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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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三章 邪馬台国 二話 外の世界

 その夜、居間には静かな灯火が揺れていた。那岐は手にしていた竹簡を閉じると、向かいに座る姫へ視線を向ける。


「父上は優しすぎますわ」


 姫は迷いなくそう言った。その眼差しには十三歳とは思えないほどの真剣さが宿っている。

 那岐は思わず苦笑した。


「いきなり厳しいな」

「事実ですもの」


 姫は少しも怯まなかった。


「長たちは皆、父上を慕っています。だから今はまとまっています。でも、それは父上だからですわ」


 那岐は反論せず、黙って続きを促した。


「村ごとに納める量も違いますし、交易の決まりも曖昧です。揉め事が起きれば長たちが話し合いで解決していますが、人が変われば判断も変わります」


「それぞれ事情が違うからな」


 那岐がそう答えると、姫は小さく頷きながらも視線を逸らさなかった。


「ですが国が大きくなれば、それでは立ち行かなくなります。良い人が治めるから国が続くのではありません。誰が治めても続く仕組みが必要なのです」


 その言葉を聞いた那岐は思わず目を細めた。どこか懐かしい感覚だった。かつて熊野で漣と共に文字を学び、大陸の知識へ触れていた頃、自分もまた似たようなことを考えていた記憶が蘇る。


「難しいことを考えるようになったな」

「父上が教えてくださったのです」


 姫は少しだけ微笑んだ。


「知識は人を導く力になると」


 那岐は小さく笑ったが、その胸中では別の思いが広がっていた。この娘は、もう自分が見ている場所より遥か先を見据えている。


 山門壱国は今や周辺でも最も豊かな国へ成長していた。広大な田畑には豊かな実りが広がり、整備された灌漑設備は安定した収穫を支え、港には交易船が絶えず出入りしている。多くの小国家が山門との繋がりを求め、その影響力は年々大きくなっていた。


 しかし姫の言う通り、この国には王がいない。那岐は人々から深く慕われていたが、自ら王を名乗ったことはなく、各地の長たちにも一定の自治を認めていた。強い支配によって従わせるのではなく、互いの信頼によって結ばれた緩やかな連合国家。それは平和な時代だからこそ成り立つ仕組みでもあった。


 だが姫は、その在り方に疑問を抱き始めていた。国がさらに大きくなった時も、本当に今と同じやり方で治め続けられるのか……その問いは既に彼女の胸の中で静かに根を張り始めていたのである。




 そして数日後、姫は再び那岐の前へ姿を現した。その真剣な表情を見た瞬間、那岐は嫌な予感を覚える。


「お願いがあります」

「今度は何だ」


 姫は一瞬も迷わなかった。


「伊都国へ行きたいです」


 予想通りの言葉に、那岐は額へ手を当てた。


「やはり来たか」

「奴国でも構いません」

「構わなくない」


 即座に否定すると、姫は不満そうに頬を膨らませたが、その瞳に諦める気配はない。


「竹簡だけでは足りません。大陸との交易がどのように行われているのか、人々がどのように暮らしているのか、どのような仕組みで国を治めているのか……実際に見なければ分からないことがあります」


 姫は一つ一つ言葉を選ぶように語った。その真剣な眼差しには知識への渇望と、まだ見ぬ世界への憧れが宿っている。


 那岐はすぐには答えられなかった。


 その顔を見ていると、かつての自分を見ているような気がしたのである。故郷を離れ、徐福の船へ乗り込み、海の向こうに広がる世界へ胸を躍らせていた少年の日の自分を。


 だが同時に、その旅が何をもたらしたのかも誰より知っていた。故郷との別れ、熊野での新たな暮らし、不死山で起きた惨劇、そして二度と取り戻せなかった数え切れない喪失。その記憶は長い歳月を経た今も消えることなく胸の奥に残り続けている。


