十章 神武東征 十話 竹と浦の決意
西暦二百四十八年。
宇佐の宮の奥深く、日巫女の前に据えられた銅鏡は、昼の光が届かぬ室内で淡い輝きを放っていた。
磨き上げられた鏡面には、本来そこに映るはずのない遠い東の海と、岸辺で繰り広げられた戦の光景が浮かび上がっている。
東征軍は敗れた。白肩津への上陸を阻まれ、主将の彦五瀬は敵の矢に倒れ、傷がもとで命を落としたのである。
日巫女は鏡の前から動かず、遠く離れた地で起きた出来事を見つめていた。
軍勢そのものは崩壊しておらず、弟の跡を継いだ磐余彦が兵をまとめ、立て直しを図っている。
しかし、主将を失った兵たちの動揺は大きく、敵地で退路と兵糧を確保しながら軍を保つことが、若い磐余彦にとってどれほど重い負担となっているかは、鏡を通しても見て取れた。
やがて日巫女は静かに鏡から顔を上げ、傍らに控えていた月読へ視線を向けた。
「父上に救援を頼んでください」
月読はすぐには答えなかった。
姉が何を願っているのかは理解できたものの、その願いが父にとってどれほど残酷な選択を迫るものかも、よく知っていたからである。
「しかし、父上が承諾されるとは考えにくいのですが……。彼の地もまた、父上の一族が治める国です。東征軍をお救いになるということは、三輪山におられる御子孫と敵対することにもなりかねません」
「それでもです。今の状況を救えるのは、父上しかいません」
日巫女の声には迷いがなかったが、月読には、その決意の奥に深い悔恨があることも感じられた。
姉は再び銅鏡へ目を落とし、そこに映る磐余彦の姿をしばらく見つめてから、膝の上で両手を握り合わせた。
「彦五瀬には、かわいそうなことをしました……。私があの子を三輪山の主にさせようと願ったばかりに、命まで失わせてしまうなんて」
その言葉は、月読に向けた弁明というよりも、自らの判断を悔いる独白に近かった。
日巫女は大倭壱国の女王として東征を命じたのであり、その決断を誰かに押しつけるつもりはなかったが、だからこそ、彦五瀬の死を一人の若い武人の不運として片づけることもできなかった。
「でも、磐余彦はまだ間に合うかもしれません。あの子まで失うわけにはいかないのです」
月読は姉の横顔を見つめた。
父がどちらの血筋も大切にしていることを承知のうえで、それでも救いを求めずにはいられないのだろう。
ここで東征軍を見捨てれば、磐余彦だけでなく、彼に従う多くの者たちの命も危うくなる。
かといって、父に軍勢を率いさせれば、今度は三輪山に残された一族を傷つけることになる。
しばしの沈黙ののち、月読は小さく息をついた。
「……たしかに、父上のお力があれば、磐余彦たちを窮地から救い出せるでしょう。ですが、父上がどのようなお答えをなさるかは、私にもわかりません」
「それは承知しています。無理に戦わせたいわけではありません。ただ、今は父上のお力をお借りするほかに、道が見えないのです」
日巫女は月読をまっすぐに見据えた。その眼差しを受け、月読はようやく頷いた。
「話すだけ話してみます」
「頼みます」
しばらくして月読に呼ばれた那岐は、竹と浦を伴ってそのもとを訪れた。
月読は三人を迎え入れると、東征軍が三輪山の軍勢に敗れ、主将の彦五瀬が戦死したこと、そして残された兵を率いる磐余彦が、苦しい状況のなかで軍の立て直しを図っていることを説明した。
話を聞くうちに那岐の表情は険しくなり、月読が救援を願い出たところで、とうとう露骨に顔をしかめた。
「月読、わかっているのかい? 三輪山にあるのは、私の孫が築いた国なんだよ。そして今、その国を治めている宇摩志麻遅は、私のひ孫なんだ。その三輪山を攻める手助けを、私にしてほしいというのかい?」
那岐の声は荒くこそなかったが、そこには普段の穏やかさとは異なる厳しさがあった。
月読も父の言い分を理解していないわけではなく、言葉を選ぶようにわずかに間を置いてから、静かに答えた。
「されど父上、磐余彦は父上が幼い頃から大切に育ててこられた者ではありませんか。今、あの者は兄を失い、残された兵を率いて苦境に立たされております。それでも、お見捨てになられるのですか?」
那岐はすぐには答えられなかった。
狭野と呼んでいた幼い頃から、泣き虫だったあの子が懸命に成長していく姿を見守ってきたのだから、今すぐにでも駆けつけてやりたいという思いはある。
