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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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三章 邪馬台国 九話 出陣

 その夜、主祭殿の奥にある小さな間には、那岐と日巫女、月読、須佐之男の四人だけが集まっていた。


 外では兵たちが武具を整え、倉から兵糧が運び出され、港では壱岐から来た船乗りたちが荷の積み替えに追われている。山門壱本国全体が戦の準備に包まれていたが、この部屋だけは別の時が流れているように静かだった。


 膳には焼き魚、貝の汁、山菜、握り飯が並んでいる。豪奢な宴ではない。だが、それは幼い頃の三人が那岐と共に食べていた食事に近かった。

 須佐之男は席に着くなり、大きな握り飯を一口で半分ほど頬張った。


「うまい」

「少しは味わって食べなさい」


 日巫女が呆れたように言うと、須佐之男は口いっぱいに飯を詰めたまま首を傾げた。


「味わっているぞ」

「それは飲み込んでいるだけです」


 月読が静かに言うと、須佐之男は不満そうに眉を寄せる。


「飯は腹に入れば同じだ」

「母上が聞いたら、きっと叱られますよ」


 月読のその一言に、部屋の空気がわずかに柔らかくなった。


 那岐は箸を止め、膳に並んだ魚を見つめた。焼き目のついた魚からは、懐かしい香りが立ち上っている。那美は魚を焼くのが上手かった。海が好きで、船が好きで、誰よりも楽しそうに魚を捌き、塩を振り、火加減を見ていた。


「那美なら、きっと須佐之男の頭をこつんと叩いていただろうね」


 那岐が呟くと、日巫女が小さく笑った。


「母上は、父上にもよく怒っていました」

「私は怒られるようなことはしていないよ」

「嘘です。田に夢中になりすぎて食事を忘れた時、母上はとても怒っていました」


 月読が淡々と付け加える。


「父上は今も同じです。今日も田から直接呼ばれたと聞きました」

「久しぶりに会った父に、もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないかな」


 那岐が苦笑すると、須佐之男が豪快に笑った。


「父上は田んぼが似合う。金棒より鍬の方が強そうだ」

「それは、須佐之男には言われたくないかな」


 その言葉に、日巫女も月読も笑みをこぼした。


 久しぶりに揃った家族の食卓だった。日巫女は女王ではなく娘の顔を見せ、月読は壱岐を治める将ではなく静かな弟に戻り、須佐之男は第一軍の将ではなく腹を空かせた末子のように飯を食べている。


 那岐は、その光景を黙って見つめていた。

 三人とも大きくなった。

 いや、正確には変わらない部分も多い。日巫女は若き女王の姿のまま老いず、月読も青年の面影を保ち、須佐之男は巨体を得ながらも顔立ちには少年のような荒々しさを残している。


 それでも、幼かった頃とは違う。

 姫は国を背負い、月読は海を治め、須佐之男は軍を率いる。那美が命と引き換えに残した子供たちは、それぞれの場所で山門を支える存在になっていた。


「父上」


 日巫女が静かに声をかけた。


「どうしたの」

「明日、私は女王として父上に命じます。山門の民を守るため、狗奴国軍を討て、と」

「ああ」

「ですが、今だけは娘として言わせてください」


 日巫女は膝の上で両手を重ね、少しだけ目を伏せた。


「どうか、無事に帰ってきてください。月読も、須佐之男も」


 須佐之男が鼻で笑う。


「俺が負けるわけがない」

「そういう慢心が一番危ないのです」


 月読がすぐに返した。


「兄上は心配性だな」

「あなたが無茶をするからです」

「敵が弱ければ仕方あるまい」

「まだ戦ってもいない相手を侮るな」


 二人のやり取りを聞きながら、那岐は小さく息を吐いた。


「須佐之男」

「何だ、父上」

「明日からは、私の言葉をちゃんと聞いてくれ。勝手に飛び出してはいけないよ」

「わかった」

「本当にわかったの?」

「たぶん」

「たぶんでは駄目だって」


 日巫女が額に手を当て、月読が静かに目を閉じる。

 須佐之男だけが悪びれもせず笑っていた。


 その笑い声に、那岐はふと懐かしさを覚えた。那美がいた頃、家の中にはいつも子供たちの声が響いていた。姫が月読の世話を焼き、月読が泣き、須佐之男が眠り、那美が笑っていた。


