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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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二章 国産み 三話 故郷へ

「海彦!」


 ある日の昼下がり、集落中に響き渡るような大声が聞こえた瞬間、那岐は思わず吹き出しそうになった。


「また那岐の家にいるのか!」


 家の外から飛んでくる怒鳴り声は、もはや季節の風物詩のようなもので、那岐にとってもすっかり聞き慣れたものになっていた。


「今行く!」


 慌てて立ち上がった海彦を見ながら、那岐は自然と口元を緩める。かつて山野を駆け回っていた少年は、いつの間にか立派な青年へと成長していた。日に焼けた顔立ちは精悍さを増し、鍬や斧を振るい続けた腕は逞しく太くなっている。そして何より、今では妻に頭の上がらない一人前の男になっていた。


「海彦も変わったな」

「うるさい」


 海彦は照れ隠しのように頭を掻いた。


「昔は俺が那岐を世話していたのに」

「今も世話になっているよ」

「だったら酒くらい飲め」


 そう言って海彦は酒壺を持ち上げてみせたが、那岐は苦笑するだけだった。


「飲まなくても困らない」

「本当に面白くない奴だな」


 呆れたように肩をすくめたその時、外から再び鋭い声が飛んできた。


「早く来い!」

「分かったって!」


 海彦は情けない返事を残して慌ただしく飛び出していく。その背中を見送った那岐は、堪えきれず声を上げて笑った。

 笑い終えた後、ふと自分自身に驚く、こんなふうに自然に笑えるようになったのは、いつからだっただろう。


 家の外では子供たちが元気よく走り回り、田では人々が汗を流して働いている。風に揺れる稲穂の向こうには新しい家々が立ち並び、かつて自分が流れ着いた頃とは比べものにならないほど集落は豊かになっていた。


 那岐は穏やかなその光景を、眺めながら目を細める。

 もちろん、漣を忘れたわけではなかった。朝日に照らされる田畑を見れば共に未来を語った日々を思い出し、子供たちの笑い声を聞けば、彼女ならどんな表情で微笑んだだろうと想像する。ふとした瞬間に胸へ浮かぶ面影は、今も少しも色褪せていない。


 だが、その記憶に触れるたび胸を切り裂かれるような苦しみに襲われることは、もうなくなっていた。


 かつて心の全てを覆い尽くしていた喪失感は、長い歳月の中で少しずつ形を変え、消えることも忘れることもなく、ただ心の奥底へ沈んでいる。人々へ知識を教え、共に田を耕し、子供たちの成長を見守りながら日々を重ねるうちに、凍り付いていた心も少しずつ解けていった。


 失ったものの大きさは今も変わらない。それでも那岐は、この世界で生き続けることを受け入れられるようになっていた。人々と笑い合い、季節の移ろいを眺めながら日々を重ねるうちに、いつしか再び前を向いて歩き始めていたのである。


 同時に那岐は、自らの内に宿る力についても探求を続けていた。妖力とは何なのか、なぜ自分だけが生き残ったのか、なぜ身体は老いることをやめたのか。その答えを知る者はどこにもいなかったが、それでも諦めることはなかった。


 那岐は集落から半日ほど離れた岩山の頂、漣が眠る墓の傍を修練の場と定め、幾度となく瞑想を繰り返した。最初は何も分からなかった。ただ、自らの身体の奥底で得体の知れない何かが渦巻いていることだけは感じ取れた。


 怒りや悲しみに呼応して暴れ狂い、理性を失えば手の付けられなくなる力。その正体を理解しなければ、再び惨劇を招くことになると那岐は知っていた。


 不死山の麓で起きた出来事は、今も鮮明に脳裏へ焼き付いている。意識を失ったまま妖力を暴走させ、多くの衛士たちを圧し潰し、墓地を破壊したあの夜の記憶は、後悔と恐怖となって何度も那岐を苛んだ。二度と同じ過ちを繰り返してはならない。その思いだけが、終わりの見えない修練を支えていた。


