四章 出雲王国 八話 八岐大蛇(やまたのおろち)
八岐大蛇の本拠地では、その夜も盛大な宴が開かれていた。
翌朝には奴隷船が韓へ向けて出航する予定となっており、館には各地から奪われた財や酒が運び込まれている。広間には焼いた肉の匂いと酒の香りが充満し、賊たちの下卑た笑い声が絶え間なく響いていた。
「今度の娘どもは上玉ばかりだ」
「韓の商人どもも喜ぶだろう」
「次は西の村を狙うか。まだ隠れている女がいるらしいぞ」
上座に並んだ八人の頭目たちは酒杯を掲げながら好き勝手に語り合っていた。誰もが己の力を疑わず、出雲に敵など存在しないと信じている。
その時、館の衛士が広間へ駆け込んだ。
「大倭壱国の使者殿がお見えです」
「ほう、昼間の連中か」
一人の頭目が面白そうに口元を歪める。
「早く通せ」
やがて広間へ須佐之男たちが姿を現した。昼間に献上された酒や勾玉、丹などの貢物は頭目たちの機嫌を大いに良くしており、八人は上機嫌のまま彼らを迎え入れる。
「酒は気に入ってもらえたようだな」
須佐之男が言うと、頭目たちは豪快に笑った。
「気に入ったとも!」
「なかなか気の利く使者だ」
「今日は宴だ。お前たちも楽しんでいけ」
須佐之男は軽く頭を下げる。
「ありがたい。約束通り、我らの巫女が舞を披露したい」
「ほう?」
頭目たちの視線が一斉に奥の帳へ向けられた。
広間の灯火が静かに揺れる中、帳がゆっくりと開かれる。そこから現れた姿を見た瞬間、広間の空気は一変した。
純白の巫女装束。腰まで流れる艶やかな黒髪。雪のように白い肌。灯火に照らされた整った顔立ちは、まるでこの世の者とは思えないほど美しかった。
那岐だった。
だが、その場にいる誰一人として男だとは思わなかった。
「な……」
「なんだ、あれは……」
「天女か……?」
誰かが思わず呟く。その言葉に反論できる者はいない。頭目たちはもちろん、周囲の賊たちまでもが息を呑み、櫛名ですら目を見開いていた。
旅の間も那岐の容姿は見慣れていたはずだった。しかし巫女装束を纏ったその姿は別格であり、思わず口から感嘆が漏れる。
「き、綺麗……」
一方で須佐之男だけは平然としていた。
「父上だからな」
あっさりと言い放つ。
櫛名は思わず須佐之男を見つめた。
『慣れって恐ろしい……』
やがて那岐は鈴を静かに鳴らした。
澄み渡る音色が広間へ響き、そのままゆっくりと舞い始める。袖は風のように流れ、長い黒髪は水面を撫でるように揺れた。軽やかな足運びには一切の無駄がなく、一つ一つの所作が神への祈りを形にしたかのような神秘性を帯びている。
いつしか広間から笑い声は消えていた。頭目たちは酒杯を手にしたまま見入り、賊たちもまた言葉を失っている。宴の喧騒は消え去り、広間には鈴の音だけが静かに響いていた。
そして誰も気付いていなかった。
この幻想的な舞こそが、八岐大蛇最後の宴の始まりであることに。
舞の最中、那岐は袖を翻しながら妖術で生み出した銀色の粉を静かに宙へ散らしていた。頭目たちには月光を浴びた光の粒が舞っているようにしか見えない。しかし実際には、その粉は風に乗って頭目たちの髪や衣服へと付着し、一人残らず印を刻んでいく。
那岐が全員への印付けを終えた頃には宴は最高潮に達し、酒甕は次々と空になっていた。深酒した頭目たちはすっかり警戒心を失い、舞を眺めながら上機嫌に笑い声を上げている。
やがて舞が終盤へ差しかかると、一人の頭目が席を立った。酒気を帯びた顔には下卑た笑みが浮かび、その様子を見た周囲の者たちも面白がるように囃し立てる。
「その娘をこちらへ寄越せ」
頭目はそう言いながら那岐の腕を掴み、そのまま床へ押し倒そうとした。しかし那岐は抵抗する素振りすら見せず、穏やかな笑みを浮かべたまま袖の内から短刀を抜き放つ。
