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【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見
十章 神武東征

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十章 神武東征 四話 瀬戸内の旅

 彦五瀬(ひこいつせ)と磐余彦(いわれひこ)が率いる大倭壱国の東征軍は、宗像を発ったのち一路東へと進み、やがて瀬戸内海を目指して船団を進めていた。


 いくつもの船が隊列を組み、白い帆を風にはためかせながら海上を進んでいく光景は壮観であったが、瀬戸内へ入るまでの海は思いのほか波が高く、船は絶えず上下左右へ揺さぶられていた。


 中でも、その揺れにもっとも苦しめられていたのが日臣(ひのおみ)だった。


 普段は誰よりも威勢がよく、多少のことでは弱音など吐かない男であるのに、この時ばかりは甲板の端へ座り込み、青ざめた顔で海面を睨みながら、ひたすら波が静まることだけを願っていた。


 ところが船団が瀬戸内海へ入ると、まるでそれまでが嘘だったかのように波が穏やかになり、船の揺れも目に見えて小さくなった。


 左右には島影が点々と浮かび、海面には柔らかな陽光が反射し、風もどこか暖かく感じられる。


 すると、それまで半ば死んだような顔をしていた日臣は、見る見るうちに血色を取り戻し、勢いよく立ち上がった。


「おっしゃー! いっちょやったるぞ!」


 突然の大声に、すぐ近くにいた磐余彦が思わず振り返る。


「いや、まだ瀬戸内に入っただけだし……」


挿絵(By みてみん)


 つい先ほどまで船酔いで動けなくなっていた男とは思えない変わりように、磐余彦は呆れたように笑った。


 そんな二人を横目に、椎根津彦(しいねつひこ)は船団の進路を確かめながら、これからの予定を淡々と説明していく。


「次は阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)へ向かいます。そこでしばらく滞在し、兵の休息を取らせながら募兵も行う予定でございます」


「阿岐国か」


 磐余彦はそう呟きながら、船縁へ近づいて周囲を見渡した。


 外海とはまるで違い、瀬戸内の海は穏やかで、遠くに連なる島々も青く霞んで見える。


 潮風も心地よく、長い航海の途中であることを忘れてしまいそうなほどだった。


「それにしても、瀬戸内は気持ちがいいね。気候も穏やかだし、波も静かで、とても航海しやすい」


「最高だぜ!」


 日臣はすっかり元気を取り戻し、両腕を大きく広げながら潮風を全身で受けていた。


 その姿には、先ほどまで船酔いで苦しんでいた面影など欠片も残っていない。


 一方、大久米(おおくめ)はというと、騒ぐ二人から少し離れた甲板の上に腰を下ろし、暖かな日差しを浴びながら黙って目を細めていた。


 穏やかな波に揺られる船の上で、まるで遠征の途中であることなど忘れたかのように、静かにひなたぼっこを楽しんでいる。


 そんな仲間たちの様子を眺めながら、磐余彦もまた束の間の穏やかな航海を味わっていた。


 穏やかな海面を眺めながら航路を確認していた椎根津彦は、しばらく何かを考え込んでいたが、やがて少し言いにくそうな表情を浮かべながら磐余彦へ顔を向けた。


「そういえば磐余彦様、少し気になっていることがございます。彦五瀬様のことなのですが、宗像を発ってから、いささか浮かれておられるようにお見受けしました。大丈夫でしょうか」


 突然兄の名を出された磐余彦は、不思議そうに椎根津彦を見る。


「兄上が? どういうこと?」


「彦五瀬様は我々よりも戦の経験が豊富で、武人としても優れたお方でございます。それは私も十分に承知しております。ただ、宗像で多くの兵と船を加え、これまでに率いたことのないほどの大軍を任されてから、少々気持ちが昂っておられるように見えるのです。これから向かう阿岐国でも募兵を行う予定ですから、兵の数はさらに増えることになるでしょう」


 すると日臣は、何をそんなに気にしているのかと言いたげに肩をすくめた。


「そりゃ大軍を率いられるんだぞ。武人なら興奮して当然だろうがよ。俺だってあれだけの兵を任されたら、じっとしていられねえと思うぜ」


 磐余彦も、椎根津彦が何を問題視しているのかまだ掴みきれず、改めて問いかけた。


「椎根津彦は、何をそんなに心配しているの?」


「自信を持たれること自体は、何も悪いことではございません。大軍を率いる以上、将が臆していては兵も不安になるでしょう。ただ、その自信が強くなりすぎ、敵を軽んじることへ繋がらないか、それだけが気がかりなのでございます」


