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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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二章 国産み 八話 恋

 山門の地に春が訪れていた。

 那美が那岐と暮らし始めてから十三年の歳月が流れ、幼かった少女は十六歳になっていた。


 湾には大小の漁船が並び、朝日を受けた海面は銀色に輝いている。那美は昔から海が好きだった。潮風を浴びながら船を操り、魚を追い、水平線の彼方を眺める時間が何より好きで、この日も夜明けとともに船を出していた。


 最近は一人で漁に出ることも増えていた。

 那岐は新たな水田の開発に追われている。山を切り開き、水路を掘り、ため池を築き、人々が安心して暮らせる土地を広げていく。国が豊かになるほど仕事も増え、昔のように四六時中一緒にいることは難しくなっていた。


 それでも那美は不満を抱かなかった。

 むしろ誇らしかった。周囲の国々が争いを繰り返す中でも、自ら戦を仕掛けることはない。人々のために働き続けるその姿は、理想の神そのものに見えていた。

 那岐には、男らしい逞しさとは違う、村の誰よりも目を引く不思議な美しさがあった。


 幼い頃は分からなかった。

 けれど成長するにつれ、那岐が他の男たちと全く違うことを理解するようになった。村の若者たちは日に焼け、粗野で、酒を飲めば大声で騒ぎ喧嘩を始める。けれど那岐は違った。整った顔立ち、穏やかな瞳、誰に対しても優しい声。そのすべてが、那美の心をどうしようもなく惹きつけていた。




 その若者は、以前から何度か那美と同じ船で漁へ出たことがあった。背が高く、漁の腕も良く、口数こそ多くないが誠実で働き者だったため、周囲の者たちは二人を見ては「お似合いじゃないか」「そのうち夫婦になるんじゃないか」と面白半分に囃し立てていた。


 若者にとって、それは決して笑い話ではなかった。海の上で誰より楽しそうに笑う那美の姿も、困っている者を見れば迷わず手を差し伸べる優しさも、いつしか彼の心を強く惹きつけていたのである。


 報われないかもしれない。それでも、一度くらいは自分の想いを伝えたい。そんな気持ちを胸に抱え続けた末に、彼はようやく覚悟を決めたのである。

 そんなある日、漁から戻った那美は、船着き場で若い漁師に呼び止められた。


「那美」


 呼びかけた声はどこか硬く、振り返った那美は相手の表情を見て首を傾げた。


「何?」

「話がある」


 普段とは違う真剣な顔だった。さらに周囲の漁師たちが妙に生暖かい視線を向けていることに気付き、那美はようやく事情を察する。

 ああ、そういう話か。

 若者は一度大きく息を吸い込み、覚悟を決めたように口を開いた。


「俺の嫁になってくれないか」


 やはり予想通りだった。

 若者は緊張した面持ちのまま言葉を続ける。


「これからもっと船を増やすつもりだ。魚も獲れる。絶対に食わせていく」


 その言葉に嘘はなかった。きっと何日も悩み、勇気を振り絞って伝えてくれたのだろう。真面目で誠実な男であることも那美は知っていた。だからこそ少しだけ申し訳ない気持ちになる。

 だが、答えは最初から決まっていた。


「ごめん。無理」


 迷いのない即答だった。

 一瞬、周囲の空気が凍り付く。若者も漁師たちも予想外だったらしく、誰も言葉を発せなかった。


「……いや、そんな即答されるとは思わなくて」


 若者は乾いた笑みを浮かべた。

 那美は困ってしまう。傷つけるつもりはなかったし、できることなら相手を傷つけたくないとも思う。けれど、だからといって嘘をつくのは違う気がした。


「ごめん」

「理由を聞いてもいいか?」


 そう問われて、那美は少し考え込んだ。

 相手を嫌っているわけではない。むしろ好感を持っている。真面目で働き者だし、仲間思いで優しい男だ。夫として考えれば、きっと良い相手なのだろう。


 それなのに胸は少しも動かなかった。

 那岐と話している時のように嬉しくならない。那岐が笑えば自分まで幸せな気持ちになるのに、この男に対してはそうならない。那岐が怪我をした時のように胸が締め付けられることもなければ、会えない日が続いて寂しくなることもない。

