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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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三章 邪馬台国 十話 天下無双

 山門壱国南部の平原には、両軍合わせて二万近い兵が集結していた。


 遠くまで続く草原の彼方には狗奴国連合軍の陣地が広がっている。兵数はおよそ七千。対する山門壱国軍は一万余り。


 しかし、その数だけを見て侮れる相手ではなかった。狗奴国の兵は山岳地帯で鍛えられた戦士として知られ、険しい山々を駆け回りながら育った彼らは体格にも恵まれ、近接戦闘では平地の兵より強いと評判だった。


 さらに中処王は、この地へ到着してから短期間で堅固な防衛陣地を築き上げていた。陣地前面には深い空堀が掘られ、その後方には高さ五メートルを超える巨大な木柵が連なる。柵の内側には槍兵と弓兵が整然と配置され、敵が近づけば一斉射撃を浴びせられるよう準備されていた。


 兵力では山門壱国軍が勝っている。しかし守りを固めた敵へ正面から挑めば、勝利できたとしても大きな犠牲は避けられない。


 丘の上から敵陣を見下ろしていた那岐は腕を組んだ。


「なるほどね……正面から攻めれば、かなりの犠牲が出そうだ」


 隣に立つ月読も静かに頷く。


「兵力はこちらが上ですが、敵は守る側です。無理に突撃させれば数百では済みません」


 那岐は視線を敵陣へ向けたまま思案する。


 勝てるからといって犠牲を無視するつもりはなかった。この兵たちはただの駒ではない。田を耕し、海へ漁に出て、家族を養う者たちである。勝利の代償として多くを失えば、その後の国造りに禍根を残すだけだった。


「まずは側面を調べるか」

「夜襲も選択肢に入れるべきでしょう」

「月読、お前ならどう攻める」

「私なら――」


 その時だった。

 背後から一人の伝令が血相を変えて丘を駆け上がってくる。


「た、大変です!」


 月読が眉をひそめた。


「どうしたんだい」


 伝令は息を切らしながら叫ぶ。


「須佐之男様の部隊が!」


 その言葉を聞いた瞬間、那岐と月読は同時に顔を見合わせた。


「……まさか」

「弟らしいと言えば弟らしいですね」


 嫌な予感は見事に的中した。

 伝令は半ば悲鳴のような声を上げる。


「すでに敵陣へ突撃しております!」


 数瞬、丘の上に沈黙が落ちた。

 那岐はゆっくりと目を閉じ、月読は額を押さえる。


「軍議を始めてまだ半刻も経っていませんが」

「……そうだろうね」

「命令は出しておりません」

「分かっているよ」

「須佐之男は待てなかったようです」

「うん、それも分かっている」


 那岐は深々とため息を吐き、丘の向こうから響いてくる異様な轟音へ耳を傾けた。まるで巨大な岩山が崩れ落ちるような音に続き、無数の悲鳴が風に乗って流れてくる。

 どう考えても普通の戦闘音ではない。

 月読は遠くの戦場を見つめながら呟いた。


「父上」

「どうしたんだい」

「策を考える必要は、まだ必要ですか?」


 那岐はしばらく黙り込んだ後、諦めたように答えた。


「……ひとまず、見に行こうか」


 二人は丘の先へ視線を向ける。

 そこではすでに、一人の鬼神が狗奴国軍の陣地へ突入していた。


 丘の向こうで暴れていた鬼神の正体は、言うまでもなく須佐之男だった。

 先鋒を任された須佐之男は軍議の結果など待つ気もなく、自ら率いる数百の精鋭と共に狗奴国軍へ正面から突撃していた。その巨体は七尺、鍛え上げられた筋肉は獣皮の鎧の上からでも分かるほど盛り上がっている。


