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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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二章 国産み 十三話 黄泉の別れ

 春の陽射しが山門の地を柔らかく包み込み、海から吹く風は冬の名残をすっかり失っていた。丘の上に建つ那岐の家の周囲では草花が芽吹き始め、庭先には子供たちの楽しげな声が響いている。


 五歳になった姫は弟の月読の手を引きながら庭を歩いていた。那美に似て利発な姫は年齢以上にしっかりしており、三歳になった月読の世話も自然と引き受けている。


「月読、畑の中に入ったら駄目だよ」


 蝶を追いかけて畑へ踏み込みかけた弟を見つけ、姫は慌てて手を掴んだ。


「でも蝶々がいた」

「お野菜を踏んじゃうでしょ」


 月読は納得できない様子で頬を膨らませたが、姉に手を引かれると素直についていく。その微笑ましい姿を縁側から眺めていた那岐は、思わず口元を緩めていた。


「姫は本当にしっかりしたな」


 その声に振り返ると、大きく膨らんだ腹を支えながら那美がゆっくりと歩いてくる。


「あなたが月読を甘やかし過ぎるからよ」

「まだ三歳だぞ」

「姫だって五歳なのに」

「姫も可愛いし、月読も可愛い」


 あまりにも迷いのない答えに、那美は呆れたように肩をすくめた。


「比べる気もないのね」

「子供は全員可愛いからな」


 那岐は真顔で言い切る。その様子に那美は思わず吹き出し、穏やかな笑い声が庭へ広がった。

 やがて姫が二人のもとへ駆け寄る。


「母さま、赤ちゃんはいつ生まれるの?」


 那美は腹へ優しく手を添えながら微笑んだ。


「もうすぐよ」

「妹かな?」

「弟かもしれないぞ」


 那岐が口を挟むと、今度は月読まで駆け寄ってくる。


「弟!」

「どうして?」

「一緒に遊ぶから!」


 その答えに姫が笑い出し、那美も声を上げて笑った。月読は何がおかしいのか分からないまま首を傾げている。


 そんな家族の姿を見つめながら、那岐は胸の奥に満ちる静かな幸福を感じていた。


 漣を失ってから数十年。不老という呪いを抱えながら生き続けてきたが、今の那岐には守りたいものがあった。愛する妻がいて、可愛い子供たちがいる。それだけで十分だった。




 その夜、那美に陣痛が訪れたのである。

 家には村の産婆たちが集まり、室内は慌ただしい空気に包まれた。姫と月読は別室へ移され、那岐だけが家の外へ追い出される。


 敵との戦いなら恐れない。巨大な妖を前にしても怯えない。だが、出産だけはどうすることもできなかった。


 那美の苦しそうな声が聞こえるたび胸が締め付けられ、落ち着かないまま家の周囲を何度も歩き回る。そんな父の姿を見かねたのか、姫がそっと近寄ってきた。


「父さま」

「どうした」

「大丈夫だよ」


 小さな手が那岐の大きな手を握る。


「母さま強いもん」


 その言葉に那岐は苦笑しながら頷いた。


「ああ、そうだな」


 娘に慰められる父親など情けないと思いながらも、その小さな手の温もりは不思議と胸のざわめきを和らげてくれた。那岐が深く息を吐いたその時、不意に家の中から力強い産声が響き渡り、静まり返っていた夜気を震わせる。弾かれたように顔を上げた那岐が戸口へ視線を向けると、ほどなくして戸が開き、産婆が安堵の表情を浮かべながら姿を現した。


「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」


 その言葉を聞くや否や、那岐は家の中へ駆け込んだ。室内では出産を終えた那美が疲れた様子で横たわっており、その腕の中には生まれたばかりの赤子が抱かれている。小さな身体を精一杯震わせながら泣く姿を見た瞬間、胸の奥から抑えきれない感情が込み上げてきた。


「男の子だったわね」


 那美がかすかに微笑む。那岐はそっと赤子を抱き上げた。あまりにも小さく、少し力を入れれば壊れてしまいそうなほど頼りない身体だったが、その胸には確かに命の鼓動があり、腕の中には温かな重みがあった。その温もりを感じた途端、那岐の目頭は熱くなり、自然と視界が滲む。傍らでは姫と月読も目を輝かせながら身を乗り出し、新しく生まれた弟の顔を興味深そうに覗き込んでいた。