 ただ、それだけだった。


「分からない」

「分からない?」

「うん。でも、たぶん誰でも同じだと思う」


 若者は一瞬だけ目を見開き、それから何かに気付いたように苦笑した。


「……そうか」


 その視線が一瞬だけ遠くへ向けられたことに、那美は気付かなかった。

 若者は諦めたように小さく手を振る。


「忘れてくれ」

「うん」


 那美は素直に頷き、そのまま立ち去ろうとした。だが何気なく顔を上げた瞬間、遠くの堤の上に見慣れた姿を見つけて足を止める。


 開拓地の視察だろう。那岐は村人たちに囲まれながら何かを説明していた。春の日差しを受けながら穏やかに笑うその姿が目に入った瞬間、不思議なくらい自然に頬が緩み、さっきまで何も感じなかった胸の奥がじんわりと暖かくなっていく。


 会えただけで嬉しい。

 声を聞きたいと思う。

 隣に行きたいと思う。


 その感情はあまりにも当たり前に心の中に存在していたため、今まで深く考えたことすらなかった。


『ああ……』


 那美はぼんやりと思う。

 さっき若者に理由を聞かれた時、自分でも答えられなかった理由が少しだけ分かった気がした。


『たぶん、そういうことなんだろうな』


 だが、その胸に芽生えている感情を何と呼ぶのか、まだ那美は知らなかった。

 あるいは知っていても、それを言葉にする勇気だけがまだ足りなかった。




 最初に思い出したのは、十三歳になったばかりの頃の出来事だった。田の視察から戻った那岐を、村の若い娘たちが取り囲み、皆が楽しそうに笑いながら話しかけていた。那岐も困ったように笑いながら相手をしており、それは山門では珍しくもない光景だった。那岐は誰にでも分け隔てなく優しく接する。だから娘たちに慕われるのも当然のことだった。


 それなのに、その時の那美は妙に面白くなかった。胸の奥にもやもやとした感情が広がり、理由も分からないまま人垣の中へ割って入ると、那岐の腕を掴んで半ば強引に連れ出してしまった。


「どうしたんだ?」


 不思議そうに尋ねる那岐へ、


「別に」


 そう答えることしかできなかった。

 けれど今なら分かる。あの時、胸の中で燻っていた正体不明の感情は嫉妬だったのだ。


 娘たちに囲まれている姿を見れば胸がざわつき、怪我をしたと聞けば自分のことのように苦しくなる。会えない日が続けば顔が見たくなり、隣にいればもっと近くにいたいと思う。


 そんな感情を向ける相手は、この世でただ一人しかいなかった。

 那岐だった。


 那美にとって那岐は幼い頃から特別な存在だった。しかし、その存在があまりにも当たり前だったせいで、自分が抱いている想いの意味を深く考えたことはなかった。


 仕事から帰れば真っ先に那岐のもとへ向かい、隣に座って肩を寄せる。時には夜中に寝床へ潜り込み、眠る那岐の傍でそっと目を閉じることさえあった。そんな那美を、那岐はいつも苦笑しながら受け入れ、優しく頭を撫でてくれる。


 だが、その優しさが那美には少しだけ物足りなかった。自分だけを特別な存在として見てほしいという想いが胸の奥で膨らみ続けていたからだ。しかし、その気持ちを口にして関係が変わってしまうことが怖く、結局は何も言えないまま、そんな日々を過ごしていた。




 その日の漁は順調に始まった。しかし、いつもの漁場では魚影が薄く、那美は少しでも多くの獲物を求めて普段より遠く、沖合へと船を進めていた。海は穏やかで、まさか天候が急変するとは思いもしなかった。


 ところが昼を過ぎた頃、空模様が一変する。先ほどまで青く広がっていた空は黒雲に覆われ、遠くで低い雷鳴が鳴り始めた。海面を渡る風も急激に強さを増し、波頭が白く砕けながら荒れ始める。


「まずい……!」


 那美は咄嗟に船首を山門へ向けようとしたが、自然の猛威はそれを許さなかった。轟音とともに押し寄せた巨大な波が小舟を持ち上げ、船体は大きく傾く。必死に舵を握る手も虚しく、次の瞬間には船ごと海へ投げ出されていた。


