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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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二章 国産み 七話 挟撃

 山門壱国と奴国の戦いは長期化していた。

 奴国軍は幾度となく山道を攻め上ったが、山門壱国軍が築いた砦は容易に崩れない。切り立った斜面には木柵や落石用の石積みが設けられ、狭い山道を進む兵たちは常に上方から矢や石を浴びせられていた。一方で山門壱国軍も守勢に徹していたため、敵を撃滅することはできず、戦況は膠着したまま数か月が過ぎている。


 評議の館では連日のように軍議が開かれていた。


「兵糧はまだ一年は持つ」

「だが来年も戦になればどうなる。若い者が戦に取られ続ければ、田畑が荒れるぞ」

「守れても国が痩せれば意味がない」

「ならば打って出るか。だが砦を離れれば、こちらの利は失われる」


 有力者たちの声は次第に険しさを増していったが、誰も有効な打開策を示すことはできない。守るだけならば可能だった。しかし勝つ方法が見つからない。もし数年単位の消耗戦になれば、たとえ砦が落ちなかったとしても、山門壱国そのものが疲弊し、やがて立ち行かなくなるだろう。




 奴国軍の本陣では、老将・武彦が砦のある山並みを眺めていた。


「老獪な男だ」


 傍らにいた副将が首を傾げる。


「那岐のことですか」


「ああ。若い将なら、勝てるかもしれぬと思えば攻めてくる。名を上げたいからな。だが、あの男は違う」


 武彦は山中に築かれた砦へ視線を向けた。


「攻めれば勝てる場面はあったはずだ。だが出てこない。勝てるかもしれぬ戦より、負けぬ戦を選ぶ。厄介な相手だ」

「臆病なのでは?」

「違う」


 武彦は短く否定した。


「臆病者なら砦も守れぬ。あれは兵を死なせぬために待てる男だ。勇ましさを誇る将より、よほど始末が悪い」


 副将は黙り込んだ。

 武彦は那岐を高く評価していた。蛮勇を好む猛将でもなく、名声を求めて危険な賭けに出る英雄でもない。国を守ることを第一に考え、勝利より敗北を避ける手堅い知将。だからこそ、容易に崩すことができない。

 もっとも、それは同時に攻め手の少なさも意味していた。


「このまま続ければ勝つのは我らだ」


 武彦は静かに断言した。


「山門は守り続けるしかない。兵も国も、我らの方が大きい。押し続ければ、いつか必ずひびが入る」




 その夜、宿舎へ戻った那岐は、灯火の揺れる部屋で一人地図を見つめていた。木板に刻まれた地形を何度なぞっても答えは見つからない。砦は落ちない。だが敵も退かない。このままでは互いに血を流し続けるだけである。


 考え続ける那岐の横顔には疲労の色が濃く滲んでいた。その様子を見ていた那美は、しばらく黙って父を見つめたあと、そっと隣へ腰を下ろした。


「父さま、元気ないね」

「少しな」

「じゃあ、面白い話してあげる」


 那美は嬉しそうに身を乗り出した。


「今日ね、漁師のおじさんたちと船に乗ったの」

「また勝手に乗ったのか」

「ちゃんと許可もらったもん」


 頬を膨らませながらも、那美はすぐに機嫌を直し、目を輝かせて続けた。


「海の向こうにね、知らない浜がいっぱいあったよ。山を越えなくても行けるんだよ。船ってすごいね。山の後ろにも行けるんだもん」


 那岐は何気なく頷いたが、その言葉は不意に胸の奥へ引っ掛かった。

 山の後ろへ行ける。

 その何気ない一言が、閉ざされていた思考の扉を叩いたのである。


 那岐はゆっくりと地図へ視線を落とした。木板に刻まれた海岸線を指でなぞりながら、山門、有明海、奴国、そして敵軍の補給路を順に追っていく。陸では険しい山々が行く手を阻む。だが、船を使えば海岸沿いを回り込み、奴国軍の背後へ出ることができる。


