四章 出雲王国 一話 沖ノ島
日巫女が大倭壱国の王となってから十五年の歳月が流れていた。
かつて山門の一地方勢力に過ぎなかった国は、今や九州北部を中心に多くの国々を束ねる連合国家へと成長している。北には壱岐、さらに海の向こうには対馬があり、大倭壱国の船は絶えず海を往来していた。
港には各地から商人や船乗りたちが集まり、鉄、塩、布、穀物が積み下ろされる。日巫女が推し進めた交易政策は大きな成果を上げ、海上交易網は倭国有数の規模へと発展していた。
壱岐を治める月読も二十八歳となっていた。
若き頃から海人たちをまとめ上げてきた月読は、今では名実ともに壱岐の主である。海を知り、人を知り、父である那岐とはまた異なる形で人々から信頼を集めていた。
一方、その弟である須佐之男も二十五歳となっていた。
大倭壱国最強の武人。
そう呼ばれても異論を唱える者はいない。
七尺に迫る巨躯と生まれ持った妖力は圧倒的であり、幾度もの戦で敵軍を打ち破ってきた。その名は九州各地に轟き、多くの若者たちの憧れとなっている。
しかし、その平穏は長く続かなかった。
近頃、韓と倭を結ぶ海域で海賊被害が急増していたのである。
末盧国や伊都国の商船が襲われ、積み荷である鉄や塩、布が奪われる事件が相次いだ。護衛船を伴う船団ですら襲撃を受けることもあり、海を生業とする者たちの間には不安が広がっていた。
さらに、生き残った船乗りたちの証言も、不穏なものだった。海賊たちは襲撃を終えると東へ逃走しており、その先にあるのは出雲の地である。やがて各地では、
「出雲王国が海賊を支援しているのではないか」
という噂が囁かれるようになったが、確たる証拠は何一つ存在しなかった。だが、海賊たちが出雲方面へ消えていく以上、人々が疑念を抱くのも無理はなかった。
もし噂が事実であれば、それは単なる海賊問題では終わらない。一国による交易路への挑戦であり、各国の繁栄を脅かす重大な問題へ発展しかねないためである。
当然ながら、この問題は大倭壱国でも重く受け止められていた。評議の席では諸国から集まった使者たちが不安を訴え、出雲への警戒を口にしていたが、その中で日巫女は静かに口を開く。
「焦ってはなりません」
凛とした声が響くと、ざわめいていた場はたちまち静まり返った。
「噂だけで国を敵と定めれば争いを招きます。まずは事実を知ることです」
感情に流されて軍を動かせば、真の敵を見失う。その考えは、幼い頃から父である那岐の背中を見て学んできた統治者としての信念でもあった。
「各地の港へ使者を送りなさい。船乗りたちの証言を集めます。海賊の正体も、出雲との関係も、その上で判断しましょう」
日巫女の言葉に、使者たちは深く頭を下げた。
こうして大倭壱国は軽々しく結論を下さず、まず各地から情報を集める方針を定める。だがその時、評議の場にいる誰一人として知る由もなかった。
この海賊騒動こそが、やがて須佐之男を出雲へ導き、倭の歴史を大きく動かす始まりになることを……。
海賊騒動の不安が広がる中でも、人々の暮らしは止まらない。
夏を迎えた沖ノ島では、その年も航海の安全と交易の繁栄を願う祭祀が執り行われていた。
玄界灘の中央に浮かぶ神聖な島には、海人たちや商人たちが続々と集まってくる。壱岐や末盧国、伊都国からも船が訪れ、普段は静かな島が祭の日だけは大きな賑わいを見せていた。
祭壇には海で獲れた魚や貝、酒、色鮮やかな勾玉が供えられ、潮風に揺れる幣の音が静かに響く中、人々は海の彼方へ向かって手を合わせていた。豊かな航海と無事の帰還。それは海に生きる者たちすべてに共通する願いだった。
やがて法螺貝の音が島に響き渡り、奉納舞が始まる。白い衣をまとった巫女たちが祭壇の前へ進み出ると、人々の視線は自然とその中央に立つ一人の少女へ集まった。
月読の長女、田心姫である。
今回が正式な巫女としての初仕事だったが、その表情に怯えや緊張の色は見られない。静かに一礼した田心姫は鈴を鳴らしながら舞い始め、海風に揺れる長い黒髪と翻る袖が優雅な軌跡を描いていく。その所作はどれも丁寧で、まるで波の流れそのものを映し出しているかのようだった。
集まった人々は思わず息を呑む。幼さを残しながらも気品に満ちたその姿は、島に集う人々の目を惹きつけていた。
「美しい……」
「月読様の姫君か」
「将来が楽しみだな」
あちこちから感嘆の声が漏れる。
一方、その様子を見守る観覧席では、那岐と押見彦の二人が終始上機嫌だった。
「上手だな」
那岐が目を細めれば、押見彦も満足そうに頷く。
「うむ。さすが我らの孫だ」
田心姫が鈴を鳴らしながら優雅に舞うたびに、二人の顔はますます緩んでいった。
「足運びが綺麗だし、姿勢も良い」
「目線もぶれない。初舞台とは思えぬ堂々とした舞だ」
まるで武人が戦場で兵の働きを見定めるかのような真剣さで評価を重ねているが、その実態は完全に孫自慢である。
周囲の者たちは思わず苦笑した。数え切れぬ戦乱を乗り越え、多くの国々を束ねてきた英雄たちも、孫の前ではただの祖父に過ぎなかった。
その様子を見ていた月読は肩を落とす。
