二章 国産み 五話 家族
雪の残る朝、那岐が目を覚ますと、炉の火は小さく赤く残っていた。薄暗い室内の隅では、助け出した幼い娘が膝を抱えたまま座っている。那岐が近づいても娘は顔を上げず、怯えているというより、何も感じないように心を閉ざしていた。
三つほどの年頃だった。村を襲った災いによって家族を失い、ひとりだけが生き残ったのである。泣き叫ぶこともなく、名を尋ねても答えない。食べ物を差し出せば黙って口に運ぶものの、その視線はいつも遠くを見つめたままだった。幼い子供が一夜にして家族も家も失った現実を受け入れられるはずがなく、その沈黙の重さを那岐は痛いほど理解していた。
その日から、那岐は娘の世話を始めた。朝は湯を沸かして顔を拭き、小さく切った魚と粥を食べさせ、夜は冷えないよう自分の寝床の近くへ布を敷く。言葉を返してもらおうとは思わなかった。ただ、ここにいてもよいのだと伝えるように、毎日変わらぬ声で話しかけ続ける。
「おはよう。今日は風が弱い。海も静かだ」
「寒くないか。火を少し足そう」
娘は相変わらず何も答えなかったが、日が経つにつれて那岐の存在を拒むことはなくなった。食事を置けば自分で手を伸ばし、夜になれば炉の近くへ腰を下ろすようになる。その変化はわずかなものだったが、那岐にとっては十分に大きな一歩だった。
名のないままでは呼びかけることもできない。しかし那岐は、すぐに名を与える気にはなれなかった。家族も故郷も失ったばかりのこの子から、最後に残されたものまで奪うような気がしたのである。
ある夕暮れ、田から戻った那岐は戸口に立ち、橙色に染まる空と海を眺めていた。吹き込む潮風はどこか懐かしく、遠い昔の記憶を呼び覚ます。夕暮れの浜辺で笑っていた少女の横顔、共に未来を歩みたいと願った日々。その景色は今も鮮明に思い出せるのに、もう二度と手の届かない過去になっていた。
那岐は静かに目を伏せ、それから室内の隅に座る娘へ視線を向けた。少女は相変わらず無言のままだったが、その小さな命は確かにここにあり、失われた誰かの代わりではなく、この子自身の人生を生きていかなければならない。
「焦らなくていい」
那岐は穏やかな声で言った。
「お前は、お前の人生を生きればいい」
娘は何も答えなかった。しかし那岐は構わず炉へ薪をくべる。ぱちりと火の粉が弾け、揺れる炎の光が少女の横顔を淡く照らした。その日も二人の間に言葉はほとんどなかったが、静かな時間だけは少しずつ積み重なり、長い冬の終わりとともに、二人の新しい日々もまたゆっくりと形を成し始めていた。
春になり、海が穏やかな日を選んで、那岐は幼い娘を漁用の小船へ乗せた。少しでも気持ちが外へ向けばと思ったのである。沖へ出るつもりはなく、湾の内側をゆっくり流しながら糸を垂れるだけの短い釣りだった。
最初、娘は船縁にしがみついたまま身を固くしていた。揺れる水面も潮の匂いも、彼女にはまだ知らない世界だった。那岐は無理に話しかけることなく餌を付けて竿を垂らし、ただ静かに海の上で時を過ごした。
やがて竿先が小さく震え、引き上げられた魚が陽光を受けて銀色に輝く。飛び散った水滴が春の日差しの中できらめくと、娘の視線は初めてその魚を追い、わずかに目を見開いた。
「ほら、海にはこんな魚がいる」
那岐は微笑んだ。
「怖がらなくていい。今日は海と友だちになる日だ」
船は潮の流れに任せてゆっくりと湾を巡り、やがて海の向こうに二つの山が向かい合うように並ぶ場所へ差しかかった。間に開いた谷は巨大な門のように見え、その向こうへ春の風が吹き抜けている。
「あれが山門だ」
那岐が指差す先を、娘も黙って見つめた。
「海から帰る者には、山が門を開いて迎えてくれるように見える。だから皆、そう呼ぶようになった」
