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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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二章 国産み 十一話 共に生きる

 初夏の日本海は驚くほど穏やかだった。青く広がる海原の上を、一隻の小さな帆船が北へ向かって進んでいる。本来なら何週間もかかる航路だったが、その船は常識では考えられない速さで波を切り裂いていた。


 船尾に立つ那岐の周囲には薄く白い靄のようなものが漂い、帆には絶え間なく追い風が吹き込んでいる。自然の風ではない。那岐が妖術によって風を操り続けているのだ。大きく膨らんだ帆は力強く風を受け、船体は海鳥すら追い抜く勢いで海面を滑っていた。


 船首に立つ那美は、吹き付ける風に髪をなびかせながら子供のような歓声を上げた。つい先ほどまで近くに見えていた島影は、気付けば遥か後方へ小さく遠ざかっていた。


「速い! 速いよ那岐! さっきまで見えていた島が、もうあんなに後ろになってる!」

「速くしてって強請ったのは那美でしょ」

「そうだけど、こんな速さで船が進むなんて聞いたことないよ。漁師のおじさんたちが見たら腰を抜かすと思う」

「見せたら二度と普通の船に乗れなくなるだろうな」

「絶対そうなる」


 那美は声を弾ませて笑いながら身を乗り出し、陽光を反射して煌めく海原へ視線を向けた。


「ねえ、本当に妖術って便利だね。風を呼べるなら嵐の日も困らないし、漁も楽になるし、遠くの国までだって行けるじゃない」


 無邪気な言葉に、那岐は苦笑を浮かべる。


「便利なことばかりじゃないよ」

「でも今は便利でしょ?」

「今は便利だね」

「ほら」


 那美は勝ち誇ったように胸を張った。


「那岐ってたまに難しく考えすぎるんだよ。便利な時は便利って言えばいいのに」

「長く生きると色々考えるようになるさ」

「それ、おじいちゃんみたい」

「おじいちゃんだぞ」

「見えない」


 即座に返ってきた言葉に、那岐は思わず吹き出した。何百年も生きてきた自分が、十六歳の娘に「見えない」と断言されるのだから可笑しい。潮風に吹かれながら笑う那美の横顔を見つめ、那岐もまた穏やかな笑みを浮かべた。


 海は穏やかで、空には雲ひとつなかった。旅へ出る前のぎこちなさが嘘のように、那美はいつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。その横顔を眺めながら、那岐は胸の内で静かに思う。本当に強いのは自分ではなく、この娘なのだろうと。


 家族を失い、故郷を失いながらも、那美は嘆きに沈むことなく前を向いて歩き続けてきた。幼い頃からそうだった。どれほど辛い現実に打ちのめされても、傷を抱えたまま立ち上がり続ける。その強さは、何百年という歳月を生きてきた自分ですら及ばないものかもしれない。


 そんな思いを胸に抱くうちに船は順調に海を進み、やがて出航から七日目の朝を迎えた。夜明けの光に染まる水平線の彼方には、ついに陸地の影が浮かび上がり、那岐は船首へ歩み寄ると遠くを見据えた。


「見えてきた」

「本当?」


 那美も慌てて身を乗り出し、目を凝らす。

 青い海の向こうには長く続く海岸線が伸び、その背後には幾重もの山並みが重なっていた。朝日に照らされた大地はどこまでも広がり、遠目にも豊かな土地であることが伝わってくる。


「あれが北陸?」

「ああ」

「思ったより大きい……」


 感嘆したように呟く那美に、那岐は静かに頷く。


「昔から豊かな土地だった」

「那岐はここで暮らしてたんだよね?」

「数十年くらいかな」

「でも大事な場所なんでしょ?」


 その問いに、那岐は遠くの海岸線へ視線を向けたまま黙り込んだ。その向こうには、遠い昔に置き去りにした記憶が眠っている。笑い合った日々も、失ったものも、二度と戻らない時間も、すべてがこの地に繋がっていた。

