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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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三章 邪馬台国 八話 狗奴国襲来

 日巫女が山門壱国の女王に即位して、十年の歳月が流れていた。


 那美の死から数えれば、さらに長い時が過ぎたことになる。幼かった姫は女王となり、月読は壱岐を任されるほどの男となり、須佐之男もまた山門の武人たちを震え上がらせるほどの巨躯を持つ青年へと成長していた。三人とも、すでに子供ではない。人前に立てば誰もが頭を下げ、名を聞けば周辺の小国家の長たちでさえ表情を改めるほどの存在になっていた。


 だが、彼らには一つだけ、常人とは決定的に異なるものがあった。

 容姿が、ほとんど変わらないのである。


 日巫女は即位した頃と変わらぬ若々しい姿のまま、神託を下す女王として祭壇に立ち続けていた。月読もまた精悍な青年の顔立ちを保ち、壱岐の海人たちを従えながらも、年を重ねた気配をほとんど見せなかった。そして須佐之男に至っては、年齢よりも肉体の成長だけが異様に進んだかのように、七尺に届こうかという巨体を得ながら、その顔には若さと荒々しさが同居していた。


 山門の家臣たちは、最初こそ不思議に思うだけだった。

 しかし一年が過ぎ、三年が過ぎ、五年が過ぎても、三人に老いの気配がまったく現れないとなると、いつしか噂は畏れへと変わっていった。


「女王様は、やはり神に選ばれたお方なのだ」

「那岐様の御子らは、我らとは違う血を引いておられる」

「日巫女様も月読様も須佐之男様も、神の授かりものに違いない」


 そうした声は、誰かが命じて広めたものではなかった。田を耕す者、港で荷を運ぶ者、祭殿に供物を捧げる者、軍に身を置く者たちの間で、自然と生まれ、自然と広がっていったのである。


 日巫女は、それを否定しなかった。

 神であるなどと自ら口にすることはなかったが、民が自分たちに神性を見出すのであれば、それもまた国をまとめる力になると理解していた。山門壱国は、もはや小さな邑の寄せ集めではない。奴国、伊都国、壱岐、周辺の小国家と関わりを持ち、海を越えた交易にも手を伸ばし、日巫女の名は遠い地にまで届き始めていた。


 だが、国が大きくなれば、それを妬み、富を奪おうとする者もまた現れる。

 山門の南方、山々と大河によって隔てられた地には、狗奴と呼ばれる諸国が点在していた。彼らは長い年月のあいだ互いに争い、時に手を結び、時に裏切りながら生きてきたが、その視線は次第に北方の山門壱国へ向けられるようになっていた。


 豊かな水が流れ、広大な田畑が実り、数多くの民が暮らしている。さらに日巫女のもとで諸国がまとまり、一つの国として繁栄を続ける山門壱国は、南方の荒々しい諸国にとって羨望の対象であると同時に、何としてでも手に入れたい豊穣の大地でもあった。


 そして、その狗奴諸国を一つの旗の下へまとめ上げた男こそ、中処王であった。

 背丈は六尺ほど。倭の男としては異様なほど大きく、厚い胸板と太い腕を持ち、戦場に立つだけで周囲の兵たちを奮い立たせる男だった。力だけの猛者ではない。


 敵を恐れさせ、味方を酔わせる声を持ち、諸国の長たちを膝下に集めるだけの器量とカリスマを備えていた。

 中処王は狗奴の長たちを集めると、山門の北方に広がる肥沃な大地を指差して言った。


「なぜ、我らが痩せた土地を奪い合わねばならぬ」


 その声は、集まった男たちの胸を震わせた。


「山門には米がある。水がある。倉には余るほどの兵糧が眠り、女王の名の下に諸国が従っている。ならば奪えばよい。我らが互いの首を狙う時代は終わった。これより先、狗奴は一つとなり、山門を喰らう」


 誰かが雄叫びを上げた。

 それに続くように、別の長が槍を掲げる。やがて声は大きなうねりとなり、狗奴の諸国を一つの軍勢へと変えていった。


 侵攻は、早かった。

 最初に襲われたのは、山門壱国と同盟を結んでいた南の小国家だった。彼らは狗奴の動きを察して柵を築き、物見を立て、山門へ援軍を求める使者を走らせたが、中処王の軍勢は予想をはるかに上回る速さで北上してきた。