「そうか……」


 那美が不思議そうに目を瞬かせた。


「父さま?」

「そういうことか」


 砦はこれまで通り維持する。その間に別働隊を船で運び、海から敵の背後へ回り込ませる。奴国軍は正面の砦ばかりを見ている。後方の兵糧庫と指揮所を襲い、同時に砦から打って出れば、敵は前後から挟まれる。

 那岐の口元に、久しく浮かぶことのなかった笑みが宿った。


「那美」

「うん?」

「お前は本当に大した娘だ」

「へ?」


 突然褒められた那美はきょとんと目を丸くしたが、那岐は答えず、ただ地図を見つめ続けていた。




 翌朝、緊急の軍議が招集された。

 山門壱国の有力者たちが集まる中、那岐は広間の中央へ地図を広げると、静かな声で口を開いた。


「砦は維持する」


 その方針に異論を唱える者はいなかった。


「その間に、別働隊を船で運び、海から奴国軍の背後へ回り込む」


 広間がざわめいた。


「海からだと?」

「山を越えずに、背後を突くというのか」

「だが船は漁に使うものだ。兵を運べるのか」


 那岐は地図の上へ指を置き、有明海の入り組んだ海岸線をなぞった。


「軍船である必要はない。漁船でも荷船でもよい。夜陰に紛れて進み、夜明けに上陸する。奴国軍は砦攻略に兵を集中している。後方の守りは薄いはずだ」

「兵糧庫を焼くのか」

「ああ。補給を絶ち、混乱させる。その合図を狼煙で砦へ知らせる。砦の兵が同時に打って出れば、奴国軍は前後から挟まれる」


 沈黙が落ちた。

 やがて、一人の有力者が低く呟いた。


「……できる」


 別の者も地図へ身を乗り出す。


「敵は数か月も砦ばかり見ている。後ろから来るとは思うまい」

「補給所を突かれれば、奴国軍は持ちこたえられん」

「だが失敗すれば、別働隊は逃げ場を失うぞ」


 那岐は頷いた。


「だからこそ、漁師たちの力が要る。海を知る者がいなければ、この策は成り立たない」


 長く続いた膠着を打ち破る道が、ようやく人々の目の前に現れた。

 軍議が終わると、山門壱国軍は直ちに準備へ取り掛かった。使者たちは周辺の漁村へ駆け回り、協力を呼びかけた。数日も経たぬうちに湾には大小様々な船が集まり始め、漁に使う小舟や荷運び用の輸送船、川を行き来する平底船までが次々と浜へ並べられた。


 どれも軍船と呼べるような立派なものではなかったが、人々が持てる船をかき集めた結果、その数は百隻を超えていた。


 浜辺では男たちが矢束や槍、干し魚や兵糧用の粟と米を積み込み、女たちは夜遅くまで火を絶やすことなく焚き続け、出陣する兵たちのために握り飯を作り続けていた。


「本当に海から行くのか」


 年配の漁師が浜辺に並ぶ船を見上げながら呟くと、隣にいた若い兵が不安そうな笑みを浮かべた。


「俺は海に出たことがない」

「安心しろ。最初は誰でもそうだ。だが船は山道より優しいぞ」

「本当か?」

「嘘だ。海は怒ると山より怖い」


 若い兵が顔を青くすると、周囲の漁師たちがどっと笑った。


「だから俺たちが乗るんだ。お前たちは黙って座っていろ」


 張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。

 出航の前夜、浜辺には数百人の兵が集まっていた。月明かりに照らされた船が波間に揺れ、その白い光が静かな海面に長く伸びている。兵たちの表情には隠しきれない緊張が浮かんでいた。

