二章 国産み 一話 再生
日本海から吹きつける風は鋭く、山々は深い雪に閉ざされていた。灰色の空の下、岩山の頂に立つ那岐は、海を見下ろす場所に築いたばかりの墓を静かに見つめていた。小さな石積みの墓標は吹き荒ぶ潮風に晒されながらぽつりと佇み、巻き上げられた雪が山肌を駆け抜けるたび、その姿を白く霞ませていく。
風の唸りを聞くたびに、忘れようとしても消えることのない記憶が胸の奥から浮かび上がった。文字を教わった日々、山菜を採りながら笑い合った時間、熊野の海を眺めながら語り合った未来の夢。そのどれもが昨日のことのように鮮明だったが、最後に思い出されるのは、やはり冷たくなった漣の姿だった。
胸の奥には今も大きな穴が空いたままで、その穴を埋める術を那岐は知らなかった。涙が枯れるほど泣き続け、叫び続け、それでも失われたものは何一つ戻らない。生きる理由も見つからず、ただ漣をこの場所へ連れてくるためだけに歩き続けてきたようなものだった。
しかし、人は悲しみだけを抱えて生き続けることはできない。
空腹と寒さは等しく命を削り取っていく。どれほど心が死を望んでも、肉体は苦痛を訴え続け、生きることを強いるのだった。
那岐はゆっくりと墓標へ手を伸ばした。冷え切った石に触れた指先には何の温もりも感じられない。それでも最後にその感触を確かめるように撫でると、小さく息を吐き、そのまま身を沈めた。
白く染まった世界は次第に遠ざかり、吹き荒れる風の音さえも聞こえなくなっていく。
やがて那岐の意識は、静かな闇の底へと沈んでいった。
墓の傍らで倒れていた那岐を見つけたのは、海辺の小さな集落に暮らす一人の少年だった。
年の頃は十二、三ほどで、獣皮をまとい、背には小ぶりな弓を負っている。獲物の足跡を追って雪深い山へ入っていた少年は、雪原の先に人影を見つけると足を止め、警戒するように様子をうかがった。
冬山で行き倒れた者を見つけることは珍しくない。吹雪に呑まれた者、谷へ転落した者、あるいは獣に襲われた者――そうした死者が雪の中から見つかることは、この土地では決して珍しい光景ではなかった。恐る恐る近づいた先で、その考えが誤りだったことに気づく。
雪に埋もれるように横たわる男の胸は微かに上下し、口元からはかすかな白い息が漏れていた。
「生きてる……」
思わず漏れた声に驚いたように、少年は目を見開いた。顔色は死人と見紛うほど青白く、今にも息絶えそうな有様だったが、それでも確かに命の火は消えていない。
助けを呼ぶべきか、それとも関わらず立ち去るべきか。少年は一瞬だけ迷ったものの、すぐに決意したように踵を返すと、雪を蹴散らしながら山道を駆け下りていく。
「爺ちゃん! 人が倒れてる!」
必死の叫び声が、静まり返った冬山へ大きく響き渡った。
次に那岐が目を覚ました時、自分がどこにいるのか分からなかった。
ぼやけた視界の先には煤けた天井が広がり、囲炉裏の火が赤く揺らめいている。その明かりに照らされた梁には乾燥させた魚や獣肉が吊るされ、部屋の中には長年染み付いた燻煙の匂いが漂っていた。熊野とも不死山の麓とも異なる見慣れぬ光景に、那岐は夢と現実の境目を探るようにゆっくりと周囲へ視線を巡らせた。
囲炉裏の傍には白髪の老人が座っていた。
深く刻まれた皺と日に焼けた肌は、この厳しい土地で長く生きてきたことを物語っている。老人は獣骨を削りながら、目を覚ました那岐へ静かに視線を向けた。
「起きたか」
低く落ち着いた声だった。
「三日ほど熱にうなされておった。若いとはいえ、雪山であんな倒れ方をすれば死んでも不思議ではない」
那岐は返事をしなかった。
老人もそれ以上は何も聞かなかった。どこの者かも、なぜ山で倒れていたのかも尋ねず、ただ囲炉裏に薪をくべる。
その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。
那岐が再び身体を起こそうとした、その瞬間、全身を焼くような激痛が突き抜けた。
「っ――!」
思わず息が詰まる。骨の内側を火で炙られているかのような痛みは、不死山の麓で妖力を暴走させて以来、制御できぬまま力を使い続けた代償だった。
妖力そのものは尽きるどころか以前よりも強大になっていたが、それを受け止める肉体は到底追いついておらず、奥底から溢れ出す力は濁流のように暴れ回り、わずかに動くだけでも自らを傷つけた。那岐は荒い息を吐きながら痛みに耐えたものの、結局は力尽きるように再び寝台へ倒れ込んだ。
