十章 神武東征 六話 長髄彦と大物主
登美の館。
邇芸速日が亡くなって以来、長髄彦は各地に社を建立することに心血を注いでいた。
偉大な主君が成し遂げた数々の功績を後世に伝え、その名を永く残したいという一心から、邇芸速日を神格化し、大物主という贈名を奉って祀ったのである。
かつては武人として軍事に励み、三輪山の守りを担っていた長髄彦だったが、今では兵の調練にも軍議にもほとんど顔を出さず、日々大物主の社に参拝しては、亡き主君に語りかけるように祈りを捧げていた。
その姿は、邇芸速日の偉業を顕彰するという当初の目的から、次第に大物主にすがることでしか心の平穏を保てなくなっているようにも見えた。
兄の安日彦も、邇芸速日の跡を継いだ宇摩志麻遅も、そんな長髄彦を案じて幾度となく声をかけたが、もともと頑固な性格の長髄彦は、二人の忠告に耳を貸そうとはしなかった。
やがて日を追うごとに活力を失い、病がちになった長髄彦は、社に参拝することさえ難しくなり、館の寝所で床に伏す日が増えていった。
長髄彦は、もはや自分が生きている意義を見失っていたのである。
邇芸速日のもとで過ごした日々は、あまりにも栄光に満ちていた。
かつて敵として刃を交え、その強さに心服して以来、長髄彦は邇芸速日に忠誠を尽くし、ともに数々の困難を乗り越えながら、三輪山の国を守り続けてきた。
その日々こそが長髄彦の誇りであり、人生そのものだったのだ。
しかし、長きにわたって仕えてきた主君は、もはやこの世にはいない。
どれほど立派な社を建て、どれほど熱心に祈りを捧げたところで、あの方が再び自分に声をかけてくださることはなく、失われた日々が戻ってくることもなかった。
その喪失を埋めることができないまま、長髄彦は次第に、ただ静かに時が過ぎるのを待つようになっていた。
かつて戦場で幾多の敵を退けた老武人は、今では寝所の天井を見つめながら、亡き主君と過ごした日々を思い返すばかりであった。
そして、いつしか長髄彦は、このまま邇芸速日のもとへ行きたいと願うようになっていたのである。
その日は、突然にやってきた。大倭壱国が大軍を率いて吉備まで迫り、三輪山を狙っているという情報が登美の館にもたらされたのである。
さらに、纏向の宮へ向かっていた大倭壱国の使者を見つけ、念のため長髄彦の館へ連れてきたという報告も届いていた。
寝所で横になっていた長髄彦のもとへ、一人の家臣が足早にやってきた。家臣は寝台の傍らに膝をつくと、床に伏せたままの主君に声をかけた。
「長髄彦様、お知らせがございます」
「……なんだ」
長髄彦は気だるそうに答えたものの、家臣の方へ顔を向けようともせず、ただ虚ろな眼差しを天井に向けていた。
「纏向の宮へ向かう使者がおりましたので、念のためこちらの館へ連行しております。いかがいたしましょうか」
「そうか。用件を聞いておけ」
長髄彦はそれだけ答えると、再び口を閉ざした。
もはや政務にも軍事にも関心を失っており、使者が何のために訪れたのかを自ら確かめようという気力さえ残っていなかった。
「それが、その使者は大倭壱国から参った者でございまして……。出雲の時と同じく、国譲りを迫るつもりではないかと、我らも警戒しております」
「大倭壱国だと……」
それまで何事にも反応を示さなかった長髄彦が、わずかに顔を動かし、初めて家臣の方へ眼を向けた。
「はい。すでに大倭壱国の船団が吉備にまで迫っているとの話でございます」
その報告を耳にした瞬間、長髄彦の胸奥で、今にも消え果てようとしていた炎が、突如として激しく燃え上がった。
