四章 出雲王国 三話 国外追放
末盧国から帰還した那岐、月読、須佐之男の三人は、休む間もなく大倭壱国の主祭殿へ向かった。
筑紫の中心に築かれた祭祀区画は幾重もの木柵と濠によって守られている。見張りの立つ高い櫓を横目に通り抜けた先には、柱を高く組み上げた巨大な木造建築がそびえていた。
それが大倭壱国の主祭殿だった。
太い柱で支えられた高床の建物は周囲の倉や住居よりも一際大きく、切妻造りの屋根には新しい茅が厚く葺かれている。祭祀と政務を司る国の中心であり、日巫女が神託を下す神聖な場所でもあった。
三人は木の階段を上り、板張りの広間へ足を踏み入れる。
最奥の席には日巫女が座っていた。
その表情は静かだった。しかし、怒鳴り声を上げられるよりも、その静けさの方がよほど恐ろしい。
「報告を」
短く告げられた言葉に促され、月読は末盧国で起きた一連の出来事を語り始めた。
須佐之男が末盧王の子である童海と相撲を取ったこと。真剣勝負を挑まれたこと。そして力を制御しきれず、その結果として童海が命を落としたこと。
月読の説明が終わる頃には、広間を満たしていた空気は張りつめていた。
誰一人として口を開かない。板張りの床に落ちる灯火の揺らぎだけが、静寂の中でかすかに動いている。
日巫女はしばらく須佐之男を見据えていたが、やがて静かに目を閉じる。額に手を当てて小さく息を吐いたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「馬鹿ですか?」
静かすぎる声だった。
その一言に、須佐之男の肩がぴくりと震える。
「あなたは本当に馬鹿ですか!」
次の瞬間、日巫女の怒声が広間に響き渡った。
「何だよ」
「何だよ、ではありません!」
日巫女は机を強く叩いた。
「相手は末盧王の嫡子です。貴方が死なせたのは、ただの若者ではありません。末盧国との関係も、海の交易も、諸国との信頼も、すべてを危うくしたのです」
その言葉は、刃のように須佐之男へ突き刺さった。先ほどまで不満げだった表情が、わずかに揺らぐ。
「向こうが勝負を挑んできたんだ」
視線を逸らしながら、須佐之男はぼそりと反論した。
だが、それは火に油を注ぐだけだった。
「だから殺して良い理由にはなりません!」
「本気を出したら死ぬと警告した」
「なら、最後まで応じなければ良かったでしょう!」
「馬鹿にされたんだぞ」
「馬鹿にされて人を殺す者を、将とは呼びません!」
須佐之男は息を呑んだ。
完全な正論だった。力で押し通すことには慣れていても、この姉の言葉だけは簡単に跳ね返せない。彼は悔しげに奥歯を噛み、やがて何も言えなくなった。
日巫女はしばらく弟を見据えていたが、やがてゆっくりと視線を横へ移した。
その瞬間、那岐は嫌な予感を覚えて目を逸らす。
しかし、当然ながら見逃されるはずもなかった。
「父上もです」
「え?」
「どうしてそんな危険人物を放置していたのですか」
「いや、放置していたわけでは……」
「していました」
即座に切り捨てられた。
「父上は昔から須佐之男に甘すぎます。力が強いから仕方ない、悪気はないから仕方ない、反省しているから仕方ない。そうやって許してきた結果が、これです」
那岐は言葉に詰まった。
反論しようにも、思い当たる節が多すぎた。須佐之男は末の子で、那美が命と引き換えに産んだ子でもある。厳しくしなければならないと分かっていても、どこかで甘くなっていたことは否定できなかった。
隣を見ると、月読はいつの間にか少し距離を取っている。
実に腹立たしい。
「月読」
「何でしょう」
「助けて」
「私は現場で十分働きました。それに、今の姉上を止めるのは無理です」
涼しい顔で言い切る息子に、那岐は心の中で恨み言を並べた。
だが、日巫女の説教はなおも続いた。末盧国への謝罪、諸国への説明、交易路の不安、そして須佐之男の処分。必要なことだけを並べているはずなのに、その一つ一つが重く、須佐之男も那岐も次第に肩を落としていく。
気がつけば、外はすっかり夕暮れになっていた。
ようやく日巫女は深いため息を吐く。
「……処分については後日決定します」
三人は一斉に顔を上げた。
「今日は解散です」
