四章 出雲王国 二話 末盧国騒動(まつろこく)
沖ノ島で海の安全を祈る儀が行われていた頃、末盧国では別の騒動が起ころうとしていた。
筑紫を中心とした交易網は年々広がりを見せ、とりわけ海路の発展は目覚ましかった。壱岐や末盧国を経由して大陸との往来も盛んになり、韓との交易船が増える一方で、近年は海賊による襲撃も報告されるようになっている。
その海を学ぶため、須佐之男は末盧国へ修行に赴いていた。
幼い頃から武勇に優れた須佐之男は、成人後には幾度もの戦で功績を挙げ、大倭壱国でも屈指の将として名を知られる存在となっていた。しかし本人はそのことに満足していなかった。
「海を知らねば国は守れぬ」
そう言い出したのは須佐之男自身だった。
四方を海に囲まれた倭において、船を操り、海を理解することは武だけに劣らぬ力となる。特に近年は韓との交易船が増える一方で、海賊による襲撃も報告されるようになっていた。
海を制する者が国を制する……それは父である那岐からも幾度となく聞かされてきた言葉である。武勇と航海術は別物だった。
「馬鹿者! 帆を張る順が逆だ!」
「綱を引くなと言っただろうが!」
「お前は船を壊す気か!」
船頭たちの怒号が港に響く。
須佐之男は巨大な体躯を持ち、その怪力は並ぶ者がいない。櫂を握れば一人で数人分の力を発揮し、荷揚げをさせれば誰よりも早かった。
だが船というものは力だけで動かすものではない。
風向き、潮流、帆の角度、船体の傾き。
わずかな判断の違いが命取りになる世界だった。
須佐之男が綱を強く引きすぎれば帆柱が軋み、舵を切りすぎれば船体が大きく傾く。船頭たちは何度も頭を抱え、そのたびに怒鳴り散らした。
「力加減を覚えろ!」
「だから力任せにするな!」
「お前は熊か!」
船上に笑いが起こる。
須佐之男は不機嫌そうに舌打ちしたが、反論はしなかった。悔しいことに船頭たちの言うことは正しいのである。戦場なら敵を殴り倒せば済む話だが、海はどれほど力を振るっても従わない。その事実が須佐之男にはどうにも歯痒かった。
それでも数か月が過ぎた頃には、帆の扱いや船の動きにも少しずつ慣れ始めていた。荒々しい気性は相変わらずで、失敗するたびに船頭たちから怒鳴られることもあったが、当初のような険悪さは薄れ、互いに要領を掴み始めている。
「まあ、最初よりはましになったな」
「船を沈めなくなっただけ進歩だ」
そんな評価ではあったが、須佐之男にとっては上々だった。皮肉交じりの言葉の裏に、自分がようやく船乗りとして認められ始めていることを感じ取っていたのである。
末盧王もまた、その努力を好意的に見ていた。
大倭壱国との同盟は末盧国にとって極めて重要だった。須佐之男自身も大倭壱国王家の一員であり、その名は近隣諸国にも広く知られている。気性こそ荒く騒動を起こすことも少なくなかったが、裏表のない豪放な性格は漁師や船乗りたちから好まれており、末盧国でも歓迎する声は多かった。
そこで末盧王は、須佐之男をもてなすと同時に両国の親睦を深めるため、親睦の宴と力比べの場を設けることにした。
祭りの日、港近くの広場には朝から大勢の人々が集まっていた。岸壁には色とりどりの旗が掲げられ、海から吹く潮風がそれらを大きくはためかせている。漁師たちは酒樽を囲んで杯を交わし、商人たちは露店を並べ、子供たちは歓声を上げながら人波の間を駆け回っていた。
若者たちは力比べや腕自慢に興じていたが、その中でもひときわ人々の注目を集めていたのが相撲の場だった。砂を固めて作られた土俵では、末盧国自慢の若者たちが次々と勝負を繰り広げ、相手を押し出すたび、投げ倒すたびに歓声とどよめきが沸き起こる。
「そこだ押せ!」
「腰が高いぞ!」
「投げろ!」
