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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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三章 邪馬台国 四話 女王日巫女

 王位継承の儀を翌日に控えた夜、姫は一人で祭祀場の丘に立っていた。


 眼下には山門の集落に灯る無数の明かりが広がっている。海辺の漁師たちの家々、夜遅くまで火を絶やさぬ職人たちの工房、そして開墾された田畑の向こうに点在する新しい村々。そのすべては、三百年という途方もない歳月をかけて那岐が築き上げてきたものだった。


 洪水を防ぎ、田を広げ、争いを鎮め、多くの命を救ってきた父は、もはや単なる邑長ではない。人々にとっては土地を見守る神にも等しい存在である。その背中を継ぐことを思うたび、姫の胸には重い不安が押し寄せていた。


「本当に私で良いのでしょうか……」


 誰に向けるでもなく漏らした呟きに応えるように、背後から聞き慣れた声が届く。


「それを一人で決めようとしなくてもいいんだよ」


 振り返ると、いつの間にか那岐が立っていた。


「盗み聞きですか」

「ごめん、聞こえてしまったんだ」


 そう言いながら隣へ並んだ那岐とともに、姫は再び山門の夜景へ視線を向ける。しばらく沈黙が続いた後、那岐が静かに尋ねた。


「怖いのかな」


 姫は素直に頷いた。


「怖いです。皆は父上を信頼しています。でも私はまだ十五です。失敗したらどうしようと、そればかり考えてしまいます」


 那岐はすぐには答えず、夜の風に吹かれながら遠くを見つめていた。やがて穏やかな声で問い返す。


「姫は王とは何だと思う」

「民を導く者です」

「それも大切だね。他にはどう思う?」

「国を守る者です」

「それから?」


 重ねられる問いに姫は言葉を失った。

 すると那岐はわずかに微笑みながら言った。


「私はね、王とは未来を選ぶ人だと思っている」


 夜風が二人の間を吹き抜ける。


「民は今日を生きる。長たちは少し先を見る。だから王は、もっと遠い明日を考えなければならないんだと思う」


 その視線は闇の彼方を見据えていた。


「私は長く生き過ぎた。この国を育てることはできても、新しい時代を作ることはできない。これからは交易の時代だ。多くの国と手を結び、多くの文化を受け入れなければならない。その未来を作れるのは私ではなく、お前だ」


 姫は黙って耳を傾ける。


「奴国へ行きたいと言った時も、周囲の国々を見て回りたいと言った時もそうだった。そんな発想は私にはなかった。だから安心して任せられる」


 その言葉を聞いた瞬間、姫の胸が熱くなった。


 自分は未熟だと思っていた。まだ足りないものばかりだと思っていた。だが父は違う。ずっと前から、自分に未来を託そうとしていたのだ。


「父上」

「どうしたの」

「もし失敗したら」


 那岐は即座に答えた。


「やり直せばいい」


 あまりにもあっさりとした返事に、姫は思わず吹き出した。


「王がそんなことで良いのですか」

「良いと思うよ」


 那岐は穏やかに笑った。


「失敗したことがない人なんていないからね」

「父上もですか」

「もちろん」


 那岐は夜空を見上げる。


「私はたくさん間違えてきたし、たくさん後悔もしてきた」


 少しだけ寂しそうな顔になる。


「それでも生きている限りは、やり直せる」


 そして再び姫を見る。


「だから失敗を恐れなくていい」


 父が築いた国を守るだけではない。その先へ進める。新しい時代を切り開くために、自分は王になるのだ。

 やがて姫はまっすぐ前を向き、はっきりと口にした。


「決めました。私は王になります」


 那岐は何も言わなかった。ただ静かに娘の頭へ手を置き、優しく撫でる。

 幼い頃から変わることのないその温もりは、不思議なほど力強く、姫の決意をそっと支えていた。


 山門の地に朝日が昇る頃、丘の上に築かれた祭祀場には大勢の人々が集まっていた。広場を埋め尽くしているのは山門壱国の民だけではない。周辺の邑から招かれた長や使者たちも、この歴史的な日を見届けるために足を運んでいる。


 祭壇の中央には白装束を纏った姫が立っていた。十五歳となった姫にはまだ幼さが残っていたが、その姿には年齢を超えた不思議な威厳が宿り、朝日に照らされた長い黒髪が風に揺れるたび、人々の視線は自然と彼女へ引き寄せられていた。


