十章 神武東征 三話 宗像にて
宗像の社へ到着した彦五瀬と磐余彦の一行は、案内を受けながら社の奥へと進み、やがてこの地の祭祀を預かる市杵島姫と対面することになった。
彦五瀬が宇佐で受けた命と、これから東へ向かう船団のために航海の安全を祈願してほしい旨を伝えると、市杵島姫は静かに話を聞き終え、柔らかな微笑みを浮かべながら頷いた。
「承知いたしました。航海の安全を祈願させていただきます」
穏やかな返事に彦五瀬が礼を述べる中、市杵島姫の視線がその隣に座っている磐余彦へと移った。
しばらくその顔を眺めていた市杵島姫は、昔を懐かしむように目を細める。
「久しぶりですね、磐余彦。大きくなられたものです」
「…………」
声を掛けられた磐余彦は、なぜかすぐには顔を上げることができなかった。
もちろん、市杵島姫を嫌っているわけではない。
それどころか一族の長として敬意を抱いているし、久しぶりに再会できたこと自体は喜ばしいはずだった。
それでも、どうしても彼女の顔を真正面から見ることができない理由が、磐余彦にはあった。
幼い頃のことである。
まだ物事を深く考えることもなく、思ったことをそのまま口へ出してしまっていた頃、市杵島姫を前にして、あろうことか『おばさん』と言ってしまったことがあった。
子供の失言といえば、それまでである。
まして今となっては随分昔の話なのだから、市杵島姫も忘れているだろうと考えたいところだったが、あの日の空気と、自分が口にしてしまった言葉だけは、磐余彦の記憶から妙に鮮明なまま消えてくれなかった。
そのため久しぶりに本人を目の前にすると、過去の失言が急に胸の奥から蘇り、磐余彦は気まずさを隠すようにわずかに視線を伏せた。
「こ、この度の航海安全の祈願、よろしくお願いいたします」
どうにかそれだけを口にして深く頭を下げたものの、普段より明らかに声が硬くなっていることを、磐余彦自身が一番よく分かっていた。
市杵島姫は、昔から受けた言葉を意外なほどよく覚えている性格だった。
もちろん、まだ幼かった磐余彦が口にした失言を本気で根に持っているわけではないが、久しぶりに本人を目の前にすると、少しくらい昔のことを思い出させても罰は当たらないだろうという悪戯心が湧いてきたらしい。
「今日は眠たくはなさそうですね。せっかくの大切な儀式ですから、途中で居眠りなどなさらぬようお願いいたしますね」
柔らかな笑顔とともに告げられた言葉を聞いた瞬間、磐余彦の頬が僅かに引きつった。
『覚えていたのか……もう忘れてくださいよ……』
幼い頃の失態を鮮明に思い出しながらも、その場で抗議できるはずもなく、磐余彦はどうにか平静を装って深く頭を下げる。
「も……もちろんでございます。そのような失礼は決していたしません」
普段ならもっと自然に返答する弟が、妙に肩を強張らせながら丁寧すぎるほど丁寧に答えているため、事情を知らない彦五瀬は不思議そうに横顔を覗き込んだ。
「どうした、磐余彦。さっきから妙に顔が固いぞ」
「いえ……その、別に何もございません」
「何もない顔には見えんがな。まさか、これから始まる祭祀に緊張しているのか?」
彦五瀬に悪気がないことは分かっているだけに、磐余彦は余計に返答へ困ってしまった。
この場で幼い頃に市杵島姫へ「おばさん」と言ってしまったなどと説明できるはずもなく、何とか話を逸らそうと頭を働かせた末、咄嗟にもっともらしい理由を口にする。
「その……市杵島姫様があまりにもお美しいので、少々緊張してしまいまして……」
「なるほど、そういうことか!」
彦五瀬は何の疑いも抱かず豪快に笑い、そのまま市杵島姫へ視線を向けると、弟の苦し紛れの言い訳を丁寧に補強してしまった。
「ははは、それなら仕方あるまい。たしかに市杵島姫様はお美しいからな。お前くらいの年頃なら緊張するのも無理はない」
「まあ、おほほ。彦五瀬様まで、そのようなことを仰って」
市杵島姫は袖で口元を隠しながら、いかにも上品そうに微笑んでみせた。
その笑顔には何一つ怒りなど浮かんでいない。
それどころか機嫌がよさそうにすら見えるというのに、磐余彦だけには、なぜだかその微笑みの奥に「昔のことはきちんと覚えていますよ」と言われているような気がしてならなかった。
結局、磐余彦は市杵島姫とまともに目を合わせることができず、何事もなかったかのように静かに視線を逸らした。
海を望む祭場で、東征軍の航海安全を願う祭祀が執り行われた。眼下には宗像の海が広がり、その先にはこれから彦五瀬たちが進む長い海路が続いている。