 さらに戦いが始まると同時に黒紫の妖気が全身から噴き出し、陽光の下で揺らめきながら周囲の空気を震わせていた。


「どけぇぇぇぇっ!!」


 咆哮と共に振り下ろされた金棒が大地を揺るがす。

 直撃を受けた兵はもちろん、その周囲にいた兵士たちまで衝撃に巻き込まれ、まるで枯れ葉のように吹き飛んだ。盾は砕け、槍はへし折れ、人も武器も区別なく宙を舞う。


 前列の兵たちは何が起きたのか理解する暇すらなく、目の前にいた仲間が次の瞬間には消え、気付けば十数歩先の地面へ叩きつけられていた。


「ば、化け物だ!」

「止めろ! 止めろぉ!」


 悲鳴が戦場に広がる。しかし誰にも止められなかった。

 須佐之男はただ真っ直ぐ前へ進み、立ちはだかる敵を金棒で薙ぎ払う。その姿は戦士というより暴風そのものであり、人が陣形を組んで対抗できる存在ではなかった。


 やがて行く手を塞ぐように、狗奴国軍が何日もかけて築き上げた高さ五メートルの巨大な木柵が現れる。本来なら攻城兵器を用いて破壊するべき障害物であり、守備側が最も頼りにしていた防衛設備だった。

 だが須佐之男は立ち止まらない。


「邪魔だ!」


 金棒が唸りを上げた瞬間、雷鳴にも似た轟音が戦場へ響き渡る。

 巨大な木柵は中央から粉砕され、太い柱は根元からへし折れた。砕け散った木片は矢のような速度で周囲へ飛散し、柵の背後にいた兵士たちを巻き込みながら吹き飛ばしていく。


 土煙が天高く舞い上がり、そこには攻城戦の末に開かれた突破口ではなく、巨大な怪物が無理やり踏み抜いたかのような破壊の跡だけが残された。

 その光景を目の当たりにした狗奴国軍の前線では、すでに恐慌が始まっていた。


 武器を握る手が震え、槍先が下がる。号令を飛ばすはずの将たちでさえ、目の前の光景を理解できずに立ち尽くしていた。柵は破られたのではない。消し飛ばされたのだ。人が築いた守りも、隊列も、勇気も、須佐之男の一撃の前では何の意味も持たなかった。


「退け……」

「無理だ、あんなものに勝てるはずがない」

「逃げろ!」


 誰かの叫びを合図に、前線は一気に崩れ始めた。

 兵たちは我先にと後方へ逃げ出し、押し合い、倒れた仲間を踏み越えながら陣の奥へ雪崩れ込んでいく。山岳で鍛えられた勇士たちでさえ、この時ばかりは戦士ではなく、ただ死から逃げ惑う人の群れでしかなかった。


 その様子を後方の丘から見ていた那岐と月読は、しばらく言葉を失っていた。

 苦労して考えた迎撃策も、補給計画も、敵軍の布陣分析も、目の前の光景によって意味を失ったように思えたからである。

 やがて那岐は顎に手を当てながら、ため息をついた。


「正直、ああいうのが一番厄介なんだ。理屈抜きでただ強いというのはね」

「ええ……意味が分かりませんね」

「桁違いの妖気を全身に纏っているから、ほとんどの妖術が須佐之男には効かない」

「刃も矢も通じませんからね」


 二人は淡々と会話していたが、その内容は敵にとって絶望そのものだった。

 月読は戦場を見つめたまま小さく肩をすくめる。


「必要だったのは敵を倒す策ではなく、弟を止める策だったのかもしれません」

「……たぶん、そうだね」


 那岐は即答した。

 二人の視線の先では、須佐之男が豪快な笑い声を響かせながら敵陣の中央を突き進み続けている。


 だが、その時、崩れかけた狗奴国軍の後方から一人の男が前へ進み出た。

 その姿を見た瞬間、逃げ惑っていた兵たちの表情が変わる。


「中処王様だ!」

「中処王様がお出ましになったぞ!」


 歓声が戦場へ広がる。

 男は周囲の兵より頭一つ抜けて大きかった。身長は六尺、厚い胸板と丸太のような腕を持つ。全身を覆う筋肉は長年の戦場で鍛え上げられたものであり、その存在感だけで周囲を圧倒していた。


