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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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二章 国産み 十話 決意

 初夏の風が山門の海を渡り、青々とした稲穂を揺らしていた。


 那美が那岐へ想いを告げてから、一か月が過ぎている。しかし二人の関係は以前よりもぎこちなくなっていた。


 これまで当たり前のように隣で眠っていた那美が布団を抱えて近寄ると、那岐は困ったような顔をする。添い寝をしようとしても何かと理由をつけて避け、食事の席でも視線を合わせようとしない。


 それは決して那美を嫌っているからではなかった。


 寒い夜に怖がって布団へ潜り込んできたことも、熱を出して泣きながら腕を掴んできたこともある。三歳で家族を失い、泣くことさえできなくなっていた幼い少女は、いつも那岐の隣で眠り、その寝顔を見守ることが当たり前だった。


 だが今の那美はもう子供ではない。漁へ出れば男たちに負けない働きを見せ、村の若者たちが振り返るほど美しい娘へと成長していた。そして何より、自分への想いをはっきりと言葉にしている。


 添い寝を求められるたびに胸が妙に落ち着かず、隣に座るだけで意識してしまう。潮風を含んだ髪が肩を掠めれば視線を逸らしたくなり、そんな自分自身に那岐は戸惑っていた。


 那美は娘だった。初めて笑った日も、魚を釣ってはしゃいだ日も、熱を出して一晩中看病した日も鮮明に覚えている。そんな少女を娘として育ててきたはずなのに、今は一人の女性として見ている自分がいる。


 それを認めてしまえば、長い年月をかけて築いてきた何かが変わってしまうような気がした。だから那岐は答えを出すことからも、那美と向き合うことからも逃げ続けていたのである。


 だが、その逃避こそが那美を傷つけていることも分かっていた。


「那岐……だめなの?」


 那美が尋ねた。もう父さまとは呼ばない。その名を口にするたび、自分はもう娘ではないのだと告げているような気がした。

 那岐は視線を逸らした。


「そういうわけじゃない」

「じゃあ、どういうこと?」


 問い返されても那岐はすぐには答えず、しばらく沈黙したあと、小さな声で呟いた。


「……ごめん」


 その一言だけを残して話を終わらせてしまう態度は、まるで那美を避けているようにしか見えなかった。

 最初は腹が立った。せっかく勇気を振り絞って想いを伝えたのに、どうしてそんな態度を取るのか理解できなかったのである。しかし、感情のまま怒りをぶつけたところで何も解決しないことも分かっていた。




 そこで那美は、村の年長の女性たちに相談することにした。漁師の妻として長年家族を支え、幾人もの子を育て上げてきた母親たちは、事情を聞くなり顔を見合わせ、どこか微笑ましそうに笑った。


「十三年も娘として育ててきたんだ。急に女として見ろと言われても、男の方が戸惑うものさ」


 そう言われても那美には今ひとつ実感が湧かない。


「でも、嫌なら嫌って言うはずでしょ?」


 率直に尋ねると、女性は苦笑しながら頷いた。


「その通りだよ。嫌ならとっくに断っているさ。それに那岐様は昔からあんたに甘かっただろう。熱を出せば付きっきりで看病して、海へ出ると言えば誰より反対した。それでも最後には船の操り方も潮の読み方も全部教えてくれたじゃないか」


 言われてみれば確かにそうだった。那美が何かを望めば、那岐はいつも心配しながらも最後には背中を押してくれた。


「大事にしすぎているんだよ」


 女性は穏やかな口調で続けた。


「親として育ててきた時間が長すぎたんだろうね。だから今さら女として見ようとしても、気持ちの方が追いつかないのさ」


 那美は黙り込んだ。好きなら好きでいいではないかと単純に考えていたが、女性たちの話を聞くうちに、那岐が自分を拒絶しているわけではないことだけは分かってきた。


「焦らなくていいさ。那岐様は逃げるかもしれないけど、那美のことを見捨てたりはしないよ。むしろ逆だろうね」


 女性たちは顔を見合わせながら笑う。


「大切だから逃げてるんだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、不思議と胸の奥に燻っていた怒りがすっと消えていった。那岐は自分を拒んでいるのではない。父として育ててきた娘への情と、一人の女性として見始めている気持ちとの間で迷い、苦しんでいるだけなのだ。そのことを理解した時、那美は初めて那岐の抱えている葛藤の大きさを知った。