 夜明け前、霧の中から狗奴の兵が現れた。

 丸太で組まれた柵は斧で断ち割られ、門は火をかけられ、抵抗に出た男たちは次々と討ち取られていった。小国家の長は最後まで踏みとどまろうとしたが、逃げ惑う民を守り切ることはできず、昼を待たずして本拠は崩れた。


 その報せが山門に届くよりも早く、次の村が焼かれた。

 田に火が放たれ、倉が破られ、逃げ遅れた者たちが泣き叫びながら北へ走った。南方の防衛を担っていた砦も、次々に狗奴軍の攻撃を受けることになった。山門の兵たちは決して弱くはなかった。那岐が築いた防衛線は、山道を塞ぎ、川を利用し、柵と土塁を重ねた堅固なものだった。


 しかし、狗奴軍の勢いは凄まじかった。

 中処王はただ力任せに攻めるだけではなかった。防衛の薄い山道を探り、正面で兵を引きつけながら別働隊を迂回させ、夜襲を仕掛ける。さらに山門に従って日の浅い小国家には降伏を呼びかけ、従えば田畑を残すと約束し、逆らえば焼き払うと脅した。


 その言葉に屈した者も現れ、南の防衛線は少しずつ崩れ始めていく。主祭殿には日ごとに悪い報せが積み重なり、使者や伝令たちが絶え間なく広間へ出入りしていた。


「南の川沿いの砦が落ちました」

「同盟国の一つが降伏したとのことです」

「狗奴軍はさらに北上。避難民が本国へ向かっております」

「次の防衛線も、もって二日かと」


 報告が重なるたびに広間の空気は重く沈み、家臣たちは青ざめ、武官たちは怒りに歯を食いしばり、文官たちは兵糧の確保や避難民の受け入れについて慌ただしく言葉を交わしていた。だが、その中で日巫女だけは祭壇の奥に静かに座し、報告を聞きながらも顔色一つ変えなかった。その姿は周囲の慌ただしさとは対照的で、かえって人々に畏れを抱かせるほどの静けさを纏っていた。


 日巫女は、ただ広げられた地図を静かに見下ろしていた。南の村々に置かれた印は、一つ、また一つと赤い石へ置き換えられ、狗奴国軍の進路を示す黒い線は、まるで毒が血管を這うように山門壱国へと迫っている。


「このままでは、山門の本国に届きます」


 側近の一人が震える声で告げたが、日巫女は答えず、ゆっくりと目を閉じた。


 この十年、彼女は女王として国を広げてきた。祭祀によって民の心をまとめ、外交によって周辺国との結びつきを強め、壱岐を得て海の道を開き、山門を単なる豊かな邑から多くの民と国々を束ねる大国へと育て上げた。


 しかし、国が大きくなるということは、それだけ守るべきものが増えるということでもある。南から逃れてくる民、焼き払われた村々、救いを求める小国家……そのすべての命と未来が、今は女王である自分の肩に重くのしかかっていた。


 長い沈黙の末、日巫女は静かに目を開く。


「……父上を招聘します」


 その一言に、広間の空気が張り詰めた。

 武官たちが顔を上げ、文官たちが息を呑む。前邑長にして日巫女が父と呼ぶ者。山門を築き、幾度も災いを退け、今なお民の間で語り継がれる男。


 伊邪那岐。


 今では政の表舞台から退き、田舎で土を触って暮らしていると聞くその男を、日巫女はついに戦場へ呼び戻すことにしたのである。


「那岐様を、でございますか」

「そうです」


 日巫女は目を開けた。


「この戦は、普通の将では止められません。狗奴は一つにまとまり、中処王はただの野盗の長ではない。ならばこちらも、山門壱国の全軍を統率できる将が必要です」

「しかし、那岐様はご隠居されて久しく……」

「父上は、私の頼みなら断れません」


 日巫女はそう言うと、ほんのわずかに口元を緩めた。その表情は女王のものではなく、一人の娘のものだった。

 こうして使者が山門壱国を発ったのは、その日のうちである。


 一方その頃、当の那岐は山門の外れにある田舎の村で、裾をまくり上げて田へ入り、泥にまみれながら農作業に精を出していた。

 春から夏へ移ろうとする田は青々とし、風が吹けば若い稲が波のように揺れる。水路には清らかな水が流れ、畦には子供たちが腰を下ろして蛙を眺め、老人たちは日陰で農具を直していた。


