五章 三輪山 二話 大物主
出雲の須賀の宮では、朝早くから若者たちの掛け声が響いていた。広場では木剣を振るう者たちが汗を流し、武具を身に着けた若者たちが稽古に励んでいる。その中には須佐之男の子らも多く、妖気を纏った一撃で太い丸太をへし折る者や、大人顔負けの怪力を見せる者もいた。
その光景を少し離れた場所から見つめる少年がいた。
大年である。
須佐之男の息子として生まれた大年は、兄弟たちとは違い妖力を持たず、不老長寿の力も発現しなかった。幼い頃から身体が弱く、少し走れば息が切れ、木剣を振れば腕が震える。どれほど鍛錬を重ねても力比べでは年下の子供にさえ負けることがあり、兄弟たちが妖気を纏って鍛錬する姿を見るたびに、胸の奥へ重たいものが沈んでいった。
父は須佐之男。出雲を支配する王であり、誰も並び立てぬ最強の戦士である。巨大な岩を砕き、猛獣を素手でねじ伏せ、一騎打ちでは敵が十秒と持たないとまで言われる男だった。そんな父を見上げるたびに、大年はどうして自分だけ違うのだろうと考えた。
須佐之男の子として生まれながら、何一つ受け継げなかった自分が情けない。父に認められたい一心で、大年は誰よりも鍛錬に打ち込んだ。
朝は誰よりも早く起き、夜は誰よりも遅くまで木剣を振り続ける。重い石を持ち上げ、山道を走り、倒れるまで身体を鍛えた。それでも結果は変わらなかった。兄弟との差は縮まるどころか広がるばかりで、その日も鍛錬の途中で膝をついた大年は、荒い息を吐きながら地面に拳を叩きつけた。
「くそっ……」
額から汗が滴り落ちる。努力している自負はあった。それなのに届かない。その悔しさだけが胸に積もり続けていた。
少し離れた場所から、その様子を須佐之男が見つめていた。豪壮な髭を撫でながら黙って息子を見守る横顔には、わずかな苦悩が滲んでいる。大年が妖力を持たないことも、不老長寿になれないことも、兄弟たちとの差に苦しんでいることも知っていた。戦いしか知らぬ男ではあったが、だからといって息子の苦しみを見過ごせるほど冷酷ではない。
数日後、須佐之男は出雲に滞在していた父の那岐の館を訪ねた。海を見下ろす高台で、那岐が竹簡を広げて文字を書き写している。何百年もの時を生きているとは思えない少年のような姿だった。
「あれ、須佐之男。どうしたの?」
顔を上げた那岐が柔らかく微笑む。
須佐之男は腕を組み、少し言いにくそうに鼻を鳴らした。
「父上に頼みがある」
「珍しいね」
「大年のことじゃ」
その名を聞いた那岐は筆を置き、須佐之男へ視線を向けた。須佐之男はしばらく遠くの海を見つめていたが、やがて低く言った。
「あやつは儂の子だというのに妖力もない。不老にもならぬ。鍛えても強くならぬ」
そこで一度言葉を切り、波音だけが二人の間を流れた。
「……じゃが、あやつは誰より努力しておる」
その声には王としてではなく、一人の父親としての苦悩が滲んでいた。
「どうしてやれば良いのか分からぬ」
世界最強と呼ばれる須佐之男が、弱音にも似た言葉を口にする。那岐は何も言わず最後まで聞き届けると、静かに微笑んだ。戦いしか知らないと思っていた末の息子が、これほど真剣に我が子のことを案じている。その事実がどこか嬉しくもあった。
「ん……そうだねぇ」
穏やかに笑った那岐は立ち上がり、海風に揺れる長い髪を押さえながら水平線へ目を向ける。
「いったん筑紫へ行こうかな、あの子に合うものを、少し集めてくるよ。あの子には須佐之男が気付いていないだけで、別の才能があるのかもしれない」
須佐之男は驚いたように顔を上げたが、やがて小さく頷いた。
それから那岐は、筑紫に戻ることにした。
一か月後、那岐は出雲に戻ってきた。交易で手に入れた竹簡や書物を船いっぱいに積み込み、須賀の宮へ運び込む。その中には漢の歴史書や薬草書、天文書など、倭では滅多に目にすることのできない貴重な書物も数多く含まれていた。
