四章 出雲王国 七話 使者偽装
その夜、那岐たちは櫛名の家へ泊めてもらうことになった。
家は決して大きくはない。土壁と木で組まれた質素な住まいで、屋根には補修の跡も見える。だが囲炉裏には温かな火が灯り、室内にはどこか懐かしい安らぎが満ちていた。
「こんなものしかありませんが……」
櫛名は申し訳なさそうに頭を下げながら、焼いた魚と粟の粥を並べた。
「十分ですよ。こちらこそ急に押しかけてしまったのですから」
那岐が穏やかに微笑む。
近頃の出雲は賊の横行によって村々も疲弊しており、食料にも余裕がない。そんな状況にもかかわらず温かい食事を振る舞ってくれたこと自体がありがたかった。
囲炉裏を囲んで夕食が始まったが、那岐は向かいに座る須佐之男の様子を見て思わず額を押さえた。今後の相談を始めているにもかかわらず、須佐之男の視線は終始、櫛名へ向いていたのである。
櫛名が魚を取り分ければ見つめ、茶を注げば見つめ、少し微笑めば嬉しそうな顔をする。その分かりやすさに那岐は呆れを通り越して感心するほどだった。
「須佐之男、聞いてる?」
「聞いてるぞ」
「では私が今、何の話をしていた?」
そう問われた須佐之男は口を開きかけたまま固まり、しばらく考えた末に視線を逸らした。
那岐は無言で耳を掴む。
「痛っ! 父上!」
「人の話を聞きなさい」
「痛い痛い! 本当に痛い!」
身の丈七尺近い巨漢が情けない声を上げる光景は妙に滑稽で、櫛名はとうとう堪えきれず吹き出した。
「ふふっ……お二人は本当に仲が良いのですね」
「仲が良いというより、私が振り回されているだけだよ。この子は昔から思い立ったら周りが見えなくなるところがあるから」
「そんなことはない」
「あります」
即座に返された言葉に櫛名はさらに笑い、その明るい声が囲炉裏端に広がった。
その笑顔を見ながら、那岐は胸の奥で小さく安堵する。
初めて出会った時の櫛名は、常に怯えたような表情を浮かべていた。娘狩りに脅かされ、いつ賊が現れるかも分からない日々の中で生きてきたのだから無理もない。だが今は違う。こうして自然に笑い、年頃の娘らしい表情を見せている。
もちろん出雲の現状は何一つ変わっていない。八岐大蛇は今なお力を振るい、人々は恐怖の中で暮らしている。それでも那岐は、この娘だけでもいつか怯える必要のない日々を送らせてやりたいと思った。
囲炉裏の火が静かに揺れる中、那岐は須佐之男と櫛名の顔を見比べる。
もっとも、その須佐之男はというと、相変わらず櫛名ばかり見つめており、先ほど耳を引っ張られた反省など欠片もしていないようだった。
那岐は再び深いため息を吐く。
「まったく……先が思いやられるね」
その呟きに、櫛名の笑い声がもう一度小さく響いた。
囲炉裏の火が静かに揺れ、薪の爆ぜる音が時折小さく響いていた。
夕餉を終えた三人は炉を囲みながら、八岐大蛇をどう討つべきか話し合っている。櫛名の家は決して大きくはなかったが、粗末ながらも温かく、どこか心を落ち着かせる空気があった。
須佐之男は胡坐をかいたまま腕を組み、不満そうな顔で口を開く。
「難しく考えすぎじゃないか。八人いるなら一人ずつ倒していけばいいだろう。俺が順番に叩き潰していけば、そのうち終わる話だ」
その言葉に那岐は静かに首を横へ振った。
「そう簡単にはいかない。一人討てば残りは警戒するし、追い詰められれば必ず逃げる者が出るよ。海へ逃げれば海賊となり、山へ逃げれば盗賊となる。相手はこの土地を知り尽くしていますから、一度姿をくらませれば見つけ出すのは容易ではないよ」
「なら見つけるまで追えばいい」
「その間にも被害は広がるよ。娘は攫われ、船は奪われ、村は脅かされ続ける。私たちの目的は頭目を倒すことではなく、この地に平穏を取り戻すことだよ。だからこそ、出来るなら一度で終わらせたいんだ」
