四章 出雲王国 六話 天之冬衣(あめのふゆきぬ)
櫛名から現状を聞き終えた頃には、空は夕暮れ色に染まり、家の中では囲炉裏の火が静かに揺れていた。
「話は分かった」
須佐之男は腕を組んだまま言った。
「なら、その八岐大蛇とかいう連中を片っ端から叩き潰せば済む話だろう」
あまりにも単純な結論に、櫛名は目を瞬かせ、那岐は小さく苦笑した。
「須佐之男、君は本当に昔から変わらないね」
「何だよ」
「相手の数も居場所も分からないのに、いきなり戦いを始めるつもりかい?」
「見つけたら殴ればいい」
「それで済むなら誰も苦労しないよ」
那岐は火の揺らめきを見つめながら静かに首を振った。
「櫛名さんの話だけでは、まだ分からないことが多いんだ。海賊の噂がどこまで本当なのか、出雲王は何をしているのか、本当に国を支配されているのか。まずはその辺りを確かめたい」
「出雲王に会うってことか」
須佐之男は面倒そうに眉をひそめた。
しかし那岐は穏やかな口調のまま頷く。
「うん。国のことを知りたいなら、その国の王の話を聞くのが一番だからね。噂だけで判断してしまったら、私たちも同じ過ちを犯してしまう」
その言葉を聞いた櫛名は、どこか安堵したように表情を和らげた。
「それでしたら、私がご案内します。王都までの道は知っていますし、天之冬衣様の館にも何度か伺ったことがありますから」
「危なくないかい?」
那岐が心配そうに尋ねると、櫛名は迷うことなく頷いた。
「大丈夫です。お二人がいてくださいますから」
そう言って須佐之男へ視線を向けると、当の本人は得意げに胸を張る。
「当然だ。賊が百人いようが千人いようが……」
「だから君は少し静かにしていようか」
言葉を遮られた須佐之男が不満そうな顔をすると、櫛名は思わず吹き出し、那岐も肩を揺らして笑った。
こうして三人は翌朝、出雲王国の王である天之冬衣に会うため、王都へ向かうことを決めるのだった。
櫛名の案内で、一行は出雲王国の中心地へと向かった。
道中でいくつもの集落を目にしたが、そのどれもがどこか精彩を欠いていた。畑は耕されているものの働く人影は少なく、街道を行き交う荷車もまばらで、商人や旅人の姿もほとんど見当たらない。かつては多くの人々が行き交っていたのであろう道には重苦しい静けさが漂っていた。
やがて一行は、出雲王国の大名持・天之冬衣が住まう宮へ到着した。
出雲は山陰でも有数の大国だと聞いていたが、目の前に広がる光景はその印象とは大きく異なっていた。市には店こそ並んでいるものの客足は少なく、魚や穀物を売る商人たちも活気のない表情で品を並べている。
城門を守る兵たちも武具こそ整えていたが、その顔には疲労の色が濃く、警戒よりも義務感だけで立っているように見えた。
周囲を見回していた須佐之男は不思議そうに眉をひそめる。
「本当にここが出雲王国か?」
「私も少し驚いているよ」
那岐は静かに答えた。
長い年月を生きる中で、那岐は衰退していく国を幾度となく見てきた。戦に敗れた国、飢饉に苦しむ国、王が求心力を失った国。その理由は様々だったが、滅びへ向かう国には共通する特徴がある。
人々が未来を語らなくなることだった。
商人も農民も職人も、明日の暮らしを良くしようとは考えず、ただ今日を無事に終えることだけを願うようになる。目の前を歩く人々の表情からは怒りも憎しみも感じられない。ただ先行きへの希望を失った諦めだけが静かに広がっていた。
那岐はそんな町並みを眺めながら、小さく呟いた。
「国が負ける時は、こういう空気になるんだね」
須佐之男は言葉を失った。敵を打ち倒した経験は数多くあっても、国そのものが少しずつ力を失い、人々の心まで蝕まれていく光景を目の当たりにしたことはなかったのである。
町は残っている。民も生きている。それでも出雲という国は確実に追い詰められていた。
遠くに見える宮を見上げながら、須佐之男は苦々しく呟く。
「思ったより厄介そうだな」
その言葉に那岐は苦笑した。
「ようやく気付いたのかい」
出雲の問題は賊を倒せば終わるほど単純ではない。那岐は王宮へ向かいながら、そう確信していた。
案内された宮は、大名持の住まう場所としてはあまりにも静かだった。
高い柵に囲まれてはいるものの、見張りの兵は少なく、櫓の上にも人影はまばらである。門の柱や建物の壁には修繕の跡が幾つも残り、長く続く戦乱と困窮を物語っていた。
須佐之男は周囲を見回しながら鼻を鳴らした。
「本当に大名持の宮か?」
「失礼だよ」
那岐は小声でたしなめたが、自身もまた出雲王国の窮状を感じ取っていた。
「けれど、思っていた以上に厳しい状況みたいだね」
やがて宮の広間へ通されると、上座には一人の男が静かに腰を下ろしていた。