 やがて祭壇の前へ進み出た那岐が静かに口を開く。


「本日をもって、私は邑長の座を退く。これより先、この国を導く者は姫だ。姫はこれより王となる」


 三百年近く山門を導いてきた男の突然の宣言に、広場は大きくざわめいた。人々は息を呑み、長たちも驚いたように顔を見合わせる。山門壱国にはこれまで王と呼ばれる存在はおらず、各地の長たちが協力しながら国を支え、その中心に那岐が立つという体制を長く続けてきた。だが今、その時代は終わりを迎えようとしていたのである。


 人々の視線が一斉に姫へ向けられた。あまりにも若い……そう感じた者も少なくなかった。


 しかし姫は動じることなく祭壇の前へ進み出ると、広場を埋める人々を見渡しながら澄んだ声で告げた。


「皆に伝えます。私は今日より日巫女と名乗ります。日巫女とは、天と地、そして祖霊の声を聞き、人々を導く者の名です」


 初めて耳にする名に人々は再びざわめいたが、姫は構わず言葉を続ける。


「私はこの国を豊かにします。争いを減らし、人々が安心して暮らせる国を築きます。そして周辺の国々とも手を取り合い、共に栄える道を探します」


 それは若き王の誓いであると同時に、新たな時代の幕開けを告げる宣言でもあった。


 この日を境に、山門壱国は静かに、しかし確かに姿を変え始めた。


 広場に集まった人々の中には、涙を浮かべて日巫女の名を呼ぶ者がいた。那岐の娘であれば間違いないと信じ、両手を合わせて深く頭を垂れる者もいる。一方で、周辺の邑から訪れた長たちは容易に膝を折ろうとはしなかった。若すぎる王。神を名乗る巫女。那岐という絶対的な存在の後ろ盾。そこに希望を見る者もいれば、山門がこれまで以上に力を強める前触れだと受け取る者もいた。


 ある長は感嘆の息を漏らし、ある使者は隣の者へ低く囁いた。祭壇の上に立つ少女が、ただの邑長の娘ではないことは誰の目にも明らかだったが、その少女に自らの国の未来を委ねてよいのか、まだ判断できずにいる者も少なくなかった。


 だが日巫女は、その視線のすべてを正面から受け止めていた。敬意も、疑念も、警戒も、期待も、逃げることなく見返した。その姿を見て、ざわめきは少しずつ静まっていく。人々はこの若き王が那岐の影に隠れているだけの娘ではなく、自らの言葉で国の未来を語ろうとしているのだと悟り始めていた。


 やがて一人の老いた長が、ゆっくりと膝を折った。


 それを合図にしたように、山門の民が頭を垂れ、続いて周辺の邑の使者たちも次々に身を低くしていく。最後まで立っていた数人の長たちも、那岐の静かな視線と、祭壇に立つ日巫女の揺るがぬ眼差しに押されるようにして、ついに膝をついた。


 その瞬間、山門壱国に初めて王が生まれた。


 それはただ一人の少女が位に就いたというだけの出来事ではない。長たちが寄り合い、那岐の威光によって保たれてきた古い時代が終わり、日巫女という名のもとに人々が一つの国としてまとまり始めた瞬間だった。




 数日後、日巫女となって初めての祭祀が執り行われた。


 夜の祭壇を囲むように大勢の人々が集まり、無数の松明が闇を照らしている。その中央へ進み出た日巫女が静かに両手を合わせて祖霊へ祈りを捧げると、次の瞬間、何もない夜空へ無数の淡い光が舞い上がった。


 人々の間から驚きの声が漏れる。蛍にも似た光は祭壇の上で渦を描きながら漂い、その周囲では祭壇だけを巡るような不思議な風が吹き始めていた。誰もが息を呑み、その幻想的な光景を見上げる。


 神々が降り立ったのではないか。

 そんな錯覚さえ覚える光景だった。


 その光景の奥に、静かに見守る那岐の姿があったことに気づいた者は誰もいない。人々にとって重要なのは理由ではなく、目の前で起きた奇跡そのものだった。


 祭壇を包む光と風は、やがて日巫女を中心にゆっくりと広がり、人々の心へ畏敬の念を刻み込んでいく。


 やがて日巫女が静かに目を開き、


「神託が下りました」


 と告げると、ざわめいていた広場は水を打ったように静まり返った。


「北の邑と新たな交易路を結びなさい。海辺の港を広げ、新たな田を開きなさい」


 それは神の言葉であると同時に、日巫女自身が思い描く国づくりの指針でもあった。

 こうして日巫女は祭祀を通じて神託を授け、人々を導くようになる。さらに塩や鉄器を贈り、婚姻を仲介しながら周辺諸国との結び付きを強めていったことで、その名は「神託を授かる巫女王」として次第に筑紫各地へ広まっていった。


