十章 神武東征 十二話 八咫烏と勇者の剣
磐余彦たちのもとに活気は戻りつつあったが、東征軍全体を見渡せば、依然として深刻な問題が残されていた。
白肩津で長髄彦の軍に敗れ、彦五瀬を失った兵たちの士気は低く、船上には重苦しい空気が漂っていたのである。
さらに、軍は敵の追撃を避けるために南へ進んでいるものの、その先にどこを目指し、いかにして態勢を立て直すのか、明確な方針すら定まっていなかった。
行く先の見えぬ航海は兵たちの不安を募らせ、このままでは、たとえ無事に上陸できたとしても、再び軍を率いて戦うことなど到底望めない。
磐余彦たちは、一刻も早く今後の方針を定め、兵たちに再び前を向く理由を示さなければならないと理解していた。
そんな中、那岐は一同を見渡すと、普段よりも少し改まった口調で話し始めた。
「私は鴉と申します。宇佐の日巫女女王より命を受け、大倭壱国と三輪山の和平に向けた交渉、ならびにその仲裁を仰せつかっております」
「日巫女様から、和平のご指示が……」
磐余彦は驚きながらも、その言葉を聞いてようやく事情をのみ込んだ。
日巫女は、もはや武力によって三輪山を屈服させることだけを望んでいるのではない。
双方の争いを収める道を探るため、伊邪那岐である那岐を、自らの使者として動かしたのだろう。
那岐ほど三輪山との縁が深く、また双方の事情を知る者はほかにいない。
磐余彦は、目の前にいる少年の姿をした人物が、鴉という名を用いてまでこの場に現れた理由を、静かに理解したのだった。
「しかし、どうやって和平を結ぶんだ?」
日臣が腕を組み、難しい顔で問いかけると、椎根津彦もまた、容易には答えの出せない問題であることを示すように眉を寄せた。
「こちらから送り出した使者は、いまだ一人も戻ってきておりません。三輪山の側で拘束されているのか、あるいは、すでに斬られてしまったのか……いずれにせよ、向こうが和平の話を聞くつもりでいるとは考えにくい状況です」
「使者が戻ってこられないとなりゃ、次は誰を送るんだって話になるよな。命を捨てに行けと言われて、喜んで引き受ける奴なんざいないだろうしよ……」
日臣が苦々しく言葉を濁したところで、那岐が静かに口を開いた。
「それでしたら、使者は鴉めが引き受けましょう」
那岐はあえて鴉という名を強調し、一同の顔をゆっくりと見渡した。
今の自分は伊邪那岐ではなく、日巫女の命を受けて遣わされた仲裁の使者である。
誰かがうっかり本当の名を口にすれば、その立場が崩れてしまうため、念を押しておく必要があった。
「しかし、それでは、な……鴉殿のお命が危険です。相手はこちらの使者を帰していないのですよ」
椎根津彦は思わず本当の名を呼びかけ、慌てて言い直した。
那岐がその小さな失敗を咎めることはなく、いつもと変わらぬ穏やかな表情で微笑んだ。
「ご心配には及びません。私にお任せください」
「何か策でもあるのでしょうか?」
磐余彦が尋ねると、那岐は少しだけ考えるように視線を伏せ、それから、安心させるように答えた。
「策というほどのものではありませんが、三輪山には何度か足を運んだことがございます。土地のことも多少は存じておりますので、何とかいたします」
その言葉に偽りはなかったが、和平へ至る道筋が見えているわけではなかった。
使者を迎え入れてもらえる保証もなければ、話を聞いてもらえたとして、双方が納得できる答えを示せる自信もない。
それでも、誰かが三輪山へ赴き、相手の言葉を聞かなければ、争いは終わらないのだ。
那岐は胸の内に残る不安を表に出さず、まずは自分が赴いて活路を見いだすしかないと、静かに覚悟を決めていた。
「和平の話はそれでよいのですが、当面の問題はそこではないです」
日臣が腕を組んで口を開くと、それまで黙って話を聞いていた大久米も、険しい表情のまま深く頷いた。
「行き先も、今後の方針も定まっておりませんし、何より東征軍の士気の低下が深刻です。兵たちは彦五瀬様を失ったばかりで、これからどこへ向かい、何のために戦うのかさえ分からずにおります。このままでは戦いどころか、和平の席につくことすら怪しい状況です」
