三章 邪馬台国 五話 壱岐服属前編
日巫女が女王となってから二年の歳月が流れていた。
月読は十五歳になっていた。
山門壱国はかつてない繁栄を迎えている。港には交易船が絶えず出入りし、新たに開かれた田畑からは豊かな実りがもたらされていた。周辺の小国家とも同盟と交易による結び付きが広がりをみせ、筑紫最大勢力だった山門壱国がついに王を擁立したことで、女王・日巫女の名は筑紫北部の各地へ知れ渡り始めている。
しかし、その勢力拡大は決して順風満帆ではなかった。
ある日、祭殿に各地の長たちが集められると、中央に座る日巫女の前で外交を担当する役人たちが報告を始めた。
「また壱岐です」
その言葉に広間の空気が重くなる。
壱岐は筑紫と大陸を結ぶ海上交通の要衝であり、多くの海人族が暮らす島だった。彼らは古くから末盧国や伊都国、奴国、不弥国と交易を重ね、海を渡る航路も潮の流れも熟知している。その誇りは強く、近年になって急速に勢力を伸ばした山門壱国を容易には認めようとしなかった。
「友好使節は受け入れられませんでした」
「同盟の提案も拒否されています」
「壱岐の王、押見彦は山門壱国を対等な国として認めておりません」
さらに役人は続ける。
「使者へは『海を知らぬ者が海を語るな』と」
その言葉に長たちは顔を曇らせた。
海人族から見れば、山門壱国は豊かな田畑を持つ大国ではあっても、海を知らぬ田舎者に過ぎない。長く閉鎖的だった新興国家が、数年で突然倭国の中心を名乗り始めたようなものだった。
だが、それでも壱岐は必要だった。
漢や韓との交易をさらに発展させるためにも、倭国全体へ影響力を広げるためにも、海上交通の要衝である壱岐を無視することはできない。
報告を聞き終えた日巫女は、しばし考え込むように視線を伏せた後、静かに口を開いた。
「壱岐を山門壱国の下へ置きます」
迷いのないその一言に、広間の空気が一変する。若き王による初めての征服宣言……長たちは息を呑み、その言葉が持つ意味を即座に理解した。
「交易路は国の血管です。そこを他国へ握らせたままではなりません」
静かな口調だったが、その決意は揺るぎない。長たちが互いに顔を見合わせる中、一人が恐る恐る問いかけた。
「武力を用いてでも従わせるのですか」
日巫女は少しだけ考えるように目を閉じ、それからゆっくりと首を横に振った。
「できるなら血は流したくありません」
そう言って広間を見渡した後、さらに言葉を続ける。
「ですが、従わぬならば従わせます」
その瞬間、居並ぶ長たちは理解した。目の前にいるのはもはや那岐の娘ではない。国の未来を背負い、人々を導く王その人なのだと。
やがて日巫女の視線は広間の一角へ向けられる。
「月読」
突然名を呼ばれた月読は驚いたように顔を上げた。
「はい」
「壱岐へ向かいなさい」
その言葉に広間がざわめく。
姉が日巫女として即位した時、月読はまだ十三歳だった。その月読も、今では十五歳になっている。姉と共に学問を愛し、多くの書物を読み、行政や記録管理にも深く関わっている。しかし戦の経験はなく、ましてや一国の命運を左右するような外交交渉を任されたこともない。
「私がですか」
「そうです」
日巫女は迷いなく頷いた。
「あなたに任せます」
月読は思わず言葉を失った。隣では須佐之男が面白そうに口元を緩める。
「おお、戦か」
「違います」
日巫女は即座に否定した。
「できる限り戦わずに従わせます」
そう言って改めて月読へ視線を向ける。
「あなたならできます」
その言葉には、日巫女としてだけではなく、姉として弟を信じる気持ちが込められていた。
月読はしばらく黙り込んだ。壱岐が交易と外交の要衝となる重要な土地であることは理解している。だが、その大役を本当に自分が担えるのかという不安もあった。戦であれば須佐之男がいる。国を率いる才なら姉がいる。そして父は誰よりも多くの経験を積んできた。
では、自分は何者なのか……その迷いが胸をよぎった瞬間、広間の後方から穏やかな声が響いた。
「それなら、私も一緒に行こうかな」
長たちが一斉に振り返った。