須佐之男もまた見物席に腰を下ろし、豪快に酒を飲みながらその様子を眺めていた。船頭たちに誘われて来たものの、今日は航海修行の合間の気晴らしとして見物しているだけで、自ら参加するつもりはない。力自慢たちの取組を見るたびに笑い声を上げ、ときには勝者へ惜しみなく拍手を送る。その姿に周囲の漁師や船乗りたちも気安く声をかけ、会場は終始和やかな空気に包まれていた。
まさかこの祭りが、後に大倭壱国と末盧国を揺るがす大騒動の始まりになるとは、この時まだ誰一人として想像していなかった。
やがて祭りが最高潮を迎える頃には、浜辺に面した広場は身動きも難しいほどの人で埋め尽くされ、土俵へ向けられる人々の視線はさらに熱を帯びていく。そして、その熱気の中を割るようにして、一人の若者が土俵へ姿を現した。
「童海様だ!」
「童海様が来たぞ!」
歓声とともに群衆が左右へ割れ、その間を堂々と歩いてきたのは末盧王の嫡男・童海だった。若者は周囲の視線を当然のものとして受け止めながら、土俵へ向かって進んでいく。
二十歳を少し過ぎたばかりの若者だったが、その身体は鍛え抜かれており、末盧国でも屈指の力自慢として知られていた。若者たちの憧れの存在でもあり、童海が相撲場へ姿を現すと、たちまち歓声が湧き上がる。
「今日は我が末盧国最強の力を見せてやろう!」
「おおっ!」
「童海様だ!」
観衆の熱狂を受けながら、童海は満足そうに腕を組み、さらに声を張り上げた。
「末盧に敵う者はおらぬ!」
若者たちが再び歓声を上げる中、童海の視線がふと人垣の向こうで止まった。
そこにいたのは須佐之男だった。
頭一つどころか二つは抜ける巨体は、人混みの中にいても隠れようがない。異様な存在感を放つその姿を見つけた童海は、面白そうに目を細める。
「そういえば聞いたことがある」
ゆっくりと須佐之男を指差した。
「大倭壱国には巨人がおるとな」
その言葉に周囲の視線が一斉に須佐之男へ集まり、船頭たちは嫌な予感に顔を引きつらせた。
童海は須佐之男を見据えながら口元を歪める。
「貴様がそうか」
「だったらどうした」
童海は土俵の中央へ進み出た。
「その力、本物か試してやろう。降りてこい」
須佐之男は眉をひそめた。
「やめておけ。俺が本気を出せば、お前は死ぬ」
広場の空気が凍りついた。
勝つとも負けるとも言わず、死ぬと告げた。その言葉は童海にとって、挑発ではなく侮辱だった。末盧国最強を自負する自分が、勝負の相手としてすら見られていない。そう受け取った瞬間、童海の顔から笑みが消えた。
「……逃げるのか」
「そう思いたければ勝手に思え」
須佐之男は立ち上がることもなく、酒を置いただけだった。その無関心な態度が、童海の怒りをさらに煽る。
「大倭壱国の男は口だけか。図体ばかり大きい腰抜けめ」
取り巻きたちが一斉に笑い声を上げた。
「逃げるのか!」
「大倭の巨人も大したことないな!」
「所詮は女王の威を借るだけの男か。姉の影に隠れて震えておれ」
嘲笑が広場を満たしていく。
それでも須佐之男は黙っていた。だが、近くにいた船頭たちだけが顔を強張らせる。
「おい、やめろ……」
「まずいぞ」
須佐之男を知る者たちは、その沈黙の意味を理解していた。怒鳴り返しているうちはまだいい。本当に危険なのは、何も言わなくなった時である。
童海はそれに気付かず、さらに一歩踏み出した。
「それとも、本当に力がないのか?」
その一言で、須佐之男の中の何かが静かに切れた。
須佐之男はゆっくりと立ち上がった。周囲の笑い声がぴたりと止む。七尺の巨躯が土俵へ影を落とした瞬間、先ほどまで童海を囃し立てていた者たちの喉からも声が消えた。
須佐之男は童海を見下ろし、低く告げる。
「……後悔するなよ」
そのまま土俵へ上がると、広場は再び歓声に包まれた。
「やれ!」
「童海様!」
「叩きのめせ!」
だが、その様子を見ていた船頭たちだけは顔面蒼白だった。