 砕かれた柵、逃げ惑う兵士たち、そしてその中心で暴れ回る山のような巨人。須佐之男の姿を見据える瞳に恐れはなく、むしろ燃えるような闘志が宿っている。

 やがて中処王は剣を天へ掲げた。


「聞け! 狗奴の勇士たちよ!」


 雷鳴のような大声が戦場へ響き渡る。


「我こそは狗奴諸国を束ねし王、中処王である!」


 兵たちは一斉に顔を上げた。


「我らは飢えに苦しみ、痩せた土地で生きてきた! だが山門は違う!」


 中処王は遠くの平野を指差す。


「あの地には豊かな田畑がある! 満ち足りた水がある! 我らの子や孫が飢えずに生きられる未来がある!」


 その言葉に兵たちの目へ再び光が宿る。


「退くな! 怯むな! 我と共に進め! 山門を奪い取れ!」

「おおおおおおおおおっ!!」


 兵たちの咆哮が大地を震わせた。崩れかけていた戦列は瞬く間に立て直され、逃げ出していた兵たちまでもが武器を握り直して前を向く。


 中処王には人を惹きつける力があった。王としての威厳、戦士としての武勇、そして民の未来を語る言葉。だからこそ数多の狗奴諸国は彼の下へ集い、その旗のもとに戦っているのである。

 その様子を見た須佐之男は、血に濡れた金棒を肩へ担ぎながら豪快に笑った。


「はははははっ!」


 周囲の兵たちが思わず身構える。

 だが、その顔に浮かんでいたのは怒りではなく歓喜だった。


「ようやく骨のある奴が出てきたか!」


 ここまで現れた敵は誰も彼も一撃で吹き飛び、まともに戦える者など一人もいなかった。退屈極まりない戦場だったが、目の前の男は違う。巨体、覇気、兵を率いる器、そして何より恐怖に屈していない。


 須佐之男は心の底から嬉しくなった。

 ゆっくりと前へ歩み出る。


 一歩踏み出すたびに地面が震え、七尺の巨躯が戦場の中央へ進んでいく。獣皮の鎧の上からでも分かるほど筋肉は隆起し、肩には巨大な金棒が担がれていた。さらに全身からは黒紫色の妖気が立ち昇り、その姿はもはや人というより鬼神そのものだった。


