二章 国産み 四話 出会い
筑紫北部に広がる平野を見下ろしながら、那岐は長い間その場に立ち尽くしていた。
眼下に広がるのは、幼い頃を過ごした故郷、金立の地である。父と母が生き、漣と共に笑い合い、いつか必ず帰ろうと胸に誓い続けてきた場所だった。
しかし、数十年ぶりに辿り着いた故郷は、那岐の記憶に残る景色とはまるで別物だった。かつて人々の笑い声が響いていた畑は雑草に覆われ、水路は崩れ、家々の多くは朽ち果てている。開拓村として活気に満ちていた頃の面影は薄れ、人影もまばらで、吹き抜ける風だけが荒れた土地を寂しく渡っていた。
那岐は村の中をゆっくりと歩いた。見覚えのある道を辿り、幼い頃に漣と遊んだ川辺へ立ち寄り、さらに、かつて自宅があった場所にも足を運んだ。しかし、そこに残されていたのは風雨に晒された土台の跡だけであり、囲炉裏を囲んだ家族の笑い声も、仕事を終えた父の大きな背中も、優しく迎えてくれた母の温もりも、今はどこにも存在していなかった。
やがて那岐は、村外れに住む白髪の老人を訪ねた。老人は那岐の顔を見るなり、不思議そうに目を細めた。
「どこかで見た顔だな」
「昔、この村に住んでいた者です」
那岐がそう答えると、老人はしばらく記憶を探るように考え込んだ後、困ったように笑って首を振った。
「歳を取ると、記憶も曖昧になる」
そう呟いた老人は、やがて静かに村の過去を語り始めた。
十数年前、この地方一帯を大きな流行病が襲い、老人も若者も関係なく次々と倒れていったという。多くの集落が衰退し、人々は畑を捨て、村を離れ、その混乱の中で那岐の両親もまた命を落とした。
「お前さんの父親も母親も、立派な人だった。誰よりも働き者でな。皆から慕われていたよ」
その言葉に、那岐は思わず拳を握り締めた。
「……いつ頃、亡くなったんですか」
「十年ほど前だ」
老人の答えを聞いた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちた気がした。
漣を失い、故郷を失い、そして両親までも失った。長い時を生き延びたにもかかわらず、守りたかった者たちは誰一人として残っていない。不老の身体だけが、時の流れから取り残されたようにこの世界に存在していた。
老人へ礼を告げた後、那岐は重い足取りのまま、一人で共同墓地へ向かった。
夕暮れだった。
沈みゆく夕日が共同墓地に並ぶ墓標を赤く染め、その長い影を地面へ落としている。那岐はその中へ静かに足を踏み入れると、一つの墓標の前に膝をついた。
どれが父の墓なのか、どれが母の墓なのか、正確には分からない。長い歳月の中で墓標は風雨に削られ、名を刻んだ痕跡もほとんど失われていた。それでも、きっとこのどこかに二人は眠っているのだろうと思えた。
「父さん……母さん……帰ってきたぞ」
呼びかけても返事はない。それでも那岐は墓標を見つめたまま語り続けた。
「田は立派になった。水路も増えたし、寂れた集落が立派な村になった」
それは誰かに聞かせるための言葉ではなかった。幼い頃に鍬の握り方を教えてくれた父へ、苦しい時に支えてくれた母へ、胸の奥に積もり続けていた想いをただ伝えたかっただけだった。
「……見せたかったな」
ぽつりと漏れたその声は、自分でも驚くほど弱く、頼りなかった。
気がつけば日は完全に沈み、頭上には無数の星々が輝いていた。漣と並んで見上げた夜空も、父と未来を語り合った夜の星空も、こうして見れば何ひとつ変わっていない。だが、その空の下にいた人々は、もう誰も残っていなかった。
不老長寿。
かつて徐福が命を懸けて追い求めた力は、那岐にとって祝福ではなかった。愛する者たちを見送り続け、自分だけが時の流れから取り残されていくその力は、もはや呪いと呼ぶほかないものだった。
翌朝、那岐は故郷を離れた。
