十章 神武東征 十一話 失意の磐余彦
磐余彦率いる東征軍は、戦いで命を落とした総大将・彦五瀬の遺体を埋葬するため、対岸の地へ上陸した。
兵たちは重い沈黙の中で墓を掘り、亡き主君を丁寧に葬ったが、誰もが深い悲しみと敗戦の衝撃を抱えており、かつて出征の際に見せていた勇ましさは、もはやどこにも感じられなかった。
磐余彦は埋葬を終えた兵たちに淡々と命を下し、必要な仕事を済ませると、兄が眠る場所をいつまでも眺めていた。
軍を預かる身として、これから進むべき道を定めなければならないことは理解していたが、考えようとするたびに兄を失った悲しみが胸に押し寄せ、何を決めるにも心がついてこなかった。
これから、どうしたらよいのだろうか……。
東征軍が抱える問題は深刻だった。
敗戦によって兵たちの士気は大きく低下し、さらに全軍を率いてきた彦五瀬を失ったことで、誰もが次に何をすべきか分からず、軍全体が進むべき方角を見失っていた。
磐余彦自身も、兄の死を受け止めきれないまま、目の前の仕事をこなすだけで精いっぱいになっており、総大将に代わって全軍を指揮する決意を固められずにいた。
「どうしたものか……」
椎根津彦は腕を組み、重苦しい空気の漂う船室で低く呟いた。
東征軍の再編成はすでに終えており、各船の指揮を執る者も定めていたが、それはあくまで軍の形を整えたにすぎず、誰もが次に何を目指せばよいのか分からないまま、主の命令を待ち続けていた。
「うむ。磐余彦様と彦五瀬様は、ことのほか仲が良かったからな。お辛いのだろうよ」
日臣はそう言って深く息を吐いた。
幼い頃から磐余彦に仕えてきた彼には、兄を失った主の悲しみが痛いほど分かっており、無理に立ち直れと口にすることさえ憚られたが、かといって、このまま時が過ぎるのを待てる状況でもなかった。
「だからといって、方針も定まらない今の状態を続けるわけにはいきません。兵たちは磐余彦様のご命令を待っておりますが、肝心の磐余彦様は、ご自身を責めておいでです」
椎根津彦の言葉を聞きながら、大久米は俯き、太い腕を組んで考え込んでいた。
戦場で敵を打ち破るのであれば、己の身を盾にしてでも主を守ることができるが、深い悲しみに沈んだ主の心を、どうすれば元気づけられるのかとなると、いくら考えても答えが見つからなかった。
「本来なら、時間をかけてお心を癒やして差し上げるところでしょう。ですが、我々にはその時間がありません。敗戦の知らせが広がれば、敵も次の動きを見せるはずですし、兵たちの不安も日を追うごとに大きくなってしまいます」
「分かっている。だからこそ、いち早く立ち直っていただくしかないんだがな……」
日臣が眉間に皺を寄せると、大久米も黙って頷いた。
しかし、三人とも磐余彦を励ましたいという思いは同じであっても、何を言えばよいのか、何をすれば再び前を向いてもらえるのか、その肝心なところが分からない。
「ですが、どうやって……。どうすれば、磐余彦様に立ち直っていただけるのでしょうか」
椎根津彦の問いに答える者はなく、日臣は何度も口を開きかけては閉じ、大久米も考え込んだまま微動だにしなかった。
いつもなら三人のうち誰かが何かしらの案を出し、それを手掛かりに話を進められるというのに、今ばかりは誰も、主の悲しみを解くための糸口を見つけられずにいた。
「実は、彦五瀬様が賜った三種の神器は、すでに私がお預かりしております。いずれ磐余彦様にお渡ししなければなりませんが、今お渡ししたところで、かえって兄君のことを思い出させてしまうだけかもしれません」
「それだけじゃないぞ。再編成は終わったとはいえ、あの兵たちの顔を見てみろよ。どいつもこいつも、まるで死んだような顔をしているじゃないか。磐余彦様がお辛いのは分かるが、問題を抱えているのは磐余彦様だけじゃないんだよ」
日臣の言葉に、椎根津彦は返す言葉を失った。
兵たちもまた、敗戦で仲間を失い、頼りにしていた彦五瀬を失っており、その悲しみと不安を抱えたまま次の命令を待っているのだから、主ひとりを励ませばすべてが解決するというほど、事態は単純ではなかった。
「何か……何か妙案がないものでしょうか」
椎根津彦は再び腕を組み、これまで学んできた兵法の数々を頭の中で辿った。
