五章 三輪山 一話 大国主
二世紀後半。
日本海を望む出雲の地では、須佐之男王の支配のもと、開墾と治水、鉄器の生産が盛んに行われていた。かつて海賊が跋扈していた頃の混乱は過去のものとなり、出雲王国は山陰でも有数の勢力へと成長を遂げている。
須賀の宮には人と物が集まり、鉄器、玉、塩、布、干魚、薬草、朝鮮半島から渡ってきた珍しい品々が並んでいた。須佐之男の武威によって外敵は退けられ、天之冬衣の旧臣たちも次第に新たな秩序へ組み込まれていく。
その一方で、王家の内側にはいまだ見えない軋みが残っていた。
八千矛は今日も鍛冶場に立っていた。
彼は大名持天之冬衣の息子である。しかし須佐之男の妻である田心姫の子ではなく、須佐之男の血も引いていない。そのため王家の一員として扱われながらも立場は微妙で、須佐之男やその子らから、心から受け入れられてはいなかった。
表立って追放されることはない。だが、軍を率いる役目や政に深く関わる仕事は与えられず、任されるのは鍛冶、土木、倉の整理、荷運びといった重労働ばかりだった。
とりわけ須佐之男の長男である八島士奴美は、何かにつけて八千矛を使いたがった。
「鉄器が足りぬ。もっと増産しろ」
命令はいつも一方的だった。
何日も炉の熱に晒され、鉄を打ち続け、ようやく完成した工具や、農具の刃も、八千矛自身が須賀の宮まで運ばなければならない。荷車も供も与えられず、重い荷を背負って長い海岸道を歩かされるのだから、誰の目にも嫌がらせと分かる扱いであった。
それでも八千矛は不満を口にしない。
幼い頃からそういう立場で生きてきたため、今さら嘆く気にもなれなかったのである。
この日も、海から吹く風は穏やかだった。
八千矛は大きな袋を背負い、海沿いの道を一人歩いていた。袋の中には数日かけて仕上げた鉄器が詰められている。工具、斧、鎌、鍬の刃。どれも出雲の開拓に必要とされる品ばかりだった。
「今日も遅いと怒鳴られるんだろうな」
苦笑しながら海を眺めていると、浜辺の先に人影が見えた。
波打ち際に、誰かが倒れている。
旅人だろうか。あるいは難破した船の者か。そう思った八千矛は足を速めた。
近づくにつれ、その姿がはっきりと見えてくる。倒れていたのは、十代半ばほどに見える少年だった。長い黒髪が砂浜に広がり、白い肌は陽光を受けて淡く輝いている。衣は濡れ、ところどころ砂に汚れていたが、その整いすぎた顔立ちは少女と見紛うほど可憐で、どこか人離れした雰囲気を漂わせていた。
「おい、大丈夫か」
声を掛けながら近づこうとした、その瞬間。
不意に空気が震えた。
浜辺を吹き抜ける風が、ひやりと冷たさを帯びる。寄せては返していた波音さえ遠のいたように感じられ、夕陽に照らされていた砂浜は薄い靄に包まれた。
まるで現世と幽世の境が曖昧になったかのような静寂の中で、八千矛は足を止める。
気付けば、少年の前に一人の女が立っていた。
半ば透けた身体は淡い光を纏い、風もないのに長い黒髪がゆるやかに揺れている。その姿は人というより、月光が形を得たもののように美しかった。
だが、その女は両手を広げ、自らを盾にするように少年の前へ立ちはだかっていた。
鋭い視線が八千矛を射抜く。
さらに少年の傍らにも光が集まり、もう一人の女が姿を現した。こちらは少年に寄り添うように膝をつき、肩へ手を添えながら静かに八千矛を見上げている。
二人とも美しかった。
しかし、その美しさは人を惹きつけるものではない。神域へ足を踏み入れた時に覚える畏れに近かった。静かな怒り、深い悲しみ、そして何よりも、この少年には決して近づけさせないという強い意志が、その瞳には宿っていた。
八千矛は息を呑む。
この女たちは、この少年を守っている。
本能的にそう理解した八千矛は、敵意がないことを示すように、ゆっくりと両手を上げた。
「待ってくれ」
二人の霊は動かない。
「私は出雲の大名持、天之冬衣の子、八千矛という者だ」
返ってくるのは、鋭い視線だけだった。その視線は心の奥底まで見透かそうとしているようで、思わず身構えてしまうほどの圧力がある。
「傷付ける気はない」
それでも警戒は解けない。前に立つ女は一歩も退かず、もう一人も少年へ寄り添ったまま八千矛を見つめ続けている。
「このまま放っておけば、死んでしまうだろう」
波音だけが静かに響き、重い沈黙が続いた。
やがて少年の前に立つ女が、わずかに視線を落とした。傍らの女も眠る少年へ目を向ける。その仕草は愛おしむようでもあり、別れを惜しむようでもあった。
二人の姿は少しずつ薄れ始める。