一度も振り返ることはなかった。失われた過去を追い求めても何一つ取り戻せないのなら、自分はただ前へ進むしかない。そう言い聞かせながら歩き続けた那岐が新たな居場所として選んだのは、筑紫中央西部、山門と呼ばれる地域だった。
そこは豊かな川と広い平野に恵まれながらも、まだ人の手が十分に入っておらず、大きな可能性を秘めた土地だった。那岐はその地へ根を下ろし、最初は一人の移住者として暮らし始めた。
畑を耕し、水路を掘り、木々を伐って湿地を埋め立てる。雨が降れば川の流れを見回り、晴れれば土の乾き方を確かめながら、どこへ堤を築けば洪水を防げるのか、どこを掘れば水が行き渡るのかを考え続けた。その日々は単調で地道なものだったが、那岐は黙々と鍬を振るいながら、新たな土地と向き合い続けた。
数年後、連日の豪雨によって川が氾濫し、濁流が村へ迫る未曾有の大洪水が発生した。
「駄目だ!」
「このままじゃ村が沈むぞ!」
人々が荷物を抱えて逃げ惑い、絶望の声が広がる中、那岐だけは荒れ狂う川を見つめ続けていた。濁流の勢い、土地の高低差、山々から流れ込む水量。その全てを頭の中で組み立てながら考え続けた末に、一つの結論へ辿り着く。
「堤を切る!」
突然の叫びに、村人たちは驚いた。
「何だと!?」
「せっかく築いた堤を壊すのか!」
「水を逃がすんだ。村より低い湿地へ流れを誘導できれば、ここは助かる!」
那岐の言葉に人々は戸惑ったが、他に打つ手はなかった。やがて男たちは鍬を手に取り、激しい雨に打たれながら夜通し土を掘り続けた。
そして夜明け。
決壊した堤から溢れ出した濁流は新たな流路へと流れ込み、村を飲み込むはずだった水は低地へと逸れていった。
助かった。
その事実を理解した瞬間、村中から歓声が湧き上がる。泥だらけの男たちは互いに抱き合い、女たちは涙を流しながら空へ祈りを捧げた。
那岐はその光景を静かに見つめていた。
漣を守れなかった。両親の最期にも間に合わなかった。だが、この時だけは胸の奥に温かなものが灯った。
守れた。
失うことしかできなかった自分が、初めて誰かを守れたのだと、那岐は夜明けの空を見上げながら静かに噛み締めていた。
那岐がこの地に長く留まり続けるためには、どうしても解決しなければならない問題があった。不死草の影響によって老いを失ったその身体は、いくら歳月を重ねても外見がほとんど変化しないのである。
人々が年を重ねる中、自分だけが若いままであれば、いずれ不審を抱かれるのは避けられない。そこで那岐は、まず幻術によって老いた姿を周囲へ見せる術を試みた。長い試行錯誤の末、数年を費やして習得することには成功したものの、その術には致命的な欠点があった。妖力の消耗があまりにも激しく、日常生活の中で四六時中発動し続けるには負担が大きすぎた。
そこで那岐は発想を変え、見た目そのものを変えるのではなく、他者の認識へわずかに干渉する術を生み出した。自分の外見に対する違和感を無意識のうちに見過ごさせ、「気にならない」「不自然だと思わない」という感覚を周囲へ植え付ける力である。
この術は効果範囲も広く、妖力の消耗も驚くほど少なかった。一つの邑全体に影響を及ぼしても負担はほとんどなく、長期間維持することも容易だった。こうして那岐は、姿形を変えることなく、人々にだけ違和感を抱かせない術を手に入れたのである。
その後の歳月は、那岐にとって静かな積み重ねだった。
洪水から村を救った夜を境に、人々は那岐の言葉に耳を傾けるようになった。彼が水路を掘ると言えば若者たちが鍬を取り、堤を築くと言えば女たちも土を運び、湿地を田へ変える作業には村中の者が力を貸した。雨の多い年には水を逃がし、雨の少ない年にはため池から水を引く。その知恵は少しずつ山門の地に根づき、荒れた土地は実りを生む田畑へと姿を変えていった。
けれど、土地が豊かになるほど、人の命の短さだけが那岐の胸に重く残った。