青い海の上には柔らかな春霞が漂い、山々の稜線を淡く霞ませている。白い海鳥が風に乗って谷の上を横切り、その影が一瞬だけ海面を滑った。娘はその景色に吸い寄せられるように目を向け続けていたが、その横顔にはこれまで見られなかった微かな感情の色が宿っていた。
那岐はそんな娘の姿を見つめながら、静かに海へ視線を移した。陽光を受けた波はどこまでも穏やかに輝き、寄せては返す水面がまるで未来を祝福するようにきらめいている。その光景を眺めているうちに、一つの名が自然と胸に浮かんだ。
「那美」
娘がゆっくりと顔を向ける。
「波のように美しく生きてほしい」
那岐は穏やかな声で続けた。
「悲しいことを忘れろとは言わない。でも、お前にはまだこれから先の人生がある。海も嵐の日ばかりじゃない。荒れたあとには必ず穏やかな日が来る」
娘は言葉を返さなかった。しかし次の瞬間、小さな手がそっと伸びて那岐の袖を掴む。その仕草はあまりにも控えめで弱々しかったが、那岐にはそれが何よりも大きな変化に思えた。
振り返った先で、娘は初めてまっすぐ那岐を見ていた。家族を失ったあの日から遠くばかりを見つめていた瞳が、ようやく目の前の人へ向けられている。
那岐は胸の奥に温かなものが広がるのを感じながら、その小さな手をそっと握り返した。春の風は二人の間を優しく吹き抜け、陽光を受けた海はどこまでも穏やかに輝いている。
こうして少女は那美という名を得た。それは失われた過去を埋めるための名ではなく、一人の人間として新しい人生を歩み始めるために贈られた最初の贈り物だった。
それから数年が過ぎた。
春が過ぎ、夏が訪れ、やがて山々は紅葉に染まり、再び雪の季節が巡る。那美は少しずつ言葉を取り戻していった。
最初は頷くだけだった返事も、やがて「うん」や「いや」といった短い言葉になり、気づけば食事の席でその日に見つけた貝殻や海鳥の話をするようになっていた。
那岐が田へ向かえば後ろをついて歩き、畑で草を抜けば小さな手で真似をする。海へ出れば船縁から水面を覗き込み、波に揺れる魚影を見つけては目を輝かせた。
特に海が好きだった。
朝日に染まる水平線を眺めるのも、港に並ぶ船を見ているのも好きで、漁から戻った船が魚を揚げる様子を飽きることなく見守っていた。
那岐はそんな那美の姿を見ながら、失われた心は無理に取り戻すものではなく、穏やかな日々の中で少しずつ育っていくものなのだと知った。そして、気づけば那美は幼子から少女へと成長していた。
ある夏の日、那美は庭先で転び、膝を擦りむいて泣いていた。那岐は井戸水で傷を洗いながら困ったように笑い、
「大丈夫、擦りむいただけだよ」
と声をかける。
すると那美は涙で濡れた顔を上げ、不満そうに唇を尖らせた。
「だって痛いもん」
「子供は泣くのも仕事だ」
そう言って頭を撫でると、那美は少しだけ笑みを浮かべた。そして次の瞬間、不意にその小さな口が動く。
「……父さま」
那岐の手がぴたりと止まった。
「父さま」
今度ははっきりと聞こえた。那美は自分でも照れくさかったのか俯いていたが、その呼び名は確かに那岐へ向けられていた。
胸の奥で何かが静かに溶けていくようだった。長い間、自分にはもう家族などできないと思っていた。守れなかった者たちの記憶だけを抱え、その重みとともに生きていくのだと信じていた。しかし、それは違った。失われたものは戻らない。それでも人は新しい絆を結び、再び誰かと共に歩くことができる。
「……そうか」
那岐はようやくそれだけを口にしたが、その短い言葉には言い尽くせないほどの想いが込められていた。
それからさらに数年が過ぎ、那美が八つになった頃のことである。