 全身を包む冷たい海水。四方から叩きつける荒波。息を吸おうとしても口の中へ海水が流れ込み、上下の感覚さえ分からなくなる。必死にもがいても身体は波に翻弄されるばかりで、意識は少しずつ遠のいていった。


 やがて那美は暗い海の底へ沈んでいくような感覚に包まれ、そのまま静かに意識を失った。




 ……次に目を開けた時、耳に届いたのは静かな波の音だった。


 頬には焚き火の温もりが伝わり、重たい瞼をゆっくりと開くと、ぼんやりと揺れる炎の向こうに自分を抱き寄せる那岐の姿が見えた。濡れた身体を寄せ合うようにして座るその腕は力強く、失われかけていた体温を少しずつ取り戻させてくれる。


「……なぎ?」

「気がついたか」


 低く穏やかな声が耳に届いた瞬間、胸を締め付けていた不安は一気にほどけていった。荒れ狂う海に呑まれた恐怖も、船が転覆した瞬間の絶望も、その一言によって遠い出来事のように薄れていき、自分が生きていること、そして那岐が命懸けで助けてくれたことを実感した那美の胸には、言葉にできないほど熱い感情が込み上げてくる。


 周囲を見回すと、そこは見知らぬ小島だった。近くでは焚き火が燃え、枝には乾かすために脱いだ衣服が掛けられていた。その光景を目にしたことで、自分たちがほとんど裸に近い姿でいることに気付き、那美は思わず耳まで真っ赤になったが、その恥ずかしさも長くは続かなかった。


 心を満たしていたのは、それ以上に大きな安堵と喜びだった。荒海の中で死を覚悟したにもかかわらず、こうして再び那岐の腕の中で目を覚ますことができた。その事実が何よりも嬉しく、那岐がまた自分を助けてくれたのだという思いが胸の奥で静かに広がっていった。


 幼い頃からずっとそうだった。転んで泣いた時も、怖くて眠れなかった夜も、どうしていいか分からなくなった時も、那岐はいつだって手を差し伸べてくれた。今もこうして自分を抱きしめ、失われそうだった命を繋ぎ止めてくれている。


 那美はそっと額を那岐の胸へ預けた。濡れた肌越しに伝わる体温は驚くほど温かく、規則正しく響く鼓動を聞いているだけで心が落ち着いていく。荒れ狂う海の中ではあれほど恐ろしかったのに、今は那岐の腕の中にいるというだけで何も怖くなかった。


 この温もりに包まれていると、まるで世界のどこにいても大丈夫だと思えてしまう。


 そんな安心感に身を委ねながら、那美はふと気付いた。求婚を断った理由も、那岐が他の娘たちと話しているだけで胸がざわついた理由も、会えない日が続けば寂しくなり、顔を見るだけで嬉しくなる理由も、すべて目の前の人へ向けられた感情だったのだと。


 那美はそっと顔を上げた。焚き火の炎が那岐の横顔を橙色に照らしている。整った顔立ちに穏やかな瞳。誰より強いのに威張らず、誰より偉い立場にありながら権威を振りかざさず、忙しい身でありながら困っている者を決して見捨てない。


 いつからだったのだろう。

 仕事から戻れば真っ先にその姿を探すようになった。誰かが那岐の名を口にするだけで、自然と耳を傾けるようになった。娘たちに囲まれて笑っている姿を見ると胸がざわつき、数日顔を見ないだけで落ち着かなくなった。


 考えてみれば、ずっと前からそうだったのだ。

 けれど、その気持ちを認めてしまうのが怖かった。今までの関係が壊れてしまうかもしれない。優しく頭を撫でてくれることも、隣で笑ってくれることも、当たり前ではなくなるかもしれない。


 もし嫌われたら。もし自分を娘としか思っていなかったら。

 そう考えるたびに、那美は胸の奥へその想いを押し込めてきた。

 しかし今夜だけは違った。


 那岐は命を懸けて自分を助けてくれた。嵐の海から、死の淵から、また手を伸ばしてくれた。このまま何も伝えなければ、きっと一生後悔する。そんな思いが胸の内で膨れ上がり、那美は震える指で那岐の胸元をそっと掴んだ。