「終わった……」
「童海様……」
土俵の中央で二人が向かい合う。童海は勝利を疑っていなかった。体格差こそあれ、相撲の技術なら負けるはずがないと信じていたのである。
やがて開始の合図が鳴った。
「おおおおおっ!」
童海は獣のような勢いで踏み込み、低い姿勢のまま須佐之男の懐へ飛び込んだ。その動きは力比べに慣れた者として見事なものだったが、須佐之男の身体は理性より先に反応していた。
それは幾度も戦場を駆け抜ける中で刻み込まれた生存本能だった。勢いよく間合いへ飛び込んでくる敵は迎え撃ち、懐へ入られる前に叩き潰す。敵兵や賊、妖獣との死闘を重ねる中で身についた習性が、無意識のまま身体を動かしていたのである。
須佐之男が反射的に腕を伸ばした瞬間、その手が童海を捉えた感触とともに背筋を冷たいものが走った。
『まずい』
そう気付いた時にはすでに遅かった。
轟音が響き、童海の身体は弾かれたように宙を舞う。そのまま数間先の地面へ激しく叩きつけられると、先ほどまで歓声に包まれていた広場から音が消えた。
須佐之男は伸ばした腕を中途半端な位置で止めたまま立ち尽くしていた。何が起きたのか理解できないわけではない。ただ理解したくなかっただけだった。
今の一撃は相撲ではない。勝負ですらない。戦場で敵を殺すために染み付いた動きが、自らの意思とは無関係に放たれた結果だったのである。
「童海様!」
「しっかりしてください!」
何度呼びかけても返事はない。震える手で首筋へ触れた近習の顔はみるみる青ざめ、絶望に染まっていった。
「……童海様」
掠れた声が静寂の中へ落ちる。
「亡くなられている」
その言葉を聞いた瞬間、須佐之男の顔から血の気が引いた。
敵を討った時のような達成感はない。戦場で倒した敵兵とも違う。今、自分が死なせたのは、自らを歓迎し、友として迎えてくれた国の王子だった。
挑発に乗ったのは自分だった。怒りを抑えられなかったのも自分だった。そして何より、自らの力を制御できなかった。
その事実だけが、重い鉛のように胸へ沈んでいく。
「……俺は」
掠れた声が漏れる。
だが、その先の言葉は続かなかった。
静寂が破られたのは、一人の悲鳴だった。
「童海様ぁ!」
近習の絶叫が広場に響き渡った瞬間、人々はようやく目の前で起きた出来事を理解した。
末盧王の嫡男、童海が死んだのである。
「殺したぞ!」
「童海様を殺した!」
「大倭の男が童海様を!」
怒号が四方から噴き上がり、先ほどまで祭りを楽しんでいた群衆は一瞬で怒りに染まった。若者たちは拳を握り締め、漁師たちは手近な棒や櫂を掴み、童海に近しい者たちは涙を流しながら叫ぶ。
「仇を取れ!」
「殺せ!」
興奮した男が槍を手に前へ踏み出すと、それを合図にするかのように武器を取る者が次々と現れた。
一方、須佐之男はその場に立ち尽くしていた。
青ざめた顔で足元の童海を見つめる。勝負の最中に殺すつもりなどなかった。本当に力加減を誤っただけだった。しかし、どれほど後悔しても死者は戻らない。その現実が重く胸にのしかかっていた。
その時、港の方角から怒鳴り声が響いた。
「須佐之男様!」
異変を聞きつけた大倭壱国の従者たちが駆け付けてきた。彼らは倒れ伏す童海と殺気立つ群衆を見た瞬間、事態を察した。
「まずいぞ……」
「囲まれる」
従者たちは即座に須佐之男の前へ出て壁を作った。だが末盧国側も引かない。童海の護衛たちが槍を構え、怒りを隠そうともせず叫ぶ。
「その男を渡せ!」
「童海様の仇だ!」
それに対し、大倭壱国の従者たちも武器へ手を伸ばした。
「ふざけるな!」
「我らの将を渡せるか!」
両者は睨み合ったまま、誰一人として退こうとしなかった。
末盧国の兵たちは童海を殺された怒りに燃え、大倭壱国の護衛たちは王族であり将でもある須佐之男を渡すわけにはいかない。どちらにも引けぬ理由があり、どちらにも正義があった。