 日臣は眉を上げると、少し声を落とした。


「つまり、彦五瀬様が慢心しているんじゃないかってことか?」


「そこまで申し上げるつもりはございません。ただ、用心するに越したことはないというだけです」


 椎根津彦の慎重な言葉を聞き、磐余彦はしばらく海の先へ目を向けた。


 今は彦五瀬の乗る船とは離れており、すぐに話をすることはできない。


「今は兄上とは船が別だから、ここでどうこう言っても仕方ないね。阿岐国に着いたら、私からそれとなく話してみるよ。油断だけはされないようにって」


「お願いいたします。ただ、彦五瀬様は本来、非常にお強い武人でございますし、戦場を知らない方でもございません。まっすぐで勇ましいご性格だからこそ、これほどの大軍を率いて東へ向かうとなれば、高揚されるのも無理のないことでしょう。私が少々心配しすぎているだけなら、それに越したことはございません」


 そこで椎根津彦は一度言葉を切り、船の進む東の方角へ視線を向けた。


「ですが、相手は三輪山です。あの国は何十年もの間、大きな戦で敗北を知らず、東の諸国を束ね続けてきた勢力でもあります。たとえ邇芸速日(にぎはやひ)が亡くなったとはいえ、決して軽く見るべき相手ではございません」


 その言葉に対し、日臣は腕を組みながら少し考えたものの、やはり納得しきれない様子で口を開いた。


「けどよ、三輪山が負け知らずだった最大の理由は、邇芸速日様がいたからじゃねえのか? 戦でも政でも、とんでもなく頭が切れる方だったって話だろ。けど、その邇芸速日様はもういないんだぜ。そこまで恐れる必要があるのかね」


 日臣の言葉に、磐余彦はすぐには答えなかった。


 邇芸速日は亡くなった。


 それはすでに疑いようのない事実であり、その死によって東西の均衡が崩れ、今回の東征が始まったと言ってもよかった。


 しかし磐余彦の胸に浮かんだのは、敵としての三輪山でも、これから始まる戦のことでもなかった。


 邇芸速日は伊邪那岐の孫であり、その跡を継いだ者たちもまた那岐の血を引く一族である。


 そして自分も同じように、那岐へ連なる子孫の一人だった。


 片方には三輪山に暮らす子孫がおり、もう片方には自分たち大倭壱国の一族がいる。


 その両者がこれから刃を向け合おうとしているのである。


 幼い頃から自分を導き、何度も悩みを聞き、いつも穏やかに見守ってくれたあの人が、この東征を知った時に何を思ったのだろうか。


 磐余彦は静かな瀬戸内の海を見つめながら、胸の内でそっと考えていた。


 ――那岐様は今、どんな思いでいるのだろう。




 宇佐の地へ到着した那岐は、まず女王日巫女の居所でもある宇佐の主祭殿へと足を運び、竹と浦を伴って長い階段を上がると、主祭殿の二階にて月読との面会を果たした。


 久しぶりに息子の顔を見ることができたことには安堵したものの、那岐が本当に会いたかった日巫女への面会は、この日も許されることはなく、理由を尋ねても月読はしきたりという事で、詳しい事情を語ろうとはしなかった。


 那岐としては納得できないものが残ったが、無理に押し通して日巫女の立場を困らせることも望んでおらず、結局その場では深く追及することなく引き下がった。


 その後、宇佐へしばらく滞在することを伝えると、月読が三人で暮らせる家を手配してくれたため、那岐は竹と浦とともにそこへ移り住み、東へ向かった磐余彦たちの報せを待ちながら日々を過ごすことになった。