「弟?」


 姫が目を輝かせながら尋ねると、那岐は腕の中で眠る赤子を見つめ、小さく頷いた。


「ああ、弟だ」

「名前は?」


 重ねて問われた那岐はしばらくその寝顔を見つめていたが、やがて穏やかな声で告げた。


「須佐之男。……この子の名は須佐之男だ」


 姫は嬉しそうに何度もその名を口にし、月読も負けじと幼い声で真似をする。


「すさのお!」


 無邪気な声が家の中に響き渡ると、那美は幸せそうに微笑み、那岐もまた我が子たちを見つめながら静かに目を細めた。こうして新たな家族が誕生し、その場にいた誰もが未来へ続く穏やかな日々を疑うことなく喜びを分かち合っていた。


 だが、その安らぎに満ちた時間は、あまりにも突然終わりを告げることになる。


 赤子を抱いていた那岐は、やがて部屋の空気にどこか異様な緊張が漂っていることに気付く。産婆たちは慌ただしく動き回り、何度も布を取り替えていた。出産直後なのだから当然だろうと最初は気に留めなかったが、一人、また一人と表情が曇り始める様子を見て、胸の奥に言い知れぬ不安が広がっていく。


 那美もまた、どこか様子がおかしかった。額には脂汗が浮かび、産後の疲労だけでは説明のつかないほど顔色が青白い。


「那美」


 呼びかけると、那美は微笑もうとした。


「大丈夫よ」


 そう答えたものの、その声には力がなく、言葉を発するだけでも辛そうだった。


 その間にも産婆たちは次々と布を替え続けている。真新しい布が当てられたかと思えば、たちまち赤く染まり、再び取り替えられる。その光景が何度も繰り返されるうちに、那岐の表情から笑みは完全に消えていた。


「どうした」


 低い声で問いかけても誰も答えない。室内には重苦しい沈黙だけが広がり、聞こえるのは産婆たちの慌ただしい足音と、生まれたばかりの須佐之男の小さな泣き声だけだった。


 やがて年長の産婆が唇を固く結びながら顔を上げる。その目には隠しきれない焦りと諦めが浮かんでいた。


「血が……止まりません」


 絞り出すような声だった。


 那岐は思わず那美へ視線を向ける。床に敷かれた布には赤黒い血が滲み続け、どれだけ拭っても止まる気配がない。那美の顔色はさらに悪くなり、唇からも血の気が失われていた。


「何とかならないのか」


 思わず声を荒げた那岐に、産婆たちは苦しげな表情で首を振ることしかできなかった。


「できることは全てしております」


 その言葉の先を誰も続けようとはしない。口にしてしまえば、それが避けられない現実として形を持ってしまうような気がしたからである。


 那岐は須佐之男を姫へ預けると、那美の傍らへ膝をついた。冷静でいようとしても心臓は激しく脈打ち、胸の奥から込み上げる恐怖を抑えきれない。その光景は、忘れようとしても消えることのなかった遠い日の記憶を容赦なく呼び覚ましていた。


 不死山で繰り返された不死草の実験。苦しみながら命を落としていった人々の呻き声と鼻を突く血の匂い、そして冷たくなっていった漣の身体……その記憶を、那岐は忘れたことがなかった。


 妖術なら使える。炎を操り、風を呼び、大地を揺らし、空さえ飛べるほどの力を手にしていた。だが、人の命を救う術だけは持っていない。


 身体のことを学ぼうとするたび、脳裏には実験台にされた人々の姿が蘇った。傷を見れば血の匂いを思い出し、命を救うための知識に触れようとするたびに、守れなかった漣の顔が浮かび上がる。その記憶から逃れるように、那岐は長い年月をかけても医術だけは学べずにいたのである。


 いつか学べばいい。必要になった時でも間に合う。どこかでそう思っていた。


 しかし、その時は突然訪れた。


 どれほど長い時を生きようと、どれほど強大な力を手にしようと、目の前で失われようとしている妻一人救うことができない。その事実が胸を容赦なく締め付け、那岐は震える手で那美の手を握り続けた。