それでも最後まで、八千矛から目を離そうとはしなかった。本当に信用してよい相手なのか、最後の最後まで見極めようとしているかのようだった。
「……分かった」
八千矛は静かに頷いた。
「必ず助ける」
その言葉を聞き届けた瞬間、二人の女はわずかに安堵したような表情を浮かべた気がした。
そして次の瞬間、淡い光へと姿を変え、夕暮れの風に溶けるように消えていく。
後には、寄せては返す波の音だけが残った。
まるで何事もなかったかのように、海は静かだった。
それでも八千矛は確信していた。あの二人は最後まで少年を守ろうとしていた。そして、この浜辺で眠る少年が、決してただの旅人ではないことを。
八千矛は少年を背負い上げた。
見た目よりもさらに軽い。身体にはほとんど重みを感じなかった。まるで長い間まともに食事をしていなかったかのような軽さだった。
そのまま自宅へ連れ帰ると、水を飲ませ、濡れた衣を替え、温かい食事を用意して寝床へ寝かせた。しかし少年がすぐに目を覚ますことはなく、夜になっても静かな寝息を立て続けるだけだった。
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てる。
八千矛は揺れる炎を見つめながら、昼間の出来事を思い返していた。
少年を守るように現れた二人の霊。
最後まで離れようとしなかった、あの眼差し。
考えれば考えるほど、この少年が普通の人間とは思えなかった。正体は分からない。それでも、あの浜辺で出会った瞬間から、自分は何か大きな運命の渦へ足を踏み入れてしまったのではないか……そんな予感だけが胸の奥に静かに残り続けていた。
翌朝、差し込む朝日とともに、少年がゆっくりと目を開いた。
「気が付いたか」
八千矛が声を掛けると、少年は身体を起こし、自分が見知らぬ家の中にいることに気付いたらしく、周囲を見回した後、小さく頭を下げた。
「助けてくれたんだね」
声は驚くほど柔らかかった。
「浜辺で倒れていたからな」
八千矛はそう答え、昨夜の出来事を話した。浜辺で少年を見つけたこと。そして二人の女の霊が現れ、少年を守るように立ちはだかっていたことを。
それを聞いた瞬間、少年の目が大きく見開かれる。
「本当に……?」
驚きの声を漏らした少年の表情は、一瞬だけ子供のように輝いた。
しかし次の瞬間には、その瞳に懐かしさと切なさが滲み、どこか遠くを見るような微笑みへと変わる。
「そうか……二人か」
少年は胸元に手を当て、静かに目を伏せた。
「私も、見たかったな」
何百年もの時を越えて誰かを想うような、不思議な響きを帯びた言葉だった。
八千矛には意味が分からなかった。だが、不思議と詳しく尋ねる気にはなれなかった。少年もそれ以上は語ろうとせず、代わりに静かに頭を下げる。
「ありがとう」
柔らかな声だった。
春の陽だまりのような温かさがあり、不思議と人を安心させる響きに、八千矛も自然と笑みを浮かべた。
「礼なら、元気になってからでいい」
そう返すと、少年は少し考え込むように視線を落とし、やがて何かを決めたように顔を上げた。
「それじゃあ、一つお願いしてもいいかな」
「何だ?」
「須賀の宮まで連れて行ってほしいんだ。少し会いたい人がいてね」
穏やかに微笑む少年の表情には、遠い昔を懐かしむような色が滲んでいた。見た目は十代半ばの少年でしかないのに、その落ち着きは長い年月を生きた者のようにも見える。
八千矛は不思議な感覚を覚えたものの、もともと鉄器を納めるため須賀の宮へ向かう予定だったため、特に迷うことなく頷いた。
「構わない。私もちょうど須賀の宮へ行くところだ。困っている者を見捨てるほど薄情でもないからな」
「本当かい。助かるよ」
嬉しそうに微笑む少年に、八千矛は軽く肩を竦める。
「気にするな」
すると少年は目を細め、どこか懐かしむような優しい笑みを浮かべた。
その表情を見た八千矛は、自分でも理由は分からなかったが、この少年とは初めて会った気がしなかった。
八千矛は鉄器を詰めた袋を背負い、保護した少年と共に須賀の宮へ向かっていた。
海から吹く風は穏やかで、少年は隣を歩きながら、時折申し訳なさそうに周囲を見回している。その様子は初めて訪れた旅人というより、帰るはずだった場所へ戻ってきてしまった者のようだった。
「また出雲に戻ってきてしまったね」
ふと少年が呟いた。
その口ぶりには困ったような響きがあった。
「戻ってきた?」
八千矛が尋ねると、少年は少しだけ照れくさそうに笑った。