出雲王国を治める大名持、天之冬衣である。
年は四十を幾つか越えているだろうか。肩まで伸びた髪には白いものが混じり、目元には深い皺が刻まれていた。しかし、その姿に衰えは感じられない。静かに座しているだけで周囲を従わせる威厳があり、大名持としての風格も十分に備えていた。
だが、その顔には長年にわたり国を支え続けてきた者だけが持つ疲労の色が滲んでいた。
冬衣はゆっくりと視線を上げると、まず那岐を見て、次に櫛名へ目を向け、最後に須佐之男を見据えた。その瞬間、わずかに目が細められる。
七尺を超える巨体に熊のような体格。そして隠そうとしても隠し切れない圧倒的な存在感。須佐之男がただの旅人ではないことは誰の目にも明らかだった。広間に並ぶ家臣たちも緊張したように身構える。
しかし当の須佐之男は気にした様子もなく立っていた。
しばらく観察していた冬衣は、やがて静かに口を開いた。
「名を聞こう」
那岐は一歩前へ進み、丁寧に頭を下げる。
「私は那岐と申します。そしてこちらは須佐之男。大倭壱国より参りました」
その名が告げられた途端、広間に小さなどよめきが走った。近年急速に勢力を拡大している大倭壱国の噂は、遠く出雲にも届いていたのである。
冬衣は表情こそ変えなかったが、その眼差しは鋭いままだった。
「なるほど」
短く呟いた冬衣は、わずかに身を乗り出した。
「では単刀直入に聞こう」
その一言で広間の空気が張り詰める。冬衣の視線は須佐之男を真っ直ぐ捉えたまま、一瞬たりとも揺らがなかった。
「お前たちは助力に来たのか。それとも、出雲を取りに来たのか」
広間は水を打ったように静まり返る。
冬衣は地図の上に手を置き、静かな声で続けた。
「八岐大蛇を討ってくれるというなら感謝しよう。だが、その後に出雲を手に入れるつもりなら話は別だ。民を守れず、国土の大半を失った私が言えた義理ではないかもしれん。それでも余所者に出雲を奪われるくらいなら、私は最後まで戦う」
その言葉には敗北を重ねながらも国を捨てなかった王の矜持が滲んでいた。
須佐之男は眉をひそめ、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「好きにしろ。俺はまだそこまで考えてない」
あまりにも率直な返答に那岐は思わず苦笑した。
「須佐之男」
軽くたしなめてから、冬衣へ向き直る。
「私たちは、まだ何も決めておりません。まずは真実を知りたかっただけなのです。出雲で何が起きているのか、誰が民を苦しめているのか。そのためにここへ来た」
冬衣はしばらく那岐の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そうか」
完全に警戒を解いたわけではない。それでも那岐の穏やかな物腰と言葉の端々から、少なくとも偽りは感じ取れなかった。
那岐は冬衣の前に広げられた地図へ視線を落とした。かつて出雲王国の支配地だった場所の多くには印が付けられ、その大半が八岐大蛇の勢力圏として塗り潰されている。
その光景を見つめながら、那岐は静かに口を開いた。
「ひとつお聞きしたいことがあります。最近、末盧国や伊都国の船が海賊に襲われる事件が続いています。奪われた荷には韓との交易品も含まれているそうで、筑紫では犯人が出雲王国ではないかという噂まで流れているんです」
その言葉に冬衣の表情がわずかに曇ったが、すぐに首を横へ振った。
「断じて違う。今の出雲に他国を襲う余力などない。そんな力が残っているなら、私はまず自分の国を取り戻している」
その口調には怒りよりも疲労が滲んでいた。
「むしろ被害者はこちらだ」
冬衣は立ち上がると壁に掛けられた地図の前へ歩み寄り、海岸線を指でなぞった。
「海を荒らし、人を攫い、交易路を支配しているのは八岐大蛇と呼ばれる連中だ。元は韓から流れ着いた海賊だったが、長い年月をかけて力を蓄え、今では単なる賊とは呼べぬ存在になっている」
そう言うと、港や砦を示しながら説明を続けた。
「八人の頭目がそれぞれ港と砦を支配し、韓との交易路を掌握している。奴らは海を渡って鉄鉱石や鉄素材を大量に持ち込み、出雲の鍛冶集団まで取り込んで武器を作らせた」
冬衣の声には隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「鉄は力だ。剣や槍を与えられれば人は集まる。奴らはその力を利用して賊や流れ者、行き場を失った者たちを次々と配下へ加え、勢力を広げ続けた。その結果、今では兵を抱え、港から交易を支配し、砦を築いて周辺の地を従わせるまでになっている」
冬衣は拳を握り締めた。
「もはや海賊などという言葉では足りぬ。八岐大蛇は一つの軍事国家として出雲王国と並び立ち、いや、今では我らを押し潰そうとしているのだ」