その言葉に須佐之男は露骨に安堵し、月読は何事もなかったかのように立ち上がる。那岐もようやく胸を撫で下ろしたが、これで終わったわけではないことは分かっていた。
むしろ本当の頭痛の種は、ここから始まるのだろう。
そう思いながら退室しようとした那岐の背中へ、不意に日巫女の声が飛んできた。
「父上」
嫌な予感を覚えながら振り返ると、日巫女は実に穏やかな笑みを浮かべていた。
「後で少しお話があります」
その瞬間、那岐は悟った。
須佐之男より先に裁かれるのは、自分かもしれないと。
夜更け。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った主祭殿では、灯火だけが揺れていた。広間の奥では日巫女が一人、竹簡を前に座っている。末盧国への使者の手配、各国への説明、交易路への影響の確認――昼に起きた騒動の後始末は山積みで、女王である彼女には休む暇すらなかった。
やがて板戸が静かに開き、入ってきた那岐の姿を認めると、日巫女は竹簡から顔を上げた。
「父上」
呼びかけに応えるように那岐は向かいへ腰を下ろす。しかし二人の間にはしばらく言葉がなく、静寂の中で灯火の揺れる音だけが耳に届いていた。
先に沈黙を破ったのは日巫女だった。
「さて」
その一言を聞いただけで、那岐は背筋に嫌な汗が流れるのを感じる。
「父上、私に言うべきことがありますわね?」
穏やかな声だった。だが口元には柔らかな笑みが浮かんでいるにもかかわらず、その笑顔が妙に怖い。
「いや、その……」
珍しく言葉を濁す父に、日巫女は逃がさないとばかりに続けた。
「須佐之男のことですわね?」
図星を突かれた那岐は視線を逸らしながら小さく咳払いをした。
「命だけは取らないでやってくれないか。馬鹿な子だけれど、ちゃんと悔いているんだ」
それは父としての願いであり、同時に大倭壱国の女王へ向けた正式な嘆願でもあった。
そんな那岐を見つめた日巫女は、肩の力を抜くように深いため息を吐く。
「父上は優しすぎます」
その声音には呆れと諦め、そしてどこか羨むような響きが混じっていた。そう言いながら机に肘をつき、額へ手を当てた日巫女は、積み上がった竹簡の山へ視線を向ける。
須佐之男が起こした一件は、ただの事故では済まない。末盧国との関係、諸国への示し、そして王族の責任。そのすべてを背負っているのは自分なのだと思うと、頭痛すら覚えるほどだった。
「須佐之男は好き勝手に暴れる」
「月読は面倒になると逃げる」
「父上は二人に甘い」
堰を切ったように不満が溢れ出る。
「皆好き勝手です」
普段、人前では決して見せない表情だった。王として常に冷静であろうとしている日巫女も、今だけは娘としての顔を隠しきれない。
那岐は何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。
「末盧国との関係を修復するのがどれほど大変かわかりますか? あちらは須佐之男の処刑を望んでいるでしょうし、もし戦になれば多くの人が死にます」
言葉を重ねるうちに、その勢いは次第に弱まっていく。
「私は……」
一瞬だけ言葉が途切れた。
「私は国を守らなければならないのです」
それは女王としての責任だった。誰よりもその重さを理解しているからこそ苦しく、父や弟たちを大切に思っているからこそ怒りも大きい。
「皆、好き勝手に問題を起こして……」
日巫女はしばらく何も言わなかった。
ただ、積み上がった竹簡へ視線を落としたまま、灯火に照らされた横顔だけを静かに強張らせている。その顔には、昼間の評議で見せた女王の威厳も、弟を叱りつけた姉の怒りも残っていなかった。あるのは、誰にも弱音を吐けないまま、国の重さを一身に背負い続けてきた一人の娘の疲れだった。
「父上は、いいですね」
ぽつりと零れた声は、思いのほか弱かった。
「須佐之男を叱って、許して、抱きしめることができます。月読が逃げても、呆れて笑うことができます。でも私は……女王です。許したくても、簡単には許せません。怒りたくなくても、怒らなければなりません」
日巫女は小さく息を吐いた。
「弟の命一つ守るにも、末盧国の面目を立て、諸国への示しを考え、戦にならぬよう道を探さなければならない。私は姉なのに、ただ姉でいることすらできないのです」