敵の動きを読み、地形を利用し、少ない兵で大軍に勝つための知恵ならば、いくらでも思い浮かぶというのに、悲しみに沈んだ主と兵たちを再び奮い立たせる方法となると、どの書物にも答えが見当たらないことが、今は恨めしくて仕方がなかった。
磐余彦の心は、兄を葬ったあの日から沈んだままだった。
彦五瀬を失った東征軍は士気を落とし、これからどこへ向かい、何をなすべきかという方針さえ定まっていない。
自分が立ち上がり、皆に進むべき道を示さなければならないことはわかっていたが、いざ命を下そうとすると、胸の奥に重いものが沈み込み、どうしても力が湧いてこなかった。
――情けない。私は、幼い頃から何も変わっていないのではないか。
かつて兄たちに「泣き虫皇子」と呼ばれていた頃の自分を思い出すたび、磐余彦は唇を噛んだ。
あの頃は、泣いている自分を彦五瀬が叱り、時には笑い飛ばしながら、前へ進むよう背中を押してくれた。
だが、今はもう、どれほど待っても兄の声が聞こえることはない。
少しでも気持ちを落ち着けようと、磐余彦は海を眺めるために船室を出た。
すると、戸口の近くに控えていた近習たちが、一斉にこちらへ顔を向ける。
誰も何も言わなかったが、その表情には隠しきれない心配が浮かんでおり、磐余彦は彼らが自分のために心を砕いてくれていることを痛いほど感じた。
――皆が、私を案じてくれている。それなのに私は、何もしてやれない。
申し訳なさに胸を締めつけられ、磐余彦は皆の顔をまともに見られないまま、視線を海の向こうへ逃がした。
その頃、宇佐を発ってから空を飛び続けていた那岐と竹、浦の三人は、ようやく磐余彦の船団を見つけていた。
眼下には幾艘もの船が連なっていたが、甲板を行き交う兵たちの動きには活気がなく、船団全体が重苦しい静けさに包まれているように見える。
その様子を見た竹は、那岐に支えられたまま眼下を見据え、何かを決意したように口を開いた。
「伊邪那岐様、手を離してください。私が先に降りて、言いたいことがあります」
「うん、私もー! 竹だけに任せておけないもの」
隣から勢いよく声を上げた浦に、竹は一度だけ顔を向けた。
いつものように軽口を叩いている妹だったが、その眼差しが自分と同じものを見据えているとわかると、竹は真剣な表情のまま頷いた。
「浦、わかっているわね。覚悟を決めて」
「もちろん。もう、やるしかないじゃない!」
那岐は二人の顔を見比べ、何をするつもりなのかと尋ねかけたが、竹と浦の揺るぎない眼差しを見て、それ以上は何も言わなかった。
二人が頷くのを確かめてから、支えていた腕をそっと離す。
その瞬間、竹と浦の身体は空へ放たれ、二人は風を裂きながら、眼下の船へ向かって真っ直ぐに落ちていった。
甲板にいた兵たちは、頭上から迫る二つの人影に気づくと、何が起きているのか理解する間もなく目を見開き、慌ててその場から身を退いた。
「なっ……! 人が、空から――!」
誰かの叫びが最後まで響くよりも早く、二人の身体は甲板へと迫り、ほとんど同時に凄まじい衝撃音が轟いた。
――ドンッ!
――ドンッ!
ほとんど同時に、二つの衝撃が甲板を震わせた。
竹は着地の寸前に身体を捻ると、片脚を深く折り込み、もう片方の脚を大きく横へ伸ばしながら片手を甲板へ突き、落下の勢いを受け流すように低く身を沈めた。
甲板へ伏せるほどの姿勢でありながら背筋には少しの乱れもなく、長い黒髪と衣の裾だけが勢いのまま背後へ舞い上がり、腰に帯びた武具さえ揺らさずに着地を決めた姿は、獲物を見据えて舞い降りた猛禽を思わせた。
その隣では浦も、片手を甲板へ突き、片膝を深く折って反対の脚を伸ばし、勢い余って顔へかかった横髪をそのままに身体をぴたりと止めていた。
竹ほど姿勢は整っておらず、衣の裾も少し乱れていたが、二人の周囲では着地の衝撃によって甲板に溜まっていた海水が弾け、朝日を受けた無数の飛沫がきらきらと宙を舞っていた。
その鮮やかさに、船上の兵たちは驚きの声を上げることさえ忘れ、ただ二人を見つめていた。
竹と浦にとっても、これほど派手な登場をする必要はなかったのかもしれないが、沈みきった東征軍を奮い立たせるためには、今こそ自分たちが誰よりも力強く振る舞わなければならないと考えていた。
二人は互いに目を合わせると、何事もなかったかのように勢いよく立ち上がり、兵たちの視線を一身に集めたまま、磐余彦たちに向かって声を張り上げた。
「何、下向いているのよ、しっかりしなさい!」
