十章 神武東征 五話 吉備冠者
吉備へと到着した彦五瀬と磐余彦の東征軍は、船団を港に留めると、吉備冠者の拠点となっている山城へと向かった。
宇佐を発つ前から吉備には使者を送っており、東征軍が近く到着することはあらかじめ伝えられていたため、大倭壱国の船団が港へ姿を現しても大きな混乱は起こらなかった。
港では荷を運ぶ者たちが普段と変わらぬ様子で行き交い、街道にも兵を遠巻きに眺める者こそいたものの、道を塞いだり逃げ惑ったりする者は見られず、すでに受け入れの準備が整えられていたことが窺えた。
彦五瀬と磐余彦は供回りを伴い、港から内陸へ続く道を進んでいった。
やがて山の斜面を利用して築かれた城が見え始め、その周囲には柵や見張り台が設けられていたものの、東征軍を威圧するように兵を並べている様子はなく、案内役の者たちも終始穏やかな態度を崩さなかった。
山城へ入った二人は、そのまま吉備冠者との面会が行われる一室へと案内されたが、室内へ足を踏み入れた彦五瀬は、すぐに通常とは異なる座の配置に気が付いた。
本来であれば、客を迎える側と迎えられる側、あるいは身分の上下を示すため、誰が見ても分かる形で上座と下座が設けられる。
しかし、その部屋には明確な上座と呼べる場所がなく、中央を挟んで向かい合うように座が整えられており、どちらか一方だけが高い位置から相手を見下ろすことのない配置となっていた。
彦五瀬は何も言わずに室内を見渡し、その意図を察したようにわずかに目を細めた。
隣にいた磐余彦も同じことに気付いたらしく、一度だけ兄へ視線を送り、それから何事もなかったように用意された座へと向かった。
これは単なる客人への気遣いではない。
吉備は大倭壱国の命を受けて動く従属国ではなく、あくまで一つの勢力として対等な立場から話をする。
その意思を、吉備冠者は言葉にするより先に、座の配置そのものによって示しているのであった。
彦五瀬と磐余彦もその意図をあえて口にはせず、向かい合う形で用意された席へ静かに腰を下ろした。
「はるばる宇佐より、ようお越しくださいました。私が、今代の吉備冠者でございます」
向かいに座した男は穏やかな笑みを浮かべながらそう名乗ると、彦五瀬と磐余彦へ丁寧に頭を下げた。
その物腰には、一国を預かる者としての落ち着きこそあったものの、相手を威圧しようとする気配はなく、むしろ互いの立場を慎重に量りながら言葉を選んでいるように見えた。
「彦五瀬と申す。冠者殿、このたびはお目通りいただき感謝いたす」
「弟の磐余彦でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
二人がそれぞれ名乗ると、彦五瀬は長々とした挨拶を続けることなく、早々に今回の訪問の本題へと入った。
「早速ではありますが、我らとの密約を守っていただいたこと、まずは感謝を申し上げたい」
その言葉を受けても、吉備冠者の表情に大きな変化はなく、当然のことを確認するかのように静かに頷いた。
「先代の吉備冠者より、密約については詳しく聞き及んでおります。代が替わったからといって、先代が交わした約定まで無かったことにするつもりはございません」
現在、二人の前に座している吉備冠者は二代目にあたる。
そもそも吉備冠者という存在そのものが古くから続く家柄ではなく、先代が一代にして勢力を築き上げ、吉備の有力豪族として頭角を現したことから始まったものであった。
長い血統や由緒によって支配の正統性を示せる家ではなかったからこそ、先代の死後もその名が持つ威光を失わせぬため、個人の名に近かった「吉備冠者」を代々受け継ぐ称号として残す道が選ばれ、二代目である彼もまた父と同じ名を名乗っている。
もっとも、その気質まで先代と同じというわけではない。
父ほどの強烈な覇気も、周囲を呑み込んで勢力を広げようとする野心も持ち合わせてはいなかったが、その代わりに人と人との利害をまとめることに長け、無理に領地を広げるよりも、すでに手にした土地を豊かに保つことを重んじる人物であった。
領内の揉め事にもよく耳を傾け、豪族だけでなく村々の事情にも目を配るため、民からの評判も悪くない。