那岐は何も言わなかった。
言えば、かえって娘の苦しみを軽く扱ってしまう気がした。だからただ黙って、その言葉を受け止める。
「皆、私を日巫女と呼びます。神の声を聞く女王だと、国を導く者だと」
日巫女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、怒りではなく、押し殺してきた寂しさが揺れていた。
「今夜だけで構いません。女王ではなく、姫として眠らせてください」
那岐は何も言わず娘を見つめていた。愚痴を吐き出し終えた日巫女も黙り込み、部屋には揺れる灯火だけが静かな影を落としている。しばらく思案するように視線を伏せていた日巫女だったが、やがて小さく息を吐き、静かに口を開いた。
「わかりました。須佐之男の命は取りません」
その言葉に那岐は安堵したように顔を上げたが、日巫女はすぐに続ける。
「ですが条件があります」
「何かな?」
嫌な予感を覚えながら尋ねると、日巫女は至って真面目な顔のまま答えた。
「今夜は添い寝してください」
「……はい?」
あまりにも予想外の条件に那岐は固まる。
「交換条件です」
「いや、それとこれとでは話が違うだろう」
「交換条件です」
一切の譲歩を認めない口調だった。
那岐は思わず額を押さえ、何とか逃げ道を探そうとする。
「忍穂耳と遊びたいんだが」
「昼に遊んでください」
「孫と一緒に寝る方が……」
「駄目です」
即座に却下された。
腕を組んだ日巫女はじっと那岐を見つめる。
「父上は約束を破るのですか?」
「いや、破らないが……」
「では決まりです」
有無を言わせぬその口調に、那岐は諦めたように天井を見上げた。須佐之男の命は助かったものの、代わりに自分が捕らえられたような気分である。
そんな父の様子を見て、日巫女はわずかに口元を緩めた。その表情は大倭壱国を率いる女王のものではなく、幼い頃から父に甘えていた娘そのものだった。むしろ、須佐之男の処分よりもこちらの方が最初から本命だったのではないかと、那岐は密かに疑うのだった。
夜も更け、主祭殿の奥には静かな闇が広がっていた。
灯された油皿の炎がゆらゆらと揺れ、その淡い光が室内を柔らかく照らしている。
寝台には日巫女が横になり、その傍らには那岐が腰を下ろしていた。昼間、人々の前で見せる威厳ある女王の姿はそこにはなく、今の彼女はただ父の前で気を許した一人の娘だった。
那岐は苦笑しながら、長く伸びた娘の髪をそっと撫でる。
「まったく……お前も大人になったと思ったら、こういうところは昔と変わらんな」
日巫女は目を閉じたまま小さく鼻を鳴らした。
「父上だからです。皆の前でこんなことはしません」
「それはそうだ。見せられないな」
思わず那岐は笑った。
幼い頃からそうだった。人前では気丈に振る舞いながら、二人きりになると途端に甘えん坊になる。
那美が亡くなったあの日から、姫は泣き言を口にしなくなった。まだ五つの子供だったにもかかわらず、幼い月読の手を引き、赤子だった須佐之男の世話をしながら必死に笑っていたのである。その姿が痛々しくて、那岐は何度も胸を締め付けられた。
しばらく沈黙が続いた後、日巫女がぽつりと呟いた。
「私は……ちゃんとできているのでしょうか」
那岐は娘へ視線を向ける。
祭祀を司り、国を治め、多くの者を導く女王。人々は神にも等しい存在として崇めているが、本人は今も迷い続けていた。
「ちゃんとって、何のこと?」
「全部です」
日巫女は弱々しく微笑む。
「須佐之男のこともありますし、とても上手く国を導けているようには思えません。私は本当に良い王なのでしょうか」
那岐は少しだけ考えた。しかし答えは最初から決まっている。
そっと娘の頭へ手を置いた。
「立派な女王だよ。どこの国の王にも負けやしない」
日巫女の肩がわずかに震える。
「そうでしょうか」
「ああ。姫は誰よりも国のことを考えているし、誰よりも人のことを考えている。だからこそ苦しむんだ」
日巫女は何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。
「完璧な王などいない。悩みながら進むから王なんだ」