 ある夜、炉の火が静かに燃える家の中で、那美は向かいに座る那岐を真っ直ぐ見つめていた。


「話がある」


 その声に、那岐は少し身構えたように顔を上げる。那美は深く息を吸い込み、覚悟を決めるように言葉を続けた。


「私は気持ちは変わらない。那岐と添い遂げたい」


 真剣な声だった。那岐は何も答えず、ただ静かにその言葉を受け止めている。


「だけど、那岐がわたしを見てくれないと前には進めない。どうしたら、ちゃんとわたしを見てくれるの?」


 那美の問いかけに、那岐はすぐには答えられなかった。揺れる炎を見つめたまま、長い沈黙が二人の間に落ちる。

 炉の中で薪が静かに爆ぜ、その音に耳を傾けながら揺れる炎を見つめていた那岐は、胸の奥に眠る面影を思い出していた。三百年の時が流れても、あの日失った人の笑顔だけは少しも色褪せない。


 文字を教わった日々のことを今でも鮮明に覚えている。紙の上で何度も筆を取り直しながら不器用な文字を書く自分を見て、漣はいつも楽しそうに笑っていた。


『那岐は覚えるのが早いね』


 そう言って褒められるたび、那岐は少しだけ誇らしい気持ちになったものだった。


 熊野で暮らした穏やかな日々も思い出す。山菜を採りながら他愛もない話を交わし、海を眺めながら未来を語り合った。家を建てよう、子供ができたら文字を教えよう――そんな当たり前の幸せが、これから先もずっと続いていくと信じていた。


 だが、その願いは最後の夜に打ち砕かれた。逃げ場のない絶望の中でも、漣は最後まで那岐の手を握り続けていた。きっと誰よりも怖かったはずなのに、自分を気遣うように微笑もうとしていた姿を、那岐は忘れられない。


 守りたかった。誰よりも幸せになってほしかった。それなのに守ることができなかったという後悔だけが、三百年もの間、胸の奥に棘のように残り続けている。


 だからこそ那岐は向き合うことを避けてきた。思い出に縋っていれば、失った悲しみから目を逸らせる気がしていたからだ。しかしそれは違う。過去に縛られたまま生き続けることは、長い年月をかけて自分を待ち続けてくれた那美にも失礼であり、何より漣との日々を悲しみの中へ閉じ込め続けることでもあった。


 漣は優しい人だった。もし今の自分を見たなら、きっと困ったように笑いながら言うだろう。


『いつまで立ち止まっているの』


 そんな声が聞こえた気がして、那岐は静かに目を閉じた。


 忘れることはない。これから先も漣を忘れることはないだろう。それでも、漣との思い出は立ち止まるためのものではなく、前へ進むためにある。


 だからもう逃げない。

 過去からも、那美からも。

 那岐は静かに顔を上げ、揺れる炎の向こうにいる那美を真っ直ぐ見つめた。


「その前に、私の過去を知ってほしい」

「過去?」


 那美が不思議そうに問い返すと、那岐は小さく頷いた。


「ああ。私が何者だったのか。なぜ老いないのか。そして何を失い、何を背負って生きてきたのか……そのすべてを知ってほしい」


 炉の火が静かに揺れ、その明かりが那岐の横顔を照らし出す。


「三百年の間、誰にも話さなかったことだ。その中には、おそらく那美を苦しめる話もある」


 漣の名はまだ口にしなかった。しかし胸の奥には、あの日から一度も消えたことのない面影が今も残り続けている。


「私は今も、その人を忘れていない」


 その言葉に那美の胸はわずかに痛んだ。それでも目を逸らさない。那岐もまた逃げることなく、その視線を受け止めていた。


「だから知ってほしい。それでも私を選ぶと言うなら、その時はもう迷わない」


 それは返事を先延ばしにするための言葉ではなかった。過去からも、那美からも逃げずに向き合うという、那岐自身の覚悟の表明だった。


 那美はしばらく黙ったまま那岐を見つめていたが、やがて柔らかな微笑みを浮かべる。


「うん」


 短い返事だった。けれど、その一言だけで十分だった。


 那岐がようやく自ら前へ進もうとしている。その事実だけで、那美の胸は温かく満たされていたのである。


 それから数日後、二人は旅の準備を始めた。向かう先は北陸……三百年前、那岐が最愛の女性を埋葬した地だった。




 出発の前日、那岐は各地の長たちを集めていた。


 集まった男たちは、それぞれ邑や港を任されている者たちである。かつては那岐と共に田を開き、水路を掘り、荒れ地を切り拓いてきた若者たちだったが、今では家族を持ち、多くの人々を率いる立場になっていた。


