二章 国産み 二話 稲穂
初夏を迎えようとしていた頃、那岐は集落の者たちが海沿いの平地で大掛かりな作業を続けていることに気付いた。男たちは木を切り倒し、女たちは背丈ほどに伸びた草を刈り払い、子供たちは籠いっぱいの石を運んでいる。
その光景を見た那岐は、最初は新しい住居でも建てるのだろうと思ったが、しばらく様子を見ているうちに考えが違うことに気付いた。
彼らが切り開いていたのは家を建てる土地ではなく、海から少し離れた低地へ水を引き込んで作る田だったのである。
ある日、作業の様子を眺めていた那岐は、近くで土を運んでいた海彦へ声を掛けた。
「何をしているの」
「水田だよ」
海彦は額の汗を腕で拭いながら答えた。
「南の方から来た旅人が教えてくれたんだ。稲ってやつを育てれば、魚や獣を追い回さなくても食べ物が手に入るらしい」
その言葉には、これまでにない暮らしへの期待が滲んでいた。
この集落の人々は代々、山で木の実や山菜を採り、海で魚を獲り、森で獣を狩りながら生きてきた。自然の恵みは豊かだったものの、それは常に天候や獲物の数に左右される不安定なものでもある。
海が荒れれば漁はできず、獣が減れば食卓は寂しくなり、凶作の年には飢えの不安が人々を苦しめた。だからこそ、自ら食糧を育てるという新しい技術は、多くの者にとって未来を変える希望に映っていた。
だが、その希望はすぐに現実の厳しさに直面することになる。夏を越え、秋を迎えても田に残った稲はまばらで、背丈は低く、実った穂も痩せ細っていた。
大雨が降れば田は濁流に呑まれ、晴天が続けば水は失われる。ようやく育った稲も十分な実りには至らず、人々は何年も試行錯誤を重ねながら成果を得られずにいた。
収穫を迎える頃、刈り取りを待つ田を見渡していた長老は、わずかに実った稲穂を前に深いため息を漏らした。
「また駄目だったか……」
その呟きには、何年も続く失敗への諦めと、それでも諦めきれない願いが入り混じっていた。集落の者たちは誰も言葉を返さなかったが、沈んだ表情のまま痩せた田を見つめる視線が、この新しい挑戦の難しさを何より雄弁に物語っていた。
収穫を前にしているはずの田には活気がなく、周囲に立つ者たちも肩を落としている。
那岐はしばらく無言で田を見渡した後、足元の土を掴んで指先で砕き、さらに水路へと視線を向けた。金立山の開拓地で農耕を学び、熊野では方士たちから治水や土づくりの知識を教わっていた彼には、それだけで不作の原因がおおよそ見えていた。
「水が足りない」
那岐が静かに告げると、集まっていた長老たちは怪訝そうな顔をした。目の前には川が流れ、田にも水は引かれている。水不足と言われても実感が湧かなかったのである。
「足りない?」
問い返され、那岐は近くを流れる川へ視線を向けた。
「多い時と少ない時の差が大きすぎるんだ。雨が降れば一気に流れ込み、晴れの日が続けば今度はほとんど流れなくなる」
長老たちは顔を見合わせた。それは昔から当たり前のことだった。だが、那岐は首を横に振る。
「稲は人間より我儘なんだ。水が多すぎても駄目だし、少なすぎても育たない。できるだけ同じ量の水を与え続けなければならない」
そう言われても、すぐに理解できる者はいなかった。
「ならば、どうすればいい」
腕を組んだ長老の問いに、那岐は川岸へ歩み寄ると足元を棒でなぞりながら答えた。
「川の流れを利用するんだ。水路を掘って必要な分だけ田へ引き込み、余った水は別の場所へ逃がす。そうすれば水の量を調整できる」
さらに彼はしゃがみ込み、土を一握り掴み上げた。
「問題は水だけじゃない。この土も痩せている」
「痩せているだと?」
長老たちの眉がさらに険しくなる。