 その中に、那岐はいた。

 かつて山門を束ね、国を築き、妖術によって風を操り、炎を呼び、時には人の心さえ惑わせた男は、今では裾をまくり上げて田に入り、村人たちと並んで苗の育ち具合を確かめていた。


「那岐様、こっちの水が少し弱いようで」

「上の堰に泥が詰まっているな。昼までにさらっておこう」

「またご自分でなさるのですか」

「手が空いている者がやればいいよ」


 そう言って那岐は当たり前のように鍬を担ぐ。隠遁生活が長くなったせいか、近頃の彼は以前にも増してお人好しになっていた。頼まれれば田を見に行き、壊れた水路を直し、病で動けない家の代わりに薪を割る。その姿は、かつて国を動かしていた男とは思えないほど村の日常に溶け込んでおり、那岐自身もまた、そんな暮らしを心地よく感じていた。


 政の場にいれば、誰かを従え、誰かを裁き、時には誰かを傷つける決断を下さなければならない。しかし田に立てば、考えるべきことは水と土と稲のことだけでいい。


 人は腹が減れば米を食べ、米を作れば人は生きる。そこには複雑な駆け引きも血の匂いもなく、あるのは季節の移ろいと実りを待つ穏やかな時間だけだった。


 だが、その穏やかな午後を破るように、一人の使者が村へ駆け込んできた。


「那岐様!」


 女王からの急使だった。

 使者は、泥に足を取られながらも田の畦まで駆け寄ると、その場で深く膝をついた。


「女王日巫女様より、至急、主祭殿へお越しくださいますよう命を受けて参りました」


 鍬を肩に担いだまま使者を見つめる那岐の周囲では、作業の手を止めた村人たちの間にざわめきが広がっていた。女王からの急使、それも主祭殿への召喚である。穏やかな用件でないことは誰の目にも明らかだった。


「南で、何かあったのかな」


 那岐が静かに問うと、使者は顔を伏せたまま答えた。


「狗奴国軍が北上しております。南方の防衛線は次々と破られ、すでにいくつもの砦と村が落ちました」


 その報告を聞いた那岐は、ゆっくりと空を見上げた。頭上には雲一つない青空が広がり、若い稲は風を受けて波のように揺れている。どこかでは子供たちの笑い声も聞こえていたが、その穏やかな景色は今の報せとあまりにも不釣り合いで、かえって胸に重くのしかかった。


「……また戦か」


 誰に聞かせるでもない呟きを漏らすと、那岐は鍬を畦に置き、水路の水で泥にまみれた足を洗った。


「わかった。すぐに向かうよ」


 村人たちが不安そうに見つめる中、那岐はいつもの柔らかな顔で振り返った。


「水路の泥は、夕方までにさらっておけ。放っておくと明日の水が足りなくなる」

「那岐様、このような時に水路の心配ですか」


 老人が呆れたように言うと、那岐は苦笑した。


「戦に勝っても、田が枯れたら、みんな飯が食べられなくなるからね」


 それだけ言い残し、那岐は使者と共に山門壱国へ向かった。


 主祭殿へ到着した頃には、すでに日は西へ傾いていた。山門壱国はかつてない緊張に包まれており、広場では兵たちが武具を整え、倉からは兵糧が次々と運び出されている。港へ続く道には荷車が絶え間なく行き交い、その傍らには南方から逃れてきた難民たちが身を寄せ合うように座り込んでいた。焼け焦げた衣をまとい、幼子を抱きしめる者たちの姿を見た瞬間、那岐の表情からわずかに穏やかさが消える。


 主祭殿へ入ると、日巫女はすでに家臣たちへ下がるよう命じていた。重い扉が閉じられると広間には人の気配が消え、残されたのは那岐と日巫女の二人だけだった。


 祭壇の前に立つ日巫女は白い衣をまとい、整えられた黒髪の上には女王の飾りを戴いている。かつて那岐の膝の上で母を恋しがり、夜ごと涙を流していた幼い姫の面影は、もはやそこにはなかった。今、那岐の前にいるのは山門壱国を背負う女王であり、神託によって国を導く日巫女その人だった。だが、誰もいない静かな広間には、女王と臣下ではなく、父と娘だけが向き合っていた。


「父上」


 それでも、那岐を見た瞬間だけ、その声には女王ではなく娘の響きが混じった。


「久しぶりだね、姫」

「姫ではなく、日巫女ですわ」


 日巫女はわずかに不満そうな表情を見せたものの、すぐに女王の顔へ戻ると広げられた地図の前へ那岐を招き、南方の情勢を説明し始めた。落ちた村、降伏した小国家、突破された砦、そして山門本国へ迫る狗奴国軍。その報告を聞くにつれ、那岐の顔からはいつもの飄々とした色が消えていく。