「しばらく留守にする」


 那岐がそう告げると、一人の長が苦笑しながら肩を竦めた。


「そんな顔をするな。俺たちは、もう子供じゃない」


 その言葉に別の長も頷く。


「田の管理も交易も問題ない。海沿いの警備も任せておけ。何かあれば長同士で話し合うさ」


 すると周囲からも同意の声が次々と上がり、広間にはどこか頼もしい空気が満ちていった。

 その様子を見ながら、那岐は静かに息を吐く。

 国を興したばかりの頃は違った。争いの仲裁も田畑の開墾も、各地の問題も、自ら先頭に立って動かなければならなかった。しかし今は誰もがそれぞれの役目を理解し、自ら考え、判断し、動けるようになっている。


「ありがとう」


 那岐がそう言うと、最年長の長が豪快に笑った。


「礼を言うのはこっちだ。だから安心して行ってこい」


 広間の者たちも大きく頷く。その姿を見つめながら、那岐は胸の奥に静かな感慨が広がるのを感じていた。

 かつて人々は食べるための土地を求めて争い、飢えを恐れながら明日を生き延びることだけを考えていた。しかし今では海に船が行き交い、各地の邑は交易で結ばれ、人々は来年の収穫だけでなく、その先の未来を語るようになっている。

 自分が伝えてきた技術や知識もすでに多くの者へ受け継がれ、この国はもはや那岐一人が支え続ける場所ではなくなっていた。人々が自ら考え、自ら選び、自ら歩いていける国へと成長している。


 その事実が、那岐には何よりも嬉しかった。 


 朝日に照らされた浜辺には、小型の帆船が一隻停泊していた。漁船よりひと回り大きい程度の船だったが、二人で旅をするには十分な大きさであり、その白い帆は初夏の風を受けて静かに揺れている。

 三百年前、漣を抱いて北へ向かった時とは正反対の旅立ちだった。

 あの時は絶望しかなかった。しかし今は違う。見送りに集まった人々の笑顔と温かな声に包まれながら、那美は誰よりも早く船へ駆け寄った。


「本当に行くんだね!」


 弾むような声を上げると、そのまま勢いよく甲板へ飛び乗り、船首まで駆けていく。


「北の海なんて初めてだ!ねえ那岐、北って寒いの?」

「今の時期なら大丈夫だ」

「雪は残ってる?」

「山には残っているかもしれないな」

「見てみたい!」


 目を輝かせる那美の姿に、見送りの人々から思わず笑い声が漏れた。


「まったく、墓参りというより旅行だな」

「昔から海を見るとああだからな」


 そんな声も耳に入らないのか、那美は綱の結び目を確かめたり、帆を見上げたりしながら、子供のように辺りを見回している。


「那岐!」

「なんだ」

「帰ってきたら北の話をみんなに聞かせようね!」

「ああ」

「交易できそうな港があったら覚えておこう! 魚の干物も違うかもしれないし、珍しい貝だってあるかもしれない!」

 

次々に広がる想像を語る那美に、那岐は苦笑した。


「まずは目的を忘れるな」

「忘れてないよ」


 那美は胸を張る。


「ちゃんと那岐の大事な人に会いに行くんだから」


 そう言ったあと、少し照れたように笑いながら肩を竦めた。


「でも、せっかくなら旅も楽しみたいじゃない」


 その笑顔を見て、那岐は小さく息を吐く。

 辛い時も苦しい時も、那美はいつだって前を向いていた。泣いていた幼い少女は、いつの間にか人の痛みを受け止めながら未来を見つめられる女性へ成長していたのである。

 やがて船がゆっくりと岸を離れた。


「行ってくる!」


 那美が大きく手を振ると、人々も口々に声を上げながら手を振り返す。


「帰ったら土産話をたくさん持って帰るから!」


 初夏の風が帆を大きく膨らませ、船は白い波を引きながら北へ向かって進み始めた。

 船首へ立った那美は、どこまでも続く水平線を見つめながら思わず感嘆の声を漏らした。


「すごいなぁ……ずっと行ってみたかったんだ。海の向こう」


 船首で風を受ける那美の横顔を見て、那岐はふと視線を逸らした。以前なら微笑ましく見守れたはずの姿が、今は妙に眩しく、胸の奥を落ち着かなくさせた。


 幼い頃から何度も眺めてきた水平線。その果てに何があるのか想像しながら夢を膨らませていた少女は、今まさにその先へ向かっている。

 知らない土地。初めて見る景色。そして自分たちの未来へ続くかもしれない時間。

 胸の奥から込み上げる高揚感に頬を緩めながら、那美は北へ続く海を見つめ続けた。


 ……那岐はきっと、私を銀色の翼で世界の果てまで運んでくれる。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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