 狗奴国の兵たちは思わず後退る。

 中処王ですら、その異様な威容に一瞬だけ眉をひそめた。

 須佐之男は金棒を高々と掲げ、腹の底から咆哮する。


「聞けぇぇぇぇぇぇっ!!」


 轟音のような声が戦場全体へ響き渡った。


「我こそは伊邪那岐の子!」


 山門壱国の兵たちが武器を掲げる。


「女王日巫女の弟!」


 歓声がさらに大きくなる。

 そして須佐之男は胸を張り、堂々と名乗りを上げた。


「山門壱国の鬼神――須佐之男である!!」


 その瞬間、


「おおおおおおおおおおっ!!」


 山門壱国軍から凄まじい歓声が上がる。


「鬼神様だ!」

「須佐之男様だ!」

「山門に勝利を!」


 兵たちは槍を打ち鳴らし、盾を掲げながら鬼神の名を叫んだ。

 一方で狗奴国軍は静まり返る。木柵を一撃で砕き、数十の兵を吹き飛ばした怪物。その正体が伊邪那岐の血を引き、女王日巫女の弟であることを知ったからだ。

 誰かが小さく呟く。


「……あれは本当に人間なのか」


 その言葉に反論できる者はいなかった。

 戦場の中央では、中処王と須佐之男という二人の巨人が互いを見据えている。周囲の喧騒は遠のき、まるで世界に二人だけが残されたかのようだった。


 やがて中処王が大剣を構える。

 須佐之男は金棒を肩から下ろした。

 狗奴国最強の王と、山門壱国の鬼神。

 山門と狗奴の命運を賭けた一騎打ちが、今まさに始まろうとしていた。


 中処王は大剣を握り締めたまま、目の前に立つ巨漢を睨みつけていた。

 先ほどまで戦場を埋め尽くしていた怒号や悲鳴は遠のき、敵も味方も二人の対決へ視線を集中させている。

 中処王は、狗奴国諸国を束ねた猛将として知られ、その武勇と威圧感によって数多の戦場を勝ち抜いてきた。しかし、その中処王でさえ見上げなければならない相手がいた。


 伊邪那岐の子にして女王日巫女の弟、山門壱国の鬼神……須佐之男。

 七尺の巨体は岩山のようにそびえ立ち、その全身から立ち昇る妖気は陽炎のように揺らめいている。戦場の兵たちは、その姿を前にして本能的な畏怖を覚えていた。


 中処王は唾を飲み込む。

 だが、ここで退くわけにはいかなかった。王が逃げれば軍は崩壊する。諸国をまとめ上げた自分が勝利を示さなければ、この戦は終わる。


「行くぞォォォッ!」


 雄叫びと共に地を蹴り、鍛え抜かれた脚力で一気に間合いを詰めると、大剣を横薙ぎに振り抜いた。


 鉄が激突したような轟音が響く。

 しかし、斬れない。


 刃は確かに須佐之男の脇腹を捉えていたが、肉を裂くどころか巨大な岩へ叩きつけたかのように弾き返される。中処王は目を見開きながら、そのまま連続して剣を振るった。


「なに……!?」


 袈裟斬り、斬り上げ、突き、薙ぎ払い。

 必殺の気迫を込めた連撃が次々と放たれるが、その全てが妖気に守られた肉体に阻まれてしまう。刃は皮膚を傷付けることさえできず、響くのは鉄が弾かれる音だけだった。


 一方の須佐之男は、その場からほとんど動いていない。

 腕を組んだまま攻撃を受け続け、まるで相手の力量を測るように中処王を見下ろしていた。近年の須佐之男には、まともに戦える相手が存在しなかった。だからこそ、すぐに倒してしまうのではなく、まずはどれほどの実力を持つ男なのか見極めようとしていたのである。

 やがて中処王の息が荒くなった頃、須佐之男は退屈そうに口を開いた。


「悪くはない」


 その言葉に中処王の顔がわずかに明るくなる。

 だが次の瞬間、その期待は粉々に打ち砕かれた。


「だが、軽いな」


 まるで子供の剣遊びでも見ているかのような口調だった。


「貴様ァァァ!!」


 中処王は怒りに顔を歪めながら再び突進する。しかし焦りは隙を生み、自らも勝機が遠のいていることを理解していた。


 このままでは勝てない。

 そう悟った中処王は、ついに誇りを捨てた。


「弓兵! 撃てッ!!」


 周囲の兵たちは息を呑む。

 一騎打ちの最中に横槍を入れるなど、本来なら恥辱以外の何物でもない。それでも王の命令に逆らえる者はおらず、数百の弓兵たちが一斉に弦を引き絞った。


「放てぇぇぇッ!」


 次の瞬間、空が黒く染まる。

 無数の矢が雨のように降り注ぎ、その光景を見た山門壱国の兵たちでさえ顔色を変えた。どれほどの猛将であろうと、生身の人間なら助からない。


 しかし。

 矢は須佐之男へ届かなかった。

 全身を包む妖気が唸るように膨れ上がり、目には見えない圧力となって周囲へ広がる。飛来した矢は空中で砕け、あるいは弾かれ、皮膚へ触れたものですら折れて地面へ落ちていった。