春の終わりのある日、那岐が漁から戻ると、家の前で那美が腕を組んだまま不機嫌そうに膨れていた。声をかけても返事はなく、頬を膨らませたままそっぽを向いている。その様子に最初は近所の子供たちと何か揉めたのかと思ったが、どうやらそうではないらしかった。
「那美」
「知らない」
「何のこと?」
「父さまなんか知らない」
あまりにも突然の言葉に那岐は首を傾げた。朝までは何事もなかったはずである。しばらく考え込んだ末、ようやく原因に思い当たった。今日は那美と一緒に網を見に行く約束をしていたのだ。
「ああ……」
「昨日、一緒に行くって言った」
那美の声は拗ねているだけではなく、どこか寂しそうに震えていた。
「みんなで潮だまりを見に行ったのに、父さま来なかった」
那美にとっては、山の獣が畑を荒らしたことも、水路の補修が必要だったことも、集落同士の諍いが起きていたことも関係なかった。幼い少女にとって大切だったのは、父さまが一緒に潮だまりへ行こうと約束してくれたことだけである。
だから那美は信じて待っていた。村の子供たちと海辺へ向かいながらも何度も丘の向こうへ目を向け、蟹を追いかける声が響く中でも、父さまはきっと来ると思い続けていた。しかし太陽が西へ傾き、楽しかったはずの時間が終わろうとしても、那岐の姿は最後まで現れなかった。
山門壱国を束ねる長として見れば、それは仕方のないことだった。獣害への対処も、水路の確認も、人々の争いの仲裁も、どれ一つ放置できる問題ではない。しかし那美にとってそんな事情は意味を持たず、胸に残ったのは約束を忘れられた怒りではなく、自分を待たせたまま来てくれなかった寂しさだけだった。
その言葉に那岐は返す言葉を失った。長として対処しなければならない問題が立て続けに起きていたため、約束の時間に行けなかったのも仕方のないことだと思っていた。
だが、目の前で唇を尖らせる少女にとって、そんな事情は何の意味も持たない。ただ父さまが来ると信じて待っていた。それだけだった。
那岐は小さく息を吐き、素直に頭を下げた。
「悪かった」
「ほんとに?」
「ああ」
那美はしばらく疑わしそうな目で見つめていたが、やがて唇を尖らせたままぽつりと呟いた。
「じゃあ明日」
「明日?」
「絶対だからね」
「分かった」
那岐が苦笑しながら頷くと、那美はようやく機嫌を直したように表情を緩めた。
その姿を眺めながら、那岐は胸の奥に不思議な温かさを覚えていた。誰かが自分を待ち、約束一つで喜びも悲しみもする。そんな存在がいる人生を、かつての自分は知らなかった。漣と共に未来を夢見たことはあったが、親になるということはまた別の話だったのである。
守るだけでは足りない。約束を守り、寂しさに気づき、時には自分の非を認めて謝らなければならない。父親とは、思っていたよりずっと難しく、それでいて温かなものらしかった。
翌日、約束通り那岐は那美を連れて磯へ向かった。潮の引いた岩場には小魚や蟹があちこちに取り残されており、那美は歓声を上げながら夢中で駆け回っている。
「父さま見て!」
やがて那美は両手で小さな蟹を掲げ、宝物でも見つけたかのように得意げな笑顔を向けた。しかし次の瞬間、濡れた岩に足を取られて身体が大きく傾く。
「あっ」
短い声が漏れた瞬間、那岐は反射的に駆け出していた。その動きは人の域を超えており、一瞬で十数歩の距離を詰めると、転びかけた那美の身体を軽々と抱き上げる。
那美は何が起きたのか理解できない様子で目を瞬かせていたが、那岐はすぐに自らの失態を悟った。不老となって以来、自分の身体能力は常人とは比べものにならないほど高まっている。普段は決して見せないよう気をつけていたはずなのに、那美を守ろうとした瞬間、その力を無意識に使ってしまったのだ。
「父さま?」