 だが、あまりに急激な変化は期待だけでなく戸惑いも生んだ。


「本当に神の声なのか」

「日巫女様はまだ若い」

「今まで通りでは駄目なのか」


 そんな不安の声が各地で囁かれ始めると、前へ出たのは那岐だった。祭祀の場で神託を告げるのが日巫女の役目なら、その意味を説き、人々へ理解させるのは那岐の役目である。


「日巫女様は国の未来を見ておられる。慌てる必要はない。皆はこれまで通り働き、これまで通り暮らせばよい」


 三百年近く、山門を導いてきた那岐の言葉には、絶大な重みがあった。そのため人々の不安は少しずつ和らぎ、やがて日巫女を中心とする新たな体制は山門壱国の隅々まで深く根付いていくことになる。




 その夜、祭祀を終えた日巫女は一人で那岐の寝所を訪れた。戸を開けると、灯火の下で竹簡を読んでいた那岐が顔を上げる。


「まだ起きていたのですか」

「姫こそ遅いな」


 那岐が穏やかに微笑むと、日巫女はわずかに頬を膨らませた。


「姫ではなく日巫女ですわ」


 そう言いながら隣へ腰を下ろしたものの、その声には昼間のような威厳はない。祭壇の上で神託を告げ、人々を導く女王の姿はそこにはなく、父の前でだけ弱さを見せられる十五歳の少女がいるだけだった。


 しばらく沈黙が流れた後、日巫女は膝を抱えながら視線を落とし、小さな声で呟いた。


「父上……今日、怖かったです。皆が私を見ていました。期待も、不安も、全部です。もし失敗したらどうしようと、そればかり考えていました」


 那岐は何も言わずに耳を傾け、娘が胸の内を吐き出し終えるのを待った。そして静かに竹簡を閉じると、穏やかな声で言った。


「それでいい。王になっても怖くない者などいない。恐れるから考え、悩むから成長する。だから怖いと思うことは悪いことじゃない」


 その言葉に日巫女の表情は少し和らいだが、すぐに困ったような笑みを浮かべる。


「父上がいるから言えることですね」

「違うよ」


 那岐は即座に首を横へ振った。


「今日のお前が立派だったからだよ。皆の前に立ち、自分の言葉で国の未来を語った。あれは誰にでもできることじゃない。私は父として誇りに思っている」


 迷いのない言葉だった。


 日巫女は思わず吹き出し、それまで張り詰めていた心がほどけるのを感じた。幼い頃のようにそっと那岐へ身を寄せると、不老の父の変わらぬ温もりが肩越しに伝わってくる。三百年近い歳月を生きても、その優しさだけは何一つ変わらない。その温もりに包まれていると、胸の奥に渦巻いていた不安も少しずつ薄れていった。


「いつか父上を超える立派な女王になります」


 決意を込めてそう告げる娘の頭を、那岐は優しく撫でる。


「その日が来るのを楽しみにしているよ。でも私から見れば、もう十分立派な女王だ」


 窓の外では月光が静かに山門の地を照らしていた。人々が眠りについた夜の中で、親子だけの穏やかな時間がゆっくりと流れ、やがて更けていく夜は二人を静かに包み込んでいた。


 けれど、その夜だけは、まだ終わらなかった。

 祭祀を終えても胸の高鳴りは収まらず、気づけば幼い頃から変わらぬように那岐の寝所を訪れていた。那岐も何も言わない。那美が亡くなってから、日巫女が不安な夜にその隣へ潜り込むことは珍しくなかったからだ。


 灯火が消され、静寂が部屋を包むと、日巫女は那岐の胸元へ、そっと頬を寄せた。広く温かな胸だった。幼い頃から幾度となく寄り添ってきた場所であり、どれほど不安な時でも、この温もりに触れるだけで心は落ち着いた。