 数百本の矢を浴びながら、須佐之男は一歩たりとも動かない。

 身体には傷一つなく、やがて矢の雨が止むと、戦場には不気味な静寂だけが残った。

 地面へ落ちた無数の矢が転がる音の中、須佐之男はゆっくりと口元を吊り上げる。


「それも手の内か」


 その声音には怒りも失望もない。

 むしろ久しぶりに強者との戦いを期待していた者が、ようやく相手の全力を見終えたような楽しげな響きすらあった。


 だが、その余裕こそが恐ろしかった。

 狗奴国の兵たちは後ずさる。

 中処王でさえ傷一つ付けられない。数百の矢も意味をなさない。目の前にいる存在は人間でも猛将でもなく、まさに神話に語られる鬼神そのものだった。


「ひっ……」


 誰かが漏らした震える声をきっかけに、恐怖は瞬く間に軍全体へ伝染していく。

 そして中処王自身もまた理解していた。

 自分が挑んでいた相手は、決して人の力で打ち倒せる存在ではなかったのだと。


 武勇を誇り、数々の戦場を勝ち抜いてきた自分ですら、その身体に傷一つ付けることができなかった。剣は通じず、矢も通じず、数百人の兵を率いてなお届かない。目の前に立っているのは猛将でも豪傑でもなく、まさしく鬼神だった。


 それでも中処王は剣を構える。

 ここで退けば全てが終わる。狗奴国諸国を束ねた王として、最後まで戦わなければならなかった。


 そんな中処王を見下ろしながら、須佐之男は肩に担いでいた金棒をゆっくりと握り直した。巨大な腕の筋肉が盛り上がるたびに全身を覆う妖気が揺らめき、その姿を見た瞬間、中処王の背筋に冷たいものが走る。


 今までの攻防は遊びだったのだ。

 そう悟った中処王に向かって、須佐之男は獰猛な笑みを浮かべた。


「では、今度はこちらの番だ」


 その言葉と同時に地面が爆ぜた。

 須佐之男が踏み込んだのである。

 二百センチを超える巨体からは想像もできない速度だった。中処王の視界から一瞬で姿が消えたかと思うと、次の瞬間には目の前まで迫っている。


「なっ……」


 反射的に大剣を前へ構える。

 それは長年の戦場で培われた本能だった。

 直後、轟音が戦場を揺るがした。


 振り下ろされた金棒と大剣が激突した瞬間、鉄で鍛えられた大剣は耐えきれず粉々に砕け散り、無数の破片となって周囲へ飛び散る。それでも大剣を盾にした判断は正しかった。もし直接その一撃を受けていれば、中処王の身体は肉片となって消し飛んでいただろう。


 しかし、防いだとしても衝撃までは消せない。

 中処王の巨体は枯れ葉のように宙を舞い、そのまま地面へ叩きつけられると、大地を転がり、岩を砕き、土煙を巻き上げながら数丈先まで吹き飛ばされた。


 戦場が静まり返った。

 敵も味方も言葉を失い、ただ土煙の向こうを見つめている。


 やがてゆっくりと立ち上がった中処王の姿が見えた。全身は傷だらけで呼吸も乱れ、握っていたはずの大剣は柄だけになっている。それでも立ち上がったのは王としての意地だったが、その瞳からはすでに闘志が消えていた。


 一方の須佐之男は何事もなかったかのように金棒を肩へ担いでいる。

 息一つ乱れていない。

 その姿を見た瞬間、中処王は悟った。

 勝てない。

 何度戦っても勝てない。

 この怪物だけは決して越えられない。

 中処王は震える声で叫んだ。


「撤退だ!」


 その声に周囲の将兵たちが顔を上げる。


「全軍撤退! 山へ退け!」


 王自らの撤退命令だった。

 兵たちは蜘蛛の子を散らすように後退を始め、崩れかけていた陣形は瞬く間に敗走へ変わる。山門壱国の兵士たちからは勝利の歓声が上がり、狗奴国軍は我先にと山中へ逃げ込んでいった。