 しかし宇佐で暮らし始めて数日もすると、那岐は町や市場、祭殿へ続く道の途中などで、日巫女を巡るさまざまな噂を耳にするようになった。


 かつては祭祀の折などに姿を見せていた女王が、長いあいだ人前へ姿を現していないことから、人々の間では不安と憶測が広がっていたのである。


「日巫女様は霊力を失われ、その影響で老いが始まっているらしい」


「いや、もうとっくに亡くなられていて、国が混乱しないよう月読様たちが隠しているのだ」


「有力な豪族に囚われて、どこか別の場所へ移されているという話もあるぞ」


 誰が言い始めたのかも分からない話が、人から人へ渡るたびに少しずつ形を変え、いつしか真実であるかのように語られていた。


 もちろん確かな証拠など一つもなく、互いに矛盾する噂さえ平然と並んでいたが、それほどまでに人々が日巫女の現在を知らず、女王が姿を見せないことへの不安を募らせている証でもあった。


 那岐も、そのような噂を何度となく耳にした。


 聞くたびに胸の奥には小さな不安が積み重なっていったが、それでも那岐は、日巫女に何か深刻なことが起きているのではないかという考えを認めたくなかった。


 姫は昔から誰よりも気が強く、どれほど苦しい時でも弱った姿を見せようとはしない子だったのだから、今回もきっと何か理由があって人前へ姿を出していないだけなのだと、自分自身へ言い聞かせるように考えていた。


 それでも、胸の奥に芽生えた不安までは消えてくれなかった。


 できることなら、ほんの少しだけでも顔を見たい。


 元気でいるのか、それだけでも確かめたい。


 那岐は誰にも口にはしなかったが、宇佐で日を重ねるほどに、ただ娘に会いたいという想いを強くしていった。




 そんなある日のこと、宇佐の町を歩いていた浦が、思い出したように那岐へ声をかけた。


「那岐様、そういえば私たちが前に宇佐にいた頃にはなかった社ができているんです。最近はずいぶん参拝する人も多いみたいですし、せっかくだから一緒に行ってみませんか?」


 突然の誘いに、那岐は少しだけ首を傾げながら浦を見た。


「社ですか……それは、何の神様を祀っているところなの?」


 すると隣を歩いていた竹が、以前どこかで耳にした話を思い出しながら答えた。


「たしか、植林を司る神様だと聞きました。林業や建築に携わる者たちを中心に信仰が広がっていて、最近では倭国の各地に同じ神様を祀る社が建てられているそうです」


「植林の神様……」


 那岐はその言葉に、なぜか小さな違和感を覚えたものの、その正体までは分からなかった。


 竹と浦が興味を示していることもあり、その日は三人で供え物を用意し、噂になっているという社へ参拝に向かうことにした。


 ほどなくして辿り着いた社は、浦たちが話していた評判から想像していたものより、ずっと小ぢんまりとした造りをしていた。


 豪華な飾りがあるわけでも、大勢の巫女や神官がいるわけでもなく、木々に囲まれた静かな一角に、素朴な社殿がひっそりと建っているだけである。


 ただ、その周囲にはまだ幹の細い若木が何本も植えられており、どれも丁寧に土を盛られ、倒れないよう支えまで添えられていた。


 社そのものよりも、その周囲に少しずつ森を育てようとしていることの方が、この場所では大切にされているようにも見えた。


 浦は辺りを見回したあと、少し拍子抜けしたように口を開いた。


「あれ? 最近すごく流行っているって聞いたわりには、思っていたより小さいのね」


 竹も社殿を眺めながら、真面目な顔で考え込んだ。


「植林や建築の神様だから、各地に社が増えているとはいっても、信仰している者が限られているのかもしれないわね。広く知られていても、こういうところは案外地味なのかも」


 二人がそんなことを話している間も、那岐は返事をしなかった。


 竹と浦の声が耳に入っていなかったのである。


 那岐の視線は、社の正面に掲げられていた神名へ釘付けになっていた。


 そこには、はっきりと書かれていた。


 ――五十猛命(いたけるのみこと)。


 その名を見た瞬間、那岐は足を止めたまま動けなくなった。


 五十猛は、那岐の孫だった。


 かつて巨大な身体で槍を振るい、父である須佐之男の背中を追い続け、やがて戦いを捨てて倭国中へ木々を植えて歩いた、あの五十猛である。


 目の前の小さな社では、その孫がすでに人ではなく、神として祀られていた。


 那岐は何も言えないまま、ただその場に立ち尽くしていた。


「那岐様?」


 竹が不思議そうに声をかけると、浦も姉の横から顔を覗かせるようにして、立ち尽くしたまま動かない那岐を見つめた。


「ん? どうかしました?」


 二人に呼ばれて、那岐はようやく我に返ったように小さく瞬きをしたものの、すぐには社から視線を離そうとはせず、そこに刻まれた名を確かめるように見つめたまま、どこか懐かしむような、それでいて寂しさを含んだ声で答えた。