囲炉裏の火を見つめながら語る那岐の言葉に、櫛名は静かに頷いた。長年八岐大蛇の支配に苦しめられてきた彼女には、その意味が痛いほど理解できる。
須佐之男も理屈そのものには納得したらしく、しばらく腕を組んだまま考え込んでいたが、やがて何かを決意したように顔を上げた。
「なら決めた。八岐大蛇を討ったら櫛名を妻に迎える」
あまりにも脈絡のない宣言に、櫛名も那岐も一瞬言葉を失った。
「……え?」
櫛名の頬がみるみる赤く染まり、那岐は思わず目を瞬かせる。
「どうしてそういう話になるんの。まだ討伐も始まっていないでしょ」
「始まっていなくても勝つつもりだ。だったら先に決めておいて何が悪い」
須佐之男は当然のように言い切った。
その自信がどこから来るのか分からず、那岐は額を押さえる。
「そもそも櫛名さんの気持ちを聞いていないよ。結婚というのは一人で決めるものではないでしょ」
「ならこれから聞けばいい」
真顔で返され、那岐はとうとう深いため息を吐いた。
「本当にあなたは……」
言葉を失う父とは対照的に、櫛名は耐え切れなくなったように吹き出した。
「ふふっ……あははっ」
久しぶりに聞く明るい笑い声だった。
須佐之男は何がおかしいのか分からないという顔をしていたが、その様子が余計に可笑しく、櫛名はさらに笑い、那岐もつられるように苦笑を浮かべる。
八岐大蛇の討伐という重い話をしていたはずなのに、気付けば話題は須佐之男の求婚騒ぎへと変わっていた。しかし、そのおかげで張り詰めていた空気は大きく和らいでいる。
櫛名は笑いながら二人を見比べた。豪放磊落な須佐之男と、そんな息子に振り回される穏やかな父。そのやり取りはどこか微笑ましく、恐怖と不安ばかりだった日々をほんの少し忘れさせてくれる。
囲炉裏の火は変わらず静かに揺れ続けていたが、三人の間には先ほどまでにはなかった温かな空気が流れていた。
しばらく沈黙が続いた後、櫛名が思い出したように口を開いた。
「そういえば……明後日、さらわれた娘たちが韓へ送られるそうです」
須佐之男が顔を上げる。
「韓へ?」
「はい。村の人たちが噂していました。八岐大蛇の頭目たちは、若い娘をさらって向こうへ売っていると」
櫛名の声は重かった。
村から消えた娘たちの多くは二度と戻らない。家族たちは泣きながら探し回るが、見つかることはほとんどなかった。
「許せねぇな」
須佐之男が拳を握る。
今にも飛び出していきそうな様子だったが、櫛名はさらに続けた。
「それと……娘たちを船に乗せる前の日は、いつも宴を開くらしいです」
「宴?」
「はい。頭目たち全員が集まって酒を飲むそうです」
その瞬間、那岐の目がわずかに細められた。
「全員が集まるのかい?」
「ええ。八人ともです。村では毎回そうだと言われています」
囲炉裏の薪がぱちりと音を立てる。那岐はそれ以上言葉を返さず、揺れる炎を見つめながら静かに考え込んだ。
娘たちを韓へ送る前夜、頭目たちは祝宴を開き、酒を酌み交わしながら戦利品を自慢し合う。そして、その場には八岐大蛇と呼ばれる八人全員が顔を揃えるという。
須佐之男の案のように一人ずつ討っていけば、誰かが逃げ延びる可能性が高い。海へ逃げ込まれれば再び海賊として現れ、山へ潜まれれば盗賊となって抵抗を続けるだろう。そうなれば戦は長引き、この地の民はいつまでも苦しみ続けることになる。
しかし、八人が一つの場所に集まり、自ら酒を飲んで警戒を緩めるのであれば話は別だった。
那岐は腕を組みながら思考を巡らせる。どうすれば自然に近づけるか、どうすれば疑われずに宴へ入り込めるか、そしてどうすれば八人を一度に討ち取れるか。
やがて頭の中で散らばっていた情報が一つに繋がった。