 だが、その歓声を掻き消すように須佐之男が吼える。


「逃がすかァァァ!!」


 巨体が前へ踏み出す。

 あの脚力で追われれば逃げ切れる者などいない。中処王も狗奴国軍も皆殺しになるだろう。

 しかし、その時だった。


「待て、須佐之男」


 聞き慣れた声が響く。

 振り返った先には那岐と月読が立っていた。

 那岐は逃げていく敵軍を眺めながら静かに告げる。


「山へ逃げた敵を深追いする必要はないよ」

「なぜだ!」

「山には伏兵も罠もある。追えば味方にも犠牲が出るからね」


 須佐之男は不満そうに鼻を鳴らした。

 そんなことはどうでもいいと言いたげな顔だったが、那岐は苦笑しながら続ける。


「それに今日は勝ったんだよ」

「だからどうした」

「宴を開く。肉も酒も好きなだけ用意しているよ」


 その瞬間、須佐之男の目が輝いた。


「肉と酒か!?」

「うん」

「好きなだけか!?」

「うん……」


 須佐之男は逃げていく狗奴国軍と那岐の顔を何度か見比べたあと、大きく腕を組みながら唸るように考え込む。しばらくしてようやく結論を出したのか、金棒を肩へ担ぎ直した。


「……なら仕方ないな!」


 豪快な笑い声が響き渡る。


 その言葉を聞いた山門壱国の兵士たちは、勝利とは別の意味で安堵の息を吐いていた。敵軍だけではない。味方である彼らでさえ、これ以上須佐之男が暴れ続ければ何が起きるか分からなかったのである。


 こうして狗奴国軍は山中へ敗走し、戦場には勝利を喜ぶ歓声だけがいつまでも響き続けていた。


 その夜、山門壱国軍の陣営は勝利の熱気に包まれていた。

 広場では幾つもの焚き火が燃え上がり、焼かれた猪や鹿の肉の香りが夜風に乗って漂う。兵たちは酒杯を掲げて何度も須佐之男の名を叫び、その武勇を称えていた。


「鬼神万歳!」

「須佐之男様こそ天下無双!」

「狗奴国など敵ではなかった!」


 歓声の中心では須佐之男が大口を開けて笑っていた。片手に酒甕を抱え、もう片方の手で豪快に肉へかぶりつく。その周囲には武将や兵たちが集まり、先ほどの戦いについて興奮気味に語り合っていた。


「見たか! あの柵を一撃で吹き飛ばしたんだぞ!」

「中処王まで叩き飛ばしおった!」

「まるで本物の鬼神だ!」


 称賛の声を浴びながら、須佐之男は上機嫌に笑う。


「はっはっは! あれは弱すぎたな! もう少し楽しませてくれるかと思ったのだが!」


 その言葉に兵たちは大笑いし、宴はさらに盛り上がった。

 一方、勝利に酔いしれる陣営の喧騒から離れた丘の上では、那岐と月読が静かに夜空を見上げていた。遠くから歓声や笑い声が絶え間なく聞こえてくるが、二人の表情に笑みはない。

 那岐は揺れる焚き火の明かりを見つめながら静かに口を開いた。


「中処王は、まだ生きているね」


 月読は黙って頷く。あの男は敗北したが死んではいない。それこそが問題だった。


「今日の敗戦で狗奴国軍は退くだろう。しかし中処王がいる限り、いずれ再び諸国をまとめ上げる」


 那岐の声に感情の揺らぎはなかった。


「兵は恐怖を忘れる。傷も癒える。だが王が生きていれば、戦は終わらない」


 月読は父の横顔を見つめた。そこには怒りも憎しみもなく、ただ国を守るために必要な決断を下す為政者の冷静さだけがあった。


 しばらく沈黙が流れた後、那岐は短く命じる。


「月読。今夜で、終わらせてくれるかな」


 月読は即座にその意味を理解した。

 表では須佐之男が敵軍を打ち破った英雄として称えられる。民が見るのは英雄の勝利だけでよい。だが本当に戦を終わらせるためには、別の役割を担う者が必要だった。


「承知しました」


 迷いなく答えた月読に、那岐は小さく頷く。

 月読は静かに立ち上がると闇色の外套を羽織り、腰の剣の位置を確かめた。近くで待機していた数名の精鋭たちも無言で立ち上がる。彼らは月読直属の部下であり、足音一つ立てずに闇へ溶け込むことに長けた者たちだった。