開拓の初めから共に働いた老農夫が、ある冬の朝、静かに息を引き取った。洪水の夜、泥まみれになりながら堤を切った男だった。那岐は自ら鍬を手に墓を掘り、その傍らで老人の息子と孫たちが涙を流しているのを見つめていた。
「祖父はいつも話していました。那岐がいなければ、この村は生まれていなかったと」
そう頭を下げる青年は、かつて那岐の膝ほどの背丈しかなかった子供だった。いつの間にか大人になり、父となり、やがてこの青年もまた老いていくのだろう。それなのに自分だけは、何一つ変わらぬ姿のまま立ち続けている。
十年、二十年、三十年と時が流れた。
山門には豊かな土地を求める者たちが集まり、村は少しずつ大きくなっていった。さらに干ばつの年、那岐がため池の水を分けて飢えを防ぐと、その噂は周辺の村々へ広がった。救われた村の長たちは礼の品を携えて山門を訪れ、争いや工事のたびに那岐へ助言を求めるようになる。
やがて人々は、山門を一つの集落ではなく、この地域を導く中心地として見るようになった。
山門こそが、一番大きな国。
その呼び名は世代を越えて広まり、いつしか誰もが当たり前のように「山門壱国」と呼ぶようになっていた。
村は邑となり、邑は周辺の小さな集落を束ねる国へと育っていった。だが、どれほど人が増え、田畑が広がり、倉に米が満ちても、那岐の孤独が消えることはなかった。漣も、父も母も、共に国造りへ汗を流した者たちも、皆すでにこの世を去っている。
そしてある年、長雨による大凶作が筑紫全体を襲った。
収穫は激減し、各地で飢えが広がると、人々は生きるために食料を奪い合うようになる。やがて争いは村同士の衝突へ発展し、ついには武器を手にした殺し合いまで起こるようになっていた。
那岐は食料や薬草、生活物資を積んだ荷車隊を率いて被災地へ向かったが、辿り着いた村で目にしたのは救援を必要とする集落ではなく、戦の跡にも似た惨状だった。
焼け落ちた家々からは、なお焦げた木の臭いが漂い、道には逃げ遅れた者たちの遺体が横たわっている。人の気配を失った村は異様な静寂に包まれ、その光景は那岐に幾度となく見てきた死と喪失を思い出させた。
ふと視線の先に、一人の女性が倒れているのが見えた。背中には深い刃傷が刻まれ、すでに息はなく、その周囲にも同じように命を落とした者たちが幾人も横たわっている。食料を巡る争いの犠牲者たちだった。
その時だった。
「……おかあさん」
風に紛れそうなほどか細い声に、那岐は思わず足を止めた。
声のした方へ近づくと、死んだ女性の腕の下に、小さな少女が身を縮めるように隠れていた。母親は最期の瞬間まで娘を庇い続けたのだろう。少女は痩せ細った身体を震わせながら涙で顔を濡らし、何度も母親へ呼びかけていた。
「おかあさんが……」
少女は涙で濡れた顔を上げた。その瞳に宿る深い喪失は、かつて那岐自身が抱いたものとあまりにもよく似ていた。
那岐はゆっくりと少女の前へ膝をつく。母親の亡骸にしがみつく小さな手は泥と血で汚れ、それでも離すまいと必死に衣を握り締めていた。
「おかあさん……起きて……」
少女は何度も呼びかけながら肩を揺すり続ける。しかし、返事が返ることはない。それでも認めたくないのだろう。幼い身体を震わせながら母へ縋りつく姿を見た瞬間、那岐の胸の奥で長い間封じ込めていた記憶が静かに蘇った。
冷たくなった漣の身体を抱き締めながら名を呼び続けた夜。故郷へ帰った時にはすでに失われていた父と母の人生。どれほど願っても取り戻せなかった数え切れない別れ。その全てが、今目の前にいる少女の姿と重なって見えた。
那岐は小さく息を吐くと、母の衣を握り締めている少女の指へ、そっと手を伸ばした。
小さな指は冷たく、泥と血で汚れていた。それでも少女は、母をこの世に繋ぎ止めようとするかのように、必死に衣を掴んでいる。那岐は力任せに引き離すことができなかった。一本ずつ、ゆっくりと、眠る子の手から壊れ物をほどくように指を外していく。