だが、そのために三輪山へ剣を向けることは、同じように大切な子孫を傷つけることでもあった。
那岐には決断できなかった。いや、どちらか一方を選ぶような決断だけは、してはならないと思っていた。
「たしかに狭野は、私が大切に育てた子だよ。だからこそ、あの子が苦しんでいると聞けば、助けてやりたいと思う。けれど、三輪山の宇摩志麻遅も、私にとってはかわいいひ孫なんだ。どちらも私の大切な家族なのに、一方へ手を貸して、もう一方を討つことなどできるはずがないだろう?」
那岐はそこで一度言葉を切り、月読の顔をまっすぐに見つめた。
「それに、そもそも私は今回の戦に反対だったんだ。なぜ初めから外交交渉を尽くさなかったのか。双方の言い分を聞き、争いを避ける道を探すこともできたはずなのに、いきなり軍を進めてしまった。そのようなやり方に、私は賛同しかねるよ」
月読は口を開きかけたものの、反論の言葉を見つけられずに沈黙した。
東征軍の救援を求める以上、父が三輪山に対して抱く思いを無視することはできず、また今回の出兵に那岐が反対していたことも、月読自身よく承知していた。
重苦しい静寂が広がるなか、それまで黙って話を聞いていた竹が一歩進み出た。
いつもは感情を表に出すことの少ない彼女が、那岐の前で深々と頭を下げる。
「那岐様、お願いがあります。どうか、磐余彦をお見捨てにならないでください」
その声に続いて、浦も姉の隣に並び、同じように深く頭を下げた。
「私からもお願いします。今、助けに行かなければ、磐余彦たちは命を落としてしまうかもしれません。彦五瀬様を失ったばかりなのに、これ以上、誰かを失うなんて……。どうか、もう一度お考えください」
二人の切実な願いを前に、那岐は胸が締めつけられる思いだった。
竹と浦が、幼い頃からともに過ごしてきた磐余彦をどれほど大切に思っているかは、誰よりもよく知っている。
那岐自身も、あの子たちを救えるものなら救いたかった。
しかし、救いたいという気持ちと、東征軍に加担することは別の話だった。
ここで情に流されれば、今度は宇摩志麻遅や、そのもとで暮らす人々を危険にさらすことになる。
那岐は二人の頭を上げさせることもできないまま、どのように答えるべきかと思い悩んでいた。
沈黙の続くなか、月読は父の表情をうかがいながら、双方の願いをかなえる道はないものかと思案していた。
那岐が三輪山に剣を向けられないことは、月読にも十分理解できる。
だが、磐余彦を窮地に置いたままでは、父もまた苦しみ続けるに違いなかった。
「父上、私からもお願いいたします。ただし、大倭壱国だけにお力添えいただく必要はございません。父上ならば、三輪山の宇摩志麻遅とも話ができます。今からでも双方の間に立ち、和平の交渉の場を設けていただけませんか。それならば、父上の願いにもかなうはずです」
那岐は困ったように月読を見つめた。助けを求めるばかりでなく、父が断れないところに道を見いだすとは、長年、姉を支えて国政に携わってきただけのことはある。
息子のしたたかな政治的手腕に感心する一方で、もう少し父を困らせずにいてほしいとも思った。
もっとも、和平の仲裁であれば話は別だった。
東征軍を立て直すことが、そのまま三輪山への再侵攻につながるのであれば手を貸せないが、両軍が剣を収めるための働きかけならば、那岐自身も望むところである。交渉は容易ではないだろうし、長髄彦をはじめ、戦いを望む者たちが素直に応じるとも限らない。
それでも、宇摩志麻遅と磐余彦が互いの言葉に耳を傾けてくれるなら、これ以上、一族同士が血を流さずに済むかもしれなかった。
那岐が腕を組んで考え込んでいると、それまで息を詰めるようにして成り行きを見守っていた竹が、一歩前に進み出て深々と頭を下げた。
「那岐様、一生のお願いです。どうか磐余彦をお助けください。あの方は、まだ戦いのなかにいらっしゃいます」
「私からもお願いいたします!」
浦も姉に並んで頭を下げた。いつもなら軽口の一つも挟むところだが、今は顔を上げようともせず、必死に言葉を続けた。
「磐余彦だけではありません。日臣も、大久米も、椎根津彦も、みんなを助けてください。私たちにできることがあるなら、何でもいたしますから」
二人の声を聞きながら、那岐は静かに目を閉じた。幼いころから見守ってきた娘たちが、これほどまでに誰かを案じ、自分の意思で助けを求めている。