 やがて那岐は小さく息を吐き、


「ああ」


 とだけ答えた。


 短い言葉だったが、その一言には懐かしさも後悔も感謝も、言葉では語り尽くせないほど多くの想いが込められていた。那美はそれを感じ取ったのだろう。それ以上は何も尋ねず、そっと那岐の隣へ並ぶと、近づいてくる北陸の大地を二人で静かに見つめ続けた。


 やがて船は湾内へ入り、港へと近付いていった。

 その光景を目にした那美は思わず息を呑む。


「すごい……。山門の港も賑やかだけど、ここは全然違うね」


 岸には数十隻もの船が並び、漁船だけでなく大型の荷船も停泊していた。魚を運ぶ者、荷を積み下ろす者、商人たちの呼び声が絶え間なく響き、その活気は海風に乗って沖合の船上にまで伝わってくる。


「山門の港より大きいかもしれないな」


 那岐は懐かしむように目を細めながら、賑わう港町を見つめた。


「昔からこんなだったの?」


 那美が尋ねると、那岐はゆっくりと首を横に振る。


「いや。私が初めて訪れた頃は、村でもなく小さな集落だったよ。家の数も今の十分の一ほどしかなく、田畑も村の周囲にわずかに広がっている程度だったな。だが人々は親から子へ、子から孫へと土地を受け継ぎながら少しずつ田を広げ、水路を延ばし、港を整えてきた。その積み重ねが、この景色を作ったんだ」


 那美は改めて港を見渡した。目の前の賑わいは最初からそこにあったように見える。しかし実際には、何百年もの歳月と無数の人々の暮らしが折り重なった先に生まれたものなのだと気付かされる。


「でも、その最初を作った人たちの中には那岐もいたんでしょ?」


 そう言うと、那岐は少し困ったような笑みを浮かべた。


「ほんの少し手伝っただけだ」

「そんな顔して言われても説得力ないよ。絶対もっと頑張ったでしょ」


 那美が疑いの目を向けると、那岐は肩を竦めながら海の方へ視線を逃がした。


「さて、どうだったかな」


 曖昧に誤魔化すその態度が、かえって図星だと物語っているようで、那美はますます怪しそうな目を向けるのだった。


 船を降りて村へ足を踏み入れると、そこには懐かしい景色が広がっていた。

 山裾には巨大なため池が横たわり、そこから伸びる幾筋もの水路が枝分かれしながら広大な田畑へ絶え間なく水を送り続けている。那岐は思わず足を止めた。


「残っていた……」


 感慨を滲ませた呟きに、隣を歩いていた那美が不思議そうに首を傾げる。


「何が?」


 那岐はため池から目を離さないまま答えた。


「あの池だよ。海彦たちと一緒に掘った。当時のままだよ」


 その言葉に那美は目を丸くした。水面には青空が映り込み、岸辺では子供たちが無邪気に遊んでいる。


「やっぱり那岐が作ったんだ」

「なんだ、その言い方は」

「だって山門のため池とそっくりなんだもん。池から水を引いて途中で何本にも分けるところとか、あの石組みとか。見た瞬間に分かったよ」

「同じ人間が考えたからな、流石だ私」

「普通、自分でそんなこと言う?」

「事実だから仕方ない」


 平然と言い切る那岐に、那美は呆れたように肩をすくめた。


「少しくらい謙遜しようよ」

「長く生きていると謙遜する気力もなくなる」

「絶対関係ないでしょ、それ」


 那美の笑い声が辺りに響く。その声を聞きながら、那岐はわずかに口元を緩めて再びため池へ視線を向けた。


 三百年前、この場所はただの土の窪地に過ぎなかった。海彦と共に鍬を振るい、村人たちと泥だらけになりながら土を運び続けた日々が脳裏によみがえる。土木の知識も道具も乏しい時代、わずかな勾配を測りながら水路を引き、人々の暮らしを支えるために必死で築き上げたものだった。それがため池となり、なおも村の田畑を潤し続けている。