 那岐は静かに息を吐くと、灯火の揺れる居間でゆっくりと口を開いた。


「姫。外の世界は書物ほど美しくはない」


 姫は何も言わず父を見つめ返す。


「そこには欲がある。争いがある。人を騙してでも利益を得ようとする者もいるし、山門では当たり前のことが通じない場所もある」


 揺れる炎の光が二人の間に静かな影を落とした。


「父上は見てきたのですか」

「……それなりにね」


 那岐は短く頷く。


「人は善い者ばかりではない。だが悪い者ばかりでもない。だから難しいんだ」


 その言葉には長い人生の実感が滲んでいた。

 姫は静かに耳を傾けていたが、那岐は苦笑を浮かべながら続ける。


「お前が学びたい気持ちは分かる。だが父としては心配なのだ。十三年育てた娘を、はいそうですかと遠国へ送り出せるほど肝は据わっていない」


 その率直な言葉に、姫はわずかに目を見開いた。

 普段の那岐は滅多に弱音を見せない。だからこそ、その言葉が飾りのない本音であることがよく分かった。


 居間にはしばし静かな沈黙が流れた。しかし姫は俯くことなく、真っ直ぐ父を見据えたまま口を開く。


「それでも見たいのです」


 声は穏やかだったが、その奥には揺るぎない意志があった。


「危険があることは分かっています。ですが、危険だからと目を閉じていては何も学べません。わたくしは父上が築いたこの国を、もっと良い国にしたいのです」


 その言葉を聞いた瞬間、那岐は胸の奥で小さく息を吐いた。

 もし那美が生きていれば、きっと横からたしなめてくれただろう。しかし今は違う。姫の願いを聞くのも止めるのも自分しかいない。


「駄目ですか?」


 上目遣いで見上げてくる姫を見つめながら、那岐は改めて悟る。

 もうこの娘は守られるだけの子供ではない。自らの意志で未来を選び、自らの足で歩こうとしている。

 その事実を認めなければならない時が、とうとう訪れていた。




 結局、ひと月後。山門壱国の外交使節団という名目で、一行は奴国へ向かうことになった。


 那岐としては姫だけを連れて行くつもりだったが、姉を慕う月読が同行を望み、さらに月読が行くと知った須佐之男まで黙っていなかった。結局、那岐、姫、月読、須佐之男の四人が揃って旅立つことになり、それが最も面倒の少ない選択だという結論に落ち着いたのである。


 出発の日、港では交易船の準備がすでに整い、船員たちが忙しく荷を運び込んでいた。潮風の中で帆がはためき、桟橋には見送りに訪れた人々の姿も見える。


「楽しみだね」


 船へ乗り込むなり月読が弾んだ声を上げると、姫も隠しきれない期待を滲ませながら頷いた。


「ええ。今まで読んだことのない書物が見つかるかもしれませんわ」


 その瞳はすでに遠い奴国へ向けられている。しかし隣に立つ須佐之男の関心はまるで別のところにあった。


「強い奴いるかな」

「そればかりですわね」


 呆れたように姫が返すと、須佐之男は楽しそうに笑った。


「いたら戦ってみたい」

「駄目です」


 即座に言い切られたものの、須佐之男はまったく気にした様子もない。そのやり取りを見ていた那岐は思わず苦笑を漏らした。


 三人とも同じように育ったはずなのに、興味を向ける先は驚くほど違う。だが、その違いこそがそれぞれの個性であり、成長の証でもあった。


 やがて船を繋いでいた綱が解かれ、大きく膨らんだ帆が春風を受ける。交易船はゆっくりと港を離れ、穏やかな波を切りながら奴国への航路へと進み始めた。




 奴国の市場へ足を踏み入れた瞬間、姫は思わず息を呑んだ。広場には夥しい数の人々が行き交い、耳に飛び込んでくる言葉も倭語だけではない。大陸の言葉を話す商人たちが声を張り上げ、異国の衣を纏った旅人が荷を運び、鉄器や青銅器、絹布、塩、干魚など様々な品が所狭しと並べられている。その光景は山門の市とは比べものにならないほど活気に満ちていた。


「すごい……まるで別の世界ですわ」


 姫の呟きに、隣を歩く那岐は小さく笑った。


「奴国は大陸との交易の窓口だからな。倭の国々だけでなく、海の向こうから来る商人も多い。人が集まれば物が集まり、物が集まればさらに人が集まる。長い年月をかけて、それを繰り返した結果がこの市場だ」