「また無理をしたな」
不意に声が耳へ届いた。
囲炉裏の向こうへ視線を向けると、そこには目を丸くした少年が立っていた。雪山で倒れていた自分を見つけた、あの少年だった。那岐は返事をすることなく、ぼんやりと天井を見上げたままでいたが、少年はそんな態度を気にした様子もなく立ち上がる。
「水、飲むか?」
そう言って差し出された木椀を見た時、ようやく自分が酷く喉を渇かせていることに気づいた。無言のまま受け取って口を付けると、冷たい水が乾き切った喉を潤し、身体の奥へゆっくりと染み渡っていく。
その様子を見ていた少年は、ほっとしたように笑った。
「昨日は全然飲まなかったからな」
那岐は何も答えなかった。しかし少年は気まずそうにすることもなく、そのまま屈託なく言葉を続ける。
「お前、どこから来たんだ?」
那岐は答えない。
「海の向こうか?」
少年は構わず続けた。
「船乗りか?」
それでも那岐は口を開かなかった。
普通なら諦めてしまいそうなものだが、少年は違った。好奇心に満ちた瞳で那岐を見つめながら、次々と問いを投げかけてくる。その姿には警戒心よりも純粋な興味の方が強く滲んでいた。
「名前は?」
その問いだけが、不思議と胸の奥に残った。
名前。
漣が何度も呼んでくれた名。
この世の全てを失ったような気がしていた今もなお、失いたくないと思える唯一のものだった。
那岐はしばらく黙り込んでいたが、やがて掠れた声を絞り出すように答えた。
「……那岐」
「ナギ?」
少年の顔がぱっと明るくなる。まるで宝物でも見つけた子供のように無邪気だった。
「俺は海彦だ」
その名を聞いた瞬間、那岐はそこで初めて少年の顔を正面から見た。
日に焼けた肌。寒風吹き荒れる土地で育った者らしい逞しさを宿した身体。そして何より、生きる力に満ちた真っ直ぐな瞳が印象的だった。漣を失って以来、那岐が初めて目にする「生の輝き」そのものだった。
海彦はそんな那岐の視線に気づくこともなく、屈託なく笑う。
「よろしくな、那岐」
那岐は答えなかった。
けれど、その言葉を拒むこともできなかった。
囲炉裏の火は静かに揺れ、その赤い光が二人の顔を淡く照らしている。外では吹雪が獣の唸り声のように荒れ狂っていたが、その小さな家の中だけは、まるで別世界のような温もりに包まれていた。
それからというもの、海彦は毎日のように那岐のもとへ顔を出した。食事を運び、薬を飲ませ、囲炉裏の火を見ながら集落の出来事を勝手に話しては帰っていく。漁で大物が獲れた話、山で熊の足跡を見つけた話、子供たちの喧嘩の話まで、その内容は実に取り留めがなかった。
那岐は相変わらず黙って聞いているだけだった。しかし不思議なことに、海彦の声が聞こえない日は家の中が妙に静かに感じられ、その賑やかさにも少しずつ慣れていった。
そうして雪深い冬は少しずつ終わりを迎え、山肌に残る白が溶け始める頃には、那岐も家の外へ出られるほどには回復していた。
もっとも、身体はまだ本調子には程遠い。少し長く歩けば息が上がり、冷たい風に晒されれば傷んだ身体の奥が軋むように痛んだ。それでも寝台の上で一日を過ごしていた頃に比べれば大きな進歩だった。
ある朝、海彦は戸を勢いよく開けるなり家へ上がり込み、囲炉裏の傍でぼんやりと火を眺めていた那岐の腕を強引に掴んだ。
「行くぞ」
「どこへ」
「山だ」
「嫌だ」
「駄目だ」
それは迷いのない返答だった。
海彦は呆れたように眉をひそめると、大きくため息を吐いた。
「お前、このまま寝てばかりいるつもりか」
「別に構わない」
「俺は構う」
那岐は腕を振り払おうとしたが、海彦は離そうとしなかった。
「飯もろくに食わない。外にも出ない。そんな生活を続けていたら、そのうち本当に死ぬぞ」
「……死ねるなら、その方がいい」
思わず漏れた言葉に、海彦は一瞬だけ表情を曇らせた。だが、すぐに那岐の腕を引いた。
「だったらなおさらだ。こんな薄暗い家の中にいても何も変わらない」
反論する気力も湧かなかった。
結局、那岐は半ば引きずられるように家を出され、そのまま海彦に連れられて山へ向かうことになった。