 呼吸を整え、意識を深く沈め、自らの内側へ潜り続けるうちに、那岐は妖力の性質を少しずつ理解していく。妖力は川の流れに似ていた。無理に堰き止めれば溢れ出し、力ずくで抑え込もうとすれば激しく暴れる。だが、その流れを理解し、正しく導けば穏やかに従うこともできた。


 そうして長い年月を費やしながら制御を学び続けた結果、当初は手のひらに微かな熱を灯すことしかできなかった力は、やがて周囲の空気を震わせるほどの規模へと成長していく。


 さらに歳月が流れる頃には、かつて怒りに任せて暴走するだけだった妖力も自在に操れるようになり、那岐はようやく自らの力と共に生きる術を身につけていた。




 季節は絶えることなく巡り続けた。

 春になれば山々は若葉に染まり、夏には濃い緑が大地を覆い、秋には実りの色が広がり、冬には冷たい風が吹き抜ける。その繰り返しの中で集落もまた少しずつ姿を変え、田畑は年ごとに広がり、ため池は増え、新たな家々が建てられていった。


 子供だった者は大人となり、大人だった者は老人となる。そして老人たちはやがて土へ還り、新たな命が生まれていく。


 そうして十数年という歳月が流れた。

 秋の日差しが降り注ぐある日、黄金色に実った稲穂が風に揺れる田園を見渡しながら、一人の青年が満足そうな笑みを浮かべた。


「見ろよ」


 その声に那岐が振り返ると、そこには海彦が立っていた。かつて雪山で瀕死だった那岐を助けてくれた少年は、今では父の跡を継いで集落を率いる長となっている。肩幅は逞しく広がり、日に焼けた顔には幾多の苦難を乗り越えてきた者だけが持つ精悍さが宿っていたが、笑った時に見せる人懐こい表情だけは、あの頃と少しも変わっていなかった。


 那岐は風に揺れる黄金色の田畑を見渡しながら感慨深げに目を細める。


「随分大きな村になったな」


 その言葉に海彦は誇らしげな笑みを浮かべた。


「誰のおかげだと思ってる」


 那岐は肩をすくめながら答える。


「皆の努力だよ」


 しかし海彦は首を横に振り、長としての威厳を滲ませながらも真っ直ぐな眼差しで那岐を見据えた。


「違う。お前は、この村の恩人だ」


 その言葉に、那岐もまた静かに首を振る。


「違うよ」

「何が違う」

「生きる理由をくれたのは、お前たちだよ」


 思いがけない返答に海彦は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに堪えきれないように吹き出して笑った。


「相変わらずだな」

「そうかな」

「ああ。何十年経っても、お前は変わらない」


 二人の間を吹き抜けた風が、黄金色の稲穂を波のように揺らしていく。その穏やかな景色を眺めながら、那岐はふと海彦の横顔へ視線を向けた。目尻には細かな皺が刻まれ、日に焼けた肌にも若い頃にはなかった歳月の痕跡が残っている。気付けば海彦に子が生まれ、その子が畑を手伝う年頃になっていた。


 子供だった者が親となり、親だった者が白髪を増やしていく。だが那岐だけは変わらなかった。


 その姿を見つめるうちに、那岐は改めて逃れようのない現実を思い知らされる。海彦は年を重ね、集落の子供たちも成長して家庭を持ち、やがて親となった。


 だが、自分だけは違う。漣と別れたあの日から、顔も身体も声さえも何一つ変わらず、水面に映る姿は十数年前のまま時を止めている。周囲の人々だけが季節を重ねるように人生を進めていくなか、自分だけが取り残され続けていた。


 不死草がもたらした不老。それはかつて多くの人々が求めた夢であり、徐福が人生のすべてを懸けて追い求めた力だった。しかし今の那岐には、それが祝福であるとは到底思えなかった。


 終わりへ辿り着くことのない旅路を歩み続け、愛した者たちが老い、去り、消えていく姿を見送りながら、自分だけが変わることなく生き続ける。その力は、時の流れから切り離された者だけが背負う、静かで果てしない孤独そのものだった。


 


