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【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見
十章 神武東征

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十章 神武東征 九話 彦五瀬の喪失

 東征軍は白肩津を離れ、南へと撤退した。


 敵の矢が届かぬところまで船を進めると、磐余彦は散り散りになった船を呼び集め、各船の損傷と負傷者の数を確かめながら船団を立て直していった。


 混乱のなかで隊列を乱した船もあったが、幸いにも敵の追撃はなく、やがて全船が再び一つにまとまった。


 磐余彦は自らの船を先頭に置き、後続の船が離れぬよう速度を合わせながら、さらに南へと進路を取った。


 見張りの兵から敵船の姿はないとの報告が届くと、磐余彦は付近の海岸に上陸し、兄の彦五瀬をはじめとする負傷者の手当てを行うことにした。


 船上では揺れが激しく、傷の具合を詳しく確かめることさえ難しかったうえ、戦場から運び込まれた兵たちのなかには、急いで処置を施さねば命に関わる者もいたからである。


 彦五瀬の腕には、敵の放った矢が深々と突き刺さったままだった。


 衣を切り開いて傷を確かめた者たちは、その矢尻を見て表情を曇らせた。


 大倭壱国で用いる矢とは形が異なり、先端には鋭い返しが設けられていたのである。


 矢をそのまま引き抜けば、返しが肉を引き裂き、傷口をさらに広げてしまう。


 かといって深く刺さった矢を残したままでは腕を動かすことも難しく、手当てに心得のある者たちは、彦五瀬の身体を支えながら慎重に傷の状態を調べていた。


 彦五瀬は戦場でも矢を強引に引き抜き、兵を率いて踏みとどまろうとしていたが、近習たちが必死に制止し、ようやく船へと退かせたのだった。


 本人はなおも戦列に戻ることを望んでいたものの、腕の痛みは激しく、出血によって顔色も悪くなっていた。


 磐余彦は兄が無理に身体を動かさぬよう近習に言い含めると、自らも傷の手当てを見守った。


 海岸では、その間にも各船から負傷兵が次々と運び出されていた。


 矢傷を負った者、刃に切られた者、退却の混乱で身体を痛めた者たちが浜に横たわり、手当てのできる者は水や布を求めて船と陸の間を忙しく行き来していた。


 船団を再び出航させるには、まず彼らの傷を確かめ、航海に耐えられる状態にしなければならない。


 磐余彦は海の向こうに敵の姿がないことを確かめつつ、兄と兵たちの処置が終わるまで、浜にとどまるよう命じた。




「くそ……この程度の傷で情けない」


 彦五瀬は、矢を受けた腕を忌々しげに見下ろした。


 傷口には深く刺さった矢の返しが残っており、少し動かすだけでも鋭い痛みが走る。


 それでも、負傷した自分を認めたくないのか、手当てを受ける間も険しい表情を崩そうとはしなかった。


「兄上、その傷は深いです。決して無理をしないでください」


 磐余彦が案じるように声をかけると、彦五瀬は苦々しく唇を噛んだ。


 最短の道を進み、三輪山との交渉を成し遂げてみせる。


 そのつもりで東征軍を率いてきたが、これほどの大軍を指揮するのは彦五瀬にとっても初めての経験だった。


 宗像から各地で兵を募るたびに軍勢は膨れ上がり、その威容を目にするうちに、多少の敵ならば容易に打ち破れるという思いが生じていたことは否めない。


 しかし、白肩津で待ち受けていたのは、彦五瀬が想像していたような敵ではなかった。


 長髄彦の周到な備えと激しい攻撃を前に、上陸した兵はたちまち混乱し、総大将である自分まで負傷した。


 磐余彦が危険を顧みず撤退を支えてくれなければ、東征軍そのものが壊滅していても不思議ではなかったのである。


 己の判断が兵たちを死地へ追いやった。その事実が、腕の痛み以上に彦五瀬を苦しめていた。


「磐余彦、助かったぞ。よくあの局面で全軍を撤退させてくれた。おかげで被害を最小限に留めることができた」


「兄上が短い期間で兵を鍛え、軍をまとめ上げてくださったおかげです。あれほどの攻撃を受けながらも、兵たちは命令に従って動いてくれました。混乱も被害も抑えられ、脱走した者もほとんどおりません」