 那岐は兵たちの前へ進み出た。


「この戦は山門壱国の未来を決める」


 低く響く声に、兵たちは一斉に顔を上げた。


「我らはこれまで守り続け、耐え続けてきた。だが明日で終わらせる。敵は我らを山の民だと思っている。険しい山を頼りに籠もることしかできないと信じている」


 那岐は背後の海を振り返った。


「だからこそ勝てる。海は壁ではない。道だ。夜明けとともに奴国軍の背後へ現れ、逃げ場を奪う」


 兵たちの目に力が宿っていく。


「この戦は山門が生き残るための戦だ。田を守るための戦だ。家族を守るための戦だ。恐れるな。山門壱国の未来は、我らが切り開く」


 誰かが槍を高く掲げた。


「おおっ!」


 その声を合図にするように鬨の声が次々と上がり、歓声は夜の海岸を震わせながら広がっていった。

 そして深夜、船団は誰にも気付かれぬよう静かに湾を離れた。


 闇に包まれた海には櫂が水を掻く音だけが規則正しく響き、兵たちは固く口を閉ざしたまま前方を見据えている。月光を浴びた船団は影の群れのように海岸線に寄り添いながら北へ進み、その先頭の船首には那岐が立っていた。


 頬を撫でる夜風を受けながら、那岐は遥かな海原へ視線を向ける。脳裏に浮かんだのは、遠い昔の記憶だった。徐福の大船団とともに海を渡り、見知らぬ土地へ向かった若き日の旅路。故郷を離れ、運命に翻弄されながら流れ着いたあの頃の自分は、ただ大きな時代の流れに飲み込まれるだけの少年に過ぎなかった。


 しかし今は違う。

 守るべき国があり、守るべき民がいる。そして何より、自らの意思で未来を選び取る力があった。


 やがて東の空がわずかに白み始めた頃、前方を進む斥候船から小さな合図が送られる。上陸地点へ到達したのである。


「上陸準備」


 那岐の低い声が響くと、兵たちの表情が一斉に引き締まった。

 船団は波音に紛れるよう慎重に浜へ近づき、やがて船底が砂浜へ乗り上げる鈍い音を立てる。兵たちは次々と海へ飛び込み、腰まで海水に浸かりながら岸へ上がっていった。


 目の前には、まだ眠りの残る奴国軍の後方陣地が広がっていた。

 那岐は山々の向こうにある砦の方角へ目を向ける。今頃、正面の守備隊も出撃の準備を整えているはずだった。


「狼煙を上げろ」


 那岐の命令とともに兵たちは急いで薪を積み上げ、火打石を打ち鳴らした。しかし、何度火花を散らしても薪は黒い煙を吐くだけで燃え上がらない。


「駄目です! 火が移りません!」

「昨夜の潮風で湿っています!」


 兵たちの声には焦りが滲んでいた。


 この狼煙は単なる目印ではない。山の砦で待機する守備隊へ総攻撃開始を知らせる合図であり、これが上がらなければ正面と背後からの同時攻撃は成立しない。せっかく敵の背後への上陸に成功しても、砦側が動かなければ挟撃は不完全なものとなり、作戦そのものが崩れかねなかった。


 兵たちは乾いた枝を探して走り回り、布切れに油を染み込ませて火を移そうと試みたが、夜露と潮風を吸った薪は頑なに燃えようとしない。火打石を打つ乾いた音だけが浜辺に虚しく響き、刻一刻と時間だけが過ぎていく。


「どうされますか」


 将の一人が振り返ると、那岐は燃えない薪の山を静かに見つめていた。海から吹く冷たい潮風のせいで、長い航海の間に薪は予想以上の湿気を含んでしまったのだろう。


 このままでは砦への合図が遅れ、敵軍が異変に気付く危険すらある。兵たちの表情には隠しきれない焦燥が広がっていた。


 那岐はゆっくりと薪の傍らへ歩み寄ると、しばらく炎の気配を探るように見つめた後、足元に転がっていた燃え残りの炭を拾い上げた。そして何事かを確かめるように薪の隙間へ差し込み、そのまま静かに立ち上がる。