それゆえ人々は、表向きの称号である吉備冠者とは別に、親しみと敬意を込めて彼をこう呼んでいた。
――温羅様、と。
「港も領地も、実に見事なものでございました。これほど豊かな土地を治めておられるのなら、吉備王国ありと称されるのも大袈裟ではありますまい」
磐余彦が率直な感想を口にすると、吉備冠者はわずかに目を細め、謙遜するようにゆるく首を振った。
「王国などとは大袈裟でございます。父の代から川を整え、田畑を広げ、港を少しずつ使いやすくしてきた、その積み重ねにすぎませぬ」
そう答えながらも、その声音には卑下する響きはなかった。
むしろ、自らが受け継いだ土地に対する静かな誇りが感じられ、吉備冠者は少し間を置いてから言葉を続けた。
「とはいえ、この吉備が豊かな土地であるという自負くらいはございます。海からも山からも恵みを得られますし、田を耕せば作物もよく実る。父が残したものを守り、さらに次の代へ渡せる形にすることが、今の私の務めだと考えております」
彦五瀬はその言葉にひとまず頷いたものの、やがて姿勢をわずかに正すと、ここからが本題だと言わんばかりに吉備冠者を見据えた。
「ところで冠者殿、我らとしても今後の予定を定めねばならぬ。今回の東征について、吉備からはどのような支援を受けさせていただけるのであろうか?」
「食糧については、可能な限り用意いたしましょう。武具や武器、矢、それ以外にも旅や戦に必要となる物資であれば、こちらで準備できるものは提供させていただきます」
吉備冠者は淀みなく答えたが、そこで一度言葉を切り、彦五瀬と磐余彦の双方へ視線を向けた。その表情には先ほどまでよりも慎重な色が浮かんでいる。
「ただし、今回の東征に吉備の正規兵を参加させることについては、見送らせていただきたいと考えております」
その言葉を聞いた途端、彦五瀬の眉がわずかに動いた。
「兵は提供せぬと?」
「はい」
吉備冠者は彦五瀬の視線を受けても取り乱さず、静かな口調を崩さなかった。
「もともと吉備が抱えている兵は、それほど多くございませぬ。領内の街道や港を守り、周辺の村で争いが起きれば鎮め、賊が出れば討たねばならない者たちです。その兵をまとまった数で東へ送り出してしまえば、吉備を守る力そのものが弱くなってしまいます」
さらに吉備冠者は、わずかに身を乗り出した。
「もしその間に領内で何かが起きれば、私は民に対して申し開きができませぬ。東征がどれほど大きな意味を持つ戦であろうとも、私にとって最初に守るべきものは、この地で暮らしている者たちでございます。その責を放り出してまで兵を差し出すことは、どうかご容赦いただきたい」
筋の通った説明ではあったが、彦五瀬はすぐには返事をしなかった。
表情こそ大きく変わらなかったものの、その眼差しには明らかな不満が滲んでいる。
吉備を守らねばならないという理屈そのものは理解できる。
だが、それだけが理由なのだろうかという疑念が、彦五瀬の胸の内には残っていた。
もし自分たちの東征軍が三輪山に敗れれば、この男は今度は何事もなかったかのように三輪山へ使者を送り、吉備は大倭壱国の戦には加わっていなかったと説明するのではないか。
大倭壱国に背を向けず、かといって三輪山とも決定的に敵対しない。
彦五瀬には、吉備冠者がそのための逃げ道を最初から残しているように思えてならなかった。
「兄上、阿岐国の時と同じように、この地で兵を募ってはいかがでしょうか」
磐余彦がそう提案すると、彦五瀬はすぐには頷かず、わずかに眉を寄せた。
「だがな、阿岐ではもともと常駐させている兵がほとんどいなかったからこそ、こちらで募るしかなかったのだ。吉備とは少し事情が違うだろう」
「ですが、冠者殿も先ほど申されたではありませんか。吉備の兵は領地を守るだけで精一杯であり、東へ送る余裕はない、と。それならば、吉備の守りを担う兵には手をつけず、我らと共に東へ向かう意思のある者だけを募ればよいのではありませんか」
彦五瀬はしばらく黙り込み、磐余彦の言葉を頭の中で反芻するように視線を落とした。