 あの頃には戻れない。

 それでも、今ここにいる三人は確かに那美が残した命だった。


「母上は」


 月読が静かに口を開いた。


「今の私たちを見たら、何と言うでしょうか」


 日巫女は少し考え、やがて柔らかく答えた。


「きっと、父上を叱ると思います」

「どうして私なのかな」

「子供たちを危ない戦場に出すなんて、何をしているのですか、と」


 那岐は返す言葉を失った。

 須佐之男が首を傾げる。


「母上は、俺も叱るか」

「もちろんです。まず、その金棒を食事の間に持ち込むなと叱ります」

「これは大事な物だ」

「母上なら、それでも外に置いてきなさいと言います」


 須佐之男は少しだけ困ったように金棒を見た。母の那美は須佐之男が産まれてすぐに、この世を去った。


「……母上が言うなら、置いてくる」


 その素直な言葉に、日巫女と月読が目を見合わせた。

 那岐は思わず笑った。


「須佐之男は、那美には弱いのかな」

「顔は覚えていない。だが、母上がそう言うなら仕方ない」


 須佐之男の声には、いつもの豪快さとは違う、どこか幼い響きがあった。

 日巫女は黙って弟を見つめた。月読もまた何も言わなかった。

 四人の間に、静かな沈黙が落ちる。


 外では、遠く兵たちの声が聞こえていた。武具の擦れる音、荷車の軋む音、牛のいななき、港から届く船乗りたちの掛け声。それらは明日の戦を告げる音だった。

 やがて那岐は、三人を見回して言った。


「みんなで帰ろう。誰も欠けずに、必ず」


 日巫女が顔を上げる。


「私も、月読も、須佐之男も。誰も欠けずに帰るよ。だから姫、山門を頼むね」

「姫ではなく、日巫女です」

「今だけは姫だろう」


 日巫女は少しだけ唇を尖らせ、それから小さく笑った。


「はい。父上」


 その夜、四人は遅くまで語り合った。

 幼い頃のこと。那美のこと。壱岐の海のこと。須佐之男が武人たちを稽古で何人倒したかという、笑えないようで笑える話。日巫女が女王としてどれほど多くの者に頭を下げられ、どれほど多くの決断をしてきたかという話。


 戦の前夜でありながら、その時間だけは穏やかだった。




 一方その頃、南方では狗奴国軍もまた進軍の手を止めていた。

 平原を望む丘の上には大きな篝火が焚かれ、その周囲には各国の長たちが集まっている。中央に座る中処王は、獣皮を肩に掛けた巨体を静かに構え、焚火に照らされた古傷を浮かび上がらせながら、眼前に広げられた地図へ視線を落としていた。その姿は猛獣の王を思わせる威圧感を放ち、周囲の長たちを自然と沈黙させている。


「南の村々はほぼ制圧しました」

「山門へ通じる街道も確保しております」

「だが敵の本軍は未だ姿を見せませぬ」


 長たちの報告を聞きながら、中処王は黙って耳を傾けていた。

 狗奴の地は険しい山々と深い谷に囲まれ、水田を開ける土地は決して多くなかった。人々は痩せた畑から得られる僅かな実りで冬を越し、限られた平地を巡って争いを繰り返してきた。そのため各地には豪族が割拠し、山一つ越えれば別の長が支配し、谷一つ隔てれば別の国が存在する有様だった。誰もが己の土地を守ることに必死で、一つにまとまることなど容易ではない。


 だからこそ、彼らは山門を欲した。

 広大な平野と豊かな田畑。整えられた水路と安定した収穫。その豊かさは狗奴の者たちにとって長年の憧れであり、悲願でもあった。


 中処王はその想いを誰より理解していた。彼自身もまた痩せた土地で育ち、飢えと隣り合わせの暮らしを知る男だったからである。だからこそ各国の長たちは彼に従った。武勇だけではない。豊かな土地を手に入れ、子や孫の代まで飢えぬ国を築くという願いこそが、彼らを一つにまとめていた。