 すると、それまで黒い煙を吐くだけだった薪の奥で、ふいに小さな炎が揺らめいた。


「あっ!」


 兵の一人が思わず声を上げる。

 誰かが残した火種が生きていたのか、それとも風向きが変わっただけなのかは分からない。しかし一度生まれた火は湿った薪の間を縫うように広がり、やがて勢いを増しながら赤々と燃え上がっていった。


「燃えたぞ!」

「狼煙だ!」


 安堵の声が次々と上がる中、炎はたちまち薪の山全体を包み込み、濃い黒煙を空高く押し上げていく。朝焼けの空へ真っ直ぐ伸びる煙は遠く離れた山々からも見えるはずであり、砦で待機する守備隊にとっては待ち望んだ合図となるだろう。


 兵たちは歓声を上げながら空を見上げていたが、那岐だけは何も言わず、立ち昇る狼煙を静かに見つめていた。風は決して強くない。それにもかかわらず、黒煙は流されることなく天へ向かって伸び続けている。その様子を不思議そうに眺める者もいたが、誰一人として理由を問うことはなかった。


 山門壱国の人々は知っている。追い詰められた時、不思議と活路が開けることを。そして、その傍らにはいつも那岐という男がいることを。


「これで届く」


 那岐は小さく呟くと、再び奴国軍の陣地へ視線を向けた。その頃には狼煙はすでに高く空へ昇り、山々の向こうにある砦へ向かって、静かに総攻撃の合図を送り続けていた。

 実際、その頃砦の見張り台では若い兵が遠くの空を指差して叫んでいた。


「狼煙です!」


 待ち続けた合図だった。

 守備隊の将たちは即座に立ち上がり、兵たちは槍と盾を手に持って配置へ駆け出す。数か月に及ぶ籠城戦を終わらせる時が、ついに訪れたのである。


 その様子を思い浮かべながら、那岐はゆっくりと剣を抜いた。

 朝日に照らされた刀身が鋭く輝く。


「進め」


 低く放たれた一言を合図に、山門壱国の兵たちは一斉に槍を構え、奴国軍の後方陣地へ向かって駆け出した。



 朝日が山の端から顔を覗かせる頃、奴国軍はいつものように砦を包囲していた。兵たちは朝食の粥を啜りながら武具を整え、今日もまた同じ戦が始まるものと思っている。

 だが、その予想は見張りの絶叫によって打ち砕かれた。


「敵襲!」


 陣中に響き渡った声に兵たちは一斉に振り返った。海岸の向こうから、槍を掲げた無数の兵が砂浜を駆け上がり、そのまま陣地へ向かって押し寄せてくる。


「なぜだ!? どうして後ろに敵がいる!」


 奴国軍の将が叫ぶ。


「山を越えたのか!?」


 駆け込んできた伝令は激しく首を振った。


「違います! 船です! 海から来ました!」


 その報告を聞いた瞬間、将の顔から血の気が引いた。


 後方には兵糧庫があり、補給物資が積み上げられ、負傷兵たちを収容する野営地まで置かれている。正面の砦ばかりに意識を向けていたため、そこには十分な守備兵すら配置していなかった。


 奴国本陣では、武彦が黒煙を見上げていた。


「……やられた」


 副将が蒼白な顔で駆け寄る。


「武彦様、後方より敵です! 兵糧庫が燃えています!」

「見れば分かる」


 武彦は低く答えたが、その声には怒りよりも苦い感嘆が滲んでいた。


「山を守る男だと思っていたが、海を使うか」

「どうされますか!」

 混乱の渦中にありながらも、武彦は決して諦めてはいなかった。


「聞け! 慌てるな!」


 老将の怒声が戦場へ響き渡る。


「第三隊は後方を支えろ! 第五隊は兵糧庫を捨ててよい! 第一隊、第二隊は盾を並べろ!」


 奴国兵たちは反射的に命令へ従った。長年にわたり武彦の下で戦ってきた兵たちである。崩れかけていた戦列はわずかながら統制を取り戻し、盾兵たちが列を整えると、その隙間から槍兵たちが一斉に穂先を突き出した。


