五章 三輪山 三話 須勢理毘売(すせりひめ)
須賀の宮。須勢理には最近、気になる青年がいた。
大名持天之冬衣の息子、八千矛である。
須佐之男の支配する出雲において、八千矛の立場は決して良いものではなかった。父である天之冬衣はかつて出雲王であったが、今は須佐之男に従う立場となり、八千矛自身も須佐之男の血を引いていない。そのため須佐之男の長男である八島士奴美から何かと雑用を押し付けられ、日々鉄器の製作と運搬に追われていた。
出雲にとって鉄は国を支える重要な資源であり、八千矛は鍛冶場で鉄器を作り続けるだけでなく、完成した品を自ら背負って須賀の宮まで運ばなければならなかった。
須勢理はそんな彼の姿を何度も目にしていた。
夏の日には汗を流し、冬の日には白い息を吐きながら重い鉄器を担いで歩く。誰も労わらず、誰も褒めず、それが当然であるかのように扱われていたが、八千矛は不満ひとつ口にしなかった。運び終えれば静かに頭を下げ、また仕事へ戻っていく。その姿には卑屈さもなければ媚びもなく、ただ黙々と与えられた役目を果たそうとする真面目さだけがあった。
最初はただ目に留まっただけだった。
しかし気付けば須勢理は彼を目で追うようになっていた。朝になると窓辺へ向かい、今日はまだ来ていないだろうかと外を眺める。遠くに八千矛の姿を見つけるだけで胸が軽くなり、宮へ入ってくる姿を見届けると不思議な安心感に包まれる。
その感情が何なのか、須勢理自身もよく分かっていた。
恋だった。
けれど、その想いを誰かに打ち明ける勇気はない。なにしろ父は須佐之男である。出雲最強の王として恐れられる男でありながら、末娘の須勢理に対しては異常なほど過保護だった。
もし八千矛のことを話したらどうなるだろう。
そう考えただけで須勢理は頭を抱えた。須佐之男が怒鳴り声を上げ、宮中を巻き込む大騒ぎになる未来しか思い浮かばない。
「無理……」
机に額を押し付けながら小さく呟く。
それでも翌朝になれば、また窓辺へ足が向いてしまう。そして重い鉄器を担ぎながら歩いてくる八千矛の姿を見つけるたび、胸は嬉しそうに高鳴るのだった。
夕食を終えた須賀の宮は静かな夜に包まれていた。
伊邪那岐は出雲で遭難した際に失った船の代わりとして、須佐之男が新しい小船を造らせており、その完成を待つ間、那岐は宮に滞在していた。縁側に寝転びながら星空を眺めていると、須勢理がどこか落ち着かない様子で隣へ腰を下ろした。
しばらく二人の間に沈黙が流れる。
普段の須勢理なら思ったことをすぐ口にする。こうして言葉を探している時は大抵厄介な相談事だと、那岐には何となく分かっていた。
「どうしたの?」
促されると、須勢理は意を決したように顔を上げた。
「好きな人がいるの」
那岐は小さく頷く。
「仲良くなりたいし、できれば結婚もしたい。でも、お父様には絶対言えなくて……」
そこまで聞いた瞬間、那岐はゆっくりと夜空を見上げた。
八千矛のことだろうとは薄々気付いていた。しかし、それと自分が巻き込まれるかどうかは別問題である。
須勢理は那岐の両手を掴み、懇願してきた
「だから、おじい様からお父様を説得してほしいの」
「えぇ……私に言うの?」
「お願い! おじい様しか頼れる人がいないの!」
よりによって須佐之男の娘である。しかも末娘だ。須佐之男が須勢理をどれほど可愛がっているか、誰よりも知っている。
そんな相手に縁談話を持ち込めと言うのだから、無茶にも程があった。
「須佐之男だよ? あの子が怒ったら面倒だと思うなぁ……」
「お願い!」
「相手は八千矛だよね……となると、もっと面倒だと思うなぁ……」
「お願い!」
須勢理は掴んだ手を離してくれない。
その姿を見ているうちに、那岐は大きくため息を吐いた。
母を早くに亡くした孫娘である。泣きそうな顔で頼まれてしまえば、結局放ってはおけなかった。