「うん……この神様のことを知っていたからね」


「お知り合いだったのですか?」


 竹が尋ねると、浦も興味を示しながら一歩近づき、那岐の横顔を覗き込んだ。


「どのような方だったのです?」


 那岐はすぐには答えず、社の周囲に植えられた若い木々へ目を向けた。


 まだ幹も細く、枝葉も十分には広がっていない木々が風に揺れている姿を眺めているうちに、遠い昔の記憶が少しずつ蘇ってきたのか、やがて静かに口を開いた。


「五十猛はね、出雲の王だった須佐之男の息子で、とても強い武人だったんだ。身体も大きくて力も強くて、若い頃は父親の須佐之男に認めてもらいたい一心で、ずっと武芸を磨いていた子だったよ」


 須佐之男という名が出た瞬間、竹と浦は互いにわずかに視線を交わした。


 二人とも、那岐にとって須佐之男がどのような存在だったのか、その結末がどれほど重いものだったのかを知っていたため、それ以上軽々しく言葉を挟むことはせず、黙って続きを待った。


「でも、後年は戦うことをやめてね。倭のあちこちを歩きながら、木の種や苗を植えて回っていたんだ。山が荒れている場所を見つければ木を植えて、木が少ない土地なら何年も先のことまで考えて苗を残して……倭国中を緑の国にしたいって、そんなことを言いながらね」


 那岐の声は穏やかだったが、その言葉の端々には、懐かしさだけではない感情が滲んでいた。


 かつて戦場を駆け、父の背中だけを追い続けていた大男が、最後には土に手を入れ、小さな苗木を一本ずつ植えて回るようになった姿を思い出しているのだろう。


「それにね、五十猛は小さな頃の狭野とも会っていたんだよ。兄たちにいじめられて山の中で泣いていた狭野を見つけて、植えたばかりの桜を妖術で大きく育てて、花まで咲かせて慰めたことがあったんだ」


「狭野が……?」


 思わず浦が声を漏らすと、竹も驚いたように目を見開いた。


 自分たちが幼い頃から知っているあの狭野と、目の前の社に祀られている五十猛とが繋がっているなど、二人にはまったく想像していなかったことである。


 那岐はそんな二人の反応を見ながら、わずかに微笑んだ。


「それから私のところまで来てね。狭野にはまだ自分の道が見つかっていないから、どうか傍にいて導いてやってほしいって、ずいぶん熱心に頼まれたんだ。大きな身体で私を抱き上げながら必死になってお願いしてくるものだから、怖いやら困るやらで……でも、あの子らしい頼み方だったよ」


 懐かしい思い出を語っているうちに浮かんだ笑みは、ほんの一瞬で消えていった。


 那岐は再び社へ視線を戻し、そこに祀られた名を長いあいだ見つめた。


 自分の記憶の中では、五十猛はまだ土に汚れた大きな手で苗木を植え、立派な木になれよと笑っていたはずなのに、いつの間にか人々から神として祀られ、林業や建築に携わる者たちから祈りを捧げられる存在になっていた。


「そっか……神様になったのか……」


 ぽつりと漏れた声には、喜びとも悲しみともつかない感情が混じっていた。


 那岐はそのまま静かに肩を落とし、しばらく動こうとはしなかった。


 自分より先に逝った孫が、今では人々の暮らしを支える神として残っていることを誇らしく思う一方で、その本人がもうどこにもいないという事実だけは、どれほど長い年月を生きても慣れることがなかった。


 竹と浦は何も言わなかった。


 慰める言葉を探すより、今はただ傍にいる方がよいのだと二人とも分かっていたため、竹は那岐のすぐ横へ静かに立ち、浦も反対側から身を寄せるようにして、那岐の背中を挟むように寄り添った。


 那岐は二人の存在に気づいていたが、何も言わず、ただ目の前の小さな社と、その周囲で風に揺れている若い木々をいつまでも眺めていた。

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