「槍を前へ!」


 号令とともに繰り出された反撃を受け、砦から駆け下りてきた山門兵たちは思わず足を止める。つい先ほどまで雪崩を打つように崩れていた軍とは思えぬ統制であり、武彦は全体を見渡しながらさらに声を張り上げた。


「まだ終わっておらぬ! ここで踏みとどまれば道は開ける!」


 その声に応えるように兵たちが鬨の声を上げる。混乱の只中にありながら、老将はなお軍をまとめ上げようとしていた。

 その様子を遠くから見ていた那岐は小さく目を細めた。


「……やはり侮れない」


 完全に崩壊したと思われた軍を、わずかな時間で立て直してみせる手腕は見事だった。並の将であれば混乱に呑まれ、そのまま潰走していただろう。しかし武彦は違う。前後から挟まれた絶望的な状況にあってもなお兵の心を繋ぎ止め、戦う意志を失わせていなかった。


 敵ながら称賛に値する将である。だが、それでも戦の流れは覆らない。

 那岐は静かに剣を掲げた。


「左翼は前進を止めるな。右翼は海岸沿いから回り込め」


 命令は伝令によって即座に各隊へ伝えられた。武彦が立て直した戦列は正面への備えとしては十分だったが、海岸沿いを迂回する別働隊まで防ぐ余力は残されていない。

 やがて奴国軍の側面へ新たな山門兵が姿を現した。


「横からだ!」

「敵が回り込んだぞ!」


 悲鳴にも似た叫びが各所で上がり、武彦は唇を強く噛み締める。


 立て直したはずの戦列は再び揺らぎ始めていた。前方には砦から打って出た守備隊、後方には海から上陸した別働隊、そして今度は側面からも新手が迫ってくる。包囲は完全なものとなりつつあり、奴国軍は徐々に追い詰められていった。


 その光景を見つめながら、武彦は静かに悟る。

 もはや敗因は兵の勇気でも士気でもない。

 この戦は、始まる前からすでに決していたのだ。

 那岐という男は、自ら剣を振るう以前に勝利への道筋を作り上げていたのである。


「武彦様、これ以上は!」

「まだだ!」


 武彦は剣を抜き、踏みとどまろうとした。

 だが、一隊が崩れた。その綻びは堤防が決壊するように全軍へ広がり、奴国軍の陣形は瞬く間に瓦解していった。


「逃げろ!」


 誰かが叫んだ。

 その一言をきっかけに、奴国軍の統制は完全に崩れ去った。兵たちは武器を捨てて逃げ出したが、すでに退路は断たれている。海岸には上陸した山門壱国兵が陣取り、山道には砦から打って出た守備隊が立ちはだかっていた。


 昼が近づく頃には、戦場の勝敗は完全に決していた。

 武彦は荒れ果てた戦場を見回した。地面には無数の武器が投げ捨てられ、兵たちは次々と拘束されている。ここでなお戦い続けたところで、失われる命が増えるだけであり、もはや勝機など残されてはいなかった。


 武彦は静かに腰の剣を抜いた。

 周囲の兵たちが固唾を呑んで見守る中、その剣先は敵へ向けられることなく、ゆっくりと地面へ置かれた。


「降伏する」


 その一言とともに、数か月に及んだ山門壱国と奴国の戦いは終わりを迎えた。




 奴国軍が降伏してから数日後、山門壱国の評議の館には重い空気が流れていた。広間の中央には那岐が座り、その向かいには護衛に囲まれた武彦が静かに腰を下ろしている。戦場では互いに剣を向け合った両軍の将だったが、今は誰一人として武器を帯びていなかった。