邇芸速日が世を去ってまだ間もないというのに、大倭壱国は早くも軍勢を差し向け、あの方が生涯をかけて築き上げ、自分たちが人生の大半を費やして守り続けてきた国を奪おうとしている。
その事実は、虚ろになっていた長髄彦の心を一瞬にして戦場へ引き戻すに足るものだった。
「吉備だと!? 吉備冠者は大倭壱国を通したのか!」
寝所に響いた怒声に、報告に来た者は身をすくませながらも、かろうじて言葉を継いだ。
「表向きは中立のようですが、以前から裏で繋がっていたのではないかと……」
「あの曲者めが……」
低く吐き捨てたその声音には、衰えた老人の弱々しさなど微塵もなかった。邇芸速日のいない世に、もはや生きる意味など残されていない。
そんな思いに囚われ、長髄彦はただ大物主の社に縋り、亡き主の面影だけを追うような日々を送ってきた。だが、あの方の遺した国が奪われようとしているのならば、話はまるで別だった。
自分が倒れ伏して終わるには、まだ早い。胸の内で、その思いが熱となって脈打つ。
まだ、儂にはやるべきことがある。
長髄彦は掛け布を勢いよく跳ね除けると、寝台の縁へどっかと両足を下ろした。
長く床に伏していた脚にはなお強いこわばりが残っていたが、床を踏みしめたその瞬間、かつて幾度もの戦場を駆け抜けた武人としての感覚が、全身の奥底からよみがえってくるのを感じた。
巨体を支えるように一度息を整えると、そのまま一息に立ち上がる。その姿を見た寝所の家臣たちは、思わず息を呑んだ。
つい先ほどまで、生きる気力さえ失っていた老人の目に、今は鋭く研ぎ澄まされた光が宿っていたからである。
「邇芸速日様が築かれた国を、奴らに渡してなるものか!」
その怒声は、久しく館の中で聞かれることのなかった、兵を叱咤し奮い立たせる長髄彦その人の声であった。
家臣たちは反射的に背筋を伸ばし、まるで往年の主将の前に立つ兵のように姿勢を正した。
長髄彦は傍らに置かれていた剣を取り上げると、鞘ごと乱暴に握りしめ、そのまま寝所の戸口へ向かって歩き出す。
「使者はどこだ」
「べ、別室に控えさせております」
「案内せい!」
命じる声に寸分の迷いもなく、家臣たちは慌ててその後に続いた。
長髄彦は大きな足音を廊下に響かせながら進んでいく。
その足取りは、病に伏していた老人のものではなく、ただ敵を討たんとする武人のものだった。
やがて大倭壱国の使者が待たされている部屋の前に至ると、長髄彦は躊躇なく戸を開け放ち、そのまま中へ踏み込んだ。
「消えろ、盗人が!」
使者が何かを口にしようとするよりも早く、長髄彦の剣は凄まじい勢いで振り下ろされた。
長年の衰えを感じさせぬ一閃は容赦なく相手を斬り捨て、部屋の空気は一瞬にして凍りつく。
そこにあったのは、交渉でも問答でもなく、邇芸速日の国を侵そうとする者への、長髄彦の断固たる拒絶そのものだった。
「なんと……!」
「いきなり何をなされるのですか!」
「長髄彦様、使者を斬ってはまずうございます!」
突然の凶行に、居合わせた家臣たちは騒然となった。
使者を迎えて要件を聞くどころか、口を開く間も与えず斬り捨ててしまったのである。
これでは大倭壱国との交渉が決裂するばかりか、相手に攻め込む口実を与えかねない。
だが、長髄彦は血のついた剣を手にしたまま、動揺する家臣たちを鋭く睨みつけた。
「使者など無用! どうせ国取りであろう。今後、大倭壱国の使者を見つけ次第、斬り捨てい!」
その一喝に家臣たちは口をつぐんだ。
つい先日まで寝台から起き上がることさえ億劫がっていた老人が、今や誰よりも激しい闘志を燃やし、かつて戦場で兵を率いていた頃の威圧感を取り戻していたのである。
しばらくして、長髄彦の兄である安日彦が館を訪れた。