見慣れた土に違いなどあるはずがない。まして相手は余所から来た若者である。年長者たちの胸には、どこか面白くない思いもあった。
「山の草を刈って田へ入れるんだ。草は腐れば土になり、養分になる」
「雑草を田に入れるのか」
「今の田には養分が足りない。土が弱っているんだ」
半信半疑の視線が集まる中、那岐は迷いなく言い切った。
「変わる。今よりずっと実るようになる」
その声には確信があった。金立山での開拓の日々、そして熊野で学んだ農耕や治水の知識が、揺るぎない経験として彼の中に根付いていたからである。
長老たちはなお疑念を拭いきれずにいた。しかし不作が続く現状で、他に有効な手立ても見当たらない。結局のところ、彼らにできるのは那岐の言葉を試し、その結果を見守ることだけだった。
冬が終わると、那岐は誰よりも早く外へ出て、開墾と治水の作業に取りかかった。
まだ冷たい雪解け水が流れる川へ何度も足を踏み入れ、水量の変化を確かめる。雨が続いた後はどうなるのか。晴天が続けばどこまで減るのか。流れが速まる場所と淀む場所はどこか。何度も川岸を歩き回り、田へ水を引く場所を決めていった。
集落の男たちは木鍬を振るい、女たちは石を運び、子供たちは刈った草を集める。
那岐は川から田へ水を導く水路を築くだけではなく、余った水を逃がす排水路も整備した。
伐採した木や草は焼いて灰にし、山から刈り取った草は田へ敷き詰められ、やがて土へ還っていった。集落の者たちは那岐の指示に従い、慣れない作業に汗を流しながら田を整えていく。
田を整える方法も、水路を築く技術も、作物を育てる工夫も、那岐は記憶の底から掘り起こすようにして実践し、来る日も来る日も黙々と働き続けた。
誰かに褒められたいわけではなく、名を残したいとも思わなかった。
そうして季節は巡り、春が過ぎて夏が訪れた頃、人々は田の前で思わず足を止めた。風に揺れる稲は、それまで見慣れていたものとは明らかに違っていた。葉は深い緑に染まり、水面を覆うように力強く広がり、一本一本の茎も太くたくましい。
その姿は生命力に満ちあふれ、誰の目にも豊かな実りを予感させるものだった。
「なんだ、これは……」
長老が呆然と呟いた。
誰も見たことのない育ち方だった。夏の日差しを浴びた稲は日に日に背丈を伸ばし、田は日に日に濃い緑を増していく。その勢いは衰えるどころか、まるで大地そのものが生命力を溢れさせているかのようだった。
やがて秋が訪れ、山々が紅や黄金に色づき始める頃になると、田は見渡す限りの黄金色へと姿を変えた。重く実った稲穂は風を受けて大きく揺れ、傾きかけた夕陽の光を反射しながら、まるで金色の海が波打っているかのような光景を生み出している。
その年の収穫量は、それまでの数倍に達した。
まだ刈り取りを始めてもいないにもかかわらず、それは誰の目にも明らかだった。集落の者たちは半ば信じられない面持ちで田へ足を踏み入れ、恐る恐る一株を刈り取る。穂を手に取って確かめると、粒は隙間なく詰まり、その重みが掌にずっしりと伝わってきた。
「実ってる……」
誰かが漏らした震えるような呟きは、瞬く間に歓声へと変わった。
「本当に実ってるぞ!」
「見ろ!」
「こんなの初めてだ!」
男たちは興奮のまま声を張り上げ、女たちは顔を見合わせて笑い合い、子供たちは畦を駆け回りながらはしゃいでいる。その一方で、その場にしゃがみ込み、顔を覆って涙を流す老人の姿もあった。飢えに怯えながら冬を越した年があり、日照りによって田が枯れ、家族を失った年もあった。それでも彼らは生きることを諦めずに耐え続けてきたのである。
そして今、その長い苦しみが報われたかのように、目の前には果てしなく広がる黄金の海があった。