「山門を落とせば、我らの子らは飢えずに済む」


 誰かの呟きに、周囲の長たちも静かに頷く。中処王は何も答えず、ただ篝火の炎を見つめていた。

 その時、一人の伝令が息を切らせながら軍議の場へ駆け込んできた。


「報告!」


 場の視線が一斉に向けられる。


「山門壱国本軍が南下準備中とのことです」


 その言葉に長たちの表情が変わった。


「いよいよくるか」

「平地で育った弱兵などたかがしれている」

「ここらの敵では話にならなかったからな」


 勝気な声が上がる中、中処王だけは変わらず静かだった。


「数は」

「山門軍に加え、壱岐の海人族も合流しております。その数は万に達するかと」


 報告を聞き終えると、中処王はゆっくりと立ち上がった。その巨体が動くだけで周囲の空気が変わり、ざわついていた長たちも自然と口を閉ざす。


「来るなら好都合だ。山門まで攻め上がる手間が省ける」


 長たちの目が輝く。しかし中処王が下した命令は、誰も予想していなかったものだった。


「これ以上は進まぬ」


 意外な言葉に数人が顔を見合わせる。


「中処王?」

「敵は自ら出てくる。ならば迎え撃てばよい」


 中処王は南の闇を見据えながら続けた。


「南の村々はすでに押さえ、補給も確保している。ここで無理に進めば隊列は乱れ、地の利も失う。それよりも敵を引き寄せ、この平原で叩く方が確実だ」


 そう言って地図の一点を指差す。


「ここに陣を築け。柵を築き、弓兵を配置しろ。敵が来るまで待つ」


 長たちは次々と頷いた。武勇だけではなく、戦全体を見通す眼を持つからこそ、中処王は狗奴をまとめ上げることができたのである。


 命令が下されると、各国の兵たちは夜の平原で慌ただしく動き始めた。木を切り倒し、柵を築き、焚火を増やしながら迎撃の準備を進めていく。


 その様子を見守りながら、中処王は一人、暗闇の向こうを見つめていた。そこにはまだ姿の見えぬ山門軍がいる。


「山門か」


 低く漏れた呟きとともに、その瞳には野心の炎が宿る。

 豊かな大地。広大な田畑。そして狗奴の未来。

 それら全てを手に入れるための戦いが、いよいよ目前まで迫っていた。


 翌朝、山門壱本国の主祭殿前には、これまでにない数の兵が集まっていた。


 高台に建つ主祭殿を中心に広場は黒々とした人波で埋め尽くされ、朝日に照らされた無数の槍の穂先が白く輝いている。風が吹くたびに軍旗が波のように揺れ、槍兵、弓兵、盾兵が整然と列をなし、その後方には壱岐から来た海人たちが並んでいた。港へ続く道には兵糧を積んだ荷車が途切れることなく連なり、沖合には軍船の帆が幾重にも浮かんでいる。その光景は、山門壱国そのものが巨大な軍勢へと姿を変えたかのようだった。


 空はどこまでも高く澄み渡り、昇り始めた朝日は主祭殿の屋根を黄金色に染め上げていた。その最上段には白い祭服をまとった日巫女が立っている。長い黒髪は朝風を受けてゆるやかに揺れ、眼下に広がる兵たちを静かに見下ろしていた。昨夜まで父や弟たちと食卓を囲んでいた娘の姿はそこにはなく、山門壱国を統べる女王として、神託を下す巫女として、国の命運を背負う者として堂々と立っている。


 その足元、広場の中央には那岐が静かに跪いていた。右には巨大な金棒を傍らへ置いた須佐之男が身を低くして膝をつき、それでもなお周囲の武人たちより頭一つ大きい。左には月読が背筋を伸ばして跪き、その背後には壱岐の海人たちが整然と並んでいる。さらに後方では山門壱国全軍が一斉に膝をついていた。


 万の兵が集まっているにもかかわらず広場は静まり返り、風が旗を揺らす音と遠く港で帆が鳴る音だけが響いている。誰もが女王の言葉を待っていた。


 やがて日巫女はゆっくりと一歩前へ出る。白い袖が風を受けて翻ると、広場に集う兵たちの視線が自然と彼女へ向けられた。日巫女は避難民を守るため集まった農民たち、村を守るため槍を取った若者たち、海を越えて駆けつけた壱岐の海人たち、そしてこれから死地へ向かう将たちの姿を一人ひとり確かめるように見渡し、静かに息を吸った。


「山門の兵たちよ」


 高く澄んだ声が放たれた。その声は朝の冷たい空気を震わせながら主祭殿前の広場を渡り、最前列から最後尾まで並ぶ兵たち一人ひとりの胸へ力強く響いていく。


「南の村々が焼かれました。山門に従った小国家が踏みにじられ、民が追われ、田畑が奪われています。狗奴の軍勢は、我らの大地を欲し、我らの米を欲し、我らの民を支配しようとしています」


 風が旗を揺らした。


 兵たちは顔を上げない。しかし槍を握る手には自然と力がこもり、最前列に並ぶ老兵は奥歯を噛み締め、若い兵たちは固く唇を結んでいた。南方から逃れてきた人々の話はすでに軍中へ広まっている。焼かれた村、踏み荒らされた田畑、故郷を追われて泣く子供たち。その光景は見たことがなくとも、誰もが容易に想像することができた。


 もし敵を止められなければ、次は山門が同じ運命を辿る。


 広場は静まり返っていたが、その沈黙の奥では怒りと決意が静かに膨れ上がっていた。


「山門壱国は、奪うために大きくなった国ではありません。水を分け、田を拓き、海を渡り、言葉を交わし、互いに生きるために広がった国です。ゆえに、我らを信じた者たちを見捨てることはありません」