 宴の場からは、なおも須佐之男の豪快な笑い声が聞こえてくる。


「酒だ! もっと持ってこい!」

「須佐之男は楽しそうですね」


 月読が呟くと、那岐は苦笑した。


「頼むよ、月読」


 鬼神は表で敵を打ち砕き、月読は闇の中で戦そのものを終わらせる。それが今の山門壱国だった。


 月読は一礼すると身を翻し、数名の部下と共に森の闇へ消えていく。その姿を見送りながら、那岐は静かに目を閉じた。


 明日の朝には狗奴国連合は王を失い、長く続いた戦も終わるだろう。

 夜空には雲ひとつなく、白い月だけが静かに輝いていた。


 山中へ逃げ込んだ狗奴国軍は、敗北の衝撃から立ち直れずにいた。

 昼間まで戦場を揺るがしていた鬨の声は消え失せ、深い森に囲まれた谷間には重苦しい空気だけが漂っている。焚き火の周囲では兵たちが肩を落とし、誰もが疲労と恐怖を滲ませた顔で炎を見つめていた。無理もなかった。彼らが目にしたのは戦ではなく、一方的な蹂躙だったのである。


 山門壱国の鬼神、須佐之男。


 その名は、たった一日で狗奴国軍全体の恐怖となっていた。高さ五メートルもの防柵を金棒の一撃で粉砕し、数十人の兵をまとめて吹き飛ばし、連合軍最強の猛将である中処王すら一撃で地に伏せた。その姿を目撃した兵たちは、人ではなく鬼神そのものを見たような気持ちになっていた。


「鬼だ……」

「いや、神だ」

「勝てるはずがない……」


 焚き火の周囲から漏れる声には絶望が滲んでいた。


 一方、中処王は負傷した身体を休めながらも諦めてはいなかった。砕かれた剣の代わりとなる武器を用意させると、各国の将たちを集め、再起のための軍議を開く。


「まだ終わってはおらぬ」


 中処王の声にはなお力があったが、将たちの反応は鈍い。


「一度退くべきです」

「いや、援軍を待つべきだ」

「誰が前衛を務めるのだ」


 敗北の責任を押し付け合う声が次々と上がり、昼間まで一つだった連合軍は早くも綻びを見せ始めていた。中処王は苛立ちを覚えながら将たちを見渡す。この連合は自分という存在によって辛うじて結びついている。もし自分が倒れれば、狗奴国諸国は再び互いに争う小国へ戻るだろう。だからこそ生き残らねばならない。再び兵を集め、山門壱国へ攻め込み、失った威信を取り戻さねばならなかった。


 しかし、その時すでに死神は陣中へ入り込んでいた。

 木々のざわめきと夜風に紛れ、黒装束に身を包んだ月読が森の闇を滑るように進んでいく。見張りの兵は異変を感じる暇もなく喉を突かれ、口を塞がれたまま地面へ崩れ落ちた。悲鳴は上がらない。気付いた時には死んでいる。それが月読の戦い方だった。


 武勇を競うつもりはない。

 敵将を討ち、戦争を終わらせる。

 その目的だけを胸に秘め、月読は影から影へと身を潜めながら敵陣の奥へ進んでいく。


 やがて中処王の天幕が見えた。周囲には護衛が配置されていたが、敗北と疲労によって警戒は大きく緩んでいる。月読は背後から近づくと、一人、また一人と護衛を始末していった。護衛たちは敵の存在を認識することすらできず、気付いた時にはすでに命を失っていた。


 最後の護衛が崩れ落ちると、月読は静かに天幕の中へ足を踏み入れる。

 中処王は広げた地図を見つめながら思案していた。どこから兵を集めるべきか。どの国へ援軍を求めるべきか。連合を維持するためには何をすべきか。その思考に集中していたため、自らの背後へ忍び寄る死に気付かなかった。