那岐は優しく微笑む。
「私は姫を誇りに思う」
「姫ではなく、日巫女ですわ」
「私の自慢の娘だよ」
その言葉を聞いた瞬間、日巫女の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
人前では決して見せない涙だった。
「……ありがとうございます」
それは女王の声ではなく、父に褒められた娘の声だった。
那岐は何も言わず、ただ優しく髪を撫で続ける。
やがて日巫女の呼吸はゆっくりと穏やかになり、その表情から張り詰めていた力が少しずつ抜けていった。安心しきった寝顔は、幼い頃に那岐の腕の中で眠っていた頃と何も変わらない。
その姿を見つめながら、那岐は小さく笑った。
「本当に大きくなったな」
そう呟きながらも、彼の目には昔のままの娘に映っていた。
静かな夜はゆっくりと更けていく。
その夜だけは、日巫女は女王ではなく、一人の娘として安らかな眠りについた。
翌朝、主祭殿の評議の間には重苦しい空気が漂っていた。
中央の高座には日巫女が座り、その左右には有力な長たちが並んでいる。末盧国との外交問題はすでに各地へ伝わっており、須佐之男にどのような処分が下されるのか、誰もが固唾を呑んで見守っていた。
当の本人は不機嫌そうに腕を組んだまま座っている。
日巫女は静かに一同を見渡した後、弟へ視線を向けた。
「須佐之男。あなたは末盧国王の嫡子である童海を死なせました」
須佐之男は黙ったままだった。昨日ほどではないものの、その表情には反論の色はなく、自らの過失を理解していることだけは伝わってくる。
「故意ではなかったことも、本人が反省していることも理解しています。しかし結果として、一歩間違えれば末盧国との戦争に発展していました」
その言葉に評議の間は水を打ったように静まり返った。
「よって処分を申し渡します」
須佐之男がゆっくりと顔を上げる。
「近ごろ、韓へ向かう船が相次いで襲われ、末盧国や伊都国の不満も高まっています。海賊の背後に出雲王国がいるという噂も、すでに諸国へ広がりつつあります」
日巫女は一度、評議の間を見渡した。
「出雲への遠征を命じる」
ざわりと場が揺れた。
だが日巫女は構わず言葉を続ける。
「あなたには出雲王国方面へ赴き、海賊の正体を突き止め、必要であれば討伐、あるいは懲罰を与えなさい。そして今回の騒動が沈静化するまで、筑紫への帰還を禁じます」
須佐之男は眉をひそめた。
「厄介払いか」
「違います」
日巫女は即座に否定した。
「これはあなたへの処分です。異論は認めません」
須佐之男は不満そうに舌打ちしたものの、それ以上は何も言わなかった。
日巫女はさらに列席者たちへ向き直る。
「末盧国には正式な謝罪使を派遣し、須佐之男を国外追放処分としたことを伝えます。これにより末盧国の面目も立ち、我々の責任も明確になります」
日巫女は評議の間に集まった長たちを静かに見渡した。
「須佐之男を無罪とすれば、末盧国は我らを侮るでしょう。反対に死罪とすれば、今度は大倭壱国の内に禍根を残します。いずれも国を損なう道です」
広間に沈黙が落ちる。
「ならば、須佐之男には筑紫から距離をとらせます。末盧国には追放処分と伝え、我らが身内の罪を軽んじぬことを示す。同時に、出雲方面で頻発する海賊行為を調べさせ、必要であれば討たせます」
日巫女は須佐之男へ視線を向けた。
「これは罰であり、任務です。末盧国の面目を立て、大倭壱国の実利も得るための処分です」
やがて評議は異を唱える者はなく、外交問題はひとまず収束する。
評議が終わると人々は次々と退出し、広間には日巫女、須佐之男、そして那岐だけが残された。
須佐之男は立ち上がり、小さく息を吐く。
「出雲か……」
その声には悔しさと不満が滲んでいた。
だが日巫女は冷ややかな視線を向ける。
「少しは頭を冷やしてきなさい」
「姉上は相変わらず厳しいな」
「あなたが相変わらず馬鹿だからです」
須佐之男は肩をすくめて苦笑した。そのやり取りを見ていた那岐も思わず苦笑を漏らす。
こうして須佐之男の国外追放は正式に決定した。
しかし、この場にいる誰も知らない。出雲への追放が、後に須佐之男を出雲王へと押し上げる運命の旅路の始まりになることを。