「……ちゃんと役に立っていたんだな」


 静かに漏れた言葉は誰に聞かせるものでもない。遠い昔、ともに汗を流した仲間たちへ向けた、小さな報告のような独り言だった。




 そんなやり取りを交わしながら村の中を歩いていると、道沿いに小さな祠が見えた。石を積み上げて作られた素朴な祠の前には季節の果物や花が供えられ、その中央には丁寧に包まれた握り飯まで置かれている。


「ねえ、那岐。あれ何だろう?」


 足を止めた那美が首を傾げると、那岐は祠を一瞥した。


「知らない。村にはああいう祠くらい珍しくもないだろう」

「でも気になる」


 そう言って那美は、ちょうど近くを通りかかった老人へ声を掛けた。


「こんにちは。あの祠は何を祀っているんですか?」


 老人は足を止め、穏やかな笑みを浮かべる。


「豊穣の神様じゃよ。昔、この辺りの人々へ田の作り方や水路の掘り方を教え、飢えに苦しんでいた村を豊かにしてくれた神様だと伝わっておる」

「へえ……」


 感心したように頷いた那美は、ゆっくりと隣の那岐へ視線を向けた。その視線に気付いた那岐は、先回りするように顔をしかめる。


「違うぞ」

「まだ何も言ってないのに?」

「お前の考えていることくらい分かる。今、『絶対那岐じゃん』と思っただろう」


 図星を突かれた那美は吹き出した。


「だって条件が揃いすぎてるんだもん」


 すると老人は不思議そうな顔をしながらも話を続けた。


「しかもその神様は握り飯が大好物だったそうでな。今でもこうして供えておるんじゃ」


 老人の言葉を聞いた瞬間、那美の肩がぴくりと震えた。


「……っ」


 必死に笑いを堪えているのが丸分かりだった。


「どうした?」

「い、いえ……なんでもありません」

「顔色が悪そうじゃが」

「だ、大丈夫です……本当に……」


 老人は首を傾げながらも納得したように頷き、そのまま去っていく。礼を言って見送った二人は、老人の姿が通りの向こうへ消えた途端、とうとう堪えきれなくなった。


「あははははは!」


 那美は腹を抱えて笑い出した。


「那岐、完全に神様じゃない! 田んぼを作って、水路を掘って、村を豊かにして、おまけにおにぎり好きだなんて!」

「伝承は大抵誇張されるものだ」

「誇張でそこまで一致するかなあ」

「偶然だ」

「絶対違うと思う」


 那美は祠を指差しながらさらに笑い続ける。


「昔、夜中にこっそり来て食べたりしてない?」

「してない」

「本当に?」

「本当だ」

「絶対怪しいなあ。『おお神様、どうぞお召し上がりください』なんて言われながら食べてたりして」


 わざと声色を変えて再現すると、那岐はつい吹き出した。


「はぁ……」


 わずかに漏れた笑い声に、那美は目を丸くする。漣を失ってから長い年月が流れた。笑うことがなかったわけではないが、こんなふうに肩の力を抜いて笑ったのはいつ以来だっただろう。


「やっと笑った」


 嬉しそうに微笑む那美に、那岐は少し照れたように視線を逸らした。


「那美が騒がしいからだ」

「それって褒め言葉?」

「好きにして、もう……」


 笑い声が収まるにつれて那岐の表情は少しずつ静かなものへ戻り、楽しい旅の時間がここで終わったことを告げるように、その眼差しは避け続けてきた場所へ向けられていた。




 村を抜け、山道を登り、岩山の頂へ向かった。墓前には静かな風が吹いている。

 日本海から吹き上げる潮風が二人の髪を揺らし、眼下では白い波が岩礁へ砕け散っている。那岐は墓標へ視線を向けたまま、しばらく言葉を探していた。何から話せばいいのか分からなかったのだ。三百年という歳月はあまりにも長く、その間に見てきたものも、失ったものも、胸の奥に抱え込んできたものも多すぎた。