「父上たち、少しは静かに見てください」
「何を言う」
那岐は真顔で答えた。
「これは大事なことだよ。初めての舞を、ちゃんと見ておきたい」
「そうだ。田心姫の晴れ舞台だからな」
二人とも至って真面目な顔をしている。
二人の息ぴったりの返答に、月読は呆れたようにため息をついた。周囲からは小さな笑いが起こる。
月読も苦笑しながら祭壇へ視線を戻す。そこでは田心姫が優雅に舞い続けていた。
まだ幼かった頃、初めて海へ連れて行った日のことを思い出す。船が揺れるたびに不安そうな顔をして服の裾を掴んでいた少女が、今では多くの人々の前で神へ舞を捧げる巫女として立っている。その成長が誇らしく、父としてこれほど嬉しいことはなかった。
祭壇の前では舞が終盤へ差しかかり、海から吹く風が白い袖を大きく膨らませる。田心姫は最後の舞を奉納し、静かに鈴を鳴らした。
やがて舞が終わると、人々の間から自然と拍手と歓声が湧き起こり、称賛の声を受けた田心姫は、少し照れたように微笑みながら丁寧に頭を下げた。
その様子を見つめる那岐と押見彦の顔は、すっかり緩みきっていた。
「やはり我らの孫だな」
「うむ。本当に立派になった」
「それに可愛い」
「可愛いな」
揃いも揃って孫自慢を始める二人に、月読は思わず額へ手を当てる。
……この二人はもう駄目だ。
人々の称賛がまだ収まらぬ頃だった。
祭祀場を包む厳かな空気を破るように、一隻の小舟が沖ノ島へ近づいてくる。櫂を握る男たちは必死の形相で舟を漕ぎ、その様子は明らかに尋常ではなかった。
やがて小舟が岸へ着くなり、一人の使者が飛び降りる。
衣は潮で濡れ、肩で荒く息をしていた。顔色は血の気を失ったように青白く、人々の間にざわめきが広がる。
「急使か」
「何かあったのか」
人々が道を開ける中、使者は転ぶように石段を駆け上がり、そのまま那岐と月読の前へ膝をついた。
ただならぬ様子に月読が眉をひそめた。
「末盧国で何かあったのか」
使者は荒い息を整えながら顔を上げる。
「末盧国にて重大な騒動が発生いたしました」
その報告に那岐はわずかに顔をしかめた。
「また海賊かな?」
「いえ……」
使者は首を横に振ると、一瞬ためらうように視線を落としてから続けた。
「末盧王の御子が亡くなりました」
その言葉に、那岐と月読の表情が同時に凍り付く。
「……どういうことだ」
月読の低く沈んだ声に、使者は唾を飲み込みながら答えた。
「相撲の最中にございます」
その一言を聞いた瞬間、那岐の脳裏に、嫌な予感と共に末息子の顔が浮かんだ。
「……誰が、やったのかな」
使者は俯いたまま震える声で告げた。
「須佐之男様です」
使者の報告を聞いた瞬間、月読は深く額を押さえた。
「……あの馬鹿」
思わず漏れた呟きに、使者は顔を上げることもできない。那岐もまた小さくため息を吐いた。
末盧国は大倭壱国にとって重要な港を抱える国であり、その王族が死んだとなれば単なる事故では済まされない。まして相手は末盧王の嫡子である以上、対応を誤れば国同士の問題へ発展しかねなかった。
「日巫女には伝わっているのか」
「すでに使者を出しております。しかし事が急であり、まずはこちらへ」
使者の報告を聞いた月読は静かに立ち上がる。
「話を聞くだけでは済まんな」
「そうだね」
那岐も腰を上げた。
相撲で人を死なせたというだけならまだしも、その相手が末盧王の御子となれば話は別だった。大倭壱国と末盧国の関係にまで影響を及ぼしかねず、放置できる問題ではない。
「船の準備をしろ。すぐに末盧国へ向かう」
「はっ」
昼過ぎには出航の準備が整った。
港には大型の帆船が待機しており、水夫たちは積荷の確認や帆綱の点検に追われている。事の重大さを知る者たちの表情は硬く、普段なら聞こえるはずの冗談交じりの声もほとんどなかった。
那岐と月読が桟橋へ姿を現すと、水夫たちは一斉に頭を下げた。
「準備は整っております」
「すぐに出る」
月読が短く告げる。
二人が船へ乗り込むと、船員たちは手際よく綱を解き放った。帆が広げられ、海風を受けて大きく膨らむ。船体はゆっくりと岸を離れ、やがて沖へ向かって進み始めた。
甲板の船首に立った月読は、遠く霞む水平線を見つめながら眉をひそめる。
「須佐之男め……何をどうやったらこうなるのか」
「相撲だと言っていたな」
那岐は苦笑混じりに答えた。
「手加減を誤ったのでしょうか」
「誤ったというより、あいつの場合は加減そのものが人と違う」
月読は額を押さえた。
須佐之男は幼い頃から規格外だった。成人した今では身の丈七尺にも達し、その膂力は常人の域を遥かに超えている。本人に悪気はなくとも、本気で組み合えば大抵の相手は無事では済まない。
「末盧王が怒っていなければよいが」
「怒らずにいられる王など、いないだろうね」
那岐の言葉に月読は小さくため息を吐いた。
嫡子を失った末盧王の心情を思えば当然だった。問題は、それが私怨で終わるか、それとも国同士の対立へ発展するかである。
船は夕暮れまで休むことなく進み続けた。
海面を赤く染める夕陽の向こうには、やがて末盧国の港町がその姿を現し始めていた。