歓声に包まれる収穫の田の中で、那岐だけは少し離れた場所に立ち、静かにその光景を見つめていた。吹き渡る風に合わせて黄金色の稲穂が波のように揺れ、その向こうには人々の笑顔がどこまでも続いている。
この景色を一番見せたかった相手は、もうここにはいなかった。那岐の脳裏に浮かんだのは、秋風に長い髪をなびかせながら微笑む漣の姿だった。漣が眠る岩山から見れば、この村もまた広い景色の一部として見えているのだろう。
……見ているか、漣。
その想いを声に出すことはなかったが、胸の奥でそっと呟いた言葉に応えるように、柔らかな秋風が頬を撫でて通り過ぎていく。
那岐は静かに目を閉じ、しばしその温もりに身を委ねた。
そしてほんの一瞬だけ、遠い日の笑顔を見た気がした。
収穫祭の日、焚き火を囲んで酒や料理を楽しむ人々の輪の中で、海彦が不意に声を潜めるようにして話しかけてきた。
「実は好きな女が出来たんだ」
あまりにも唐突な告白に、那岐は思わず目を瞬かせる。
「……お、おう」
何を言い出すのかと思えば、そういう話だった。海彦もいつの間にかそんな年頃になったのだと、那岐は少しだけ可笑しくなる。
「どうやったら仲良くなれるのかな」
「ん……嫌われることをしないことかな」
「それだけかよ」
「大事なことだよ。海彦は蛙とか蛇とか投げつけそうだし」
「そ、そんなことするかっ」
慌てて否定する海彦の姿に、那岐は久しぶりに声を上げて笑った。
「あははは」
目の前の実りがどれほど豊かであっても、それはたった一年の結果に過ぎない。この豊作を一度きりで終わらせるつもりはなかった。
だからこそ那岐は、収穫祭の賑わいの中にあっても浮かれることはなかった。
やがて冬も迫る頃になると、那岐は再び山や川を歩き始めた。人々が豊作の余韻に浸る中でも、彼の視線はすでに次の年、そのさらに先の未来へ向けられていた。
「また何か始めるのか」
山裾を流れる川を見つめる那岐の背に、海彦が呆れたような声を掛ける。
「今度は水を貯める場所が必要なんだ」
那岐は川から少し離れた窪地へ視線を向けた。
「池を作るつもりか?」
「大きなため池をな」
その答えに海彦は思わず苦笑した。
「豊作になったと思ったら、今度は池か」
「やることはまだある」
那岐は静かに答えた。
目の前の豊かな実りは喜ばしいものだったが、それだけで終わらせるつもりはなかった。来年も、その先の年も変わらぬ収穫を得るためには、まだ手を入れるべき場所が残っている。
吹き抜ける冬の風が川面を揺らした。那岐は流れの先を見つめながら、次に築くべきものの形を思い描いていた。
その冬、那岐は海彦へ語った通り、大きなため池の建設に取りかかった。
村人たちは首を傾げながらも工事に参加したが、その価値を理解するようになるまでに長い時間はかからなかった。
旱魃の年にもため池の水は田を潤し続け、大雨の季節には余分な水を受け止める役目を果たしたのである。さらに那岐は毎年、ため池の底に溜まった泥を掘り上げて田へ運ばせた。
当初こそ人々は面倒な作業に不満を漏らしていたが、年を重ねるごとにその効果は目に見えて現れた。田の土は次第に肥え、収穫は安定し、不作に苦しむことも少なくなっていったのである。
冬の訪れに怯えていた人々の表情には余裕が生まれ、家々には十分な食糧が蓄えられるようになった。広がる田畑の周囲には新たな住居が建てられ、子供たちの笑い声も年を追うごとに増えていく。
こうして集落はゆっくりと、しかし確実に豊かさを積み重ね、人々の暮らしはかつてないほど安定したものへと変わっていったのである。
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