その相手が、やはり自分の手で育てた狭野なのだから、心を動かされないはずがなかった。
しばらくして、那岐はゆっくりと息を吐き、三人に向き直った。
「そこまで言うのなら、引き受けましょう。ただし、私が赴くのは和平交渉の場を作るためです。磐余彦たちを窮地から救い出すことはしても、三輪山を攻める手助けはしません。私は、どちらか一方につくことはできない。それでもよいですか?」
「ありがとうございます!」
竹と浦は声をそろえて礼を述べ、顔を上げた。
その表情に安堵が広がったのを確かめてから、那岐はあらためて二人に向き合い、少しだけ声を引き締めた。
「ただし、竹、浦。あなたたちには言っておかなければならないことがあります」
思いがけない言葉に、二人の背筋が伸びた。
「あなたたちは、護衛すべき主人である私よりも、狭野のことを優先しました。護衛としては失格です。ゆえに、これをもって、私の護衛の任を解きます」
竹と浦は息を飲んだ。無理な願いを聞き入れてもらった以上、何らかの咎めを受けても仕方がないとは思っていたが、長く務めてきた那岐の護衛を解かれると告げられると、胸の奥が締めつけられた。
それでも、自分たちが望んだことを悔いるつもりはなかった。
竹は唇を結んで深く頭を下げ、浦も姉にならって、震えそうになる声を抑えた。
「……承知いたしました」
那岐は二人の様子を見つめ、わずかに目元を和らげた。
「代わって、新たな任を命じます。まず、これからは狭野……いえ、磐余彦を呼び捨てにすることを禁じます。必ず、主人として敬称をつけなさい」
「それって……」
竹が顔を上げると、浦も何かに気づいたように那岐を見つめた。
「……まさか」
「今後、あなたたちの主人は磐余彦とします。あの子によく仕え、護衛として身をもって守りなさい。私のもとへ戻ることを考える必要はありません。これは、あなたたちに託す一生の任務です。よいですか?」
一瞬、二人は言葉を失った。厳しい宣告だと思っていたものが、自分たちの願いを誰よりも理解してくれた那岐からの、新たな役目だったのだと気づいたとき、竹の目には涙が浮かび、浦はこらえきれずに姉の手を握った。
「承知いたしました!」
二人は声をそろえ、今度は晴れやかな顔で深々と礼をした。那岐はその姿を満足そうに眺めてから、努めて普段どおりの口調で告げた。
「よろしい。では、二人とも下で待っていなさい。私はもう少し月読と話をしてから向かいます」
「はい、那岐様!」
竹と浦はもう一度礼をすると、互いに顔を見合わせ、手を握ったまま部屋を退出した。
廊下では足音を慎もうとしていたようだが、階段を下りきるころには我慢ができなくなったらしく、ほどなくして、二人の弾んだ声が下の階から聞こえてきた。
那岐はその声に耳を傾けながら、あきれたように、それでいて嬉しそうに微笑んだ。
「あの子たちに料理や洗濯、裁縫を教えるのは、なかなか骨が折れたよ。二人とも武芸の稽古となれば目を輝かせるのに、針仕事を始めると、途端に顔をしかめるのだから」
那岐は困ったように笑いながらも、その眼差しには、幼い頃から見守ってきた娘たちへの愛情が滲んでいた。
「それでも、今では家のことも一通りこなせるようになった。私が手を貸さなくても、自分たちで考えて動ける。ちゃんと立派な娘になったよ」
「そのようですな。父上があれほど大切に育てられたのですから、二人も父上のもとを離れることを、寂しく思っているでしょう」
「どうだろうね。今は、それどころではなさそうだけれど」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。娘たちの成長を喜ぶ気持ちと、いつか手を離さねばならない寂しさは、どうやら親子であっても変わらないらしい。
やがて月読は表情を改め、傍らに置いていた一振りの剣を取り上げた。
「父上、もう一つお願いがございます。この剣を、磐余彦にお渡しください」
「これは?」
「布都御魂剣です。かつて建御雷が携え、出雲を平定した剣にございます」
その名を耳にした途端、那岐の表情がわずかに曇った。
建御雷の武勇と、その剣にまつわる話は聞いていたものの、実物を手にするのは初めてだった。
「そう……これが、布都御魂なのか」