だからこそ危うかった。
この場で誰か一人でも槍を突き出せば、怒りはたちまち血を呼び、港町を包む松明の光は戦火へ変わる。童海一人の死で終わるはずだった悲劇は、末盧国と大倭壱国の間に消えぬ傷を残す争いへ広がってしまう。
年長の船頭が青ざめた顔で呟く。
「駄目だ……これはまずい……」
その言葉で、須佐之男もようやく我に返った。
このままでは自分一人の失態が国同士の争いを招く。その事実に背筋が冷たくなる。
「……戻るぞ」
低く押し殺した声だった。
従者たちは無言で頷き、盾となるよう須佐之男を囲みながらゆっくりと後退を始める。
「逃がすな!」
「捕らえろ!」
怒号が飛び交ったが、その場で戦いは起きなかった。だが、誰も最初の一歩を踏み出せなかった。ここで刃を振るえば、国同士の戦になると分かっていたからだ。
双方が激しい殺気をぶつけ合いながら対峙する中、須佐之男一行は宿舎へと退避した。しかし、それで事態が収まったわけではない。
むしろ本当の騒動は、ここから始まろうとしていた。
日が沈む頃には、須佐之男たちが滞在する宿舎の周囲を末盧国兵が幾重にも取り囲んでいた。出入口には槍を構えた兵が並び、屋根や路地の陰には弓兵が配置され、その後方には童海を慕っていた若者や漁師たちまでが集まっている。彼らの手には櫂や棒、漁具までもが握られており、松明の赤い光に照らされた顔は、悲しみと怒りで歪んでいた。
「須佐之男を引き渡せ!」
「童海様の仇を差し出せ!」
「逃がすな!」
憎悪に満ちた怒号が夜の港町に響き渡る。固く閉ざされた宿舎の戸を挟み、大倭壱国の護衛たちもまた武器を手に入口を固めていた。
「引き渡せるか!」
「我らの将だぞ!」
「近付けば容赦せん!」
抜き放たれた剣が松明の光を反射し、槍の穂先が互いへ向けられる。もし末盧国が力ずくで須佐之男を捕らえようとすれば、大倭壱国の者たちは王族を守るために剣を取るだろう。逆に大倭壱国が強引に包囲を破れば、末盧国の面目は完全に潰れる。誰もが理解していた。ここで最初の血が流れれば、もはや収拾はつかず、両国の戦へ発展する可能性すらあることを。
宿舎の奥では、当の須佐之男が無言のまま座り込んでいた。青ざめた顔で拳を握り締め、外から響く怒号にただ耳を傾けている。童海を殺すつもりなどなかった。だが、自分の力が一人の命を奪い、いま国同士の争いまで招こうとしている。その現実が、須佐之男の胸に重くのしかかっていた。
やがて末盧国の若い兵の一人が怒りに任せて前へ踏み出した。
「今すぐ踏み込め!」
その瞬間、大倭壱国の護衛たちも一斉に槍を構える。
「来るなら来い!」
夜風が吹き抜け、松明の炎が大きく揺れた。張り詰めた空気は今にも裂けそうで、誰か一人でも武器を振るえば、それだけで全てが終わる。互いに固唾を呑みながら睨み合う膠着状態は、夜半を過ぎてもなお続いていた。
その頃、一隻の高速船が末盧の港へ滑り込んだ。
須佐之男が末盧王の子を死なせたとの急報を受け、月読と那岐が駆け付けたのである。
二人は船を降りると、港の灯火に照らされた岸壁で短く言葉を交わした。
「私は王のところへ向かう」
那岐がそう告げると、月読は静かに頷く。
「弟の方は私が収めます」
互いに果たすべき役目は明確だった。那岐は末盧王との交渉へ向かい、月読は一触即発の状態となっている宿舎へ急ぐ。対応を一歩誤れば今夜にも戦が始まりかねない状況の中、末盧の港を吹き抜ける冷たい夜風を受けながら、二人はそれぞれの重責を胸に闇の中へ歩み去った。
宿舎の周囲では、なおも怒号が飛び交っていた。
「須佐之男を引き渡せ!」
「童海様の仇だ!」
松明の炎が夜風に揺れ、その赤い光が兵たちの槍先を不気味に照らし出している。対する大倭壱国の護衛たちも武器を抜いたまま一歩も退かず、互いに睨み合う両軍の間には、今にも戦が始まりそうなほどの緊張が張り詰めていた。