「死ぬな……那美、頼む」


 弱々しい声で懇願すると、那美は薄く目を開き、苦しそうな呼吸の合間に微かに微笑んだ。


「そんな顔しないで……私、幸せだったよ」


 その言葉は別れの挨拶のように聞こえ、那岐は激しく首を振った。


「まだ終わってない。お前は生きるんだ。子供たちだっている」


 だが、那美は静かに首を横へ振る。自分の命が尽きようとしていることを、誰よりも本人が理解していた。

 だからこそ、今のうちに託さなければならない願いがあった。


「お願いがあるの」


 那岐は言葉も出せないまま頷いた。

 那美は弱々しく視線を動かし、姫、月読、そして生まれたばかりの須佐之男を順番に見つめる。その眼差しは我が子たちの姿を心に刻み込むように優しく、どこまでも愛情に満ちていた。


「この子たちを守って……姫を、月読を、須佐之男を……その先に生まれる子たちも」


 そこまで言ったところで呼吸が乱れ、胸が大きく上下する。那岐は震える手で那美の手を握り締めた。


「そんなことを言うな。お前も一緒に――」


 必死の言葉だったが、那美は静かに首を横へ振った。


「あなたは……長く生きる人だから。お願い、この子たちを見守ってあげて」


 那岐は唇を強く噛み締めた。胸の奥では様々な感情が荒れ狂っていたが、それでも最後の願いだけは受け止めなければならなかった。


「ああ……約束する」


 その返事を聞いた那美は、ようやく安心したように微笑む。そして愛おしそうに那岐を見つめながら、小さく言葉を紡いだ。


「ありがとう……愛してる」


 かすかな囁きが途切れると同時に、那美の身体からふっと力が抜けた。握っていた指先は静かに動きを止め、その手から最後の温もりが失われていく。まるで時間そのものが止まったかのような静寂が部屋を包み込み、誰一人として言葉を発することができなかった。


 那岐はただ呆然と那美の顔を見つめ続ける。今にも呼吸を取り戻し、名前を呼べば目を開いて微笑んでくれるような気がした。しかし、どれだけ待っても閉じられた瞼が開くことはなく、その穏やかな表情だけが変わらずそこに残されていた。


 やがて異変に気付いた月読が不安そうな声を漏らした。


「おかあさん?」


 返事はない。


 月読は母の傍へ駆け寄ると、小さな手で肩を揺すりながら何度も呼びかけた。


「おかあさん。起きて」


 それでも返事は返ってこない。


 三歳の月読には死というものが理解できなかった。なぜ母が目を開けないのか、なぜ抱き締めてくれないのか、その理由は分からない。ただ、これまで当たり前のように傍にいてくれた存在が、どこか遠くへ行ってしまうような恐怖だけは本能的に感じ取っていた。


「おかあさぁん!」


 悲痛な泣き声が部屋いっぱいに響き渡る。月読は何度も那美へ抱きつき、その名を呼び続けた。その姿はまるで、悲しみに押し潰されながらも父親として立ち続けなければならない那岐の代わりに、心の奥底に溜まった苦しみを全て吐き出しているかのようだった。


 那岐の胸中では叫びたいほどの苦痛が荒れ狂っていた。失ったのは愛する妻であり、姫と月読、そして生まれたばかりの須佐之男にとって唯一の母親だった。しかし、ここで自分まで崩れてしまえば残された子供たちは立ち上がれなくなる。その思いだけが辛うじて理性を繋ぎ止め、溢れ出そうとする涙を必死に押し留めていた。


 姫の膝の上では、生まれたばかりの須佐之男が小さな寝息を立てていた。赤子は何も知らない。母の死も、家を覆う深い悲しみも知らぬまま、温かな布に包まれて眠り続けている。


 姫は須佐之男を抱き締めながら、少し離れた場所に横たわる母を見つめていた。

 本当は駆け寄りたかった。母の身体にしがみつき、『母さま』と呼びながら声を上げて泣きたかった。


 だが、それはできなかった。

 父は母の傍らから離れられず、月読は涙を流しながら何度も母を呼び続けている。そして自分の腕の中には、生まれたばかりの須佐之男がいた。


 もし自分まで泣き崩れてしまえば、この子を抱く者はいなくなる。

 幼い姫は唇を強く噛み締め、須佐之男を抱く腕にそっと力を込めた。肩は小さく震えていたが、それでも声だけは漏らさない。


 夕暮れの光が障子越しに差し込み、その横顔を淡く照らしている。

 その姿を見つめた那岐は胸を締め付けられた。


 そこにいるのは母を失った五歳の娘だった。しかし、その小さな背中は不思議なほど大きく見えた。姫は誰よりも早く、自分が守る側に立たなければならないことを理解していたのである。