 しばらく沈黙が続いた後、武彦がゆっくりと口を開く。


「一つ、願いがある」


 那岐は何も言わず視線で先を促した。


「敗れた将としてではなく、奴国の民を背負う者として話したい」


 その言葉に広間がざわめく。奴国軍は敗北し、武彦自身も捕虜の身である。そんな男に交渉を求める資格などないと考える者も少なくなかったが、那岐は表情を変えなかった。


「ならば、こちらも勝者としてではなく、山門を守る者として話そう」


 武彦は小さく頷く。


「感謝する」


 そして顔を上げると、真っ直ぐに那岐を見据えた。


「この戦で多くの者が死んだ。奴国にも家族を失った者がいる。山門にも同じように悲しむ者がいるだろう。これ以上の流血は望まぬ」


「私もだ」

「ならば捕虜を返してほしい」


 その瞬間、有力者たちの間から不満の声が上がった。


「返せば再び攻めてくる」

「信用できるものか」


 怒りを含んだ声が飛ぶが、武彦は反論せず、ただ静かに頭を下げたまま言葉を続ける。


「その不信は当然だ。だが私は約束する。私が生きている限り、奴国から再び山門へ兵を向けさせぬ」


 その声には、長年戦場を渡り歩き、多くの兵を率いてきた老将ならではの重みがあった。

 那岐はしばらく黙考した後、静かに口を開く。


「ならば私も約束しよう」


 広間の視線が一斉に集まった。


「捕虜は返す。負傷者も治療する。食料も持たせよう」


 今度は山門側がざわめく。しかし那岐は構わず言葉を続けた。


「憎しみを残せば、子や孫がまた剣を取る。私が欲しいのは勝利ではない。山門が安心して田を耕せる未来だ」


 武彦は深く息を吐いた。戦には敗れたが、目の前の男は戦の先を見ている。その言葉を聞いた瞬間、武彦はこの男には敵わないと悟る。


「山門に偉人あり」


 感嘆するように呟く。


「お主は国を守る男だ」


 那岐も微かに笑みを浮かべた。


「武彦殿もだろう」


 その日を境に両国の交渉は前へ進み始めた。捕虜返還、交易再開、国境の利用などを巡って使者たちは幾度も行き来し、激しい議論を繰り返したものの、双方とも戦を再び起こさないという意思だけは失わなかった。


 そして夏が過ぎ、秋風が吹き始める頃、両国は互いに侵略しないことを誓い、捕虜返還と交易再開に合意する。


 最後の捕虜たちを乗せた船が港を離れる日、見送る山門壱国の人々と帰国する奴国兵たちの間には、もはや戦場で向け合ったような敵意は残っていなかった。


 遠ざかる船影を見つめながら、那岐は静かに息を吐く。

 戦に勝つことは難しい。しかし戦を終わらせることは、それ以上に難しい。

 その思いを胸に、那岐は浜辺へと足を向けた。




 その夜、那岐は浜辺で海を眺めていた。隣では那美が得意げに胸を張っている。


「どう?」

「何の話だい?」

「わたしのおかげで勝ったでしょう」


 その誇らしげな顔を見て、那岐は思わず笑みを漏らした。


「確かにね。いい子だ」

「もっと褒めてもいいよ」

「山門壱国を救った大軍師だな」

「えへへ」


 那美は満足そうに頷き、父の隣で静かに海を眺めた。

 波は絶え間なく浜へ寄せては返し、月明かりは海面に銀色の道を描いている。


 その穏やかな光景を見つめながら、那岐の脳裏には遠い昔の記憶が浮かんでいた。故郷の海、徐福の船団、そして漣と別れた長い旅路。振り返れば、海は多くのものを奪ってきた。故郷も家族も、愛する者と過ごしたかけがえのない日々も、すべて海の向こうへ消えていった。


 だが今は違う。

 那岐の目の前に広がる海は、人と人を隔てる壁ではなく、人と人を結び、国と国を繋ぐ道へと変わっていた。月光に照らされた穏やかな海原はどこまでも続き、その遥かな先には、これまでとは異なる新しい時代が静かに広がっているように見えた。


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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