「父上?」
月読が目を見開くと、那岐はどこか楽しそうに微笑む。
「月読一人では、少し心配だからね」
「子供扱いしないでください」
「まだ心配させてくれ。親だからね」
あまりにも迷いのない即答に、広間の空気は一気に和らぎ、あちこちから笑い声が漏れた。
だが、那岐が同行を申し出た理由はそれだけではなかった。
日巫女は理想を実現するため、自ら国を動かし始めている。それは間違いなく正しい道だった。しかし月読にとっては、これが初めて背負う大きな責任であり、一国の未来を左右する使命でもある。
海人族との交渉は、単に交易の利益を説くだけで済む話ではない。時には相手の誇りや恐れを理解し、利害だけでは結べない信頼を築かなければならない場面もあるだろう。
月読はまだそこまで理解していないかもしれない。
それでも那岐は信じていた。この子ならきっと成し遂げる。だからこそ傍で見守り、必要な時だけ手を貸してやりたいと思ったのである。
数日後、港には出航準備を終えた大型船が停泊していた。甲板では船員たちが慌ただしく動き回り、海風を受けた帆が大きくはためいている。
月読は船首に立ち、これから向かう壱岐の方角を静かに見つめていた。その隣へ那岐が歩み寄る。
「緊張しているかな?」
「少しだけです」
「それは、少し違うかな」
「かなりです」
月読は苦笑し、那岐もまた小さく笑った。
幼い頃から書物を抱えて知識ばかり追い求めていた息子が、今では国の未来を背負い、自らの意志で海へ出ようとしている。その姿を見つめながら、那岐は胸の奥に込み上げる感慨を静かに噛みしめていた。
「父上」
「ん?」
月読が海を眺めながら問いかけた。
「もし交渉が失敗したら、どうするのですか」
那岐は水平線の彼方へ目を向けたまま、わずかに口元を緩める。
「その時は、その時かな。別の方法を考えればいい」
「別の方法?」
問い返す月読に、那岐は意味深な笑みを浮かべた。
「私は三百年も生きているからね。長く生きていれば、手段はいくらでも思いつく」
その言葉に月読は眉をひそめた。
「何か企んでいますね」
「さて、どうだろうね」
那岐が肩を竦めた、その時だった。
港に低く響く角笛の音が鳴り渡り、出航の合図が船団へ伝えられる。船員たちが慌ただしく動き始め、係留していた綱が解かれると、大船は軋みを上げながらゆっくりと岸壁を離れ始めた。
見送りに来ていた日巫女と須佐之男は並んで埠頭に立ち、遠ざかる船へ視線を向けている。潮風に長い髪を揺らしながら、日巫女は静かに手を振った。
「壱岐をお願いします」
その声に月読は深く頷く。
「必ず成し遂げてみせます」
船は次第に港を離れ、山門の町並みも少しずつ遠ざかっていく。
壱岐までの航海は数日。その先に待つのは海人族との交渉だった。果たして彼らが同盟を受け入れるのか、それとも拒絶するのか……月読は吹き付ける海風を受けながら、迫り来る未知の出会いへ思いを巡らせていた。
壱岐へ到着したのは三日後の朝だった。
朝霧の向こうに浮かぶ島影は、月読が想像していたよりも遥かに大きい。入り組んだ海岸線には大小の入り江が点在し、その周囲には無数の船が停泊していた。
「船が多いですね」
月読が感心したように呟く。
那岐は静かに頷いた。
「壱岐は海人族の島だからな。船こそが田畑であり、財産でもある」
船が港へ近づくにつれ、その繁栄ぶりはさらに鮮明になった。並んでいるのは漁船だけではなく、交易船や大型の輸送船も多く、筑紫各地から集まった商人たちの船が岸を埋め尽くしている。積荷を担いで行き交う人々の姿は絶えず、港全体が活気に満ちていた。
島の人口そのものは山門壱国ほどではない。だが海路を押さえることで生まれる富は想像以上であり、その光景を見た月読は思わず納得したように呟いた。
「姉上が欲しがるわけだ」
那岐は苦笑する。
「聞かれたら怒られるぞ」
そんな軽口を交わしながら、一行はやがて港へ上陸した。
しかし歓迎の空気はなく、港には海人族の戦士たちが槍を手に並び、その背後では屈強な男たちが警戒の目を向けていた。まるで敵国の使者を迎えるかのような張り詰めた雰囲気である。