沖合には大小の船が波に揺られながら並び、浜辺には船頭や海人、兵士たちが整然と列を作って、祭場へ静かに頭を垂れていた。
船団を代表して祭壇の前へ進んだ彦五瀬は、宇佐で授けられた三種の神器を恭しく奉じると、そのまま深く頭を下げた。
これから率いる兵たちの命ばかりではなく、東へ向かうすべての船が無事に目的地へ辿り着けるよう、武人らしく真剣な面持ちで祈りを捧げている。
やがて祭場に鈴の澄んだ音が響き、市杵島姫が静かに歩み出た。
海から吹き上げる風が巫女装束の袖を柔らかく揺らす中、市杵島姫は祭壇の前で一礼すると、ゆるやかに両腕を広げて舞い始めた。
足運びにはほとんど音がなく、袖が風を含んで大きな弧を描くたび、海辺に集まった者たちの視線が自然とその姿へ吸い寄せられていく。
華やかさを見せるための舞ではなく、海を鎮め、船を守り、人々が無事に帰還することを願うための厳かな舞であり、その一つ一つの所作には長年祭祀を担ってきた者だけが持つ落ち着きがあった。
舞が終わると、清めの水と酒が用意され、市杵島姫をはじめとする巫女たちの手によって、これから出航する船へ順に振りかけられていった。
船頭や海人たちは船上で深々と頭を下げ、浜に控えていた兵たちもそれにならって一斉に頭を垂れる。
波の音と風の音だけがしばらく祭場を包み込み、長い航海を前にして浮ついていた兵たちの表情にも、これから大きな役目へ向かう者としての緊張が少しずつ宿っていった。
祭祀が滞りなく終わると、今度は東征に向けた本格的な準備が始まった。
宗像側ではあらかじめ命を受けていた兵が集められており、さらに航海に必要な船も複数用意されていた。
港では米や粟を詰めた俵が次々と運び込まれ、水を満たした容器、束ねられた矢、船を繋ぐための縄、傷んだ帆を補修するための帆布などが山のように積み上げられ、それらを兵や海人たちが手分けして各船へ積み込んでいく。
宇佐を出た時よりも明らかに大きくなっていく船団を眺めながら、彦五瀬は満足そうに腕を組んだ。
「なかなかの兵が集まっているではないか」
その声音には、大軍を預かる武人としての高揚が隠しきれずに滲んでいた。
磐余彦は港を行き交う兵たちを眺めながら、宗像で新たに加わった者たちと、自分たちが日向から率いてきた兵が混在していることへ意識を向けた。
兵の数が増えれば、それだけ戦力は高まるが、異なる土地から集められた者たちを一つの軍として動かすには、命令系統を明確にし、互いの役割を理解させなければならない。
「三輪山へ到達するまでに、部隊の編成を終えておかなければなりませんね。これだけ人数が増えれば、いざという時に命令が行き渡らなくなる恐れがあります」
「まあ、俺に任せておけ」
彦五瀬は頼もしげに笑い、港に並ぶ兵たちへ視線を向けた。
「これほどの兵を一度に率いる機会など、そうあるものではない。腕が鳴るというものだ。いや……正直に言えば、心が躍っている」
兄の顔には隠そうとしても隠しきれないほどの喜びが浮かんでおり、磐余彦はその姿を見ながら小さく笑った。
「承知いたしました。兄上にお任せいたします」
やがて補給を終えた船が一隻、また一隻と沖へ出て、それぞれ定められた位置へ並び始めた。
海上には先ほどまでとは比べものにならないほど多くの帆が浮かび、浜辺では最後の荷を運び込む者たちの掛け声が絶え間なく響いている。
その光景を前にした磐余彦は、しばらく何も言わず海を見つめていた。
宇佐で命を受けた時には、まだどこか現実味の薄かった東征という言葉が、今は目の前に広がる船団と、多くの兵たちの姿を伴ってはっきりと形を持っている。
これほどの人数が自分たち兄弟とともに海を渡り、阿岐や吉備を経て、遥か東の三輪山を目指すのである。
港を埋める人々の声と、風を受けて膨らむ帆を見つめながら、磐余彦は胸の奥で静かに思った。
本当に東征が始まるのだ、と。
磐余彦たちが東征へ向かったあとも、日向の暮らしそのものは以前と変わらず続いていたが、那岐にとってはどこか落ち着かない日々が続いていた。
朝になれば田畑を見回り、家の仕事を済ませ、竹や浦と食卓を囲む。
そんな穏やかな生活を送りながらも、ふとした瞬間には東の空へ目を向け、今頃あの子たちはどこまで進んだのだろうかと考えてしまう。
東征軍が宇佐を発ったことまでは分かっていたものの、それから先の動向は日向にはまだ何一つ届いていなかった。