「……分かった。話だけはしてみるよ」
本当に! と須勢理の顔がぱっと明るくなる。
嬉しそうに抱きついてくる孫娘の頭を撫でながら、那岐は心の中で静かに覚悟を決めていた。
……須佐之男、絶対に怒るよねぇ。
そう確信しながら。
翌日、須賀の宮の一室では、須佐之男と那岐が朝の茶を飲んでいた。
窓の外からは鍛冶場の槌音が響き、初夏の陽射しが室内へ差し込んでいる。那岐は湯飲みを両手で包みながら、何気ない様子で話を切り出した。
「須勢理も大きくなったね。この前まで子供だったのに、もう立派な娘だもの」
「儂の自慢の娘ですぞ」
須佐之男は満足そうに頷いた。娘の話題になった途端に機嫌が良くなるあたり、相変わらず分かりやすい。
「そろそろ好きな人もできる頃だろうしね」
その言葉に、須佐之男の動きがぴたりと止まった。
湯飲みを持つ手が空中で固まり、しばらく沈黙した後、ゆっくりと顔を上げる。
「……父上、今なんと?」
「だから、好きな人もできる頃だろうって」
「須勢理に想い人がおるのですか」
那岐が小さく頷いた瞬間だった。
「だぁれぇだぁ!!」
轟音のような怒声が須賀の宮を揺らした。
梁がみしりと軋み、廊下を歩いていた侍女が悲鳴を上げる。衛兵たちは何事かと顔を見合わせ、庭の鳥たちは一斉に飛び立った。
那岐は静かに湯飲みを置くと、正面で怒気を撒き散らしている息子を見つめた。
「須佐之男」
「なんですかな父上」
笑顔だった。
しかし額には青筋が浮かび、全身から凄まじい威圧感が漏れ出ている。
「落ち着きなさい」
「もちろん落ち着いておりますぞ。ただ、どこの誰か知らぬ男が須勢理に近づいていると思うと少し気になりましてな」
全く落ち着いていなかった。
今にも宮を飛び出し、その相手を探し始めそうな勢いである。
「須勢理に近づくとは大した度胸ですな。どこの男です?」
「まだ言ってないでしょう」
「でしたら教えてください」
即答だった。
須佐之男の目は戦場で敵を見る時よりも鋭い。
那岐は思わずため息をついた。昨夜、須勢理から相談を受けた時から嫌な予感はしていたが、予想以上だった。
那岐は湯飲みを手にしたまま、難しい顔をしている須佐之男を見つめた。
「須佐之男、そろそろ子離れしなさい。須勢理はもう子供じゃないんだよ。いずれ誰かの妻になるし、王家の娘ならなおさら婚姻は国の行く末にも関わる大事なことだ」
須佐之男は不満を隠そうともせず腕を組んだ。
「それは分かっております。しかし須勢理はまだ若い。急いで嫁がせる必要などないでしょう」
「そう言っているうちに何年も経ってしまうと思うけれどね」
那岐は苦笑しながら言葉を続けた。
「それに今回の相手は悪くないよ。血筋も、人柄も、立場も申し分ない」
「相手とは誰のことですかな」
「八千矛だよ」
その名を聞いた瞬間、須佐之男は沈黙した。
広間の空気がわずかに重くなる。
須佐之男の周囲には目に見えない圧力のようなものが漂い始め、近くにいた衛士たちは思わず背筋を伸ばした。
那岐はそんな様子にも動じることなく話を続けた。
「八千矛は大名持天之冬衣の息子だから血筋に問題はないし、須佐之男の一族ではないから政略的にも都合が良い。真面目で働き者だし、あれだけ冷遇されながら不平一つ言わず働いているのだから、器も小さくないと思うよ」
須佐之男は黙ったまま腕を組んだ。
八千矛のことは知っている。毎日のように鉄器を背負い、汗だくになって須賀の宮へ通う青年だった。能力も人柄も悪くない。むしろ立派な若者と言ってよかった。
だからこそ反論に困る。
相手が怠け者や乱暴者なら一蹴できた。しかし八千矛には目立った欠点が見当たらなかった。
それでも素直に頷けないのは、理屈の問題ではない。
可愛がってきた末娘が他の男の妻になる。その事実を受け入れたくなかったのである。