須佐之男と那岐は地図へ目を向けた。そこには出雲王国の支配領域と、八岐大蛇に奪われた土地が記されていたが、その差は想像以上だった。王の宮が置かれた邑の周辺を除けば、大半の土地が敵の勢力圏に塗り替えられている。
「ここまで押されていたのか……」
須佐之男が思わず呟くと、冬衣は自嘲するように笑った。
「だから言っただろう。出雲に他国を襲う余力などないと。海を荒らしているのは私ではない。この国を食い荒らしているのもまた、八岐大蛇なのだ」
その言葉には、大名持としての無念と悔しさが滲んでいた。
その言葉に須佐之男は腕を組んだまま黙り込み、那岐も静かに地図へ視線を落とした。
目の前にいる敵は、ただの賊ではなかった。海と鉄を支配し、多くの人々を従える巨大な勢力へと変貌していたのである。
冬衣との謁見を終えた三人は、夕暮れに染まる山道を並んで歩いていた。西へ傾いた陽が山々を赤く照らし、長く伸びた影が足元を覆っている。
しばらく無言だった須佐之男は、やがて口元に獰猛な笑みを浮かべた。
「なら決まりだな。八人まとめて叩き潰す」
まるで猪狩りにでも向かうような気軽さに、那岐は思わず苦笑した。
「だから君はすぐ殴ろうとするんだよ」
「だって話を聞いただろ。海賊だの娘狩りだの好き放題やってる連中だ。ぶっ飛ばして何が悪い」
「悪くはないよ。でもね、勝つことと殴ることは同じじゃないんだ」
須佐之男が怪訝そうに眉をひそめると、那岐は穏やかな口調のまま続けた。
「殴るのは簡単だけれど、その後に誰が死ぬのか、どれだけ恨みが残るのか、どれだけ国が荒れるのかまで考えるのは簡単じゃない。八人の頭目を一人ずつ倒して回ることはできても、その間に逃げられれば話は別だ。海へ逃げられれば、海の扱いは相手の方が上だ、山へ逃げ込まれれば何年探しても見つからないかもしれない」
須佐之男は不満そうに唸った。
「面倒だな」
「そうだろう? だからまずは勝てる方法を考えるんだ。できるなら一度で終わらせたいし、余計な血も流したくないからね」
その声には、長い年月を生き、多くの争いと国の興亡を見てきた者だけが持つ落ち着きが滲んでいた。
須佐之男はしばらく考え込んでいたが、やがて観念したように肩を竦める。
「父上がそう言うなら考える」
「うん、偉い偉い」
「子供扱いするな」
「私から見れば、まだまだ子供だよ」
即座に返されると須佐之男は露骨に顔をしかめたが、その様子に那岐は小さく笑った。
そんな息子を横目に見ながら、那岐は夕焼けに染まる空を見上げる。
長い時を生きる中で、多くの国が生まれ、多くの国が滅びていく姿を見てきた。若い頃は理想だけで人を救えると信じていたが、徐福と過ごした日々やその後の数え切れない経験は、善意だけでは救えないものがあり、正しさだけでは守れないものがあると教えてくれた。
そのため近年は他国の争いへ必要以上に関わることを避けてきたが、出雲で目にした現実は、その迷いを許してくれなかった。
娘狩りに怯える人々、奴隷として売られていく者たち、荒廃した村々、そして民を守れないことに苦しみながらも王として耐え続ける冬衣の姿。
那岐は小さく息を吐く。
「あれを見てしまったからね。見て見ぬ振りはできないかな。少なくとも私は」
その言葉に大義名分も英雄気取りもなかった。ただ、自分の心に正直な答えを口にしただけである。
須佐之男はそんな父を横目で見ながら不敵に笑った。
「相変わらず甘いな」
「そうかな」
「そうだ。だから面倒事に首を突っ込む」
那岐は否定せず苦笑した。もしこのまま筑紫へ帰れば、自分はきっと後悔する。そのことだけははっきりと分かっていたからだ。
夕暮れの道の先には、櫛名の村へ戻る道が続いていた。そのさらに先には八岐大蛇との戦いが待っている。
そして那岐の頭の中では、すでに別の考えが芽生え始めていた。
一人ずつ倒して回るのでは遅い。逃がせば長期戦になる。ならば、どうすれば八人を一度に仕留められるのか。
赤く染まる空を見上げながら思案を巡らせる那岐は、まだその策の全貌こそ見えていなかったものの、八岐大蛇との戦いが力だけでは終わらないことだけは確信していた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
本作には史実や伝承を参考にした部分もありますが、多くの独自解釈や創作を含んでいます。一つの物語として楽しんでいただければ幸いです。
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最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