 不意に寒気を覚えて振り返る。

 そこには一人の青年が立っていた。

 月明かりを受けた瞳は静かに澄み、その手には抜き放たれた剣が握られている。

 中処王は反射的に立ち上がる。


「貴様――」


 しかし、その言葉が最後まで続くことはなかった。

 月読の剣が閃いた。


 一筋の銀光が闇を裂き、刃は迷うことなく首筋を切り裂く。中処王は目を見開きながら喉を押さえたが、指の隙間から血が溢れ出し、巨体は数歩よろめいた後、そのまま前のめりに崩れ落ちた。


 月読は剣に付いた血を払うと、そのまま天幕を後にする。彼の姿は再び森の闇へ溶け込み、まるで最初から存在しなかったかのように消えていった。


 人々は鬼神・須佐之男の武勇を語り継ぐだろう。しかし、その陰で戦争そのものに終止符を打った月読の働きを知る者は、那岐を含めてもほんのわずかしかいなかった。


 翌朝。

 山間に薄く霧が立ち込める中、狗奴国軍の陣営には重苦しい沈黙が広がっていた。中処王が死んだのである。


 その報せは夜明けとともに各軍へ伝わり、兵たちは動揺し、将たちは互いに顔を見合わせた。連合軍を束ねていた絶対的な支柱は失われ、誰が次の盟主となるのか、誰が敗戦の責任を負うのか、そして誰がより多くの土地と権力を得るのかという思惑が一斉に渦巻き始める。


 昨日まで山門壱国を攻めるために団結していた諸国は、一夜にして疑心暗鬼へ変わっていた。やがて各国の軍勢はそれぞれの本拠地へ引き返し始め、山門壱国へ再び侵攻するどころではなくなる。こうして狗奴国連合は瓦解し、長く続いた戦は終わりを迎えた。


 後世、人々は語る。

 狗奴国を退けたのは鬼神・須佐之男の武勇だったと。


 敵陣を粉砕し、猛将たる中処王を打ち破った山門壱国最強の戦士。その噂は瞬く間に各地へ広がり、人々は畏怖と敬意を込めてその名を口にするようになる。

 だが、本当に戦を終わらせた者は別にいた。


 朝日が昇り始めた頃、那岐は高台から戦場跡を見下ろしていた。

 砕け散った木柵、踏み荒らされた大地、放置された槍や盾。その向こうでは勝利に沸く山門壱国の兵たちが歓声を上げている。


 その中心では須佐之男が豪快に笑いながら酒樽を抱え上げ、兵たちへ酒を振る舞っていた。


「飲め! 今日は俺たちの勝ちだ!」


 響き渡る大声に兵たちは歓声で応え、宴の輪はますます大きくなっていく。


 一方、その喧騒から少し離れた場所では、月読が静かに宴を眺めていた。昨夜何があったのかを知る者はいない。だが月読はそれで構わなかった。称賛を求めたことなど一度もなく、自らの役目を果たしたという事実だけで十分だったのである。


 那岐はそんな二人の息子を見つめながら、それぞれがまるで太陽と月のようだと思った。須佐之男は圧倒的な力で敵を打ち砕き、人々へ勇気と希望を与える陽の存在であり、月読は誰にも知られぬ場所で国を支え、争いの芽を摘み取り続ける陰の存在である。その在り方は正反対だったが、どちらが欠けても国は守れない。


 かつて那美との間に生まれた子供たちは、いつの間にか自分を超えるほどの力を持つ存在になろうとしていた。頼もしくもあり、同時に少しだけ寂しくもある。親としての喜びと、時の流れを見送る者だけが抱く感傷が胸の奥で静かに入り混じっていた。


 やがて朝日が戦場全体を黄金色に染め上げる。その光景を見つめながら、那岐は小さく呟いた。


「本当に大きくなったな」


 その声は兵たちの歓声にかき消され、誰の耳にも届かなかった。しかし那岐の胸には確かな誇りがあった。


 この日を境に、山門壱国の名は狗奴国諸国へ深く刻まれることになる。決して手を出してはならない国、鬼神を擁する恐るべき国として。そして、山門壱国には鬼神がいる。その噂は海を越え、山を越え、やがて倭の各地へ広がっていくのだった。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


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