椎根津彦の言葉に、磐余彦は反論できなかった。
兄を失った悲しみは自分たちだけのものではなく、彦五瀬を信じて海を渡ってきた兵たちもまた、その死によって進むべき道を見失っているのだ。
たとえ和平への道筋が見えたとしても、そこへ辿り着くまで軍を率いていけなければ、何も成し遂げることはできなかった。
那岐はしばらく考え込んでいたが、やがて海の向こうへ目を向けると、穏やかな口調で提案した。
「では、今の半島を越えたら東へ向かいましょう。その先に熊野という地がございます。まずはそこを東征軍の当面の拠点とし、兵を休ませながら軍を立て直されるのがよろしいかと存じます。私が先行して熊野の者たちと話をつけてまいりますので、皆様は安心してお進みください」
「熊野、ですか」
磐余彦がその地名を繰り返すと、那岐は静かに頷いた。
熊野――。それは那岐にとって、決して忘れることのできない土地だった。
まだ不老の身となる前、徐福の船団とともに海を渡り、新たな暮らしを始めた場所であり、漣と肩を並べて学び、笑い合った日々の記憶が残る土地でもある。
あれから幾百年もの時が流れ、そこに暮らす人々も、海辺の景色も変わっているだろうが、それでも那岐には、再びあの地へ赴く理由があった。
「当面の行き先は熊野でいいとして、問題は士気だよな。飯を食わせて休ませるだけで、皆が元どおりになるとも思えねえし」
日臣は行き先が決まったことに安堵しながらも、なお難しい顔をしていた。
彦五瀬の死を知って以来、兵たちの間からは笑い声が消え、甲板でも互いに言葉を交わさず海を見つめている者が目立つようになっていたからだ。
「何かしらの対策が必要ですが、どうしたものか……。新たな指揮官と目的地を示すだけでは、失われた士気を取り戻すには足りないでしょう」
椎根津彦も思案を巡らせたが、兵たちが再び胸を張って進めるようになるために何が必要なのか、容易には答えを出せなかった。
そんな二人を見て、那岐は少しだけ表情を和らげた。
「それでしたら、熊野に着いてから、まずは兵たちを十分に休ませましょう。豊かな食と酒を振る舞い、皆で宴を開くのです。そして、これからの旅の無事と亡くなられた方々の安らかな眠りを願って、舞を奉納してみてはいかがでしょうか。悲しみを忘れる必要はございませんが、共に食べ、語らい、笑い合うひとときがあれば、兵たちも少しずつ顔を上げられるかもしれません」
那岐の提案は、戦の策を練ることに意識を向けていた一同にとって、少し意外なものだった。
しかし、思い返せば兵たちは長い船旅と敗走の疲れを抱え、兄や友を失った悲しみを胸にしまったまま、次の戦いへの不安に耐え続けている。
彼らに必要なのは、進むべき道を示す言葉だけではなく、再び仲間と心を通わせるための時間なのかもしれなかった。
「ほう……なるほど」
磐余彦は那岐の言葉を噛みしめるように呟くと、初めて、熊野に辿り着いた後の東征軍の姿を思い描いた。
「舞は、そこの両名が控えておりますので……竹、浦、申し上げなさい」
鴉と名乗る那岐に促され、竹と浦が磐余彦の前へ進み出た。
那岐は、兵たちを奮い立たせるための舞が戦勝祈願の意味を帯びることを見越しており、大倭壱国と三輪山の和平を仲裁する立場にある以上、自ら舞うことは避けるつもりでいた。
竹は背筋を伸ばし、いつになく改まった所作で一礼した。
「磐余彦様。本日この時より、護衛としてお仕えするよう申し受けております。どうぞ、いかようにもお命じください」
「私も同じく、磐余彦様の護衛を申し受けております。これからは、どこへ行くにもお供いたします!」
浦も笑顔で頭を下げたが、磐余彦は二人の言葉をすぐには飲み込めず、思わず交互に顔を見つめてしまった。
幼い頃から姉のように慕い、気兼ねなく名を呼び合ってきた二人が、揃って自分を「様」付けで呼んだのである。
「た、竹……浦まで、どうしたんだ? そんなに改まらなくても……」