 姫は感心しながら市場の奥へ視線を巡らせた。そしてすぐに、山門との違いが人の多さだけではないことに気付く。


 市場は雑然としているようでいて、不思議なほど整然としていた。鉄器を扱う店は同じ一角に集められ、絹布や装飾品を扱う商人たちは別の区画に並んでいる。穀物や塩、干魚などの食料品もまとめて置かれ、人々は目的の品を探しやすいようになっていた。


 さらに市場の入り口近くには小さな役所のような建物があり、港から運び込まれた積荷はそこで確認され、許可を受けてから市場へ運ばれていた。


「あちらは何をしているのですか」


 姫が尋ねると、那岐は視線を向けた。


「港へ入った品を確認しているんだろう。交易が盛んな国ほど荷の管理が必要になる」


 言われてみれば、市場の端には大きな倉が並び、その近くには異国の商人らしき者たちが出入りする宿まで見えた。遠方から来た商人たちはそこで寝泊まりし、積荷を保管しながら商売をしているらしい。


 姫は無意識に山門の港を思い浮かべた。

 山門にも交易船は訪れる。市も開かれる。しかし品の置き場はその時々で変わり、荷の管理も長や顔役たちの記憶や経験に頼る部分が大きい。揉め事が起きれば話し合いで解決できるが、それは互いの顔が見える範囲だからこそ成り立つやり方でもあった。


 目の前の奴国は違う。

 人が増えても回る仕組みがあり、商人が増えても混乱しない工夫がある。人々の信用だけでなく、それを支える形が既に作られていた。


 その説明を聞きながら広場を見渡した姫は、胸の奥に小さな悔しさが芽生えるのを感じていた。山門壱国は豊かな国だと思っていた。父が築き上げた田畑は実りに満ち、人々は飢えることなく暮らし、港には交易船も集まっている。しかし実際に外の世界を見てみれば、その豊かさは決して倭全体の中で突出したものではない。目の前に広がる市場の規模と熱気、そしてそれを支える仕組みの数々は、自分が想像していた以上に大きな世界の存在を突きつけていた。


「姉上、どうしたの?」


 隣を歩く月読が不思議そうに尋ねると、姫は市場から目を離さぬまま静かに答えた。


「少し悔しいのです」

「悔しい?」

「ええ。山門は立派な国だと思っていました。でも、こうして見比べてみると、まだ足りないものが沢山ありますわ」


 月読は改めて市場を見渡した後、首を傾げる。


「でも山門も良い国だよ」

「だからこそです」


 姫は力強く言った。


「父上が築いた山門には豊かな土地がありますし、人々も勤勉です。長たちも協力的で、他の国にはない強みも沢山あります。足りないものがあるなら学べばいい。優れたものがあるなら取り入れればいいのです」


 そう語る姫の瞳は、市場の賑わいではなく、その先にある未来を見据えていた。


「奴国ができることなら、山門にもできるはずですわ」


 月読は苦笑した。


「姉上らしいね」

「何ですの、その言い方は」

「普通は凄いなって感心して終わるのに、姉上はどうすれば山門をもっと良くできるかを考えているから」


 その言葉に姫は小さく笑ったが、否定はしなかった。奴国の豊かさを認めることは悔しい。しかし、それ以上に嬉しかった。なぜなら、自分が目指すべき場所が見えたからである。

 姫は目を輝かせながら市場を見渡していたが、やがて一人の老人へ歩み寄る。その老人は奴国でも名の知れた商人で、交易船の手配や品物の仲介を請け負い、多くの商人たちから信頼を集めている人物だった。


「お聞きしたいことがあります」


 そう声を掛けると、老人は十三歳ほどの少女が真剣な表情で自分を見上げていることに気付き、興味深そうに目を細めた。


「ほう、何かな」

「なぜ商人たちは奴国へ集まるのですか」


 思いもよらぬ問いに老人は小さく笑うと、市場全体を見渡しながら答えた。


「集まるから集まるのですな」


 姫が不思議そうに首を傾げると、老人は続けた。


「ここへ来れば欲しい物が手に入る。だから商人が来る。商人が来れば品が増える。品が増えればさらに人が集まる。そうして長い年月をかけて、この市場は大きくなったのです」