翌朝、港は出航の準備で慌ただしい空気に包まれていた。
須佐之男の追放は決まったものの、それは同時に出雲への派遣を意味している。船着き場では船員たちが掛け声を上げながら荷を運び、船倉には米や干し魚、塩、布、工具など旅に必要な物資が次々と積み込まれていた。
「それも積んでくれ。そっちは奥に」
忙しなく指示を飛ばす那岐の姿は、国外追放される息子を送り出す父親というより、新天地へ旅立つ家族のために荷造りをしているようにしか見えなかった。
そんな様子を見ていた須佐之男が呆れたように肩を竦める。
「父上、積み過ぎだろ」
「馬鹿なことを言わない。知らない土地へ行くんだよ。食べられる時に食べておくんだ」
「国外追放に見えないぞ」
「追放だからこそ困らないようにするんだ」
当然のように言い切る父へ、須佐之男は苦笑するしかなかった。
その時、背後から聞き慣れた声が響き、振り返った那岐は腕を組んで立つ日巫女の姿を見て思わず苦笑した。
「父上も相変わらずですね」
「見つかったか」
「見つからないと思っていたのですか?」
呆れたような視線は、そのまま船へ向けられる。
「食料だけならともかく、着替えや寝具まで積み込んでいましたもの。どうせ父上も同行するのでしょう?」
図星を突かれた那岐は観念したように頭を掻いた。
「少しだけね。出雲の様子も、この目で見ておきたかったんだ」
「少し、ですか?」
深いため息を吐いた日巫女だったが、その表情に本気の怒りはない。
「だから準備しておきました」
従者たちが運んできた木箱の蓋が開かれると、中には青く磨かれた勾玉や丹、装飾品などの高価な品々が整然と納められていた。
「貢物にしてください。困った時は売っても構いません」
思わぬ餞別に那岐は目を丸くしたが、日巫女は視線を逸らしながら続ける。
「どうせ止めても行くのでしょう。それなら最初から役に立つ物を持って行った方が良いではありませんか」
女王らしく理性的な言葉だったが、その裏にある娘なりの気遣いは隠しきれていなかった。
「ありがとう」
那岐が静かに礼を言うと、日巫女は少しだけ照れたように咳払いをした。
日巫女はなんだかんだ那美に似ていた。那岐の脳裏に焼き付いている亡き妻の言葉。
『この子たちを守って……姫を、月読を、須佐之男を……その先に生まれる子たちも』
『わかっているよ、那美。任せてくれ』
その時、人混みの向こうから「じいじ!」という元気な声が響き、忍穂耳が小さな体で一目散に駆け寄ってきた。
那岐は思わず顔を綻ばせ、勢いよく飛び込んできた孫を抱き上げる。
忍穂耳は日巫女と大倭壱国連合に組する豪族の長との間に生まれた子である。日巫女は立場上、婚姻をせず、豪族との間に子を儲けていた。
「どこ行くの?」
「少し遠くだよ」
「いつ帰ってくる?」
「しばらく先かな」
不満そうに頬を膨らませる孫の頭を優しく撫でながら、
「母上を困らせるなよ。よく食べて、よく寝るんだぞ」
と告げると、忍穂耳は元気よく頷いた。
やがて出航の合図が響き、船員たちが綱を解き始める。
那岐は最後に孫の頭をひと撫ですると船へ乗り込み、須佐之男もまた甲板へ上がった。ゆっくりと岸を離れていく船を、岸壁に立つ日巫女と天忍穂耳が見送っている。
忍穂耳は両手を大きく振り続け、その隣では日巫女が女王らしく静かに立っていたが、その瞳には僅かな寂しさと心配が滲んでいた。
那岐は懐に収めた勾玉へそっと触れながら小さく笑う。昨夜は散々愚痴を聞かされたが、この餞別には娘なりの優しさが詰まっているのだろう。
船首では須佐之男が遥か北東の海を真っ直ぐ見据えていた。その先にあるのは海賊の噂が絶えず混乱の続く出雲の地。白波を切り裂きながら船は静かに進み、こうして須佐之男と那岐の運命を変える旅が幕を開けるのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
本作には史実や伝承を参考にした部分もありますが、多くの独自解釈や創作を含んでいます。一つの物語として楽しんでいただければ幸いです。
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