「狗奴の中処王か……よくまとめきれたものだ」


 地図へ視線を落としたまま呟く那岐に、日巫女は静かに頷いた。


「はい。ただの荒くれ者ではありません。多くの狗奴の諸部族を一つにまとめ、軍勢を率いてこちらの防衛線を破り、降伏勧告と夜襲を使い分けながら侵略を進めています。武勇だけでなく、将としても厄介です」


「なるほどなぁ……」


 那岐は腕を組んだまま地図を見つめ続けた。南方の防衛線はすでにいくつも破られ、敵軍の進路は山門本国へ向かって真っ直ぐ伸びている。その様子をしばらく眺めていたが、やがて小さく息を吐くと日巫女へ視線を向けた。


「それで、私に何をさせたいの?」


 日巫女はまっすぐ父を見つめた。


「迎撃軍の大将をお願いします」


 那岐は深く息を吐いた。


「私は隠居して長いし、役に立てるとは思わないけど……。山門壱国には優れた将も兵もいる。月読は壱岐を治めているし、須佐之男だってもう子供ではない」

「だからこそ、父上に出ていただくのです」

「若い者に任せた方がいい。私はもう、ただの田舎者の農夫だよ」

「父上」


 日巫女の声が、わずかに柔らかくなった。


「山門の民が焼かれています」


 那岐は何も答えなかった。


「南の村々は助けを求めています。私に従った小国家の民も、私を信じて山門へ頼ってきた者たちも、今は狗奴に追われているのです。女王として国を導いてきました。けれど、あの軍勢を止めるには、私一人の力では足りません」