 姫は静かに頷いた。山門も交易によって栄えているが、奴国はさらに大きな流れの中心に位置している。その違いは市場を一目見ただけでも理解できた。


 しかし姫の関心はそれだけでは終わらない。


「では、品の価値は誰が決めるのですか」

「価値?」

「鉄一振りと米十俵。場所によって交換する量が違うと聞きました」


 老人は感心したように目を細めた。


「確かに違いますな」

「なぜですか」

「欲しがる者が多ければ高くなり、少なければ安くなる。それだけのことです」

「決まりはないのですか」

「ないな」


 老人は即答した。


「長同士が話し合って目安を決めることはありますが、最後は人が決める。結局、売る者と買う者が納得するかどうかです」


 その答えに姫はしばらく考え込んだ。奴国は確かに栄えている。しかし、その交易を支えているのは厳格な制度や明文化された決まりではなく、人と人との信用だった。


「揉めることはありませんか」

「もちろんあります」


 老人は苦笑しながら肩を竦める。


「だからこそ皆、信用できる相手と取引したがるのです。一度でも騙せば次から誰も相手にしてくれませんからな」


 姫はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。


 制度でもない。文字でもない。まず先にあるのは人と人との信頼であり、それこそが今の倭国の交易を支える土台になっている。


 だが同時に、その仕組みはどこか脆くも見えた。信用できる者がいなくなればどうなるのか。人が増え、顔も知らない者同士が取引するようになればどうなるのか。そして国がさらに大きくなった時、このやり方だけで本当に支え続けられるのだろうか。


 姫が老人商人との話を終えた頃、少し離れた場所では月読が大陸商人の露店の前に座り込み、熱心に竹簡を読み比べていた。


 露店には見慣れない文字が記された竹簡や木簡が並び、その隣には青銅製の装飾品や異国の貨幣が置かれている。


「これは何と読むのですか」


 月読が竹簡の一文字を指差しながら尋ねると、商人は感心したように目を細めた。


「ほう、お前さん、この文字が気になるのか」

「はい。見たことのない形です」


 商人は月読の隣へ腰を下ろし、指先で文字をなぞった。


「これは『郡』という字だ。漢では広い土地を治めるために使われている」

「郡……」


 月読は呟きながら何度も文字を書き写した。


「ではこちらは?」

「それは『県』だな」

「県?」

「郡の下に置かれる土地だ」

「漢にはそんなに細かい決まりがあるのですか」


 月読が驚くと、商人は笑った。


「大きな国だからな。決まりがなければ治めきれん」

「面白いですね」


 月読の目は好奇心で輝いていた。


「この竹簡はどこから来たのですか」

「楽浪郡だ」

「こちらは?」

「帯方郡だな」

「帯方郡は楽浪郡と何が違うのですか」

「場所も違うし、人も違う。扱う品も違う」

「なるほど……」


 月読は何度も頷きながら話を聞いていた。


 姫が国の仕組みに興味を抱くなら、月読は文字や知識そのものへ強く惹かれていた。新しい言葉を知ることも、見たことのない文字を学ぶことも、彼にとっては宝物を見つけるのと同じくらい楽しいことだったのである。