「那岐」

「どうした?」


 呼べば返事が返ってくる。それは幼い頃から変わらない当たり前のことだった。どんな時も那岐は自分の声に応え、振り向いてくれる。その優しさが今夜は胸に痛いほど染みて、那美は込み上げる涙を堪えながらまっすぐ那岐を見つめた。


「好き」


 那美が絞り出すように告げると、那岐は驚いたように目を見開いた。しかし、一度口にしてしまえば、もう止めることはできなかった。


「私は那岐が好き。ずっと好きだった」


 言い終えた瞬間、顔に熱が集まる。恥ずかしくて今すぐ逃げ出したい。それでも、胸の奥に長く抱え込んできた想いをようやく言葉にできたことに、那美は小さな安堵を覚えていた。


 那岐はしばらく呆然としたように那美を見つめていたが、やがて困ったような苦笑を浮かべると、昔と変わらない優しい手つきで頭を撫でた。


「私も那美が大好きだよ」


 その一言を聞いた瞬間、那美には分かった。十三年もの間、誰より近くで那岐を見続けてきたのだ。今の言葉が恋愛の意味ではなく、娘や家族へ向ける愛情から発せられたものだということくらい、嫌になるほど理解できた。


 胸の奥がちくりと痛む。けれど、その痛みと同時に別の感情も込み上げてきた。悔しかった。こんなにも好きなのに、こんなにも勇気を振り絞って想いを伝えたのに、それでも那岐には届いていない。その事実が、何よりも切なかった。


「那岐は分かってない」

「ん?」

「全然分かってない」


 那美は唇を噛みしめるようにそう言うと、抑えきれなくなった感情のまま那岐の肩を押した。不意を突かれた那岐はそのまま砂浜へ倒れ込む。自分でもなぜこんなことをしたのか分からない。ただ、胸の奥で長い間膨らみ続けてきた思いが溢れ出し、このまま曖昧なまま終わらせたくないという気持ちだけが、那美を突き動かしていた。


 那美はそのまま那岐の上へ覆い被さり、揺れる焚き火の光に照らされながら、すぐ目の前にある彼の顔をじっと見つめた。


 突然の行動に那岐は目を瞬かせ、珍しく本気で困惑したような表情を浮かべる。


「那美?」


 名を呼ばれても那美は答えず、代わりに両腕をそっと那岐の首へ回した。それは逃がさないためなのか、離れたくないという気持ちの表れなのか、自分でもうまく説明できなかったが、ただ今は彼の温もりを感じていたかった。


 伝わってくる体温に胸の鼓動は次第に速さを増し、那美は戸惑いを抱えたままゆっくりと顔を近づけていく。やがて鼻先が触れそうなほどの距離となり、互いの呼吸さえ感じられるほど近くで、那岐の瞳を見つめ続けた。


「……こういう時は、どうするの?」

「どうするとは?」

「だから……」


 言葉が続かない。顔は火がついたように熱く、耳まで赤くなっているのが自分でも分かった。恥ずかしさで逃げ出したくなるほどだったが、それでも那美は意を決して口を開く。


「好きな人同士って、その……何かするんでしょう?」


 那岐は目を瞬かせたまま固まり、やがてようやく事情を察したように額へ手を当てた。


「ああ、そういうことか」


 苦笑が浮かぶ。那美はその反応を見ただけで、さらに顔が熱くなるのを感じていた。


「誰にそんなことを聞いたんだ」

「みんなよ」


 正確には漁師の妻たちや娘たちの噂話だったが、那美は聞きかじった知識しか持っておらず、その先のことまではよく分かっていなかった。


「教えて」

「知らない」

「嘘。知ってるでしょ」

「さあね」


 那岐が即答すると、那美は不満そうに頬を膨らませた。せっかく勇気を出して尋ねたというのに、当の本人は少し困った顔をするだけで、まるで動じていない。


「……むぅ」


 情けない声を漏らす那美に、那岐は何も言わず、ただ困ったように微笑みながら頭を撫でる。その変わらぬ優しさが、かえって那美には悔しかった。


「子供扱いしないで」

「してないよ」

「してる」


 那美は不満そうに唇を尖らせたものの、それ以上言い返すことはせず、小さくため息をつきながら那岐の胸へ顔を埋めた。


「今日はこれで我慢する」

「うん。おやすみ、那美」


 頭上から降ってくる穏やかな声と、耳元で規則正しく響く胸の鼓動は不思議なほど心を落ち着かせる。結局その夜も二人の距離は昔と変わらず、ただ寄り添って眠るだけだったが、那美にとっては、それだけでも十分すぎるほど幸せな時間だった。