 磐余彦の言葉は、半分は本当であり、もう半分は兄を気遣ってのものだった。


 彦五瀬の練兵が見事であったことは間違いない。


 宗像をはじめ、各地で募ったばかりの兵を短期間で一つの軍として動かせるようにしたのは、彦五瀬の統率力があってこそだった。


 実際、敵襲を受けた際にも命令が完全に途絶えることはなく、船団は大きな混乱を起こさずに撤退できている。


 ただし、脱走兵がほとんど出なかったことには別の理由もあった。


 今回の東征軍は船で移動しており、兵が戦場から逃げようとしても、船を奪うか、誰かに乗せてもらわなければ海を渡ることができない。


 陸路であれば散り散りになっていたかもしれない兵たちも、船団に留まるほかなかったのである。


 それでも、今の兄にわざわざ伝えるべきことではないと磐余彦は思った。


 負傷した身でなお軍の行く末を案じている彦五瀬に、これ以上の悔いを背負わせたくなかった。


「とにかく、兄上は十分に手当てを受け、傷を癒やすことだけをお考えください。私と近習たちも兄上の船に移り、これからは同じ船で参ります」


「うむ。して、当面はどこへ向かうつもりだ?」


「まずは南を目指します。長髄彦の追撃を受けぬところまで距離を取り、軍の再編を済ませてから、改めて軍議を開きましょう。今は兵を休ませ、態勢を立て直すことが先決です」


 彦五瀬はしばらく弟の顔を見つめていた。


 白肩津では、自分の判断に従って危地に踏み込んだこの弟が、最後には軍を救うために自ら兵を率い、退路を切り開いてくれた。


 幼い頃から知っている磐余彦が、いつの間にこれほど頼もしくなったのかと思うと、悔しさの中にもわずかな安堵が生まれた。


「任せる。頼むぞ、磐余彦」


「はい、兄上」


 磐余彦は深く頷いた。兄から託されたその言葉を、今は何よりも重く受け止めていた。




 磐余彦の近習たちは彦五瀬の船へと移り、負傷した主君に代わって東征軍の指揮を補佐することになった。


 船団は傷ついた兵を収容し、船ごとの人員と物資を確かめると、再び帆を上げて南へと進路を取った。


 長髄彦の軍勢が追撃してくる気配はなかったが、敵の目がどこまで及んでいるかは分からず、磐余彦は十分な距離を取るまで警戒を緩めぬよう命じていた。


 彦五瀬が船室の奥へ運ばれてからも、磐余彦は甲板を離れず、後方に連なる船の数を幾度となく確かめていた。


 兄が率いてきた軍勢を一人も置き去りにするまいとする一方で、これから自分が何を決め、どこまで命じてよいのか、その答えを見いだせずにいたのである。


「彦五瀬様は奥でお休みになられました。手当てをした者も、今はなるべくお身体を動かさぬよう申し上げております」


 船室から戻った日臣の報告に、磐余彦はようやく振り返った。


「そうか……。兄上が少しでも休めるよう、船の揺れにも気を配ってくれ」


 日臣が頷くと、それまで海図を前に黙っていた椎根津彦が、険しい表情のまま口を開いた。


「磐余彦様、これからの方針を決めねばなりません。ひとまず南へ退くことには賛成ですが、ただ敵から遠ざかるだけでは、いずれ兵糧も水も尽きてしまいます。兵を休ませる場所を定め、散り散りになった部隊を立て直したうえで、三輪山へ向かう道筋そのものを考え直す必要がございます」