「……なるほど」
小さく呟いた那岐に、須佐之男がすぐさま身を乗り出す。
「何か思いついたのか?」
「上手くいくかは分からないけれど、試してみる価値はありそうだね」
「だから、その方法を聞いてるんだ」
待ちきれない様子の須佐之男に、櫛名も期待を込めた視線を向ける。
「本当に八人まとめて討てるんですか?」
「可能性はあると思うよ」
那岐はそう答えると二人を見渡し、静かに微笑んだ。
「八岐大蛇を討つ作戦を思いついたんだ」
翌朝、空は雲ひとつない快晴だった。
櫛名の家を後にした一行は、八岐大蛇の本拠地へ向けて出発する。先頭を歩くのは須佐之男で、本来なら討伐に赴く武将である彼も、この日ばかりは大倭壱国を代表する正使として振る舞わなければならなかった。その後ろには従者姿の那岐が続き、さらに数人の護衛が付き従う。しかし、その人数は使節団と呼ぶにはあまりにも少なく、見る者によっては旅の一団としか思えない規模だった。
「本当にこれだけで行くのか?」
須佐之男が振り返ると、那岐は苦笑した。
「兵を大勢連れて行けば警戒されるからね。私たちは戦をしに行くんじゃない。友好を求める使者として訪ねるんだから」
「使者など性に合わん」
「だからこそ頑張って演じるんだよ」
不満そうな須佐之男にそう返しながら、一行は街道を進んでいく。
やがて八岐大蛇の支配領域へ入ると、その異様さはすぐに目についた。行き交う人々の表情には活気がなく、武器を持った荒くれ者たちが当然のように道を歩いている。村人たちは彼らと目を合わせないよう俯きながら足早に通り過ぎており、誰もが怯えながら暮らしていることが伝わってきた。
「気に入らんな」
須佐之男が吐き捨てるように言う。
「だからこそ失敗はできないよ」
那岐は静かに答えながら前方へ視線を向けた。
丘の上には巨大な館が建っている。高い木柵に囲まれたその姿は豪族の館というより小さな城塞に近く、見張り台には武装した兵が立ち、門前にも槍を持つ衛兵たちが並んでいた。
「あれが八岐大蛇の館か」
須佐之男の声には闘志が滲んでいたが、那岐は穏やかな表情を崩さない。
「さあ行こうか。今日から私たちは大倭壱国の使者なんだから」
そうして須佐之男を正使、那岐を従者とした一行は、八岐大蛇の館へと足を踏み入れた。
館へ案内された須佐之男たちは、その規模の大きさに思わず目を見張った。
高い木柵に囲まれた敷地には幾つもの建物が並び、見張り台には武装した兵が立っている。門を守る衛兵たちもまた屈強な男ばかりで、その手には鉄の槍や刀が握られていた。
那岐は周囲をさりげなく観察する。
これまで各地を見てきたが、これほど大量の鉄製武器を目にしたことはなかった。槍の穂先だけではなく刀や斧、さらには鎧にまで鉄が使われている。韓との交易によって鉄資源を得ているという話は聞いていたが、その規模は想像以上だった。
「なるほどね……」
那岐は小さく呟いた。
これだけの武装を整えているなら、出雲王国が押されているのも無理はない。
やがて広間へ通されると、そこには八岐大蛇を名乗る頭目たちのうち数人が待っていた。どの男も豪華な衣を纏い、腕には金や銅の装飾品を下げている。海賊上がりとは思えぬ派手な姿だったが、その眼光には獣のような鋭さがあった。
「大倭壱国の使者だとか」
一人の頭目が値踏みするように須佐之男を見た。
須佐之男は怯むことなく一歩前へ進み出る。
「大倭壱国より参った須佐之男だ。我らは争いではなく友好を望み、この地を訪れた」
堂々とした声が広間に響くと、頭目たちは顔を見合わせながら品定めするように須佐之男たちを眺めた。その視線を受けながらも須佐之男は微動だにせず立ち続ける。
すると那岐が一歩前へ出て護衛たちへ合図を送った。