次の瞬間、銀色の刃が閃いた。
頭目は何が起きたのか理解する間もなく喉を裂かれ、その場に崩れ落ちる。歓声と笑い声に満ちていた宴席は一瞬で静まり返り、凍り付いたような沈黙が広がった。
そして、それこそが須佐之男へ送る合図だった。
須佐之男がゆっくりと立ち上がる。その巨体が席を離れただけで床板が軋み、宴の間にいた者たちは思わず息を呑んだ。酒に酔っていた頭目たちは何が起きたのか理解できず、血を流して倒れる仲間と須佐之男を交互に見比べている。
須佐之男は肩に担いでいた巨大な金棒を握り直し、周囲を見渡した。
「父上は、できるだけ血を流すなと言った。だから最初は大人しくしていたんだがな。どうやらお前たちは話の通じる相手じゃなかったらしい」
その言葉が終わるより早く、金棒が唸りを上げて横薙ぎに振り抜かれた。
轟音が宴の間を揺らし、四人の頭目がまとめて柱や壁へ叩きつけられる。骨が砕ける鈍い音が響き渡り、一瞬にして那岐が討った一人を合わせ、八人いた頭目のうち五人が床へ沈んだ。
「き、貴様ら何者だ!」
「衛兵を呼べ! 全員呼べ!」
「化け物だ!」
怒号と悲鳴が飛び交う中、残る三人の頭目のうち一人が恐怖を怒りで押し潰すように刀を抜き放ち、渾身の力で須佐之男へ斬りかかる。しかし鋭い刃は肩へ触れた瞬間、硬い岩へ打ち付けたような鈍い音を立てて止まり、皮膚一つ裂くことはできなかった。
欠けた刀身を見つめた頭目の顔から血の気が失われる。
「な……何だ……そんな馬鹿な……」
須佐之男は何も答えず、ただ獲物を見下ろす獣のような冷たい眼差しを向けた。頭目はその視線だけで後ずさりし、命乞いを始める。
「ま、待て……。話し合おうではないか。望む物なら何でもやる。金でも女でも、この地の支配権でも……」
「今さらか」
須佐之男は鼻で笑い、ゆっくりと金棒を振り上げた。
「娘を攫い、人を売り、民から奪い続けてきたお前が、自分の番になった途端に命乞いか。虫唾が走るな」
次の瞬間、金棒は頭目を床ごと叩き潰し、館中へ重い轟音が響き渡る。これで六人目。広間には血と肉片が飛び散り、館を支配していた男たちはもはや原形すら留めていなかった。
残る頭目は二人。そのうち一人が青ざめた顔で怒鳴る。
「何をしている! 衛兵を集めろ! 弩を持て! こいつを殺せ!」
怒号を聞いた衛兵たちが次々と広間へなだれ込み、一斉に弩を構えた。数十の矢尻が須佐之男へ向けられる光景は、常人であれば絶望するしかない包囲だったが、当の本人は面倒そうに頭を掻いただけだった。
「撃てぇっ!」
号令と共に弦が鳴り、数十本の矢が一斉に放たれた。
鋭い風切り音を上げながら飛来した矢は須佐之男の身体へ殺到する。しかし次の瞬間、広間に響いたのは肉を裂く音ではなく、硬い岩へ叩きつけられたような金属音だった。
須佐之男の身体を覆う濃密な妖気が盾のように矢を弾き返し、床には折れ曲がった矢が次々と転がっていく。
頭目の顔色が変わった。
「ば、馬鹿な……」
「終わりか?」
須佐之男は失望したように呟くと、ゆっくりと金棒を肩へ担ぐ。
その姿を見た瞬間、頭目はようやく理解した。自分たちが相手にしているのは武人ではない。人の姿をした災厄そのものだった。
広間の隅では櫛名が固唾を呑んで戦いを見つめていた。
目の前で繰り広げられているのは、もはや人と人との争いではない。頭目たちは次々と倒れ、須佐之男の金棒が振るわれるたびに轟音が響き、館そのものが揺れているようだった。飛び散る血、砕ける柱、悲鳴を上げながら逃げ惑う賊たち。その光景は恐ろしく、足が震え、今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。
しかし櫛名は動かなかった。