 やがて那岐は静かに口を開く。


「那美、お前は私が国を作った人間だと思っているだろう」

「うん」

「皆そう言う。豊穣の神だとか、国造りの祖だとか、好き勝手に呼ぶ者もいる」


 苦笑を浮かべながら、那岐は小さく首を振った。


「だが本当の私は、そんな立派な人間じゃない。私はずっと逃げ続けてきた」

「逃げてた?」

「ああ」


 那岐はゆっくり頷く。


「漣を失った時、私は何も守れなかった。守ると約束した相手を目の前で失い、自分だけが生き残った。本当なら私が死ぬべきだったのかもしれないと、何度考えたか分からない」


 風が吹き抜け、墓標の前に供えられた花が小さく揺れた。


「それでも死ねなかった。不老だからな。老いることもできず、病にもならず、死のうとしても死ねない。だから私は生きるしかなかった」

「漣さんのことを忘れないために?」

「最初はそう思っていた」


 那岐は遠い海を見つめた。


「だが気付けば違っていた。忘れないためじゃない。忘れるのが怖かったんだ。もし新しい幸せを見つければ漣を裏切る気がしたし、もし誰かを好きになれば、あの人を忘れてしまう気がした。だから私は思い出だけを抱えて生き続けていた」


 自嘲するような笑みが浮かぶ。


「今思えば馬鹿な話だ」

「そんなことないよ」


 那美は静かに言った。


「だって、それだけ大切だったんでしょ」


 那岐は目を閉じる。


「大切だった」


 その一言には、途方もない時間の重みが込められていた。


「私は漣と生きたかった。家を建てて、子供を育てて、老いて皺だらけになっても、一緒に笑っていたかった」


 那岐は静かに目を伏せた。


「だが、それは叶わなかった」


 二人の間に長い沈黙が流れる。

 やがて那美は静かに問いかけた。


「今でも漣さんが好き?」


 那岐は迷わなかった。


「ああ。今でも好きだ」


 その答えを聞き、那美の胸は少しだけ痛んだ。けれど目を逸らすことはなかった。


「そうだと思った」

「怒らないのか」

「怒らないよ」


 那美は小さく笑う。


「だって、そんなの最初から分かってたもん。ずっと忘れられない人がいることくらい」


 そう言って墓を見つめると、少し照れたように笑った。


「正直ね、最初は悔しかったんだ」

「悔しかった?」

「うん。だって私は十三年しか知らないんだよ。一緒にご飯を食べた時間も、海へ行った時間も、喧嘩した時間も、全部合わせて十三年しかない」


 そして墓標へ視線を向ける。


「でも、この人は違う。那岐の初恋で、人生で一番幸せだった時間を一緒に過ごして、死ぬ瞬間まで傍にいた人なんだよね」


 那美は苦笑する。


「そんな人に勝てるわけないじゃない」


 那岐は何も言えなかった。


「だから途中で考えるのをやめたんだ」

「勝とうとするのを?」

「うん。漣さんになろうとしても無理だし、私は私だもん」


 そう言って笑う。


「だって私、文字なんて教えられないし、勉強も苦手だし、山門の子供たちに授業なんてできないし」


 那岐は思わず吹き出した。


「それは確かだな」

「ひどい」


 二人は少しだけ笑う。

 だが那美はすぐに真剣な表情へ戻り、真っ直ぐ那岐を見つめた。


「でもね」


 その声は静かだったが、揺るぎなかった。


「私は漣さんにはなれない。でも、那美にはなれる」


 那岐は息を呑む。


「漣さんが那岐を支えたみたいに、私も支えたい。私も那岐が好き。それじゃ駄目かな」


 那岐は答えられなかった。

 胸の奥で、長い間凍り付いていた何かが少しずつ溶け始めていた。

 そして那美は最後の問いを投げかける。


「那岐」

「なんだ」

「私が皺だらけのお婆ちゃんになっても、一緒にいてくれる?」


 那岐は黙ったまま、その顔を見つめる。


「髪が真っ白になっても?」

「……ああ」

「歩けなくなっても?」

「ああ」

「寝たきりになっても?」

「それでも傍にいる」


 那美は嬉しそうに微笑んだ。


「だったら十分だよ」


 そう言ってそっと那岐の手を握る。


「人はみんな死ぬ。それは仕方ない。でも、生きている間は一緒にいられる」


 真っ直ぐな瞳が那岐を見つめる。


「私は百年後のことより、今の方が大事」


 那美は優しく笑った。


「だから……那岐の人生を、少しだけ私にください」


 その言葉を聞いた瞬間、漣を失ったあの日から固く閉ざされ続けていた那岐の心は、ようやく静かにほどけていった。


 失った痛みが消えることはないし、漣を忘れることもない。だが、それでいいのだと那岐は初めて思えた。お前と過ごした日々は失われるものではなく、自分という人間を形作る大切な一部であり、その記憶を抱えたまま生きていくことこそが、自分に与えられた時間なのだと受け入れられたのである。