「近付くな!」
「我らの将は渡せん!」
誰もが殺気立ち、わずかなきっかけで流血沙汰になりかねない。そんな危険な空気を切り裂くように、一つの声が響いた。
「武器を収めよ」
決して大きな声ではなかった。しかし不思議なほどよく通り、その場に渦巻いていた怒号さえ押し退けるように人々の耳へ届く。
兵たちが一斉に振り返ると、群衆の向こうから一人の男が静かに歩み出てきた。壱岐を治める王にして、大倭壱国随一の知恵者と称される月読である。
月読は騒然とした人垣の中央まで進むと、末盧国の兵と大倭壱国の護衛たちを順に見渡しながら、落ち着いた口調で再び告げた。
「双方とも武器を収めよ」
だが、末盧国の兵たちは簡単には引き下がらない。
「だが童海様が殺されたのだ!」
「仇を討たねば末盧の恥だ!」
激しい怒号を浴びせられても、月読は眉一つ動かさなかった。
「その怒りは理解する」
静かな言葉だったが、その声音には不思議な重みがあった。
「だが考えてほしい。これは闇討ちでも暗殺でもない。皆が見届けた相撲の勝負だ」
その言葉に群衆のざわめきがわずかに弱まる。童海が自ら勝負を挑み、須佐之男が一度は断ったことを、多くの者が目撃していたからだ。それは誰にも覆せない事実だった。
月読は周囲の反応を確かめながら続ける。
「須佐之男に故意はなかった」
その声には弟を庇う甘さはない。むしろ愚かな振る舞いへの怒りさえ滲んでいた。
「私はあの弟を愚かだと思っている。だが童海殿を殺そうとしていたわけではない」
身内だからこそ厳しく言い切るその姿勢が、かえって言葉に説得力を与えていた。
ざわめきがさらに静まっていくのを見届けると、月読は最後に王としての約束を口にする。
「そして大倭壱国は責任から逃げない。須佐之男には必ず相応の処分を下すことを約束する」
群衆の間に再びどよめきが広がったが、それは先ほどまでの殺気だったものではなかった。
しばらく重苦しい沈黙が流れた後、一人の老臣が前へ進み出て月読を見据える。
「……その言葉、信じてもよいのだな」
月読は即座に頷いた。
「壱岐王月読の名に懸けて」
短い言葉だった。しかしその一言には、長年にわたり王として積み重ねてきた信頼と実績の重みが込められていた。
やがて末盧国の兵たちが少しずつ槍を下ろし始める。それに応じるように大倭壱国の護衛たちも武器を収め、今にも弾けそうだった緊張はようやく和らいでいった。
一触即発だった夜は、月読という一人の王の言葉によって、辛うじて流血を免れたのである。
一方その頃、末盧王の館には重苦しい空気が流れていた。
広間の中央に座る末盧王は、目を赤く腫らし、震える拳を固く握り締めている。その姿は国を治める王ではなく、愛する息子を失った一人の父親そのものだった。
その前で、那岐は深く頭を下げていた。
長い沈黙の末、末盧王は喉の奥から絞り出すような声で言った。
「息子を返せ」
その短い言葉には、怒りも悲しみも、行き場のない無念も全て込められていた。
那岐はゆっくりと顔を上げる。
「返すことはできません。どのような言葉を並べても、亡くなった王子は戻らないからです」
広間の空気がさらに重く沈み、居並ぶ家臣たちの表情にも怒りが浮かんだ。しかし那岐は誰からも視線を逸らさず、再び深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
そして静かに続ける。
「須佐之男は必ず大倭壱国へ連行し、本国にて裁きを受けさせます」
その言葉に広間は静まり返った。
末盧王はしばらく目を閉じたまま動かなかった。怒りのまま処刑を要求することもできる。だが、それは両国の争いへ発展しかねない。何をしようと息子は戻らず、だからこそ王として国を守る決断を下さねばならなかった。