正規兵を出せないという吉備側の事情を受け入れたうえで、それとは別に志願する者を募るのであれば、少なくとも吉備の守りそのものを弱めることにはならない。
「……うむ、それならば話は別か」
ようやく納得した彦五瀬は顔を上げると、正面に座る吉備冠者へ視線を向けた。
「冠者殿、この地にて我らが兵を募っても構わぬか。もちろん、吉備の兵を無理に引き抜くつもりはない。我らと共に東へ向かうことを望む者だけでよい」
問いを受けた吉備冠者はすぐには答えず、膝の上に置いていた手をわずかに動かしただけで、しばらく思案するように二人を見つめていた。
正規兵を差し出すのとは違い、あくまで本人の意思による募兵であれば、たとえ東征軍が敗れたとしても吉備そのものが三輪山へ兵を向けたことにはならない。
一方で東征軍が勝利すれば、兵を募ることを許したという事実は、大倭壱国への一定の協力として残る。
どちらへ転んでも、吉備が背負う危険は大きくない。
「募兵であれば、差し支えありません。吉備の民に無理を強いるのでなければ、どうぞご随意になさってください」
穏やかな声でそう答えた吉備冠者の胸中には、大倭壱国と運命を共にするつもりなど初めからなかった。
彼にとって何より守るべきものは吉備の土地であり、そこで暮らす民の生活であって、倭国の覇者となるのが大倭壱国であるか三輪山であるかは、その次の問題に過ぎない。
勝つ者が変わるたびに国を滅ぼしていては、領主として民を守ったことにはならない。
だからこそ吉備冠者は、どちらか一方へ深く踏み込むことを避けながら、それでも将来どちらが優勢になったとしても吉備が生き残れるだけの余地を、静かに残そうとしていたのである。
交渉を終えた彦五瀬と磐余彦は、山城をあとにして港へ向かう街道を並んで歩いていたが、十分な物資の支援を取り付けたはずだというのに、どうにも手放しでは喜べず、うまく煙に巻かれたような妙な感覚だけが残っていた。
「どうにも……俺は好きになれん」
しばらく黙って歩いていた彦五瀬が、とうとう我慢できなくなったように吐き捨てると、隣を歩いていた磐余彦は苦笑しながら兄の横顔を見た。
「したたかな方でしたね。間違いなく、我らが負けた場合のことまで考えての発言だったのでしょう」
「あやつ、三輪山との密約の一つや二つ、結んでいるのではないか?」
「さて、どうでしょう。先代はもっと凄い方だったと聞いておりますし、こういう交渉事というものは、戦とはまた違った難しさがありますから」
磐余彦がそう言って肩をすくめると、彦五瀬はますます面白くなさそうに眉を寄せた。
「俺は武人だ。ああいう二枚舌の男と話をするのは気に入らん。味方なら味方、敵なら敵とはっきりすればよいものを、どちらにも転べるよう逃げ道ばかり残しておる」
「ですが兄上、我らとて日向では、小さいながらも土地を預かる領主ではありませんか。領主である以上、まず領民を守り、領地を保つことを考えるのは当然でしょう。私とて、自分の土地を預かる立場であれば同じように考えます」
彦五瀬はすぐには答えず、しばらく前を向いたまま歩いていたが、やがて納得したように小さく息を吐いた。
「……それもそうだな」
「これも政治というものなのでしょう。戦に勝つことだけ考えていればよいわけではないということです」
磐余彦が少し得意げに言うと、彦五瀬は横目で弟を見つめ、その顔に意地の悪い笑みを浮かべた。
「随分と一人前のようなことを言うようになったな、磐余彦。昔は少し稽古をしただけで泣きだして、山へ逃げていた癖に」
「ちょ……兄上、それは言わない約束でしょう!」
つい先ほどまで領主としてもっともらしいことを語っていた磐余彦の顔が一瞬で崩れたため、彦五瀬は堪えきれず声を上げて笑った。
「何を今さら。毎日のように泣いておったではないか。当時は本当に、この弟は大丈夫なのかと心配していたものだぞ」
「あれはぁー、稽古ではなく、いじめーでしたよ。私は今でも、しっかり覚えていますからね」
「生意気なんだよ、お前は」
彦五瀬が笑いながら弟の肩を軽く小突くと、磐余彦は不満そうに頬を膨らませながらも、その口元にはいつの間にか笑みが浮かんでいた。