「護衛としてお仕えする以上、けじめは必要です。それに、舞の作法も十分に仕込まれておりますので、奉納の際にはご存分にお命じください」
「私も得意でございますよ。日々の鍛錬の成果を、磐余彦様にもお見せいたします!」
竹は真顔のまま、浦は楽しげに胸を張って答えた。どちらも本気であるらしく、磐余彦が戸惑っていることなど意に介していない様子だった。
那岐は三人のやり取りを穏やかに見守っていたが、やがて手元に置いていた一振りの剣を取り上げると、鞘ごと両手で捧げるようにして磐余彦へ差し出した。
「それと、こちらの剣を磐余彦様にお渡しするよう、命じられております。どうか、お受け取りください」
「これは……?」
磐余彦は思いがけない贈り物に目を見張り、ずしりとした重みを確かめながら柄に手をかけた。
ゆっくりと鞘を払った瞬間、現れた刃の周囲に赤い妖気が立ちのぼり、まるで剣そのものが内に秘めた力を呼び覚まされたかのように、鈍い光を揺らめかせた。
「かつて建御雷が用いた、妖気を帯びた剣――布都御魂でございます。兵の皆様に舞を奉納する折、この剣を掲げてお言葉をかけられてはいかがでしょうか。きっと、皆様が再び前を向くための力となるでしょう」
那岐は、剣が戦の行方を決めるとは言わなかった。
ただ、兄を失い、進むべき道も見失いかけている兵たちにとって、建御雷ゆかりの剣が新たな指揮官の手にあることは、確かな拠り所になるはずだった。
「そいつはいい!」
日臣が身を乗り出し、磐余彦の手にある布都御魂をまじまじと見つめた。
「こいつを兵の前で掲げりゃ効くぜ。建御雷の剣が俺たちの側にあるってだけで、顔を上げる奴はいる。舞も宴もあるとなりゃ、久しぶりに景気のいい話をしてやれそうだ!」
「竹、浦。これからは私に仕えてくれるとのことだが……本当によいのですか?」
磐余彦は二人の顔を交互に見つめた。
幼い頃から姉のように慕ってきた二人が、今度は自分の護衛として傍らに立つというのだから、嬉しくないはずがなかったが、それだけに、二人がどのような覚悟でその役目を引き受けたのか、確かめずにはいられなかった。
「問題ございません。命尽きるその時まで、磐余彦様をお守りいたします」
竹は背筋を伸ばし、いつもと変わらぬ真剣な眼差しで答えた。
その隣では浦が明るく微笑み、姉の言葉に負けまいとするように胸を張った。
「私も一生、ついていきます。磐余彦様!」
二人にとっては、迷う余地などない返答だったのだろう。
しかし磐余彦には、その言葉があまりにも重く、命尽きるまで、一生、と立て続けに誓われてしまうと、嬉しさより先に、そこまで言わなくてもよいのではないかという戸惑いが込み上げてきた。
それでも、二人がこれからも自分たちと一緒にいてくれるのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
日臣も椎根津彦も、口に出して喜ぶことこそしなかったが、幼い頃から共に過ごしてきた仲間が再び揃うことに、どこか弾んだ表情を見せている。
磐余彦も同じ気持ちだった。ただし、彼には皆と少しばかり違う事情があった。
二人とずっと一緒にいられると知った途端、胸の奥にしまい込んできた恋心まで騒ぎ始め、竹と浦の顔をまともに見られなくなってしまったのである。
「……磐余彦様? どうかなさいましたか?」
「い、いえ! 何でもありません!」
不思議そうに首を傾げる竹から慌てて目を逸らしたものの、耳まで赤くなった顔を浦に見つけられ、彼はますます居心地が悪くなった。
そんなやり取りを、大久米は黙って見守っていた。
普段は滅多なことでは表情を崩さない大男が、今ばかりは眉尻を下げ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
彦五瀬を失い、磐余彦まで深い失意に沈んでいたときには、このように皆で笑い合える日が再び訪れるとは思えなかったのだろう。
「おい、大久米。まだ先は長いんだぜ。泣いてる暇があったら、次のことを考えようぜ」