「分かっているよ。いつまでも海の上を逃げ続けられないことくらい、私にも分かっている」


 磐余彦は答えたものの、その声にはいつもの明るさがなかった。


 遠ざかっていく陸地へ目を向け、しばらく言葉を探してから、ようやく椎根津彦に向き直った。


「けれど、私は兄上が回復されるまで指揮を預かっているだけなんだ。兵をどこへ運び、どう守るかは決められても、東征そのものの方針を変えるとなれば話は別だよ。兄上が目を覚まされたとき、私が勝手にすべてを決めていたら、きっと驚かれるだろう」


 その言葉を聞いた椎根津彦は、すぐには返事をしなかった。


 磐余彦が兄を案じていることも、その回復を信じたい気持ちも理解していたが、軍勢を率いる者が決断を先延ばしにすれば、その間にも状況は変わってしまう。


 白肩津での敗北を経験した今こそ、進軍の方法から見直さなければならないと考えていたのである。


 大久米は二人の間で口を挟むことなく、ただ磐余彦の横顔を見つめていた。


 主君が兄の身を案じるあまり、自らの肩にのしかかった重責を受け止めきれずにいることは、その沈んだ表情から十分に伝わってきた。


「椎根津彦、言いたいことは分かるが、今すぐ結論を出さずともよいのではないか」


 日臣は甲板の向こうに続く船団を見渡してから、二人に向かって言った。


「まずは長髄彦の追撃が及ばぬところまで退き、兵を休ませることが先だろう。彦五瀬様の容態が落ち着かれれば、あらためて軍議を開くこともできる。それまでに我らができることを進めておけばよい」


 椎根津彦としては、この機会に磐余彦が正式に軍の主導権を握り、戦略を根本から立て直してくれることを望んでいた。


 先ほどの撤退戦で見せた判断と行動は、若い主君が大軍を率いるに足る人物であることを、少なくとも彼には十分に示していたからである。


 しかし、兄の回復を信じている磐余彦に、それを今すぐ求めることはできなかった。


 椎根津彦は言いかけた言葉を呑み込み、海図を静かに畳むと、深く頭を下げた。


「……承知いたしました。では、当面の寄港地と兵糧の残りを調べ、軍議に備えておきます」


「ありがとう、椎根津彦。今はそれを頼むよ」


 磐余彦がそう答えると、椎根津彦はもう一度礼をして持ち場へ戻っていった。


 残された磐余彦は、兄が休む船室の戸へと目を向けたまま、しばらく動こうとしなかった。


 彦五瀬の傷は、手を尽くしても快方へ向かわなかった。


 腕に深く食い込んでいた矢を取り除いたあとも傷口の腫れは引かず、熱を帯びた皮膚は日を追うごとに赤黒く変色していった。


 薬草を当て、清めた水で幾度となく傷を洗ったものの、やがて膿が滲み出るようになり、船室には傷口から漂う異臭がこもり始めた。


 高熱にうなされる彦五瀬は、夜になると苦しげに寝返りを打ち、朝にはわずかに意識を取り戻すものの、口に運ばれた水を飲み干すことさえ難しくなっていた。


 磐余彦は軍の指揮を近習たちと分担しながら、少しでも時間ができれば兄のもとへ足を運び、その顔色を確かめては回復の兆しを探したが、日に日に細くなっていく呼吸と衰えていく声が、望みとは反対の現実を突きつけていた。


 その日も磐余彦は、薄暗い船室の寝台に横たわる兄の傍らに座り、汗に濡れた額を布で拭っていた。


 しばらく眠っていた彦五瀬がかすかに瞼を開き、弟の姿を認めると、乾いた唇をゆっくりと動かした。


「……磐余彦」


「はい、兄上。ここにおります」


 磐余彦が身を乗り出すと、彦五瀬はしばらく弟の顔を見つめ、何かを確かめるように小さく息を吐いた。


「どうやら、俺はここまでのようだ」


 その言葉を聞いた瞬間、磐余彦は手にしていた布を強く握りしめた。兄が自らの死を口にするなど、認められるはずがなかった。


「何を仰るのですか。まだ早いです、兄上。もう少し南へ進めば、大きな村も見つかりましょう。そこなら薬に詳しい者もいるはずですから、しばらく軍を留めて、治療に専念なさってください」