 真っ直ぐに父を見つめながら、日巫女は静かに続けた。


「だから、父上の力をお借りしたいのです」


 日巫女は玉座から一段降りると、そのまま那岐の前まで歩み寄り、そっと腕に抱きついた。


「ち・ち・う・え」


 甘えるように区切られた声とともに、人差し指が那岐の顎をくすぐるように撫でる。

 那岐の頬が引きつった。


「姫、そういうことを言うものじゃないよ」

「姫ではなく、日巫女ですわ」

「日巫女はそんなことをしない」

「では、今だけ姫です」


 そう言って日巫女は悪びれもせず那岐の腕へ頬を寄せた。


「父上なら、狗奴など簡単に追い返せます」

「おだてられてもなぁ」

「父上が出てくだされば、兵たちは安心します」

「武具もしばらく着ていないし、鍛錬だってしていない。軍を率いたのがいつだったかも、もうよく覚えていないよ」

「娘が困っているのに?」


 その一言に、那岐は言葉を詰まらせた。

 日巫女は逃がさない。


「父上が引き受けてくださるなら、今夜は昔のように膝枕でもして差し上げます」

「いらない。いや、そもそも膝枕なんてされた覚えがない」

「では添い寝で」

「もっといらない」

「では、父上のために私が鯛とスズキの塩焼き、それにアサリの潮汁を作ります」

「……それは少し欲しい」

「決まりですね」

「いやいや、勝手に決めないでおくれ」


 日巫女はくすりと笑った。

 主祭殿には今、二人しかいない。女王としての威厳も神託も、この場では脇へ追いやられていた。

 父の弱点を知り尽くした娘と、そんな娘に昔から振り回され続けている父。この勝負に限って言えば、最初から日巫女の独壇場だった。

 那岐はしばらく天井を見上げていた。娘に甘えられ、言葉巧みに逃げ道を塞がれ、気付けば断る理由がほとんど残っていない。

 やがて大きく息を吐き、諦めたように肩を落とした。


「……わかった」


 その瞬間、日巫女の表情がぱっと明るくなる。


「本当ですか」

「迎撃軍の大将は引き受ける。ただ、兵を預かる以上、戦場では私のやり方で進めさせてもらうよ。戦場で、余計な口出しをされては困る」

「もちろんです」


 日巫女は即座に頷いた。その返事があまりにも早く、那岐は少し嫌な予感を覚える。


「それと、須佐之男をどう扱うつもりだ?」


 問いかけると、日巫女はなぜか嬉しそうに微笑んだ。


「その須佐之男ですが、一軍の将に任じるつもりです」

「そうか」


 那岐は素直に頷いた。


「須佐之男も、もう軍を率いる年になったんだね」

「ええ。武勇だけなら山門で並ぶ者はいません」

「それは頼もしいな」

「ですが問題が一つ」


 日巫女の笑みが少し深くなる。

 那岐は嫌な予感しかしなかった。


「父上がいなければ、誰にも扱えません」

「ええぇぇ……」


 思わず素の声が漏れた。


「まだそんな状態なの?」

「はい」


 日巫女は迷いなく断言した。

 那岐は額を押さえた。

 迎撃軍の大将を引き受けたつもりだったが、どうやら本当の仕事は軍の指揮ではなく、暴走する末息子の監視役だったらしい。


「父上なら扱えます」

「どうして私ばかり頼るんだい」

「山門で唯一、須佐之男を止められる人です」


 即答だった。

 那岐は再び天井を見上げた。

 どうやら、この戦は思った以上に前途多難らしい。


 その時だった。主祭殿の外が、にわかに騒がしくなった。重い足音が近づくたびに床板が軋み、入口に立っていた兵たちは慌てて左右へ道を開ける。やがて広間に大きな影が落ちた。


「姉上、俺を呼んだか」


 身長は七尺に迫り、肩幅は常人の倍ほどもある。太い腕と厚い胸板は鎧のように盛り上がり、獣を思わせる鋭い眼光が広間を見渡した。


 若者らしい面影を残してはいるものの、その全身から放たれる圧力は凄まじく、歴戦の武人でさえ本能的に一歩退いてしまうほどだった。


 腰には剣ではなく巨大な金棒が提げられており、それは武器というよりも、もはや建物を支える柱のような代物に見える。


「須佐之男」


 那岐は軍神のように成長した息子を誇らしく見つめていた。


「須佐之男、また大きくなったね。それに、その金棒はいつも持ち歩いているの?」

「剣はすぐ折れる」


 須佐之男は当然のように答えた。

 普段からこんな金棒を持ち歩いている時点で、どれほど鍛錬を積んでいるのか想像もつかない。その巨体は人間というより、呼吸する山そのものだった。


「これは折れぬ」

「まあ、特注で作らせたからね」


 日巫女が補足すると、須佐之男は悪びれる様子もなく笑った。

 その笑みだけ見れば、どこか幼い頃の面影が残っていた。だが、体はあまりにも大きく、力はあまりにも強く、気性もまた荒い。


 武人たちは彼を頼もしく思う一方で、同じくらい恐れていた。須佐之男が本気で暴れれば、敵を蹴散らすだけでなく味方の陣形すら崩しかねない。それほどまでに、彼の力は常人の枠を超えていた。

 そんな弟を、日巫女はまっすぐ見上げた。


「須佐之男。あなたを山門壱国第一軍の将に任じます」

「狗奴国軍が山門壱国の南部に侵攻しています。それを撃退できる者、正面から打ち砕く力を持つ者は、須佐之男しかいません」


 その言葉に、須佐之男は嬉しそうに金棒を肩へ担ぎ上げた。


「つまり、暴れてよいのだな」

「父上の命令を聞けるなら」

「聞く」


 即答だった。

 那岐は腕を組み、疑わしげな目で息子を見る。


「本当かな?」

「たぶん」

「たぶんでは困るんだけれど……」


 日巫女は平然としていた。


「ですから、父上に大将をお願いしたのです」

「姫、そういうところだよ……」

「父上なら扱えます」

「二人とも、私を何だと思っているのかな」

「山門壱国で一番、山門軍の力を引き出せる方です」


 日巫女は当然のように言い切った。那岐は反論しようと口を開きかけたが、その言葉を否定できるだけの材料を持っていないことに気づき、深々とため息を吐く。実際、山門で須佐之男を力尽くでも止められる者など、自分以外に思い当たらなかったからだ。

 

 しばらくして、港の方角から、重く低い法螺貝の音が響いた。


 ぶおおおおおお――。


 その音は山門壱国の空気を震わせるように広がり、主祭殿の外にいた兵たちが一斉に振り返る。


「港だ」

「壱岐の船団か」


 誰かが呟いた。

 日巫女はゆっくりと立ち上がり、那岐や須佐之男と共に主祭殿の外へ出た。高台から港を見下ろした家臣たちは、そこで思わず息を呑むことになる。


 山門の港には、いつの間にか数十隻もの軍船が整然と並んでいた。船首には鯨骨を削り出して作られた巨大な飾りが据えられ、帆には海人族の紋が描かれている。その姿は漁船や交易船とはまるで異なり、海そのものが軍勢となって押し寄せてきたかのような威圧感を放っていた。