その日の午後、一行は壱岐の長が待つ館へ案内された。海を見下ろす丘の上に建つ館の広間へ足を踏み入れると、中央には大柄な男がどっしりと腰を据えている。日に焼けた肌に太い腕、鋭い眼光を備え、その姿には海人族を束ねる長にふさわしい風格があった。
「山門の使者か」
低く響く声に、月読は一礼した。
「山門壱国の月読です」
「私が壱岐の主、押見彦である」
押見彦はまず月読を見つめ、続いて背後に立つ那岐へ視線を移した。その目はわずかに那岐の上で止まり、何かを感じ取ったように細められたが、追及することはなく再び月読へ向き直る。
月読は落ち着いた口調で切り出した。
「本日は友好の提案に参りました」
「友好?」
押見彦は鼻で笑い、手にした杯をゆっくりと傾けた。
「これまでにも似たような話は何度も聞いてきた」
「ならば話は早いはずです」
「そうでもない」
酒を一口飲み干した押見彦は、静まり返った広間を見渡しながら言った。
「壱岐は壱岐だ。山門の命令を受けるつもりはない」
その言葉には一片の迷いもなかった。明確な拒絶だったが、月読は表情一つ変えない。
「命令ではありません」
「同じことだ」
押見彦は即座に言い切る。
「山門壱国は連合と称して各国と同盟を結びながら、その中心に立ち、実質的には諸国を従えている。表向きは友好でも、力関係が生まれればやがて従属になる。違うと言うなら、なぜ今こうして壱岐にまで手を伸ばしてきた」
押見彦の鋭い視線が月読を射抜いた。
「結局のところ、お前たちも壱岐を飲み込みたいだけではないのか」
「違います」
「何が違う」
「交易によって壱岐はさらに豊かになります」
月読は落ち着いた口調で言った。
「山門壱国は筑紫最大の穀倉地帯です。壱岐が我らと結び付けば、食糧も交易品も安定して得られるでしょう」
押見彦は腕を組んだまま鼻を鳴らした。
「それは壱岐の利か?」
「もちろんです」
「違うな」
広間が静まり返る中、押見彦は月読を真っ直ぐ見据えた。
「それは山門の利だ」
月読が言葉を返そうとした瞬間、押見彦はさらに続ける。
「山門は田を持つ。壱岐は海を持つ。互いに足りぬものを補うだけなら話は簡単だ。だが、お前たちは違う」
「何が違うのですか」
「山門は同盟と言いながら、必ず中心へ座ろうとする」
鋭い視線が月読を射抜いた。
「ならば逆に聞こう。壱岐が山門の下に入る利があるなら、山門が壱岐の下に入っても同じではないか」
月読は思わず息を呑む。
「それは……」
「できぬだろう」
押見彦は即座に言い切った。
「なぜなら、お前たちは自らが上に立つべきだと思っているからだ」
その言葉に月読は反論できなかった。山門壱国は確かに諸国との同盟を広げているが、その中心にいるのは常に日巫女であり、最終的な決定権もまた山門にある。押見彦は、その本質を見抜いていたのである。
「日巫女は交易路を国の血管と言ったそうだな」
押見彦は窓の外へ視線を向け、海を顎で示した。
「ならば、その血管を握っているのは誰だ」
月読は答えられない。
「壱岐だ。漢へ向かう船も、韓へ向かう船も、この海を通る。山門が我らを必要としていることも理解している」
そこで押見彦は口元をわずかに歪めた。
「だからこそ従わぬ」
「……」
「必要とされる側が、自ら鎖を首に掛ける理由がどこにある」
その声には海人族の誇りが宿っていた。
「我らは海で生きる民だ。嵐も飢えも越えてきた。田畑の実りに頼らずとも生きられる。豊かになるために自由を差し出すつもりはない」
押見彦はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。その言葉にも態度にも一切の迷いはなく、利益も山門の狙いも理解した上で、それでもなお拒絶していることが伝わってきた。
その姿を見た瞬間、月読は悟った。
海は誰のものでもなく、嵐を越え、潮を読み、己の力だけで生きてきた海人たちにとって、誰かの庇護の下へ入るという発想そのものが受け入れ難いのだろう。