那岐は剣を受け取ると、ゆっくりと鞘から引き抜いた。
磨き上げられた刀身には薄紅の光が揺らめき、刃の周囲から立ちのぼる赤い妖気が、室内の空気をかすかに震わせている。
人の手によって鍛えられた武器でありながら、そこには人の力だけでは説明のつかないものが宿っていた。
那岐はしばらく刃を見つめていたが、その瞳が映していたのは、出雲の戦場ではなかった。
「建御雷も、先の大乱で親を失った戦災孤児の一人だったんだよ」
「そうでしたか。父上が投馬国で孤児たちを引き取り、戦禍で荒れ果てた村を立て直しておられたことは聞いておりますが、あの建御雷も、そのときの子だったとは」
「村の皆で田を耕し、家を建て直していた頃のことだ。あの子は農作業が嫌いでね。畑仕事を頼んでも、気がつけば木剣を手にして稽古ばかりしていた。武芸の才は誰よりもあったけれど、その力を何のために使いたいのか、私は最後まで変えてやれなかった」
那岐は刃をわずかに傾けた。揺れる赤い光の向こうに、泥にまみれた畑と、歯を食いしばって木剣を振るう少年の姿が浮かぶ。
「あの子は出雲への復讐を忘れられなかった。家族を奪われた苦しみを思えば、恨むなと言うだけでは届かないことも分かっていたつもりだったけれど……私には、あの子を引き留めることができなかったんだ」
月読は返す言葉を見つけられず、父の手にある剣へ目を落とした。
出雲を平定した武人の名とともに語られてきた布都御魂が、那岐にとっては、救いきれなかった一人の子供の記憶に結びついているのだと、ようやく理解したのである。
「父上……」
「建御雷を責めたいわけではないよ。あの子なりに、失ったものと向き合おうとしたのだろうから。ただ、もっと別の生き方を見つけてやれなかったのかと、今でも考えてしまうんだ」
那岐は静かに剣を鞘へ収めた。赤い光が消えると、そこには何の変哲もない一振りの剣が残ったが、その重みだけは、手にしたときよりも増しているように感じられた。
かつて復讐を果たすために振るわれた剣を、今度は争いを終わらせるために託そうとしている。
果たして、この布都御魂で新たな悲劇を止められるのだろうか。
那岐は鞘を握り直し、答えの出ない問いを胸にしまった。
月読との話を終えた那岐が階下へ降りると、竹と浦はすでに旅支度を整え、今か今かと彼を待ち構えていた。
二人とも弓と槍や剣を携え、いつでも出立できる様子だったが、那岐の姿を認めると、待ちきれないとばかりに駆け寄ってきた。
「では、向かいましょう」
「はい。ですが、那岐様。船の手配をしなくてはなりません。今から港へ向かえば、明朝には出航できると思います」
竹がそう答えると、那岐は小さく首を横に振り、二人を手招きした。
「船は必要ありません。二人とも、私にしっかりしがみついてください」
「え? どうしてですか?」
浦が不思議そうに首を傾げたものの、那岐は詳しい説明をすることなく、穏やかな笑みを浮かべた。
「いいから、早く。狭野たちのところへ、一刻も早く行きたいのでしょう?」
「それは、もちろんですけど……」
竹と浦は顔を見合わせたが、那岐の言葉に従い、左右からその身体に腕を回した。
二人がしっかりとつかまったことを確かめると、那岐はそれぞれの腰を抱き寄せ、念を押すように告げた。
「途中で驚いても、決して手を離してはいけませんよ」
「はい。……えっ?」
返事をした竹の足が、ふいに地面から離れた。
最初は那岐に抱き上げられたのかと思ったが、足元の石畳がみるみる遠ざかり、つい先ほどまで目の前にあった屋敷の屋根が眼下へ沈んでいく。
二人が息を飲む間にも、那岐は彼女たちを抱えたまま高度を上げ、やがて宇佐の町並みを一望できるところまで舞い上がった。
「す、すごーい! 那岐様って、こんなことまでできたのね!」
浦は目を輝かせながら眼下の景色を見渡し、思わず身を乗り出しかけたところを、那岐に抱き寄せられた。
「浦、危ないでしょう。手を離さないようにと言ったばかりですよ」
「ご、ごめんなさい! でも、すごいわ! あんなに大きかった屋敷が、もうあんなに小さく見える!」
「本当に……。これなら、船よりずっと早く着けそうです」
竹も驚きを隠せない様子で、遠くに広がる海へ目を向けた。
港には幾艘もの船が浮かんでいたが、その帆は今や小さな白い点にしか見えず、自分たちがどれほど高いところまで来たのかを実感させた。