雪解けの進む森には冷たい風が吹き抜け、湿った土と若葉の匂いが漂っている。最初のうちは歩くだけで息が上がり、慣れない山道に足を取られることも多かったが、海彦はそんなことには構わなかった。
雪原に残る獣の足跡の見分け方から、風下を利用した獲物への接近法、罠の仕掛け方、さらには弓の扱い方に至るまで、山で生き抜くための知恵を次々と叩き込んでいく。その教え方は荒っぽく、休憩らしい休憩もほとんどなかったが、海彦なりに那岐を一人前にしようとしていることだけは伝わってきた。
ある日、二人が森の奥を歩いていると、木立の向こうに鹿の群れが姿を現した。那岐は息を潜めながら木々の間を抜け、慎重に距離を詰めようとしたが、次の瞬間、先頭の鹿がぴくりと顔を上げる。すると群れは一斉に身を翻し、枯れ葉を蹴散らしながら森の奥へ消えていった。
「あっ……」
呆然と立ち尽くした那岐の隣で、海彦が堪えきれず吹き出した。
「違う違う。風上から近づいたら逃げるだろ」
「……そうなのか」
「そうなのかじゃない」
海彦は呆れたように肩を竦める。
「お前、本当に山で生きられないぞ」
那岐は遠ざかっていく鹿の背を見つめながら、小さく呟いた。
「別に、生きたくて生きているわけじゃない」
那岐の声は小さかった。
海彦は思わず足を止める。
その言葉には怒りも悲しみもなかった。ただ、長い冬を越えてなお溶け残った雪のような諦めだけが滲んでいた。
海彦の表情から笑みが消える。
「……死にたいのか」
那岐は答えなかった。
沈黙だけが、その問いへの答えだった。
二人の間に重い沈黙が落ちる。やがて海彦は前を向いたまま、静かに言った。
「俺は嫌だな」
「何で?」
「助けた奴が死ぬのは」
飾り気のない、あまりにも率直な言葉だった。だからこそ、その一言は那岐の胸の奥へ真っ直ぐ突き刺さる。
海彦はそれ以上何も言わなかった。説教も励ましもなく、そのまま山道を歩き始める。那岐もまた黙ったまま後に続き、二人の足音だけが静かな森の中へ吸い込まれていった。
雪解け水が小川となって山肌を流れ、森の奥からは鳥たちのさえずりが響いていた。
それからの日々、那岐は海彦に連れられて山へ入り続けた。
狩りの技術だけではない。山菜の見分け方、川魚の捕り方、獣皮の加工法、冬を越すための保存食作り――海彦はこの土地で生きるための知恵を惜しみなく教えた。
那岐は言われるままにそれらを学び続けた。考えれば漣の面影が浮かび、立ち止まれば胸の奥から溢れる喪失感に呑み込まれてしまう。だからこそ余計なことを考えずに済むよう、朝から日暮れまで身体を動かし続けた。
そうして季節は静かに巡り、雪は消え、若葉が芽吹き、山々が鮮やかな緑に染まる頃には、痩せ細っていた那岐の身体にも少しずつ力が戻り始めていた。
森の奥で一頭の鹿を見つけた那岐は、教わった通り風下へ回り込んだ。
かつては獲物へ真っ直ぐ近づき、匂いで気付かれて逃げられたこともあった。しかし今は違う。風の流れを肌で感じながら足音を殺し、枯れ枝を踏まぬよう慎重に木々の間を進む。その動きはぎこちなさを残しながらも、海彦に叩き込まれた知識と経験によって確かなものになりつつあった。
鹿はまだこちらの存在に気付いていない。那岐は木陰へ身を潜めたまま呼吸を整え、静かに弓を構える。何度も失敗を繰り返し、その度に海彦から叱られながら覚えた技が、今では自然と身体を動かしていた。
ゆっくりと弦を引き絞り、十分に狙いを定めて放たれた矢は一直線に飛び、鹿の脇腹へ深々と突き刺さった。鹿は驚いて跳ね上がり、必死に逃れようと数歩駆け出したものの、やがて力尽きて地面へ崩れ落ちる。
那岐はその場に立ち尽くしたまま、自らの手で仕留めた獲物を見つめていた。初めて山へ連れ出された頃は歩くだけで息を切らし、獣の気配を読むことすらできなかった自分が、今こうして獲物を仕留めている。その事実を実感するように鹿を見つめていると、背後から聞き慣れた笑い声が響いた。
「やっとだな」
振り返れば、海彦が腕を組みながら満足そうに頷いている。
那岐は何も答えなかったが、その口元には自然と小さな笑みが浮かんでいた。それは漣を失って以来初めて見せる笑顔であり、長い冬のような悲しみの中でようやく芽吹いた再生の証でもあった。
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