最初の指が離れると、少女の喉から小さな声が漏れた。
「いや……」
那岐は手を止めた。
その声には、母を失った悲しみだけでなく、これ以上何も奪わないでほしいという幼い願いが滲んでいた。
「奪うんじゃない」
那岐は低く、静かに告げた。
「お前のおかあさんを、寒い場所に置いたままにはしない。ちゃんと眠れる場所へ連れていく」
少女は答えなかった。ただ涙で濡れた頬を母の衣へ押しつけ、かすかに首を振る。那岐はそれ以上急がず、雨に濡れた地面へ膝をついたまま、少女の呼吸が少し落ち着くのを待った。
やがて、少女の手から力がわずかに抜ける。
那岐は再び指をほどいた。二本目、三本目、四本目。最後の一本だけは、どうしても離れなかった。少女の小さな爪が母の衣に食い込み、血の気を失った指先が白くなっている。
那岐はその手を両手で包み込んだ。
「よく守られたな」
少女の肩が震える。
「お前のおかあさんは、最後まで強かった」
その言葉を聞いた瞬間、少女の指から力が抜けた。
最後の一本が、静かに母の衣から離れる。
その途端、少女は支えを失ったように前へ倒れ込んだ。那岐は慌ててその身体を受け止める。抱き上げた瞬間、胸が痛むほど軽かった。三つほどの年頃ならば、もっと重く、もっと温かく、もっと生きる力に満ちていていいはずだった。だが腕の中の少女は、長い飢えと恐怖に削られ、羽の抜け落ちた小鳥のように頼りなかった。
それでも、生きていた。
かすかな鼓動が、那岐の腕に触れている。浅い呼吸が、胸元で震えている。失われたものばかりを見続けてきた那岐にとって、その弱々しい温もりは、消えかけた火種のように思えた。
「……だれ?」
少女が、不安に濡れた目で見上げてくる。
那岐は答えようとして、一瞬だけ言葉に迷った。邑の長。山門を治める者。人々から頼られる者。そう名乗ることはできた。だが、今この子が求めているのは肩書きではない。
那岐は少女を抱き直し、雨に濡れた髪を指先でそっと払った。
「那岐だ」
「……なぎ?」
「ああ」
少女はその名を小さく繰り返した後、また母親の方へ顔を向けた。
「おかあさんは……?」
那岐は胸の奥を刺されるような痛みを覚えた。どれほど言葉を選んでも、この子から母を奪った現実を変えることはできない。それでも、嘘をつくことだけはできなかった。
「眠ったんだ。もう苦しまない」
少女の顔が歪む。声にならない泣き声が喉の奥で震え、次の瞬間、小さな手が那岐の衣を掴んだ。
母の衣を握っていた手だった。
今度は那岐を離すまいとするように、その指が必死に布へ食い込んでいる。
那岐はその手を見つめた。泥と血に汚れた小さな指。震えながら、それでも確かに生きようとしている指。その力の弱さが、かえって那岐の胸を締めつけた。
けれど今、腕の中にはまだ失われていない命がある。
那岐は少女を胸へ抱き寄せ、片手でその背を包み込んだ。
「これからは俺がいる」
少女は返事をしなかった。ただ那岐の衣を握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。
その小さな重みを、那岐は忘れまいと思った。
「もう、一人にはしない」
雨雲の切れ間から、わずかな光が差し込んだ。焼け落ちた村の中で、母を失った少女を抱きながら、那岐は長い孤独の果てに初めて誰かの未来を引き受ける決意を胸に刻んだ。
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流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。
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