日臣はそう言って大久米の肩を叩いたが、その声は先ほどまでとは打って変わって陽気だった。
「行き先が決まったからって、兵の士気が戻ったわけじゃねえし、熊野にだって問題なく上陸できるかどうかわからねえんだからよ。俺たちが気を抜くわけにはいかねえだろ?」
もっともな言い分ではあったが、そう語る日臣自身が誰よりも嬉しそうなのだから、椎根津彦は苦笑するしかなかった。
大久米は何も言わずに大きく頷くと、両手で自分の頬をぱんぱんと叩き、気合いを入れ直した。
それから、いつもの凛々しい顔を作ろうと目元に力を込めたものの、緩みかけた口元まではなかなか元に戻らず、皆の前でしばらく妙に険しい顔をしていた。
「磐余彦様、こちらをお受け取りください」
椎根津彦はそう告げると、彦五瀬が賜り、これまで東征軍とともに運んできた三種の神器を、両手で恭しく磐余彦の前へ差し出した。
その所作にはいつもの冷静さが保たれていたものの、亡き主君から弟へと大役を引き継ぐ、この瞬間の重みを感じているのだろう、神器を支える指先にはひときわ強い力が込められていた。
「本日、この時より、磐余彦様が正式な東征軍の指揮官であります。彦五瀬様が率いてこられた兵も、我らも、これよりは磐余彦様のご命令に従いますので、どうか我らにご指示を」
磐余彦が神器を受け取ると、日臣も大久米も、そして竹と浦も、それぞれの思いを胸に静かに頷き、椎根津彦とともに新たな指揮官の言葉を待った。
兄が担っていた責務の大きさを改めて感じながら、磐余彦は神器をしっかりと抱き、やがて腰に佩いた布都御魂を抜き放つと、赤い妖気を帯びたその刃を空へ向けて高々と突き立てた。
「これより、私が東征軍の指揮を執る! まずは熊野へ向かい、傷ついた兵を休ませ、軍を立て直す。そして三輪山へ至り、この争いを終わらせる! 兄上が果たせなかった天孫降臨の大役、必ず私が成し遂げてみせる。だが、私一人の力では何もできない。だから皆、これからも私を支えてくれ!」
その声には、兄の死を前に立ち尽くしていた頃の迷いはなく、仲間たちとともに進む道を自ら選び、その先に待つ困難を引き受けようとする決意が込められていた。
日臣が力強く胸を張り、大久米が大きく頷くと、椎根津彦、竹、浦も揃って姿勢を正し、磐余彦の掲げた剣を仰ぎながら、声を一つにして応えた。
「承知いたしました!」
一刻後、磐余彦は、先ほどから自分を呼ぶたびに妙にかしこまった態度を取る竹と浦を交互に見つめ、何度か言いかけては飲み込んでいた言葉を、とうとう我慢できずに口にした。
「なぁ、たけぇー、うらぁー、その……『様』はやめない? そんなふうに呼ばれると、なんだか背中が痒くなるんだけど……」
幼い頃から姉のように慕ってきた二人に、今さら主君として扱われるのはどうにも落ち着かず、磐余彦は困ったように笑ってみせたが、竹はその願いを聞き入れるどころか、いつにも増して背筋を伸ばし、真面目な顔で首を横に振った。
「無理です。私たちは本日より磐余彦様の護衛ですから、これまでと同じようにお呼びするわけにはまいりません。どうか諦めてください、磐余彦様」
「いや、竹までそんな言い方をしなくても……。浦、お前からも何とか言ってくれないか?」
助けを求められた浦は、しばらく考えるように小首をかしげていたものの、やがて楽しそうな笑みを浮かべると、わざわざ一音ずつ区切りながら、甘えるような声で彼の名を呼んだ。
「駄目ですよー。い・わ・れ・ひ・こ・さ・まぁ」
「うわっ、やめろ! それは余計に恥ずかしい!」
耳まで赤くして抗議する磐余彦を見て、浦はますます嬉しそうに笑い、竹も口元をわずかに緩めたが、二人とも敬称を改めるつもりはまったくないらしく、磐余彦は、これから毎日こんな調子で呼ばれるのかと思うと頭を抱えたくなった。
もっとも、二人が自分のそばにいてくれること自体は嬉しくて仕方がなく、その喜びまで見透かされそうになると、磐余彦はそれ以上強く言い返すこともできず、結局、竹と浦から「様」を付けて呼ばれることに慣れるまで、しばらくの時間を要することになった。