やがて長い沈黙の末に末盧王は小さく頷く。
「……よかろう。その言葉を信じる」
その声には、王としての威厳よりも深い疲労が滲んでいた。
那岐は再び深々と頭を下げる。
こうして辛うじて戦は回避された。しかし須佐之男が引き起こした騒動の代償はあまりにも大きく、その余波はこれから先も両国に重くのしかかることになるのだった。
末盧王との謁見を終えた那岐は、その足で宿舎へ向かった。
宿舎の周囲にはまだ兵たちが立ち並んでいたものの、月読の説得によって先ほどまでの剣呑な空気は幾分和らいでいる。護衛たちは那岐の姿を見ると無言で道を開け、そのまま奥の部屋へ通した。
部屋の中央には須佐之男が一人で座っていた。
いつもなら堂々と胸を張り、誰に対しても臆することなく振る舞う末息子だったが、今は違う。大きな身体を小さく見せるように俯き、膝の上で握り締めた拳だけがわずかに震えていた。
那岐は何も言わずに須佐之男の前まで歩み寄り、その顔をしばらく見下ろした。
部屋には重苦しい沈黙だけが満ちている。
やがて耐え切れなくなったように須佐之男が口を開いた。
「父上……」
いつもの威勢は欠片もなく、その声は弱々しかった。しかし那岐は返事をしない。須佐之男は唇を噛み、何度も言葉を探そうとしたが、結局うまく口にできなかった。
「俺は……」
謝れば済む話ではない。言い訳をしたところで許されることでもない。どれほど言葉を尽くしても、死んだ童海は戻らない。その事実を誰よりも須佐之男自身が理解していた。
那岐はそんな息子を見つめたまま、低く言った。
「……本当に、困った子だ」
怒鳴ったわけではない。だが、その一言には怒りも失望も込められていた。
「お前は昔から、力で押し通してしまうところがある。けれどね、力がある者ほど、相手をよく見なければならない。怒りに任せて動けば、守れるものまで壊してしまうんだよ」
須佐之男は俯いたまま黙っていた。反論できる言葉など一つもない。
拳を強く握り締めたまま、かすれた声で呟く。
「……すまない。本当に殺すつもりなんてなかった」
その瞬間、脳裏には童海が宙を舞った光景が蘇った。地面へ叩きつけられた身体、駆け寄る近習たち、そして二度と動かなくなった姿。目を閉じても、その記憶だけは消えてくれない。
須佐之男は震える手を見つめながら、絞り出すように言った。
「俺が……俺が殺した」
告白にも似たその言葉が落ちると、部屋は再び静まり返った。
那岐は黙って息子を見つめる。
戦場では敵を震え上がらせる怪力と妖力を持ち、誰もが畏れる将となった須佐之男だったが、今の姿は幼い頃と何も変わらなかった。失敗をして叱られるのを待っている子供そのものである。
その様子を見て、那岐は心のどこかで安堵していた。
もし須佐之男が『仕方なかった』と開き直っていたなら、本気で殴り飛ばしていただろう。しかし違う。息子は自分が何をしたのか理解し、その重さに苦しみながら向き合おうとしている。それならまだ救いようがあった。
那岐は深く息を吐く。
「本当に頭の痛い息子だ」
そう言って軽く頭を小突くと、須佐之男は驚いたように顔を上げた。
「だが後悔しているなら忘れるな。今日死んだ童海のことを一生忘れるな。それがお前が背負うべき罪だ」
真っ直ぐ向けられた父の視線から、須佐之男は逃げなかった。しばらく沈黙したあと、力なく頷く。
「……分かった」
その返事を聞き、那岐はようやく肩の力を抜いた。
怒りが消えたわけではない。それでも反省していることだけは十分に伝わってきた。巨大な身体を縮こまらせて落ち込む末息子を見ていると、呆れながらもどこか可愛く思えてしまう。
那岐は額を押さえ、小さく苦笑した。
(本当に手のかかる奴だ)
そう思う一方で、この件を知った日巫女がどれほど長い説教を始めるのかを想像し、別の意味で頭痛を覚えるのだった。