目の前に立っているのは、一人の王ではない。海人族の誇りそのものだった。
「従った国は皆、結局は山門の風下に入ったではないか」
月読は返答に詰まった。それは事実だった。同盟であれ、交易であれ、援助であれ、形こそ違えど最終的には日巫女の影響下へ組み込まれている。その現実を否定することはできない。
押見彦はそんな月読の沈黙を見逃さず、さらに言葉を重ねた。
「壱岐は海で生きる民だ。誰にも支配されん」
力強く言い切るその姿を見て、月読はようやく理解した。この男は利益だけで動く人間ではない。海人としての誇りを何より重んじ、その誇りを守るためなら不利益さえ受け入れる覚悟を持っている。だからこそ容易には屈せず、理屈や損得だけでは動かないのだ。
その後も交渉は数刻に及んだ。月読は交易による利益や港の発展、大陸との結び付きがもたらす未来を語り、考え得る限りの条件を提示し続けたが、押見彦が首を縦に振ることはなかった。やがて日が傾き始めると、押見彦は静かに立ち上がり、
「話は終わりだ」
とだけ告げる。その一言を最後に交渉は打ち切られた。
館を出た月読は深く息を吐いた。
用意していた条件はすべて提示した。それでも押見彦は首を縦に振らなかった。
「負けました」
ぽつりと漏れたその言葉には、初めて大役を任された者だけが味わう苦い敗北感が滲んでいた。 隣を歩く那岐は苦笑した。
「まだ一日だろう」
「ですが無理です」
月読は肩を落とした。自分は姉のように人を従わせる力もなく、須佐之男のように敵を圧倒する力もない
「利益も理解している。損得も分かっている。それでも断る」
「だろうね」
那岐はあっさり頷く。
「だから面白い」
その言葉に月読は呆れたような視線を向けた。
「父上は楽しんでいませんか」
「少しね」
返ってきた声は実に軽く、その表情には隠しきれない愉快さが滲んでいる。
二人はしばらく港沿いを歩いた後、高台へ腰を下ろした。夕陽に照らされた海は黄金色に輝き、湾内に並ぶ無数の船が穏やかな波間に揺れている。海風は心地よく吹き抜けていたが、月読の胸中は晴れなかった。
「父上ならどうしますか」
月読がそう尋ねると、那岐はしばらく海を眺めたまま答えた。
「私ならまず考える」
「何をです」
「海人族が何を信じているか」
月読は首を傾げる。その様子を見た那岐は小さく笑った。
「人は理屈だけでは動かない。特に誇り高い者ほどね」
月読は黙って父を見た。その横顔は穏やかだったが、どこか楽しげでもあった。
「そういえば、この島では自然崇拝がずいぶん熱心みたいだね」
その言葉を聞いた瞬間、月読の胸に嫌な予感が走った。
見覚えのある顔だった。山門で何度も目にしてきた、父がろくでもないことを思いついた時の表情である。
姉の前では常識人らしく振る舞い、嫌われないよう取り繕っているが、本来の父は好奇心旺盛で、妙な悪だくみを思いつくのが好きだった。そして、その本性は男同士になると決まって顔を覗かせる。
「父上……」
「なに?」
「何か企んでいますね」
月読が半眼で問いかけると、那岐は否定することもなく夜空を見上げた。いつの間にか満月が海の上へ昇り始め、その淡い光が波間を銀色に染めている。
「月読」
「はい」
「お前は月の神の名を持っている」
唐突な言葉に月読は眉をひそめた。
「だから何ですか」
すると那岐は口元を吊り上げ、実に楽しそうな笑みを浮かべる。
「月読。少しだけ、神になってみようか」
その瞬間、月読は深々と頭を抱えた。交渉こそ終わったものの、どうやら問題はこれかららしい。
交渉は失敗した。そして今度は、父の悪知恵が動き出そうとしている。
月明かりに照らされた海を眺めながら、月読は深くため息をついた。
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流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。
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