安日彦はすでに隠居して久しく、よほどの用件でもない限り館に顔を出すことはなかったが、弟が大倭壱国の使者を斬り捨てたと聞かされては、重い腰を上げざるを得なかった。
安日彦は長髄彦と向かい合うと、深いため息をつき、厳しい表情で弟を見据えた。
「長髄彦……使者を斬っては今後の交渉にどれほど悪影響を及ぼすか、分からぬお前ではあるまい。先方が何を申し入れようとしていたのかさえ確かめずに斬るとは、あまりにも早計ではないか」
「兄者……大倭壱国のやり口は、出雲の末路を見てよく知っていよう。あやつらは国譲りなどと聞こえのよい言葉を並べながら、結局は国を奪っていくのだ。邇芸速日様が築かれたこの国を、奴らにやれるものか。交渉など、こちらをまやかし、騙すための方便にすぎぬわ!」
長髄彦は怒りを隠そうともせず、兄に向かって吐き捨てた。
出雲が大倭壱国に屈した経緯を知る彼にとって、今回の使者もまた、三輪山を奪うために差し向けられた者としか思えなかったのである。
「お前の気持ちは分かる。儂とて邇芸速日様が遺された国を奪われたいわけではない。だが、だからこそ使者を斬るべきではなかったのだ。相手の真意を確かめる機会を、こちらから捨ててどうする」
「もはや言葉など無用。奴らが軍勢を率いて吉備まで迫っておる以上、狙いは明らかではないか!」
安日彦は眉間に深い皺を寄せた。長髄彦は昔から一度こうと決めれば容易に考えを曲げない男だったが、年を重ねるにつれて、その頑固さはいよいよ手に負えなくなっていた。
まして今は、邇芸速日を失った悲しみと、主君の遺した国を守らねばならぬという使命感が、弟の心を占めているのである。
「とにかく、こちらから弁明の使者を出して今回の件を収めるぞ。これ以上、無用な争いを招いてはならぬ。お前も二度と使者を斬るでない」
「必要ない。奴らは儂が潰す。この土地には一歩たりとも踏み入らせぬ!」
安日彦は目を閉じ、しばらく言葉を失った。
弟が亡き主君に並々ならぬ忠誠を捧げていることは誰よりもよく知っていたが、その忠誠心が今や、あらゆる忠告を退けるほどの激しい執念となっていたのである。
これ以上何を言っても、長髄彦の決意を変えることはできそうになかった。
やがて長髄彦は登美の兵を招集するとともに、周辺各地の豪族にも使いを走らせ、兵を率いて参集するよう命じた。
大倭壱国の軍勢がいつ攻め寄せようとも迎え撃てるよう、武具や兵糧を整え、各地の守りを固めるためである。
その采配には、長く病床に伏していた老人とは思えぬほどの気迫が満ちていた。
かつて幾多の戦場を駆け抜けた武人の眼光が戻り、家臣たちに矢継ぎ早に命令を下す姿は、往年の長髄彦そのものだった。
邇芸速日が築き、自らも人生の大半を費やして守り続けてきた三輪山の国を、何としても守り抜く。
その決意を胸に、長髄彦は迫り来る大倭壱国との戦いに備えるのだった。
長髄彦が大倭壱国の使者を斬り捨てたという報告は、ほどなく纏向の宮にも届けられた。
「なに、長髄彦叔父上が!」
宇摩志麻遅は思わず声を上げ、報告に訪れた弟宇迦斯を見つめた。
弟宇迦斯は宇陀の豪族の弟であり、現在は宇摩志麻遅の側近として仕えている男だった。
「はい。纏向に向かっていた大倭壱国の使者を登美の館へ連行したところ、長髄彦様は要件も問わず、いきなり斬り捨ててしまわれたそうです」
「なんと早まったことを……」
宇摩志麻遅は額に手を当て、深いため息をついた。
父の死後、長髄彦が大物主の社に通い詰め、以前のように軍務へ励まなくなったことは承知していたが、まさか使者を斬り捨てるほど激しい行動に出るとは思ってもみなかった。
「しかし、大倭壱国ごとき何ほどのこともないでしょう。我らが兵を集めて迎え撃てば、容易に追い払えるのではありませんか」