「お前は……昔から、諦めが悪いな」


 彦五瀬は笑おうとしたが、わずかに口元を動かしただけで咳き込み、磐余彦が慌てて身体を支えると、しばらく苦しげに息を整えてから、傷を負った腕へ目を落とした。


「自分の身体のことだ。もう分かる。傷から肉が腐り始めているのに、熱は下がらず、指先もろくに動かせん。このまま生き延びられるとは、俺にも思えない」


「兄上……」


「だからこそ、今のうちに伝えておかねばならん。磐余彦、これからはお前が東征軍の指揮を執れ。兵を率い、皆を無事に導くのだ」


 磐余彦は首を横に振った。兄から預かった指揮を代行することと、兄に代わって東征軍を率いることは、彼にとってまるで違う話だった。


「私は兄上が回復なさるまでの代理に過ぎません。兵たちも、兄上が再び指揮を執られる日を待っています。この東征軍は兄上が率いてこられた軍なのですから、そのお役目まで私に押しつけないでください」


「押しつけるわけではない。お前なら任せられると、俺が決めたのだ」


 彦五瀬は残された力を振り絞るように、弟の手首を握った。


「白肩津では、お前がいなければ俺も兵たちも戻れなかった。あのような混乱の中で軍をまとめ、退くべき時を見誤らずに皆を船へ戻したのは、お前の力だ。俺は大軍を率いることばかり考えて、敵の強さを見誤ったが、お前は最後まで兵の命を見捨てなかった」


「それは、兄上をお救いしたかったからです。私一人では何もできませんでしたし、日臣や大久米、椎根津彦たちがいてくれたからこそ……」


「ならば、これからも皆の力を借りればよい。お前は一人で戦うのではないのだからな」


 彦五瀬の手に、わずかな力が戻った。


 磐余彦はその温もりを失うまいと握り返したが、兄の言葉を聞けば聞くほど、別れが近づいていることを思い知らされ、胸の奥が締めつけられていった。


「待ってください、兄上。三輪山へ向かい、天孫降臨を果たされるのでしょう? 宇摩志麻遅殿との話をまとめ、その一族から妻を迎え、新しい国を築くと仰っていたではありませんか。まだ何一つ終わっていないのに、私にすべてを託してしまわれるのですか!」


 彦五瀬は答えようとしたが、喉から漏れたのは苦しい息ばかりだった。


 磐余彦は兄の手を両手で包み込み、声を震わせながら言葉を重ねた。


「私が兄上の代わりを務められるはずがありません。軍を率いることも、国を治めることも、これから兄上に教わるつもりでいたのです。ですから、どうか諦めないでください。私を置いていかないでください、兄上……!」


 彦五瀬は弟を見つめていた。


 その目には、幼い頃から知っている泣き虫の弟を案じる兄の優しさと、今はその弟にすべてを託さねばならない無念が、静かに入り交じっていた。


「……すまないな、磐余彦」


「謝らないでください。兄上は、何も……」


「後を……頼む……」


 握り合っていた手から、少しずつ力が抜けていった。


 磐余彦は何度も兄の名を呼び、意識をつなぎ留めようとしたが、彦五瀬はそれ以上言葉を返すことなく、静かに目を閉じた。


挿絵(By みてみん)


 それから数刻のあいだ、磐余彦は兄の傍らを離れず、いつ再び目を開いてくれるかと、その顔を見つめ続けた。


 しかし、弱々しく続いていた呼吸はやがて途絶え、呼びかけにも握り返した手にも、二度と応えが返ってくることはなかった。


 磐余彦は、兄の手を握ったまま動けなかった。


 先ほどまで自分に軍を託し、励まし、いつものように笑おうとしていた兄が、もう二度と声をかけてくれないという現実を受け入れられず、ただその亡骸を見つめていた。


 東征軍を率いるという遺言も、これから進むべき道も、今の彼には何一つ考えることができなかった。

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