脳裏に浮かぶのは、これまで賊に連れ去られていった娘たちの顔だった。泣き叫びながら家族と引き離された友人たち。明日には韓へ売られるはずだった少女たち。そして、いつ自分が同じ運命を辿ってもおかしくなかった現実。
櫛名は震える手を胸の前で握り締めた。
「負けないで……」
出会ったばかりの余所者で、乱暴で傲慢なところもある。それなのに娘狩りの賊から自分を救い出し、今も命を懸けて出雲を取り戻そうとしている。その巨大な背中は恐ろしいほど頼もしく見え、気付けば胸の鼓動は恐怖だけでは説明できないものへと変わっていた。
須佐之男が金棒を振り上げるたび、櫛名は祈るような気持ちでその姿を見つめ続けるのだった。
「ま、待て……」
懇願は最後まで続かなかった。
須佐之男が一歩踏み込み、振り下ろした金棒が轟音と共に空気を裂く。
頭目の身体は鎧ごと粉砕され、背後の柱を巻き込みながら吹き飛んだ。壁へ叩きつけられた時にはすでに息絶えており、その惨状を目にした衛兵たちは武器を落として震え始める。
広間に残された最後の頭目だけが倒れた衛兵を突き飛ばし、裏口へ飛び出した。
館の中には静寂だけが残っていた。
須佐之男は金棒を肩に担ぎ、生き残った賊たちをゆっくりと見回す。
「まだ戦うか?」
誰も答えない。武器を握っていた者たちは震える手で剣や槍を落とし、その視線から逃れるように俯いていた。
須佐之男はそんな様子を見下ろしながら、低い声で告げる。
「選べ」
その一言だけで広間の空気が張り詰める。
「このまま死ぬか、俺の配下になるかだ」
賊たちは顔を見合わせた。かつて八岐大蛇の名の下で略奪を繰り返し、人々を恐怖で支配してきた男たちだったが、その頭目たちはすでにほぼ全滅している。そして目の前には、矢も刃も通じない鬼神のような男が立っていた。
一人が耐え切れなくなったように膝をつく。
「お、お従いします……」
その姿を見た別の男も武器を投げ捨てた。
「命だけは……」
やがて広間にいた者たちは次々と頭を垂れ、最後まで立っていた者たちも観念したように跪く。
須佐之男は鼻を鳴らした。
「ならば今日から俺の配下だ。略奪も娘狩りも許さん。従えぬ者は今ここで出て来い」
だが誰一人として立ち上がろうとはしなかった。
那岐は静かに広間を見渡した。砕けた卓や倒れた燭台の間には、討たれた頭目たちが転がっている。
一人。二人。三人。
順に数えながら確認していき、やがて小さく眉をひそめた。
「……七人だね」
須佐之男が振り返る。
「何だ?」
「頭目は八人いたはずだよ」
那岐は周囲を見回しながら続けた。
「倒れているのは七人。残る一人だけが見当たらない」
須佐之男も館の中を見渡した。
「最後の頭目か」
「うん。でも慌てる必要はないかな。舞の時に撒いた銀色の粉が付いているからね。どこへ逃げても見失わないよ」
須佐之男は呆れたように笑った。
「最初から逃げることまで考えていたのか」
「賊の頭なら逃げ道くらい用意していると思っていたからね」
那岐は館の外へ視線を向ける。
「まずは港を押さえよう。船を確保して海を封じる。それから砦を落とす。逃げた頭目も、いずれ兵を集めるはずだから」
穏やかな口調だったが、その言葉に迷いはなかった。
最後の頭目は逃げ延びたつもりでいるだろう。しかし銀色の粉が付着している限り、その居場所は常に把握できる。
どれほど遠くへ逃げようとも、その運命はすでに決まっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
本作には史実や伝承を参考にした部分もありますが、多くの独自解釈や創作を含んでいます。一つの物語として楽しんでいただければ幸いです。
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