当初、大年はあまり乗り気ではなかった。兄弟たちが剣を振るい、妖力を競い合う中で、自分だけが机に向かうことにどこか後ろめたさを感じていたのである。
しかし那岐の話は不思議と面白かった。
川が氾濫する理由。星の巡りと季節の関係。遠い異国の船が海を渡れる仕組み。那岐は知識だけを教えるのではなく、その理由や成り立ちまで丁寧に説明した。知らなかったことを理解する喜びを知った大年は、いつしか講義の日を心待ちにするようになっていた。
やがて那岐は須賀の宮で定期的に若者を集め、文字の読み書きから農耕技術、薬草学、医術、天文学、航海術、治水技術に至るまで幅広い知識を教えるようになる。その評判は出雲中に広がり、有力豪族たちも競うように子弟を送り込んだ。
講義の日になると広間には多くの若者が集まった。その中で一人だけ、どこか周囲から距離を置いている少年がいた。
少彦名である。
地方豪族の一族に生まれたものの、生まれつき身体が極端に小さく、幼い頃から好奇の目を向けられ続けてきた。そのため人付き合いを避けるようになり、講義でも常に隅の席へ座っていたが、学問への情熱だけは誰にも負けなかった。
那岐が話し始めると真っ先に身を乗り出し、治水の講義では洪水の原因を掘り下げ、農耕の話では収穫量を増やす工夫を考え、他の若者たちが思いつかないような疑問や意見を次々と口にする。その姿に大年は自然と興味を抱くようになった。
講義が終わったある日、大年は少彦名へ声を掛けた。
「少彦名は本当に物知りだな。今日の話も、私はそこまで考えつかなかった」
しかし少彦名は竹簡から目を離そうとせず、小さく鼻を鳴らした。
「褒めても何も出ないぞ。私は力もないし、見た目もこんなだ。だからせめて学問だけは誰にも負けたくない。それだけだ」
ぶっきらぼうな返事だったが、大年は不思議と嫌な気持ちにならなかった。むしろ、その言葉の奥にある焦りや劣等感が痛いほど理解できたのである。
自分もまた父や兄弟たちのような力を持たず、そのことで悩み続けてきた。だからこそ少彦名の必死さが分かった。
そんな二人の様子を見ながら、那岐は静かに目を細めていた。
少彦名は努力によって知識を掴み取ろうとしている。大年は生まれ持った才覚によって知識を自在に吸収している。道筋は違うが、どちらも並外れた才能を秘めていた。
特に大年の理解力は群を抜いていた。
ある日の講義で、那岐は地面に枝で川の流れを描きながら若者たちへ問いかけた。
「もし大雨で川が溢れそうになったら、皆ならどうしますか」
若者たちは口々に答える。
「堤を高くします」
「土を積んで補強します」
「人を集めて守ります」
どれも間違いではない。
だが那岐が「それだけでは足りません」と告げると、広間は静まり返った。
その時、一人だけ迷いなく手を挙げた者がいた。
大年だった。
「堤を高くし続ければ、決壊した時の被害が大きくなります」
「ほう」
「水を止めるだけではなく、逃がす場所も必要です。ため池や別の水路または川を作り、水を分散させなければなりません」
那岐は興味深そうに頷いた。
だが大年はさらに続ける。
「それに上流の森を切り過ぎれば雨水が一気に流れ込みます。川だけ整えても意味がありません。山や森も一緒に考えるべきです」
その言葉を聞いた瞬間、那岐は目を細めた。
大年は答えを覚えているだけではない。物事の繋がりを理解している。しかも年齢を考えれば異常なほど深く。
それ以降、那岐は意識して大年を観察するようになった。
天文学では、一度教えただけの星々の名前と位置を覚え、翌月には季節との関係まで説明してみせた。航海術では潮の流れと風向きの関係を理解し、自分なりの航路を考え始める。薬草学では薬効だけでなく、どの土地なら育ちやすいかまで考察するようになった。
学べば学ぶほど、大年は知識を吸収し、それを自分の考えへと変えていく。
その姿を複雑な表情で見ている者がいた。
少彦名だった。