 翌朝、嵐が嘘だったかのように海は静まり返っていた。夜明けの光を受けた海面は鏡のように穏やかで、水平線の彼方まで青く澄み渡っている。空には雲ひとつなく、昨夜の荒天がまるで夢だったかのようだった。


 浜辺へ出た那美が目にしたのは、すでに海を眺めている那岐の姿だった。朝日を背に立つその姿はどこか現実離れして見え、振り返った那岐は穏やかに微笑む。


「帰ろうか」


 那美が小さく頷いた瞬間、身体がふわりと浮き上がった。気付けば那岐の腕の中に抱き上げられている。


「わっ……」

「しっかり掴まってろ」


 そう言うなり景色が大きく動いた。足元の砂浜はみるみる遠ざかり、白い波打ち際は小さく縮んでいく。やがて島全体を見下ろせるほどの高さまで舞い上がると、那美は思わず息を呑んだ。


 眼下には果てしない海が広がっていた。朝日を受けた海面は無数の光を散りばめ、世界そのものが黄金色に輝いているかのようである。潮の香りを含んだ風が髪を揺らし、海鳥たちは大空に輪を描きながら舞っていた。魚の群れが海中を走れば水面に銀色の筋が生まれ、小さな島々は緑の宝石のように浮かび、その向こうには幾重にも連なる山並みが霞んで見えていた。


「すごい……」


 思わず声が漏れた。

 毎日のように船を出してきた見慣れた海のはずだったが、こんな景色は一度も見たことがない。まるで鳥になって空を飛んでいるような、それ以上に、自分が世界そのものを見下ろしているかのような不思議な感覚だった。空と海の境界は曖昧に溶け合い、朝日に照らされた大海原がどこまでも広がっている。


 那美はそっと那岐を見上げた。


 朝日を受けた横顔は凛々しく、風に揺れる髪の向こうで、真っ直ぐ前を見据える瞳は少しも揺らがない。自分を抱き上げる腕は力強く、その姿はまるで神そのものだった。


 海の上を進み、人を救い、空さえ渡る。村の子供たちが語る英雄譚の主人公が実在するのなら、きっと那岐のような人なのだろうと、那美は胸の奥で静かに思った。


 胸が苦しくなるのは、美しい景色のせいではなかった。隣に那岐がいるからだ。

 那美はそっと那岐の首に回した腕に力を込めた。


「怖いかい?」


 そう尋ねられ、那美は首を横に振る。


「全然」


 本当に怖くなかった。たとえ海へ落ちたとしても、この人なら必ず助けてくれる。そんな確信があった。それは理屈ではなく、十三年間積み重ねてきた信頼だった。村が襲われた時も、夜に悪夢を見て泣いた時も、怪我をした時も、そして昨日も、那岐はいつだって手を差し伸べてくれた。


 だから安心できる。だから好きになる。


 海風が二人の間を吹き抜ける中、那美はそっと頬を那岐の胸へ寄せた。耳元に聞こえるのは規則正しい鼓動だった。神のように見える人なのに、その胸には確かに人の命が宿っている。その当たり前の事実がなぜか嬉しくて、ずっとこの音を聞いていたいと思った。


 やがて遠くの空に山門の山々が見え始める。朝日に照らされた峰々は青く霞み、その麓には人々の暮らす集落が小さく広がっていた。帰る場所が見えているはずなのに、那美の心は別の場所へ向いていた。


 那岐の腕の中。那岐の隣。


 そここそが自分にとって世界で一番帰りたい場所なのだと、那美は静かに思っていた。

ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。


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