「父上の言うことは理解できます。しかし、どうにも面白くありませんな」
「それは父親としての感情だろうね」
「当然です。儂の須勢理ですぞ」
「須勢理は君の持ち物じゃないんだけれど」
那岐が呆れたように返すと、須佐之男は不満げに鼻を鳴らした。
しばらく重苦しい沈黙が続いた後、須佐之男は大きく息を吐く。
「……分かりました」
ようやく出た承諾の言葉だったが、その目には納得の色がまるでない。
那岐には分かっていた。
今の須佐之男は八千矛を認めたわけではない。ただ娘の願いと父の説得に折れただけである。
このまま素直に婚姻を許すはずがない。
案の定、須佐之男は腕を組み直しながら低い声で続けた。
「ただし、あの男が須勢理の婿として相応しいかどうかは別の話ですな」
その顔を見た那岐は、八千矛に待ち受ける未来を思い浮かべて小さく苦笑した。
どうやら試練は避けられそうになかった。
翌朝、八千矛は須賀の宮への呼び出しを受けた。王である須佐之男が自ら呼ぶなど滅多にないことだったため、昨日納めた鉄器に不備でもあったのかと考えながら広間へ向かう。そこには須勢理の姿もあった。
八千矛は思わず首を傾げる。須勢理もまた緊張した面持ちで座っており、自分と同じく呼び出された理由を知らないようだった。
広間の上座には須佐之男が腕を組んで座り、その隣では那岐がどこか気まずそうな笑みを浮かべている。
妙な空気だった。
しばらく沈黙が続いた後、須佐之男は二人を見比べるように視線を向けると、八千矛の名を呼んだ。
「八千矛」
「はっ」
八千矛が背筋を伸ばして返事をすると、須佐之男はまるで決定事項を告げるかのような口調で言った。
「須勢理を娶れ」
あまりにも唐突な言葉だった。
八千矛は何を言われたのか理解できず、その場で固まる。須勢理もまた驚きに目を見開き、次の瞬間には顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。
一方の八千矛は頭の中が真っ白だった。
須勢理は出雲王の末娘であり、多くの若者が憧れる姫である。そんな相手との婚姻話が突然降って湧いたのだから、反応できないのも無理はなかった。
広間には気まずい沈黙が流れる。
だが、それを破ったのは須佐之男だった。
「ただし」
低く重い声に、八千矛は反射的に姿勢を正した。須勢理もびくりと肩を震わせる。
須佐之男は腕を組み直しながら二人を見下ろした。その目には先ほどまでとは違う鋭い光が宿っている。
どうやら婚姻を許す気はあっても、無条件で認めるつもりはないらしい。
「条件がある」
その一言を聞いた瞬間、八千矛はようやく理解した。
これは縁談ではなく、須佐之男から与えられる試練なのだと。
「肥河を治めろ」
現在の斐伊川のことである。
須賀の宮にいた者たちが息を呑んだ。
肥河は出雲最大の河川だった。豊かな水をもたらす一方で、ひとたび大雨となれば牙を剥く。増水した川は堤を破り、田畑を呑み込み、村々を押し流してきたため、出雲の民は長年その脅威に苦しめられていたのである。
「堤を築き、氾濫を防げ。それができれば須勢理の婿として認めてやる」
須佐之男の言葉に周囲は静まり返った。誰もが無理難題だと思ったが、八千矛だけは違った。
「承知いたしました」
迷うことなく頭を下げる。
須佐之男は鼻を鳴らした。
「言うのは簡単だ」
「必ず成し遂げてみせます」
八千矛の声に揺らぎはなかった。
その姿を見つめる須勢理の胸は高鳴っていた。八千矛は大名持天之冬衣の息子でありながら、須佐之男の血を引いていないというだけで重労働を押し付けられ、誰からも期待されていない。それでも不満を口にすることなく黙々と働き続ける姿を、須勢理はずっと見てきたのである。だからこそ応援したかったし、何としても成功してほしいと思っていた。
一方で八千矛の胸にも熱いものが込み上げていた。