翌朝、須佐之男の連行が行われた。
末盧王との約束通り、大倭壱国は責任を持って須佐之男を本国へ連れ帰り、裁きを受けさせなければならない。もっとも、須佐之男ほどの力を持つ男を縄で縛ったところで意味などなかった。本人が本気を出せば縄など糸と変わらず引き千切れてしまう。
それでも那岐は縄を持ってきた。
嫌な予感を覚えた須佐之男が顔を引きつらせる。
「父上、まさか……」
那岐は答えず、無言のまま縄を広げた。
「必要ないだろ!」
須佐之男が抗議するが、
「今は黙っていなさい」
即座に切り捨てられる。
「だから意味がないだろう!」
「意味ならある。末盧国への示しだ」
那岐は容赦なく縄を巻き付けていった。須佐之男は不満そうに唇を尖らせたものの、自分が問題を起こした自覚くらいはあるため、結局は大人しく従うしかなかった。
そこへ月読が姿を現した。
緊張を解くように、月読の口元がわずかに緩んだ。
「兄上、笑うなよ」
「いや……」
月読は口元を押さえながら視線を逸らした。
「少し似合っていると思ってな」
「どこがだ!」
須佐之男が睨みつけるが、月読は肩を竦めるだけだった。
「形だけでも必要だ。末盧国も納得しやすくなる」
結局、須佐之男は縄姿のまま港へ向かうことになった。
町を歩けば人々の視線が集まり、道端ではひそひそと囁く声が聞こえてくる。
「あれが童海様を……」
「連行されるのか」
「当然だ」
怒りを露わにする者もいれば、溜飲を下げたような表情を浮かべる者もいた。少なくとも、大倭壱国が何事もなかったかのように須佐之男を連れ帰るわけではない。その姿を見せること自体に意味があったのである。
港へ到着すると、末盧王の使者たちが最後まで見届けるように岸壁へ並んでいた。
那岐は彼らへ静かに一礼し、そのまま船へ乗り込む。やがて船は朝の海へ滑り出し、須佐之男を乗せたままゆっくりと末盧国を離れていった。
岸壁に立つ人々の姿が小さくなり、末盧の町並みも遠ざかっていった。
しばらくして末盧の勢力圏を離れた頃、那岐はようやく須佐之男の縄を解いた。
「終わりだ」
須佐之男は解放された両腕を大きく回しながら、不満げに口を尖らせる。
「痛かったぞ」
その言葉に、那岐は深々とため息を吐いた。
「私の頭の方が痛い」
隣で聞いていた月読も苦笑する。
「今回は本当に危なかった」
その一言に、船上へ重い沈黙が落ちた。
もし月読の到着が少しでも遅れていたら。もし末盧王が怒りに任せて判断していたら。あるいは誰か一人でも武器を抜いていたなら、末盧国と大倭壱国は戦へ発展していたかもしれない。
須佐之男もそのことは理解していた。だから反論することもできず、ただ海原へ視線を向けたまま黙り込む。那岐も月読も、それ以上責めるつもりはなく、三人を乗せた船だけが静かに筑紫へ向かって進み続けていた。
もっとも、この時は誰も知らなかった。
末盧国で犯した過ちが須佐之男の運命を大きく変え、やがて出雲の地へ向かわせることになることを。そして、その旅路の果てで新たな王として歩み始めることになるなど、まだ誰一人として想像もしていなかった。
当の須佐之男もまた、そんな未来を知る由もなく、重苦しい空気の中でただ静かに海を眺めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
本作には史実や伝承を参考にした部分もありますが、多くの独自解釈や創作を含んでいます。一つの物語として楽しんでいただければ幸いです。
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最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