竹の叱咤に続き、浦も胸を張って、いつもの明るい笑顔を見せた。
「待たせたわね! 助けに来てあげたわよー!」
あまりにも突然で、あまりにも二人らしい登場だった。
磐余彦も日臣も椎根津彦も、しばらくは言葉を失ったまま双子を見つめていたが、沈み込んでいた彼らの前に現れたのは、幼い頃から何度となく自分たちを叱り、励まし、時には呆れながらも見守ってくれた、頼もしい姉たちだった。
竹は磐余彦の姿を認めると、迷うことなくその前まで歩み寄り、両手で襟を掴んで強引に立たせた。
磐余彦が驚いて目を見開いても手を緩めず、真正面からその顔を睨みつけるように見据えながら、悲しみに沈む彼の耳へ届くよう、はっきりと言い聞かせた。
「あなたは皆の主よ、立ち直りなさい」
磐余彦は何か答えようと口を開いたものの、胸の奥から込み上げるものに言葉を詰まらせ、ただ竹を見つめることしかできなかった。
その様子に、さすがの浦も姉の強引さを少しばかり心配したが、竹の手を無理に引き離すことはせず、磐余彦の顔を覗き込むと、片目を閉じていたずらっぽく笑ってみせた。
「支えてあげるから安心して」
その一言を聞いた途端、磐余彦の強張っていた表情がようやく緩んだ。
兄を失った悲しみも、これから軍を率いなければならない重圧も消えたわけではなかったが、自分を叱ってくれる竹がいて、何の迷いもなく支えると言ってくれる浦がいるのだと思うと、胸の奥にわずかな温かさが戻ってきた。
「ふふ、ありがとう、竹、浦。すごく心強いよ」
久しぶりに浮かんだ磐余彦の笑顔を見て、竹はようやく襟から手を離し、浦と並んで立つと、二人はそれ以上何も言わず、彼の言葉に応えるように力強く頷いた。
那岐は、竹と浦があえて派手な着地を披露したのは、失意の中にいる磐余彦たちを元気づけるためなのだと悟ると、二人の芝居に合わせることにした。
船の上空で身体の向きを変え、甲板へ向かって一気に降下すると、着地の寸前に姿勢を低く沈めた。
――ドンッ!
再び甲板が大きく震え、周囲にいた兵たちが思わず身をすくめる中、那岐は片手を甲板へ突き、一方の脚を大きく前へ伸ばしながら、もう一方の膝を深く折り込んで落下の衝撃を受け止めた。
両脚と片手の三点で身体を支えた姿勢には少しの揺らぎもなく、巻き起こった風が甲板に溜まっていた海水を弾き、朝日にきらめく細かな飛沫となって舞い散る中、その中央にいる那岐だけが、時を止めたかのように静止していた。
やがて那岐はゆっくりと立ち上がったが、磐余彦たちが口を開こうとするよりも早く、人差し指をそっと唇に当て、今は何も言わないでほしいと目配せした。
「私は鴉と申します」
穏やかな声でそう名乗った那岐を見て、磐余彦たちはすぐにその意図を察した。伊邪那岐は、自分たちを励ますために駆けつけてくれたのだが、東征軍に加わり、代わりに戦を指揮するつもりはないのだろう。
あえて鴉という名を用いたのも、彼ら自身の力でこの先の道を切り開かせるためなのだと理解すると、誰もその正体を口にせず、那岐の芝居に付き合うことにした。
那岐は、何食わぬ顔で鴉を演じながら、磐余彦をはじめ、その場にいる子供たちの顔を一人ずつ見回した。
皆の表情には疲労と悲しみが色濃く残り、彦五瀬を失った痛みも容易には癒えないことが伝わってきたが、それでも、こうして再び顔を見ることができた。
皆が生きていてくれたという、その一つの事実だけで、那岐の胸には心の底からの安堵が広がっていた。
根拠など、どこにもなかった。
ただ、那岐と竹、浦が加わり、家族のように支え合ってきた七人が再び顔を揃えたことで、失意に沈んでいた磐余彦たちの胸には、先ほどまで失われていた活気と、もう一度前へ進もうとする力が不思議なほど鮮やかに蘇っていた。
天より舞い降りた那岐、竹、浦の三人は、いずれも両脚と片手の三点で甲板へ着地し、その中央に立った那岐は、自らを「鴉」と名乗った。
東征軍を救うために現れた三人の姿は、その場に居合わせた者たちの記憶に深く刻まれ、やがて長い年月を経るうちに、三点で大地を捉えて降り立った鴉の姿として語り継がれていくことになる。
後の世、人々は東征軍を導いたその存在を、三本の足を持つ神の鴉――八咫烏と呼ぶようになった。
三点着地を世界初で行ったのはきっと八咫烏である。
あると思います。
たぶん……汗