「何を言うか! 大倭壱国は連合体だぞ。一つや二つの軍を撃退した程度で終わるわけがなかろう。下手をすれば倭国大乱の再来となるぞ!」
宇摩志麻遅の厳しい声に、弟宇迦斯はわずかに身を引いたものの、なおも納得できない様子で言葉を返した。
「ですが、我らとて東の諸国との結びつきを深めてきた連合体ではありませんか。各地の豪族が兵を出せば、大倭壱国に対抗することも十分に可能かと存じます」
「それは父上が存命の時であればこそだ。父上が築かれた諸国との結びつきは今も残っているが、私に父上ほどの影響力があるとは考えにくい。たとえ諸国の軍勢を集められたとしても、それは筑紫で起きた倭国大乱を超える大乱になりかねぬのだぞ」
宇摩志麻遅は険しい表情を浮かべたまま、しばし言葉を切った。
父が長い年月をかけて築き上げた三輪山の連合と、西の大倭壱国が総力を挙げて衝突すれば、その戦火は両国の境だけでは収まるまい。
諸国が次々と巻き込まれ、ようやく安定を取り戻した倭国の各地が、再び戦乱に呑み込まれてしまう。
「父上があれほど苦心して治められた倭国を、再び戦乱の世に戻すわけにはいかぬ。このまま両国が争えば、倭国そのものが滅びかねないのだ」
弟宇迦斯はそれ以上反論することができず、黙って主君の言葉を聞いていた。
「なんとしても、三輪山が火の海になる前に手を考えねば……」
宇摩志麻遅はそう呟くと、膝の上で固く拳を握りしめた。大倭壱国の進軍を食い止めるだけでなく、長髄彦の暴走も止めなければならない。
しかし、叔父が亡き父に抱いていた忠誠心の深さを知っているだけに、説得が容易ではないことも痛いほど分かっていた。
父から三輪山の当主を継いで十年、これまで幾度となく難事に向き合ってきたつもりだったが、今は身内である叔父一人すら思いとどまらせることができない。
宇摩志麻遅は、自らの力のなさを呪わずにはいられなかった。
翌日、長髄彦は登美の地に建立した大物主の社を訪れ、いつものように亡き主君へ祈りを捧げていた。
社の前で深く頭を垂れていると、境内に慌ただしい足音が響き、一人の家臣が駆け寄ってきた。
「長髄彦様、ご報告申し上げます。やはり大倭壱国の軍勢は吉備まで達しておりました。どうやら行き先は我らの領地であるようです」
長髄彦はゆっくりと顔を上げ、家臣を振り返った。
その眼には、かつて戦場で幾多の敵を退けてきた武人の鋭い光が宿っていた。
「偵察を出せ」
「はっ。して、どちらに偵察を向かわせましょうか?」
「全域だ。全ての方角に目を光らせ、奴らの動きを探れ。軍勢の居場所を突き止め次第、いち早く儂に知らせよ」
「承知いたしました!」
家臣が深く頭を下げて立ち去ると、長髄彦は再び社へ向き直った。
大倭壱国の軍勢がどこから攻め寄せてこようとも、邇芸速日が築き上げた国を奪わせるつもりはなかった。
「大倭壱国の連中を、一歩たりとも踏み入らせてなるものか……」
低く呟いた長髄彦は、社の前に膝をつき、静かに両手を合わせた。
かつて幾多の戦場を共に駆け抜け、自らの人生を捧げて仕えてきた主君は、今や大物主としてこの社に祀られている。
もはや直接その声を聞くことはかなわなかったが、長髄彦は亡き主君が今も自分たちを見守っていると信じていた。
「邇芸速日様……どうか我らにご加護を。あなた様が遺されたこの国を守り抜くため、侵略者に打ち勝つ力をお与えくださいませ」
長髄彦は深々と頭を垂れ、しばらくそのまま動かなかった。
老いた身に残された力の全てを尽くしてでも、主君の遺した国を守り抜く。
その決意を胸に、長髄彦は大物主の社へ祈り続けるのだった。