生まれつき小柄な体を持つ少彦名は、力では誰にも勝てないことを知っていた。だからこそ学問だけは誰にも負けまいと努力してきたのである。
だが大年は違う。
王の子という優れた血筋を持ち、容姿にも恵まれている。それなのに学問においてまで自分へ迫ってくる。
気に入らなかった。
しかし認めざるを得なかった。
大年には本物の才がある。
那岐もまた、大年の才能を確信していた。須佐之男のような武人ではない。妖力で敵を圧倒する存在でもない。けれど、この子には別の力がある。かつて幼い日巫女と向き合った時に感じた鋭い知性。本質を見抜き、多くの情報を整理しながら答えを導き出す思考力。それと同じものを、大年の中に見出していた。
講義が終わった後、那岐は大年を呼び止めた。
「大年、少し残れますか」
「はい、おじい様」
それ以来、二人だけの授業が始まった。
治水の理論。各地の交易路。遠い大陸の情勢。国を治める者の在り方。那岐は長い人生の中で見聞きした知識を惜しみなく教え、大年もまた目を輝かせながら学び続けた。
分からないことがあれば納得するまで質問し、新しい知識を得ればさらに疑問を見つけ出す。やがて大年は、知ることそのものに喜びを感じるようになっていた。
そんなある日、那岐はふと尋ねる。
「どうして、そこまで学びたいのですか」
大年はしばらく考え込み、それから静かに答えた。
「父上の役に立ちたいんです」
その声に迷いはなかった。
「私は父上のように強くありません。兄上たちのような妖力もありません。でも、だからこそ別の形で父上を支えたいんです」
那岐はしばらく黙っていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「それなら、もっと学ばなければなりませんね」
大年は力強く頷いた。
力では父に及ばない。妖力も持たない。だが知識ならば戦える。知恵ならば人を導ける。その時、大年はようやく自分だけの道を見つけ始めていたのである。
それからの大年は、ますます学問へ没頭していった。夜更けまで竹簡を読み、分からないことがあれば翌朝には那岐へ質問する。その熱意に応えるように、那岐も次々と新しい知識を授けていった。
そんなある日、大年は那岐の前で深く頭を下げた。
「お願いがあります。兵法を学ばせてください」
那岐は少し驚いたように目を瞬かせた。
「兵法ですか」
「私は父上のように戦えません。兄上たちのような妖力もありません。それでも父上の役に立ちたいのです。知恵なら使えます。だから軍を支える学問を学びたいのです」
真剣な眼差しを向ける大年に、那岐はしばらく沈黙した。
兵法書は極めて貴重だった。交易でもなかなか手に入らない代物であり、王や将しか読むことを許されない場合も少なくない。何より兵法は人を生かす知識であると同時に、人を殺す知識でもあった。争いを好まない那岐としては、できることなら教えたくなかった。
しかし、大年の決意は本物だった。
那岐は小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「分かりました。ただし忘れてはいけません。兵法は勝つためだけの学問ではなく、戦わずに済ませる方法を探す学問でもあります。そのことだけは覚えておいてください」
「はい」
大年は力強く頷いた。
それから数年にわたり、那岐は交易のたびに苦労して書物を集めた。正規の方法では手に入らないため、那岐は私財を投じて大漢の通貨を手に入れ、大陸の商人や役人に多額の賄賂を使って、六韜、三略、孫子をはじめとする兵法書や歴史書の写本を手に入れてきた。そのたびに大年の元へ届けられる。
大年は寝食を忘れて読み耽った。兵の動かし方、糧の運び方、地形の読み方、人の心の掴み方……戦に必要なものは剣だけではないと知っていく。外交や補給の重要性も学びながら、戦とは多くの人間と物資が織り成す営みなのだと理解していった。
その姿を、少し離れた場所から少彦名が見つめていた。