 冬の終わりの夜、囲炉裏の火が小さく爆ぜる音だけが部屋に響いていた。揺れる炎を見つめながら、海彦はしばらく言葉を選ぶように黙り込み、やがて低い声で口を開いた。


「本当に行くのか」

「ああ」


 那岐が短く頷くと、海彦は困ったように笑いながら首を振った。


「ここがお前の家だろ」


 その言葉に、那岐はすぐには答えられなかった。共に田を耕した日々が脳裏に浮かぶ。山へ入り獣を追ったこともあった。収穫の夜には酒を酌み交わし、祭りでは朝まで笑い合った。


 やがて子供たちが生まれ、その子供たちが大人へ成長していく姿を見守りながら、共に生きた人々は少しずつ老いていった。気付けば、この土地で過ごした年月は人生の大半と呼べるほど長くなり、いつしかこの集落は旅の途中で立ち寄った場所ではなく、紛れもない第二の故郷になっていた。


「そうかもしれない」


 那岐は小さく笑ったが、その曖昧な返事に海彦は首を横へ振り、真剣な眼差しのまま言葉を続けた。


「なら残れ。お前が来てから村は変わったんだ」

「それは皆が頑張ったからだ」


 那岐が穏やかに答えると、海彦は即座に否定した。


「違う。俺はお前に生かされたんだ」


 その言葉に、那岐は囲炉裏の火を見つめながら微かに笑った。


「俺もだ」

「え?」

「お前が雪の中で見つけてくれなければ、俺はとっくに死んでいた」


 囲炉裏の火が小さく爆ぜ、その音だけが静まり返った部屋に響く。二人はしばらく言葉を交わさず、揺れる炎を見つめていたが、やがて海彦が苦笑を浮かべながら口を開いた。


「また会えるか」

「分からない」


 即答された答えに海彦は肩を落とした。


「ずるい答えだな」

「だが、生きていれば会える」


 那岐の言葉を聞いた海彦は大きく息を吐き出し、それから吹っ切れたように笑った。


「じゃあ生きろ。絶対にだ」

「ああ」


 那岐は力強く頷き、その約束を胸に刻むように海彦の顔を見つめ返した。




 旅立ちの日、那岐は朝早くから岩山の頂へ登っていた。


 眼下には冬の日本海が広がり、荒々しい波が岩礁へ砕け散る音が絶え間なく響いている。その景色を見下ろす場所には、小さな石を積み上げて作った墓があった。十数年前、自らの手で築いた漣の墓である。

 那岐は墓前に膝をつき、長い年月を風雪に晒された石へそっと手を添えた。


「漣」


 呼びかける声は穏やかだった。

 冷たい海風が吹き抜け、黒髪を揺らしていく。もちろん返事はない。それでも那岐は、生前と変わらぬように語りかけた。


「俺は故郷の筑紫へ戻ろうと思う」


 遠くで波が砕ける音だけが聞こえる。


「自分が何者なのか。なぜ俺だけが生き残ったのか。そして、これから何のために生きるのか……その答えを探してみようと思う」


 長い年月を生きても、その問いだけは胸の奥に残り続けていた。再び人々と関わり、世界を見て歩けば、いつか答えの欠片くらいは見つかるかもしれない。そんな思いが今の那岐を動かしていた。


「しばらく来られなくなる」


 そう告げると、那岐は墓石をそっと撫でた。


「だが、お前を忘れることはない」


 その言葉に偽りはなかった。十数年という歳月は多くのものを変えたが、漣への想いだけは少しも色褪せていない。嬉しかった日々も、交わした約束も、最後に流した涙も、すべてが昨日のことのように胸へ刻まれていた。


「いつかまた帰ってくる」


 それは独り言ではなく誓いだった。愛した人へ捧げる約束であり、自分自身へ課した約束でもあった。

 那岐はゆっくりと立ち上がると、もう振り返ることなく山道へ足を向けた。

 麓では海彦が待っていた。

 二人は互いの姿を認めると、余計な言葉を交わさず固く手を握り合う。十数年に及ぶ歳月を共に生き抜いた二人にとって、それだけで十分だった。


 冬の終わりを告げる風が山から海へ吹き抜ける。

 那岐は日本海を背にしながら西へ向かって歩き始めた。

 故郷である筑紫へ。

 そして、自らの生きる意味を探すために。


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。


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