 那岐はゆっくりと立ち上がると、墓標へ視線を向けた。


「聞いていただろう、漣」


 日本海から吹き上げる潮風が岩山の頂を抜け、供えられた花を小さく揺らしていく。その風を受けながら、那岐はどこか懐かしむように目を細めた。


「お前を失ってから、私はずっと同じ場所にいた。国を作り、人々に田の作り方を教え、港を築き、争いを止めてきた。それでも心だけは、あの夜から動いていなかった」


 自嘲するような笑みが口元に浮かぶ。


「皆は私を立派だと言う。中には神と呼ぶ者までいる。だが本当は違う。私は、お前との思い出に支えられながら生きてきただけだ」


 墓標は何も答えない。しかし遠くで響く海鳥の鳴き声と穏やかな波音だけが、長い沈黙を埋めるように二人の間へ流れ込んでいた。


「辛い時も、苦しい時も、いつも考えていた。お前ならどう言うだろうと」


 そう言って目を細めた那岐の表情には、悲しみよりも懐かしさが滲んでいた。


「きっと叱るだろうな。昔から、譲らない時は本当に譲らない人だった」


「へえ、なんだか意外。もっと大人しい人を想像してた」


 那美が小さく笑うと、那岐も肩の力を抜いたように微笑む。


「普段は穏やかだったよ。だが大事なことだけは決して譲らなかった。それでいて最後には笑うんだ。だから私は逆らえなかった」


 那岐は一度言葉を切り、墓標を見つめたまま静かに息を吐いた。


「漣。今日は報告に来た」


 その声には、もう迷いはなかった。


「私はこの子と共に生きる。笑って、悩んで、喧嘩して、支え合いながら生きていく」


 そう言って隣に立つ那美へ視線を向ける。その眼差しは穏やかで、長い年月を経てようやく辿り着いた答えを確かめるようでもあった。


「お前を忘れるわけじゃない。お前と過ごした日々は、これからも私の中に残り続ける」


 那美は何も言わず、そっと那岐の手を握った。那岐もまた、その温もりを確かめるように握り返す。


「それでも、今を生きるこの子の手を取りたい」


 潮風が二人の間を吹き抜け、遥か下の岩礁では白波が砕け散る。


「許してくれとは言わない。ただ、見守っていてくれ」


 その時吹いた風は、不思議なほど優しかった。まるで長い年月を経てようやく前を向いた那岐の背中を、静かに押してくれているかのようだった。




 墓を後にした二人は、そのまま港の方へ足を向けた。

 昼下がりの港は活気に満ちていた。荷を運ぶ男たちの掛け声が響き、岸壁では漁師たちが網を繕っている。潮風に乗って魚を焼く香りが漂い、海鳥たちが空を旋回していた。


 那美は港の賑わいを眺めながら歩いていたが、不意に足を止めると、隣を歩く那岐へ視線を向けた。


「ねえ、那岐」

「なんだ?」

「少しだけ」


 そう言って那美は那岐の袖をそっと引いた。


 港には荷を運ぶ人々の声が響き、潮風が帆を揺らしている。行き交う人々は誰ひとりとして二人を気に留めず、それぞれの仕事や暮らしに追われていた。そんな喧騒の中、振り返った那岐へ向かって那美は一歩だけ距離を詰める。海から吹き込んだ風が二人の衣を揺らし、石畳へ伸びた影がゆっくりと重なった。


 那美の足の先がそっと那岐の足へ触れる。

 逃がさないように。離れてしまわないように。