少彦名もまた同じ兵法書を手に取り、人知れず読み始める。
やがて講義のたびに答えを競い合い、議論では互いに譲らなくなった。まだ親しいわけではない。それでも二人は知らず知らずのうちに互いを意識し始めていた。
須佐之男は少し離れた場所からその様子を見つめていた。木剣を握っていた頃には見られなかった輝きが、大年の瞳には宿っている。知識を語る時の真剣な表情を見た須佐之男は、ようやく理解した。この子は弱いのではない。ただ、自分とは違う場所で戦う人間なのだと。
やがて、那岐が出雲を離れる日がやって来た。
須賀の宮の港には多くの人々が集まっていた。長く出雲に滞在した那岐は、若者たちに文字や学問を教え、須佐之男の一族にも様々な知識を授けていたため、その旅立ちを見送ろうとする者は少なくなかった。
潮風の吹く桟橋で、大年は静かに那岐を見つめていた。
幼い頃から抱え続けてきた劣等感が脳裏をよぎる。父のような力もなく、兄弟たちのような妖力も持たない自分は、何者にもなれないのではないかと悩み続けてきた。しかし那岐は違った。力ではなく知識を与え、学ぶ喜びを教え、自分にも進むべき道があるのだと気付かせてくれたのである。
「おじい様」
呼びかけると、那岐は穏やかな笑みを浮かべて振り返った。
「どうしましたか?」
「私は……父上の役に立てるでしょうか」
思わず口をついて出た問いだった。須佐之男を支えたい。その思いは強かったが、自分に本当にその資格があるのかという不安も消えてはいなかった。
那岐はしばらく大年を見つめると、そっと頭に手を置いた。
「大年なら大丈夫ですよ。あなたには、あなたの道があります」
優しい声だった。
「力だけが人の価値ではありません。人を導く力もあれば、知識で支える力もあります。私には出来ないことを、あなたは出来るかもしれません」
大年は目を見開いた。
須佐之男の子として生まれてから今日まで、そんな言葉をかけられたことは一度もなかった。胸の奥が熱くなり、込み上げる感情に言葉が出てこない。代わりに深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
それだけを絞り出すのが精一杯だった。
那岐は満足そうに頷くと船へ乗り込み、やがて船はゆっくりと岸を離れていく。大年はその姿が水平線の彼方へ消えるまで見送り続けた。
祖父に認められた。その事実が何より嬉しかった。自分にも進むべき道があるのだと、初めて心から信じることができたのである。
だが、その数日後。出雲へ不穏な知らせが届いた。
暴風雨が海を襲い、多くの船が消息を絶ったという。そして、その中には那岐が乗っていた船も含まれていた。
「何だと……?」
報告を受けた須佐之男は珍しく表情を曇らせた。須賀の宮にも重苦しい空気が流れ、人々は信じられないという顔で顔を見合わせる。
何百年も生き続けてきた那岐が遭難したなど、誰も想像したことがなかった。
大年は一人で海辺へ向かい、荒れた海を見つめた。灰色の雲が空を覆い、冷たい風が絶え間なく吹きつける。その景色を前にすると、那岐から教わった文字や知識、そして自分の進むべき道を示してくれた言葉の数々が次々と思い出された。
「おじい様……」
祈るように呟く。
どうか無事でいてほしい。
大年は遠く筑紫の方角を見つめながら、ただ祖父の生還を願い続けていた。
その頃、海の向こうでは、意識を失った那岐が出雲の別の浜辺に打ち上げられていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
少しでも面白いと感じていただけましたら、感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると励みになります。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