 今夜も本来なら、そのまま眠るはずだった。


 しかし隣から穏やかな寝息が聞こえた時、日巫女は思わず顔を上げていた。那岐はすでに眠っており、障子越しに差し込む月明かりが、その横顔を淡く照らしている。


 日巫女は無言で見つめた。

 何百年もの時を生きながら、那岐の容姿は少しも変わらない。美しく、気高く、そして誰よりも慈愛に満ちたその姿は、もはや人の域を超え、神話の中から現れた神そのもののように思えた。


 一方で、日巫女自身は成長していた。

 幼かった少女は十五歳となり、今では並んで歩いても親子には見えないかもしれない。身体つきも大人の女性へ近づいた。それなのに那岐は昔と何も変わらず、抱きついても寄り添っても、優しく頭を撫でてくれるだけだった。


 その手は温かく、愛情に満ちている。

 けれど、日巫女が求めているものはそこではなかった。


『触れてほしいのは……そこではないのに』


 胸の奥が疼く。


 分かっていた。これは子供が父へ抱く憧れではない。母を失ったあの日からずっと側で支え続けてくれた人を、いつしか一人の男性として愛してしまっていた。


 いつからだろう。気づけばその優しさだけでは満たされなくなり、那岐が他の誰かへ微笑みかける姿を想像するだけで胸が苦しくなり、その隣に立つ女性が自分ではないことに耐えられなくなっていた。


 那岐が好きだった。父としてではなく、一人の男として愛していたのである。


 初めてその想いに気づいた日のことを、日巫女は今でも鮮明に覚えている。月読や須佐之男と並んで那岐の帰りを待っていた夕暮れ、何気なく振り返ったその横顔がどうしようもなく美しく見えた。その瞬間、胸は激しく高鳴り、息が詰まりそうになるほどの熱が身体を駆け抜けた。そして日巫女は理解してしまったのだ。自分が抱いている感情は、娘が父へ向ける敬愛や憧れではなく、一人の女性が一人の男性へ抱く恋心なのだと。


 その事実を、日巫女は誰よりも理解していた。けれど同時に、その想いを決して口にしてはならないことも分かっている。


 自分は女王だ。

 山門壱国の女王、日巫女として国を導かなければならない。やがて国はさらに大きくなり、多くの国と縁を結び、子を成し、その血を各地へ広げなければならない。それが王として生きるということであり、為政者として果たすべき役目だった。


 だから、この恋が報われることなどありえない。


 理性では分かっている。それでも心だけは変えられなかった。どれだけ多くの人々と関わろうと、どれだけ多くの子を授かろうと、自分が愛する相手は生涯ただ一人、那岐だけなのだろう。


 そんなことを考えていると、那岐が小さく寝返りを打った。


 日巫女の身体が強張る。気づけば互いの顔は吐息が触れ合うほど近く、月明かりに照らされた那岐の寝顔が目の前にあった。


 いつもは意識して見ないようにしていた顔だった。見てしまえば理性が揺らぐから。けれど今の那岐は無防備で、長い睫毛も、整った鼻筋も、穏やかな寝顔も、すべてが愛おしかった。


 心臓が痛いほど鳴っている。


 ほんの少し顔を寄せるだけで届いてしまう。今なら寝返りの偶然だったと言い訳できるかもしれない。誰にも知られない。誰にも責められない。


 ただ一度だけ……。


 日巫女が震える唇を近づけようとした、その時だった。


「……なみ……」


 那岐が寝言を漏らした。

 日巫女は我に返ったように動きを止める。

 那美。

 母の名だった。


 十年経とうと、どれほど長い時が流れようと、那岐の心の中には今も母が生き続けている。日巫女はそっと身体を離し、天井を見上げながら、熱くなっていた胸の奥が少しずつ静まっていくのを感じた。


「母上は……ずるいです」


 返事はない。

 静かな夜だけが続いている。


「亡くなっても、父上を私にくれないのですから」


 そう呟くと、日巫女は苦笑した。嫉妬する相手が亡くなった母だなど、本当に馬鹿らしい。けれど、それが本音だった。


 窓の外では、月が静かに山門の地を照らしている。

 日巫女は目を閉じた。


 この想いを告げることはない。それでいい。女王には女王の務めがある。五歳のあの日、母を失った時から、自分は子供を卒業すると決めたのだから。


 けれど、今夜だけは、一人の少女でいたかった。

 明日になれば再び女王になる。

 人々を導き、神託を告げ、国の未来を背負う日巫女になる。

 だから、この温もりに甘えられるのは今夜だけだ。

 那岐の胸へそっと頬を寄せながら、日巫女は静かに眠りへ落ちていった。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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