 ほんのわずかな触れ合いだった。けれど那美には、それがどんな言葉よりも確かな返事に思えた。


 波が岸壁へ砕ける音が静かに響き、港の喧騒さえ遠く感じられるほど短い沈黙が二人を包む。

 やがて風が通り過ぎると、重なっていた影はゆっくりと離れた。那美は一歩下がり、少しだけ頬を赤く染めながら視線を逸らす。


「……行こっか」


 何事もなかったかのようにそう言って歩き出すが、再び那岐の隣へ並んだその足取りだけは、隠しきれない喜びを滲ませるように軽やかだった。




 帆船は穏やかな波に揺られながら沖へ向かっていた。漣の墓参りを終えた那美は船縁に腰を下ろし、きらめく海を眺めていたが、不意に隣に立つ那岐へ視線を向けた。


「ねえ、山門へ帰るんだよね?」

「ああ。墓参りも済んだし、長く国を空けるわけにもいかない」

「それは分かるけど……この船はどうするの? まさかまた一週間かけて戻るわけじゃないよね?」

「いや、船はここに置いていく」


 那岐は当然のことのように答えた。

 那美は思わず聞き返す。


「置いていくって……この船を? せっかくここまで乗ってきたのに?」

「帰りは逆風になる。帆船で戻れば来る時より時間がかかる」

「帰りはどうするの?」

「飛ぶ」


 那岐はそう言うと、静かに右手を差し出した。

 那美はその手を見つめる。


 海で遭難して、初めて山門の空を飛んだ時のことを思い出していた。余りの美しさに見惚れ、那岐に抱きかかえられたまま何もできなかった。


 けれど今は違う。那美は微笑みながら、その手を握った。


「今度は抱っこしてくれないんだ?」

「必要ないだろう」

「私はどちらもでいいんだけど~」


 繋がれた手から温もりが伝わる。

 その瞬間、銀色の妖気が那岐の身体から溢れ出し、光は二人を包み込むように広がり、やがて薄い衣のように那美の全身へまとわりついた。冷たさはない。不思議と温かく、どこか懐かしい感覚だった。


「これ……」

「私の妖気だ。身体を守っている」


 那岐がそう告げると、二人の足元がふわりと浮き上がる。

 砂浜が遠ざかり、波音が小さくなっていく。

 那美は驚きながらも、握った手を離さなかった。


「すごい……」

「手を離したらだめだよ」

「うん」


 銀色の光は翼のように二人を包み込み、そのまま大空へ舞い上がった。

 眼下には青い海が広がり、遠くには白い雲が浮かんでいる。

 那美は空を見上げながら小さく笑った。


「すごい鳥になったみたい」

「前回もそうだったんじゃ」

「断然、こっちの方がいい。今は一緒に飛んでるじゃない」


 那岐は少しだけ目を細めた。


「ああ」


 短い返事だった。

 だが、その一言には言葉以上の意味が込められていた。

 守られるだけだった少女は、いつの間にか隣を歩く存在になっていた。


 銀色の光は風と共に流れ、西の空へ伸びていく。

 那岐と那美は固く手を繋いだまま、その光の先へ飛び続けた。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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