 この日、姫は母を失った。

 そして、まだ五歳の小さな背中に、守るべきものの重さを知った。




 那美が旅立った夜、山門壱国は不思議なほど静まり返っていた。昼間まで響いていた子供たちの笑い声も村人たちの話し声も消え、春の風だけが家々の間を吹き抜けている。遠くからは寄せては返す波の音が微かに聞こえ、その静けさがかえって喪失の大きさを際立たせていた。


 家の中では、泣き疲れた月読が眠りにつき、姫もまた生まれたばかりの須佐之男を腕に抱いたまま静かな寝息を立てていた。須佐之男は母を失ったことなど知るはずもなく、小さな身体を丸めながら姫の胸元で穏やかに眠っている。


 那岐は囲炉裏の火が消えかけた部屋の隅に座り込み、揺らめく残り火を見つめながら静かに室内を見渡した。そこには那美の面影が至るところに残っていた。囲炉裏の傍で子供たちへ食事をよそっていた姿、縁側で洗濯物を畳みながら笑っていた姿、月読を抱き上げてあやし、姫の話に嬉しそうに耳を傾けていた姿。目を閉じれば鮮明に浮かび上がるのに、その姿はもうどこにもなく、どれほど願っても二度と戻らない。その現実を理解しているはずなのに、心だけが受け入れることを拒み続けていた。


 やがて那岐は重い身体をゆっくりと起こし、子供たちを起こさぬよう静かに戸を開けて外へ出た。


 夜空には無数の星々が瞬いている。その光景を見上げた瞬間、遠い昔の記憶が胸の奥から蘇った。漣を失ったあの日も、空には同じように星が輝いていた。あの時も守れなかった。そして今夜もまた、最も大切な人を失ったのである。


 不老の身体を得ても何も変わらない。何百年生きようと、どれほど強大な妖術を手にしようと、決して手の届かない別れは存在し、守れない命は確かに存在する。その事実は鋭い刃のように胸を抉り、那岐は静かに目を閉じた。


 胸の奥では今なお悲しみが渦巻いていた。叫びたい衝動もある。全てを投げ出してしまいたい気持ちもある。しかし、それは許されなかった。家の中には三人の子供たちがいる。那美が命を懸けて残した未来であり、最後に託した希望だった。


 那岐が振り返ると、窓から漏れる小さな灯火が闇の中で揺れていた。その灯の向こうには姫が眠り、月読が眠り、須佐之男が眠っている。それは今の那岐にとって、この世で最も大切な光だった。


 春の夜風が静かに吹き抜ける。その風に背中を押されるように、那岐は星空を見上げながら小さく呟いた。


「約束は守る」


 それは那美との最後の約束だった。


「この子たちは私が守る。その先に生まれる者たちも」


 星々は何も答えなかった。それでも那岐には、どこか遠くから見守られているような気がした。長い人生はまだ終わらない。この先も数え切れないほどの別れを経験するだろう。それでも歩みを止めることはできない。愛した者たちが遺した未来のために。


 那岐は静かに家へ戻ると、眠る子供たちの傍らへ腰を下ろした。姫は須佐之男を抱きしめたまま眠り、月読は泣き腫らした顔のまま母を探すように身を丸めている。その姿を見つめているうちに、那岐の強張っていた表情から僅かに力が抜けた。


 悲しみは消えない。喪失も埋まらない。だが、守るべきものがある限り、人は前へ進むことができる。


 囲炉裏の火が静かに揺れる中、那岐は子供たちを見守りながら夜明けを待った。


 こうして山門壱国から一人の母が去った。しかし、その死は終わりではない。


 やがて夜明けの光が山門の地を静かに照らし始める。その柔らかな光の中で、母を失った三人の子供たちはまだ眠り続けていた。


 ……まだ誰も知らない。

 この夜、母の亡骸の傍らで涙を堪えた幼い少女が、やがて山門の祈りを一身に背負う存在となることを。

 そして、眠る二人の弟もまた、後の世に神の名で語られることを。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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