運び込まれた木箱の蓋が次々と開かれ、中から色鮮やかな勾玉や赤く輝く丹、高価な絹布が姿を現す。さらに丁寧に封をされた酒甕が並べられると、頭目たちの目の色が変わった。
「これは大倭壱国よりの贈り物です」
那岐が恭しく頭を下げると、頭目たちは席を立って品々へ近寄った。
「ほう、見事な勾玉だ」
「この絹も悪くない」
「丹まで持ってきたか」
次々と感嘆の声が上がる中、一際強い関心を示したのは酒だった。
「これは筑紫の酒か?」
「ええ。筑紫でも選りすぐりの品です。王や豪族たちの宴で振る舞われる酒ですよ」
その言葉に頭目たちは満足そうに笑った。
「気に入ったぞ」
「大倭壱国もなかなか気が利くではないか」
「今夜にでも飲んでみたいものだな」
先ほどまで須佐之男たちへ向けられていた警戒の色は薄れ、広間には贈り物を前にした期待と欲望が満ち始める。その様子を静かに眺めながら、那岐は誰にも気付かれないよう小さく微笑んだ。
少なくとも第一段階は、思い描いた通りに進んでいた。
頭目たちへの挨拶と貢物の献上を終える頃には、広間の空気はすっかり和らいでいた。机の上には勾玉や丹が並べられ、とりわけ酒壺へ向けられる視線は隠しようもなく熱い。
「なかなか気が利くではないか」
「大倭壱国とやらも話の分かる国らしい」
頭目たちは満足そうに頷きながら下卑た笑みを浮かべていた。須佐之男はその様子を黙って見つめていたが、握り締めた拳には力がこもっている。今すぐにでも殴り倒したいという感情が見て取れたが、那岐はそんな息子を横目に見ながら穏やかな表情を崩さなかった。
「実は我々には巫女がおります」
那岐の言葉に、頭目たちの目が一斉に輝く。
「ほう、巫女だと?」
「祭祀を司る女か」
予想通りの反応に、那岐は柔らかな口調のまま続けた。
「我が国では神へ祈りを捧げる際、巫女が舞を奉納いたします。せっかく友好を結ぶ機会ですから、よろしければ今宵の宴にて、その舞をお目にかけられればと存じます」
頭目たちは顔を見合わせた後、豪快に笑い声を上げた。
「面白い」
「宴には酒だけでなく華も必要だ」
「ぜひ見せてもらおうではないか」
酒と女を好む彼らにとって断る理由など最初からなかった。那岐が深く頭を下げると、その場で宴への参加はあっさりと決まる。
頭目たちはすでに今宵の宴へ思いを馳せていたが、その様子を見つめる那岐の胸中では別の思考が巡っていた。八人全員が同じ場所へ集まり、警戒心も薄れた状態になる機会など二度と訪れないかもしれない。力で押し潰すよりも、ここで一度に仕留めた方が被害は遥かに少なく済む。
館を後にすると、須佐之男が堪えきれない様子で口を開いた。
「父上、本当にあれでいいのか」
「いいよ」
那岐は微笑みながら歩き続けた。
「力で勝つのは簡単かもね。でも戦は始めるより終わらせる方が難しい。八人を一人ずつ討てば誰かが逃げ、海へ逃げれば海賊になり、山へ逃げれば盗賊になるよ。そのたびに民が苦しむことになるでしょ」
須佐之男は黙ったまま耳を傾ける。
「だから今夜で終わらせよう」
穏やかな声だったが、その決意は揺るがなかった。
夕暮れの空はゆっくりと赤く染まり始めている。やがて訪れる宴の夜に向けて、八岐大蛇討伐の幕は静かに上がろうとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
本作には史実や伝承を参考にした部分もありますが、多くの独自解釈や創作を含んでいます。一つの物語として楽しんでいただければ幸いです。
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最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