不思議そうに見上げる那美の視線を受けながらも、那岐は言葉を返せなかった。もしこの子が真実を知ったならどう思うのだろう。人ではない何かとして恐れるだろうか。その不安は、漣を守れなかったあの日から胸の奥底に沈み続けている消えない恐怖でもあった。
しかし那美はしばらく首を傾げたあと、何事もなかったかのように笑顔を浮かべた。
「父さま、すごいね」
その一言には疑いも恐れもなかった。ただ純粋な尊敬と信頼だけが込められている。
那岐は思わず目を伏せた。胸の奥には救われたような安堵と、痛みにも似た切なさが同時に広がっていく。この子の信頼を裏切りたくない。この笑顔を失いたくない。その想いは季節が巡るたびに深くなり、いつしか漣を失った悲しみとは別の形で、那岐の心を支える大切なものになっていた。
季節は幾度も巡り、那美は十歳になっていた。
まだ夜明け前の薄暗い時間、那岐が漁へ出ようと家を出ると、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。振り返れば、那美が急いで道具を準備し始めている。
「待って!」
その様子に那岐は苦笑した。
「また来るのか。今日は沖まで出るぞ」
「行く」
迷いのない即答だった。
那岐は水田の仕事とは別に、漁へ出る日を少しずつ増やしていた。当然、那美のためである。那美は幼い頃から海が好きだった。潮の匂いも波の音も、港に並ぶ船も魚も好きで、漁へ出る日は必ずついて来たがり、雨で船が出せない日は目に見えて肩を落とす。
村の子供たちが山や野原を駆け回って遊んでいても、那美だけは港へ足を運び、海を眺めることを好んだ。
「那美は本当に海が好きだな」
「父さまより好き」
「それは負けたな」
得意げに笑う那美を見ていると、那岐の頬も自然に緩んだ。
やがて小船は静かな朝焼けの海へ滑り出し、沖へ出ると那美は那岐の隣に座って真剣な表情で網を引き始める。十歳の少女には重すぎる作業のはずだったが、本人は手伝うと言って聞かず、歯を食いしばりながら懸命に綱を握っていた。
「無理するな」
「してない」
「顔が真っ赤だぞ」
「してない」
明らかに無理をしているのだが、負けず嫌いな性格だけは誰にもどうにもできない。
ようやく網が海面から姿を現すと、その中では銀色の鯵が朝日を受けて激しく跳ね回った。
「やった!」
那美は歓声を上げながら、魚を抱えるように持ち上げ、その目をきらきらと輝かせる。その笑顔を見るたびに、那岐は漁師としての腕を磨いてよかったと思った。
本来の那岐は、田を耕し、水路を整え、作物が実りへ向かう様子を眺めている方が性に合っていた。だが、那美が海を愛した。だから船を出し、網の扱いを覚え、潮の流れを読み、魚群を追う術を身につけたのである。
始まりは、ただ娘のためだった。
しかし今、朝日に照らされながら嬉しそうに魚を抱える那美の姿を見ていると、その年月は決して無駄ではなかったのだと思えた。
「父さま見て!」
那美は一際大きな鯵を両手で掲げた。
「大きいだろ!」
「そうだな」
「今日は私の勝ちだ」
「何に勝ったんだ」
「全部」
何に対する勝利なのかは分からなかったが、満足そうに胸を張る那美を見ていると、那岐は思わず声を上げて笑っていた。
漣を失ったあの日、自分の時間は止まったのだと信じていた。だが違った。人は失ったものを忘れることはできない。それでも新しい絆を結び、新しい明日を生きることはできる。
潮の香りを運ぶ海風が二人の間を吹き抜け、朝日が波間を黄金色に染めていく。
波間では那美が楽しそうに笑っていた。
その声を聞きながら、那岐は初めて未来を見つめていた。
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