 日巫女は主祭殿の上から静かに那岐を見下ろした。


「大将軍伊邪那岐」


 広場に響く声に、那岐は深く頭を垂れる。


「そなたを迎撃軍の大将に任じます。山門壱国の全軍を率い、狗奴国軍を退けなさい」

「はい。女王日巫女様の命、謹んで承ります」


 日巫女は小さく頷くと、その視線を隣の須佐之男へ移した。


「須佐之男」

「はっ!」


 雷鳴のような返答に、周囲の兵たちが思わず背筋を伸ばす。


「そなたを第一軍の将に任じます。己の力を誇るためではなく、民を守るために振るいなさい」


 須佐之男は傍らの金棒に手を置き、獣のような笑みを浮かべた。


「承知した。狗奴の兵など、我が前より蹴散らしてくれる」


 その瞬間、那岐が困ったように須佐之男を見た。

 須佐之男は慌てて咳払いをすると、


「……父上の命令を聞きます」


 と付け加えた。

 兵たちの間から小さな笑いが漏れ、張り詰めていた空気がわずかに和らぐ。

 日巫女も表情を崩すことなく、そのまま最後の一人へ視線を向けた。


「月読」

「はい」


 月読は静かに頭を下げる。


「そなたは壱岐の兵と軍船を率い、補給と海上の道を守りなさい。戦は前線だけで決まるものではありません。兵が飢えず、退く民が守られ、傷ついた者が運ばれる道を絶やしてはなりません」

「承りました。海の道は、私が守ります」


 穏やかな声だった。しかし、その言葉には海を預かる者としての揺るぎない覚悟が宿っていた。

 日巫女は三人の姿を順に見渡した。

 大将軍として跪く父、第一軍を率いる末弟、そして海の命脈を担う次弟。

 かつて同じ家で暮らした家族でありながら、今はそれぞれが国を支える柱となっている。


 父。

 弟たち。

 そして、自らが守るべき山門壱国。


 女王として国の命運を背負い、父を戦場へ送り、弟たちを死地へ向かわせ、数え切れぬ兵に命を賭けることを命じなければならない。その重みを胸に抱えながらも、日巫女は揺るがぬ眼差しで広場を見渡した。


「山門の民を守りなさい。南の村々を救いなさい。狗奴の侵略を許してはなりません」


 澄み切った声は朝空へ高く響き渡り、兵たちの胸に静かに、そして確かに火を灯していく。

 やがて日巫女は右手を高く掲げた。


「出陣せよ」


 一瞬、広場を沈黙が支配した。

 しかし次の瞬間、その静寂は割れるような雄叫びによって吹き飛ばされる。

 無数の槍が天へ突き上げられ、盾が激しく打ち鳴らされ、兵たちの咆哮が主祭殿を震わせた。港からは海人たちの歓声が応じ、船着き場では軍船の乗組員たちが声を張り上げる。


 その熱狂は波紋のように国中へ広がり、山門壱本国そのものが巨大な生命となって動き始めたかのようだった。


 広場の中央で、那岐は静かに立ち上がる。

 傍らでは須佐之男が巨大な金棒を肩へ担ぎ上げ、その後ろで月読もまた静かに背筋を伸ばしていた。

 三人は揃って主祭殿を見上げた。


 朝日に照らされた日巫女の白衣が風にはためく。昨夜、家族と語り合った娘の姿はそこにはない。ただ山門壱国を統べる女王として、微動だにせず兵たちを見下ろしていた。

 那岐はその姿に小さく頷き、静かに踵を返す。


「行こう」


 その一言を合図に軍勢は動き始めた。

 那岐を先頭に、須佐之男率いる第一軍が続き、その後方を月読の率いる壱岐の海人兵たちが進む。さらに川と海の道では軍船が次々と出航し、兵糧や矢束、予備武具、負傷者を運ぶための船列が整然と隊形を組んでいた。


 こうして山門壱国の総力を挙げた迎撃軍は、南方へ向けて進軍を開始した。


 山門軍は焼かれた村々を越えながら南へ進んだ。

 道中には、黒く焦げた家々の跡が点々と残り、収穫を目前にしていたはずの田は無惨に踏み荒らされている。村を囲っていた柵は打ち壊され、家財を失った避難民たちは道端に座り込み、不安げな目で行軍する兵たちを見つめていた。


 そうした光景を目にするたび、兵たちの顔から迷いは消えていく。これは遠い国の争いでも、王たちだけの戦でもない。自分たちが暮らす土地と家族、そして守るべき民を奪われた戦なのだと、誰もが胸の内で理解していた。


