浮かべていた。
「だが、一度通した。それで十分だ」
須佐之男は自らを超える可能性を秘めたほどに、息子が成長したことが何より嬉しく、誇らしかったのである。
後に出雲軍最強の将として名を馳せる五十猛。その原点は、武人としての功名心ではなく、ただ父に認められたいという一人の息子の願いだったのである。
その光景を、土俵から少し離れた柱の陰で静かに見守っている者がいた。
伊邪那岐である。
須佐之男にも五十猛にも気付かれぬよう、ただ親子のやり取りを見届けると、小さく目を細めた。
「……よかったね、五十猛」
その声は歓声に紛れて誰の耳にも届かない。
妖力を授けたのは自分だった。だが勝利を掴んだのは、何日も川へ通い、転び、傷つき、それでも諦めなかった五十猛自身である。
父に認められたい……その一途な願いが、ついに実を結んだ。
那岐は満足そうに微笑むと、親子の邪魔をしないよう静かに踵を返し、その場を後にした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
少しでも面白いと感じていただけましたら、感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると励みになります。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