須勢理が自分を見てくれていた。その事実だけで胸が熱くなった。だが、八千矛が見ていたのはそれだけではない。
須勢理を娶れば須佐之男王の親族となる。今は冷遇されていても立場は大きく変わり、さらに父から大名持の地位を継げれば、その先には出雲王への道すら見えてくる。
誰にも期待されなかった自分が、出雲の頂点に立てるかもしれない。
それは人生を変えるほどの好機だった。
八千矛は拳を握り締める。
どれほど困難な試練であろうと乗り越えてみせる。
須勢理のために。
そして、自らの野心と未来を掴むために。
八千矛は須佐之男から与えられた試練を果たすため、すぐに肥河へ向かった。出雲最大の河川である肥河は普段こそ穏やかに流れているものの、大雨の季節になればたびたび氾濫し、周辺の村や田畑に大きな被害をもたらしていた。
現地を視察した八千矛は、人夫を集めて治水工事に取りかかる。山から木を切り出して杭を打ち込み、土を積み上げながら堤を築いていった。慣れない作業ではあったが、多くの人々の協力もあり、やがて川沿いには立派な堤が姿を現す。村人たちも完成した堤を見上げながら喜びの声を上げ、八千矛自身もこれで洪水を防げるだろうと安堵していた。
しかし自然は人の思惑ほど甘くなかった。
数日後、山々を覆うような大雨が降り続くと、肥河は瞬く間に水量を増していく。濁流は轟音を響かせながら堤へ押し寄せ、やがて一角を崩壊させた。その小さな綻びはあっという間に広がり、激流は人々が積み上げた土砂も杭も呑み込みながら堤を押し流していく。何十日も費やした努力は、わずか半日で跡形もなく消え去った。
それでも八千矛は諦めなかった。崩れた原因を考えながら再び木材を集め、前よりも高く、前よりも厚い堤を築き直す。今度こそ成功するはずだと信じて工事を続けたが、再び訪れた豪雨はその願いを容赦なく打ち砕いた。増水した川は嘲笑うかのように堤を削り取り、完成したばかりの構造物を再び流し去ってしまう。
作り直しては壊れ、壊れてはまた作り直す。その繰り返しだった。季節が過ぎても成果は見えず、八千矛の胸には焦りだけが積み重なっていく。須勢理との婚姻も、須佐之男一族へ迎えられる未来も、さらには父から大名持の地位を継ぐという夢さえも、このままでは手の届かないものになってしまう気がしていた。
大雨が過ぎ去ったある日、八千矛は壊れた堤を見下ろしながら肥河のほとりに立っていた。濁流は何事もなかったかのように流れ続けているが、その足元には砕けた杭や流された土砂が無残に散らばっている。
須勢理は待っている。須佐之男は見ている。八島士奴美は笑っている。失敗すれば、自分はまた鉄を背負うだけの男に戻ることになる。せっかくの機会だというのに結果が出せない。
「どうすればいい……」
途方に暮れて濁流を眺めていると、不意に上流から何かが流れてくるのが見えた。最初は流木かと思ったが、それは小さな舟だった。激しい流れの中を器用に進んできた舟は、やがて八千矛の前で静かに止まる。
舟に乗っていたのは幼子ほどの小さな男だった。だが、その瞳には子供とは思えない鋭い光が宿っている。
小さな男は軽やかに舟を降りると、八千矛を見上げて口を開いた。
「お主が八千矛か」
突然名を呼ばれた八千矛は戸惑いながらも頷く。
「そうだが……」
すると小さな男は満足そうに笑い、胸を張った。
「俺は少彦名」
川風が二人の間を吹き抜ける。
少彦名は不敵な笑みを浮かべたまま言った。
「お主に教えに来た」
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歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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