 途中の村で足を止めた那岐は、逃げ遅れていた老人や子供たちを確認すると、すぐに後方へ護送するよう命じた。


「月読、負傷者と子供を頼む」

「承知しました」


 月読は静かに頷き、壱岐の兵たちへ指示を飛ばしていく。その手際は落ち着いており、避難民たちの表情にもわずかな安堵が広がった。

 那岐はその様子を確認すると、今度は隣を歩く須佐之男へ視線を向けた。


「須佐之男」

「どうした、父上」

「焦らない。敵を見つけても勝手に突っ込まないこと」

「わかっている」

「本当に?」

「……敵が近くにいなければ」

「須佐之男……本当に頼む」


 那岐は思わず頭を抱えたが、須佐之男は不満げに鼻を鳴らしただけだった。

 もっとも、周囲の武人たちはそのやり取りを聞いて密かに胸を撫で下ろしている。第一軍の将となった須佐之男は誰もが認める豪傑であり、その武勇を疑う者はいない。


 だが同時に、一度暴れ始めれば敵味方の区別なく戦場そのものを掻き回しかねない危うさも持っていた。


 だからこそ、その須佐之男が那岐の言葉には素直に従っているという事実が、武人たちにとって何よりの安心材料だったのである。


 日が傾き始める頃、山門軍は南方の平原へ到達した。


 しかし、那岐が目にしたのは平原に並ぶ敵軍だけではなかった。狗奴国軍はすでに迎撃の準備を整えており、平原の各所には切り倒した木々を組み上げた柵が連なり、その前面には鋭く削られた杭が何重にも打ち込まれている。さらに土を盛って築いた低い土塁の後ろには盾兵が陣取り、その背後では弓兵たちが整然と列を作っていた。


 まるで獣を待ち受ける巨大な罠だった。


 その後方には黒い群れのような兵たちが平原の向こう側を埋め尽くしている。槍、斧、弓、盾。装備は統一されていないものの、その荒々しさと数の多さは圧倒的で、いくつもの狗奴の旗が風を受けて揺れるたび、兵たちの間から低い唸り声のような鬨の声が漏れ聞こえてきた。


 那岐は目を細めた。


「……あれは、簡単には崩れないね」


 隣の月読が静かに頷く。


「こちらが攻めてくると読んでいたのでしょう」


 須佐之男は金棒を肩に担いだまま鼻を鳴らした。


「面倒だな。柵ごと吹き飛ばせば済む話だ」

「だから勝手に動かないでね」


 那岐は即座に言った。

 平原の中央付近には一際大きな旗が掲げられていた。狼を思わせる獣の紋が描かれた旗は風を受けて大きくはためいており、あれが中処王の本陣であることは誰の目にも明らかだった。


 だが、その姿だけは見えない。

 幾重にも並ぶ兵の壁と盾兵の列が視界を遮り、総大将がどこにいるのか判別できなかった。それでも軍全体の動きを見れば分かる。兵たちは統率を失うことなく配置につき、まるで一つの生き物のように連動していた。


 遠く離れていても、その軍勢の中心に強力な指導者が存在することだけは伝わってきた。平原を挟んで山門壱国軍と狗奴国軍が向かい合い、風の止んだ戦場には、焼かれた村々から立ち上る煙だけが細く空へ伸びている。那岐は静かに息を吸い込み、肥沃な山門の大地を奪おうとする狗奴の軍勢を見据えた。


 その時、狗奴軍の奥から低く重い太鼓の音が平原へ響き渡る。


 ドォン――。


 ただ一度鳴らされただけだった。しかし、それまで続いていた兵たちのざわめきは嘘のように消え去り、万の軍勢が一斉に口を閉ざした。風が草を揺らす音だけが残る静寂の中、那岐はゆっくりと目を細める。


「……いるね」


 幾重にも並ぶ兵と盾の壁に阻まれ、その姿は見えない。それでも分かった。ただ一度の合図で万の兵を沈黙させる存在が、あの軍勢の中心にいる。


 狗奴諸国を束ねた王、中処王。


 狼の旗が揺れる本陣を見据えながら、那岐は胸の内に確かな予感を抱いた。これまで山門を脅かした者たちとは、明らかに違う。一国を背負い、多くの豪族を従え、この大軍勢を統率する覇者が平原の向こうで待ち構えているのだ。


 山門を守ろうとする者と、山門を手に入れようとする者。二つの軍勢は互いを睨み合いながら戦機を窺い、決戦の幕は今まさに上がろうとしていた。


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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