那岐は二人をしっかりと抱え直すと、東の空へ向かってゆっくりと進み始めた。
ほどなくして風が頬を撫で、眼下の町並みが後方へ流れ始めると、二人は再び歓声を上げた。
「今回は特別ですからね。普段、私はこうした妖術を使わないことにしているんです」
「ありがとうございます、那岐様。私たちのために、そこまでしていただいて……」
竹が胸元から顔を上げて礼を述べると、那岐は前方を見つめたまま、静かに微笑んだ。
「あなたたちのためだけではありませんよ。狭野も、日臣も、大久米も、椎根津彦も、私にとっては大切な子たちですから。もちろん、三輪山にいる宇摩志麻遅も同じです。だからこそ、これ以上、誰かを失いたくないのです」
その言葉を聞いて、浦は少し考え込むように眉を寄せたが、やがて以前から気になっていたことを尋ねた。
「でも、那岐様。妖術って、こんなに便利なのに、どうして普段は封じておられるのですか? こうして空を飛べれば、遠くの人を助けに行くことだってできるのに」
「そうですね。確かに、使い方によっては多くの人を助けられます。けれど、私がこれまで見てきた妖術は、人を幸せにするよりも、不幸にすることのほうが多かったのですよ」
那岐の声には、二人が普段耳にする穏やかさとは異なる、長い歳月を経た者だけが持つ寂しさが滲んでいた。
「人には、人の力で歩んでいかなければならない道があります。妖術で何もかも解決してしまえば、私がいなくなったとき、誰も自分の足で立てなくなるかもしれません。それに、力があるからといって、何をしてもよいわけではありません。人間にはふさわしくない技だからこそ、むやみに使うべきではないと、私は思っています」
竹は那岐の横顔を見上げた。
幼い頃から見慣れている、少女のようにも見える若々しい顔立ちは少しも変わらないのに、その瞳には、自分たちの知らない幾世代もの出来事が刻まれているように感じられた。
「……わかる気がします。同じ力でも、誰が、何のために使うかによって、人を救うこともあれば、傷つけることもあるのでしょうね」
「ええ。だからこそ、自分が何をしようとしているのか、忘れてはいけないのです」
那岐が頷くと、浦は二人のやり取りを聞きながら、明るい声を上げた。
「でも、今はいいじゃない! 私たち、誰かを傷つけるために飛んでいるんじゃないもの。みんなのところへ、一刻も早く駆けつけるためなんだから!」
「ふふっ。そうですね。今ばかりは、あなたの言うとおりです」
那岐は浦の言葉に笑みを深めると、東へ向かう速度を少しずつ上げた。
頬を撫でていた風が強さを増し、眼下には海岸線と緑の山々が次々に現れては、あっという間に後ろへ遠ざかっていく。
「狭野たちは、きっと苦しい思いをしていることでしょう。二人とも、着いたらしっかり励ましてあげてください。いつまでも落ち込んでいるようなら、少しくらい叱ってやっても構いませんよ」
「はい。磐余彦様がいつまでも塞ぎ込んでおられるようなら、私がきちんとお諫めします」
竹が真面目な顔で答えると、浦は思い出したように声を弾ませた。
「それに、どうせ日臣は、ひどくしょぼくれているに決まっているわ。あの人、普段はあんなに威勢がいいのに、いざ自分が落ち込むと、見ていられないくらい元気がなくなるんだから!」
「そうね。大久米は黙って支えているでしょうけど、あの二人だけでは、磐余彦様を元気づけるにも限界があるでしょうし」
「やっぱり、私たちがいないと駄目なのよ! 着いたら、みんなまとめて元気にしてあげなくちゃ!」
浦が拳を握って意気込むと、竹も小さく頷き、東の彼方へ視線を向けた。
その先には、兄を失い、敗れた軍を率いながらも、なお前へ進もうとしている磐余彦がいる。
那岐は二人の決意を聞きながら、その身体をいっそう強く抱き寄せた。
東の地では、解決しなければならない問題がいくつも待ち受けている。
磐余彦を救うだけでは戦は終わらず、三輪山の宇摩志麻遅と和平を結ぶ道も、決して容易ではないだろう。
それでも、まだ双方が立ち止まり、言葉を交わす余地が残されているのなら、自分が赴く意味はあるはずだった。
これ以上、愛しい子や孫たちが互いの命を奪い合うことだけは、何としても避けたかった。
那岐はその願いを胸に、竹と浦を抱えたまま、東の空を駆けていった。