 だが、人々を圧倒したのは船団だけではなかった。

 軍船の舷側が一斉に開かれると、中から武装した兵たちが次々と上陸を始めたのである。

 その動きに乱れはなかった。


 先頭の兵が浜へ降り立つと、その後ろに続く兵も寸分違わぬ歩幅で砂浜を進み、定められた位置へ並んでいく。槍を持つ者は同じ角度で穂先を掲げ、盾を持つ者は同じ高さで腕を構え、誰一人として無駄口を叩かない。


 山門の兵たちも日頃から厳しい訓練を積んでいた。だが、目の前にいる海人族軍の統率は、その山門の兵でさえ息を呑むほどだった。数千人もの兵が並んでいるにもかかわらず隊列に乱れはなく、足並みも槍を構える角度も寸分違わない。その様は、まるで数千人の人間が一つの意思によって動かされているかのようだった。


 さらに異様だったのは、その姿である。海人族軍の兵たちは例外なく顔を隠していた。白く磨き上げられた鯨骨の面が全員の顔を覆い、陽光を受けて鈍く輝いている。海神の使いとも語られる巨大な鯨の頭部を模したその面は、人の表情を完全に消し去り、整然と並ぶ兵たちを、まるで深海から現れた異形の軍勢のように見せていた。


 ざわめきが広がる。


「海人族軍だ……」

「なんだ、あの統率は……」

「本当に同じ人間か……」


 山門の兵たちでさえ圧倒されていた。


 やがて上陸を終えた兵たちは港の広場へ整列し、数千の槍が空へ向けられる。その列はどこまでも真っ直ぐ伸び、盾は一枚の壁のように並び、海風に揺れる旗だけが軍勢の上をゆっくりと流れていた。


 そして次の瞬間、その整然と並んだ軍勢が左右へ分かれ始めた。

 まるで海が割れるようだった。

 兵たちは一歩の乱れもなく道を開き、その中央に一本の通路が現れる。数千人もの兵が並んでいるにもかかわらず、そこには誰一人として声を発する者はおらず、不気味なほどの静寂だけが広がっていた。


 その通路の奥から、一人の男がゆっくりと姿を現す。

 青い外套を纏い、腰には長剣。歩みは静かで無駄な力みもない。だが、その姿が見えた瞬間、その場にいる者たちの視線は自然と男へ吸い寄せられていた。


 男が一歩進むたび、両脇に並ぶ海人族軍は微動だにしない。ただ海の道を切り開くように立ち並び、その背を守る防波堤のように沈黙を保ち続けている。


 やがて男は主祭殿の前まで歩み出ると静かに足を止めた。

 その瞬間だった。

 数千の海人族軍が、一斉に槍の石突を地面へ打ち付けた。


 ドォン――ッ!


 雷鳴にも似た轟音が港中へ響き渡った。

 続いて盾が打ち鳴らされる。


 ドン!

 ドン!

 ドン!


 地鳴りのような重低音が何度も反響し、港の海面を揺らし、空にいた海鳥たちが驚いたように飛び立った。

 その中央で男は静かに片膝をつく。


「女王日巫女様。父上」


 凛とした声が広場へ響いた。


「壱岐守、月読。末盧、伊都、対馬、そして壱岐の海人族、ただ今、馳せ参じました」


 海風が吹き抜ける。

 その背後には、微動だにしない数千の海人族軍。

 壱岐を治め、海を支配する将に相応しい威容だった。

 那岐は思わず目を細める。


「……月読、随分と派手な登場をするようになったね」


 月読はわずかに微笑んだ。


「父上が農作業ばかりしている間に、少しばかり軍というものを学びましたので」


 その言葉に日巫女が小さく笑みを浮かべる。

 だが、須佐之男だけは腕を組みながら不満そうに鼻を鳴らした。


「面白くない」

「何がだ」

「兄上ばかり格好いい」


 その言葉に、その場の空気が少しだけ和らいだ。


「揃いましたね。山門壱国の力が」


 日巫女の声に、港のざわめきが静まった。


「ならば、狗奴を迎え撃ちます」


 港を震わせたその威容のはるか南では、中処王率いる狗奴国軍が、なお山門壱国へ向けて進軍を続けていた。


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。


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