 一方その頃、須佐之男の姿は市場のどこにも見当たらなかった。


「あれ?」


 月読が顔を上げる。


「そういえば須佐之男は?」


 姫も周囲を見回した。


「またいなくなりましたわ」


 嫌な予感を覚えながら辺りを探すと、那岐が苦笑しながら港の方角を指差した。


「あそこだ」


 三人が視線を向けると、須佐之男は船乗りたちの中へ当然のように混ざり込み、大きな綱を引いていた。


「おおおっ!」


 まだ幼いはずの少年が必死に綱を引く姿に、船乗りたちは腹を抱えて笑っている。


「坊主、なかなか力があるじゃねえか!」

「もっと重いのはないのか!」


 須佐之男が元気よく叫ぶと、


「ははは! お前、本当に子供か!」


 と船乗りたちはさらに笑った。

 綱引きが終わると、今度は船の積荷へ興味を示し始める。


「この船はどこまで行くんだ?」

「伊都国だ」

「もっと遠くは?」

「海の向こうの韓まで行く船もあるぞ」

「韓か!」


 須佐之男は目を輝かせた。


「強い奴はいるのか?」

「いるだろうな」

「戦えるか?」

「お前はそればかりだな!」


 船乗りたちは大笑いした。

 さらに近くでは護衛の男たちが槍や剣の手入れをしており、須佐之男はそちらへ駆け寄る。


「その槍、触っていいか?」

「怪我するぞ」

「しない!」

「絶対する」

「しない!」

「する!」


 しばらく押し問答が続いた後、護衛の男は根負けしたように槍を差し出した。


「少しだけだぞ」

「おおっ!」


 須佐之男は嬉しそうに槍を受け取る。


「軽いな!」

「軽くねえよ」

「これで熊を倒せるのか?」

「倒せる」

「奴国の戦士は皆これを使うのか?」

「もっと良い槍を持っている奴もいるな」

「見てみたい!」


 その様子を見ていた姫は深いため息を吐いた。


「月読は文字ばかり、須佐之男は武器ばかりですわね」


 月読は苦笑した。


「姉上も人のこと言えないと思うけど」

「わたくしは勉学です」

「僕から見たら同じだよ」


 姫は少し不満そうな顔をしたが、否定できなかった。

 那岐はそんな三人を見ながら静かに笑う。

 三人とも同じ家で育ったはずだった。


 同じ食卓を囲み、同じ景色を見ながら成長してきた。それなのに姫は国の在り方へ心を向け、月読は知識を求め、須佐之男は武と冒険へ惹かれている。


 その違いはまだ幼い個性のようにも見えたが、那岐には何となく分かっていた。

 この子たちは、いずれそれぞれ異なる道を歩むのだろう。

 そしてその道は、きっと倭国の未来へ繋がっていくのである。




 市場の喧騒を眺めながら、姫の胸には新たな疑問が静かに芽生え始めていた。

 しかし姫の心を最も強く惹きつけたのは、市場の賑わいでも交易の仕組みでもなかった。


 祭祀場に飾られた青銅の祭器や大きな銅鐸、そして磨き上げられた銅鏡である。


 陽光を受けて輝くそれらの姿を目にした瞬間、姫は思わず足を止めた。青銅の表面には空と流れる雲が映り込み、まるで神々の世界へ通じる窓のように神秘的な光を放っている。


「綺麗……」


 思わず零れた呟きの後も、姫はしばらく銅鏡から目を離せなかった。その前では人々が自然と姿勢を正し、祭祀を司る者の言葉へ静かに耳を傾けている。


 やがて祭祀場の中央から法螺貝にも似た低く長い音が響き渡ると、広場を満たしていたざわめきは波が引くように静まった。祭祀を司る老人が祭壇の前へ進み出ると、それまで値段の交渉をしていた商人たちは言葉を止め、荷を運んでいた男たちも自然と手を休める。さらに漁師と思われる日に焼けた男たちや、荒々しい腕を持つ船乗りたちまでもが祭壇へ向き直り、当然のように頭を垂れた。


 その光景に姫は思わず目を見開いた。


 誰かに命じられたわけではない。武器を持った兵が周囲を囲んでいるわけでもない。それにもかかわらず、その場にいた誰もが当然のように膝を折り、祭祀の始まりを待っていたのである。


 祭壇の前に掲げられた銅鏡は夕陽を受けて黄金色に輝き、その光を背にした老人が厳かに祈りの言葉を唱え始めると、人々は一言も発することなく耳を傾けた。


 姫はその光景から目を離せなかった。


 山門壱国にも祭祀はある。しかし、これほど多くの人々が身分や立場の違いを越え、一つになって頭を垂れる姿を見たことはなかった。


 父である那岐の言葉に従わない者はいる。長たちの判断に不満を抱く者もいる。交易の場では利害がぶつかり、揉め事も絶えない。けれども神の前では違った。商人も漁師も職人も旅人も、それぞれ異なる立場を持ちながら、同じ神へ祈りを捧げている。


 なぜ人は目に見えぬものの前でこれほど素直になれるのだろうか。

 姫は祭壇を見つめながら静かに考えた。


 国をまとめるのは力だけではなく、決まりや制度だけでもない。人々が共に信じ、心から従いたいと思える何かもまた、国を支える大きな力なのかもしれない。


 姫はまだ、その力に名を付けることができなかったが、祭壇の前で頭を垂れる人々の姿だけは、深く心に刻まれていた。


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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