「うん。つい先日まで須賀の宮にいたんだ。若い人たちに文字や田のことを教えていてね。筑紫へ帰るつもりで船を出したんだけれど、嵐に遭ってしまって……気が付いたら浜に打ち上げられていたんだ」
「文字や田のこと?」
「文字の読み書き、農耕、薬草、医術、天文、航海、治水……そんなところかな。皆、よく学んでくれたよ」
やはり、この少年はただ者ではない。
そう思いながらも、八千矛はそれ以上問い詰めなかった。少年の声があまりにも穏やかで、無理に聞き出すことがためらわれたからである。
やがて巨大な木柵に囲まれた須賀の宮が見えてきた。
門をくぐれば、役人や兵士たちが忙しく行き交い、王の宮らしい活気に満ちている。しかし八千矛の姿を見つけた者たちの表情には、どこか冷ややかな色が浮かんだ。
そして広場の奥から険しい顔で歩み寄ってきた男を見た瞬間、八千矛は小さく息を吐いた。
須佐之男の長男、八島士奴美である。
「八千矛!」
怒声が広場に響き渡り、周囲の人々が何事かと足を止める。
「何日待たせるつもりだ!」
八島士奴美はそのまま八千矛の前まで歩み寄ると、背負われた鉄器の袋を指差した。
「王命で作らせた鉄器だぞ。納めるのが遅れれば、開拓に差し障る!」
八千矛は反論することなく頭を下げる。
「申し訳ありません」
「申し訳ありませんで済むと思っているのか!」
容赦のない叱責が飛び、広場には気まずい沈黙が広がった。
誰も口を挟もうとはしない。兵士も役人も遠巻きに様子を窺っている。こうした光景は珍しいものではなく、八千矛が須賀の宮へ来るたびに繰り返される出来事だったからだ。
周囲から向けられる冷たい視線にも、八千矛は慣れていた。
田心姫の子ではない。
須佐之男の血を引いていない。
ただそれだけで、彼は王家の中で常に半端な場所へ置かれていた。
だから反論することなく頭を下げ続けていたのだが、その時、不意に八島士奴美の声が止まった。
妙な沈黙に気付き顔を上げると、八島士奴美は八千矛の隣に立つ少年を見つめたまま硬直していた。
怒りに染まっていた顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
「……は?」
呆然とした声を漏らした八島士奴美は、少年から目を離せないまま一歩、また一歩と近付いていく。
「ま、まさか……」
声は震えていた。そして次の瞬間、誰も予想しなかった行動を取る。その場に膝をつき、少年を見上げた。
「おじい様……!」
その一言が響いた瞬間、広場は水を打ったように静まり返った。役人も兵士も言葉を失い、八千矛も何が起きたのか理解できないまま立ち尽くす。
そんな周囲の混乱とは対照的に、少年は困ったような笑みを浮かべた。
「八島、そんな大袈裟な」
柔らかな声だった。王族へ向ける威厳も圧力もなく、ただ孫へ話しかける祖父そのものの声音である。
「しかし……船が戻らなかったと聞きました。捜索隊も出しましたが見つからず……」
「ああ」
那岐は少し申し訳なさそうに頭を掻いた。
「途中で嵐に巻き込まれてね。船も壊れてしまったんだ」
周囲がざわめく。
「では、やはり遭難されて……」
「うん。気が付いたら浜に打ち上げられていたよ」
まるで散歩の話でもするような気軽さに、八島士奴美は額を押さえて深いため息を吐いた。
「まったく……皆がどれほど心配したと思っているのですか」
「ごめんね」
那岐が素直に謝ると、怒る気も失せたのか八島士奴美は肩を落とす。そして那岐は隣に立つ八千矛へ視線を向けた。
「でも助かったのは、この子のおかげなんだ。昨日、浜で見つけてくれてね。家まで運んでもらったんだよ」
周囲の視線が一斉に八千矛へ集まる。
「八千矛、本当にありがとう」
真っ直ぐ向けられた感謝の言葉に、八千矛は慌てて首を振った。
「い、いえ……私は当然のことをしただけです」
「それでも助かったよ」
那岐は柔らかく微笑む。その笑顔に、八千矛は戸惑った。八島士奴美から叱責されることはあっても、誰かにここまで真っ直ぐ感謝された記憶などほとんどなかったからだ。
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げる那岐に、八千矛は、
「……いえ」
と答えるのが精一杯だった。
那岐は周囲を見渡し、少し照れくさそうに笑う。
「そういえば、まだ名乗っていなかったね。助けてもらったのに、それでは失礼だったかな」
そう言って一度姿勢を正す。
「私の名は那岐。伊邪那岐だよ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