そもそも知らせというものは、人から人へ、邑から邑へ渡りながら運ばれてくるものであり、遠く離れた土地で何かが起きても、それを知る頃には何日も、時には何十日も経っていることさえ珍しくない。
磐余彦たちが向かっている先が三輪山である以上、何事もなく旅が終わるとは那岐にも思えなかった。
邇芸速日が亡くなったとはいえ、その地には彼が長い年月をかけて築き上げた国があり、仕えてきた豪族たちがいて、何より大倭壱国に対して強い警戒心を抱いている者も少なくないはずだった。
戦にならず話し合いで終わってくれればよいと思う一方で、それほど簡単にはいかないだろうという不安も消えてくれない。
そんなある日、那岐は家の中で荷を整理していた竹と浦へ声をかけた。
「竹、浦、実は少し考えていることがあってね。二人にも相談したいのだけど、いいかな」
那岐がそう切り出すと、竹は手にしていた布を丁寧に畳んでから振り返り、いつもの生真面目な表情で姿勢を正した。
「はい、なんでございましょう」
その横では浦も手を止め、興味を示すように顔を上げる。
「相談ですか。もちろんですよ」
二人の返事を聞いた那岐は少しだけ迷うように視線を落としたあと、ゆっくりと言葉を続けた。
「磐余彦たちの動向が気になっているのだけれど、日向にいると、どうしても知らせが届くまで時間がかかってしまうでしょう。だからね、しばらく宇佐へ移ろうかと考えているんだ。あそこなら各地から人も集まるし、東へ向かった軍の知らせも、ここよりずっと早く入ってくると思うのだけれど……二人はどう思う?」
那岐としては、竹と浦の意見も聞いたうえで決めるつもりだった。
十二年も一緒に暮らしてきた家である。
磐余彦たちが巣立ったあとも三人で生活を続けてきた以上、那岐一人の都合だけで簡単に住む場所を変えるつもりはなく、二人がここに残りたいというのなら別の方法を考えるつもりでいた。
ところが竹は、那岐が最後まで言い終えるのを待っていたのが不思議なくらい、すぐさま身を乗り出した。
「行きます。すぐに引っ越しの準備を始めましょう」
「私も賛成。こんな古びた家にいたって、磐余彦様たちのことは何も分からないものね」
「……古びた家……」
那岐は地味に傷つき、思わず小さく呟いた。
確かに新しい家ではない。
自分たちで何度も柱を直し、雨漏りを塞ぎ、壊れた戸を取り替えながら使ってきた家なのだから、立派な館と比べれば古びて見えるのも仕方がなかったが、それでも長く暮らしてきた場所をあっさりそう評されると、胸の奥を小さく突かれたような気持ちになる。
そんな那岐の心情には気づかないまま、浦は早くも荷物の算段を始めていた。
「荷物、どのくらい持っていく? あんまり多いと大変だよね」
「普段使う衣だけでよいでしょう。向こうで必要になれば、その時に揃えればいいわ。余計な物まで持っていったら、運ぶだけで手間になるもの」
「それなら宇佐で新しい衣が欲しいな。せっかくだし、少し違う柄の物も見てみたい」
「浦、遊びに行くわけではないのよ。磐余彦様たちの知らせを得るために移るのでしょう」
「分かってるわよ。それと新しい衣が欲しいことは別でしょう?」
二人はもう宇佐へ移ることを前提に話しており、いつ出発するのか、何を持っていくのか、向こうではどのような暮らしになるのかと、次々に話を進めていった。
その様子を見ながら、那岐は少しだけ寂しく思った。
もっとも、それは二人が薄情だからではないことくらい分かっている。
竹も浦もまだ若く、これから先に待っている出来事へ心が向くのは当然のことであり、十二年前にこの家へやってきた幼い少女たちは、いつの間にか過去を懐かしむよりも、自分たちの未来へ目を向ける年頃になっていたのである。
それ自体は喜ばしいことであった。
それでも、あまりにも迷いなく引っ越しの相談を進められると、せめて一度くらい「この家を離れるのは寂しいですね」と言ってくれてもよいのではないかと思わずにはいられなかった。
数日後、持っていく物をまとめ、戸締まりも済ませ、いよいよ日向を離れる時がやってきた。
竹と浦は荷を確認しながら外で待っていたが、那岐だけはなかなか家から出ようとしなかった。
何か忘れ物があるわけではない。
ただ、最後にもう一度だけ見ておきたかった。
人のいなくなった家の中は、不思議なほど広く感じられた。
あれほど毎日のように声が響いていたのに、今は風が戸口から入り込み、床の上を静かに抜けていくだけである。
壁際には皆で使った机が残り、炊事場には何度も火を焚いた跡があり、柱の一部には子供たちがぶつけたり削ったりした細かな傷まで残っていた。
目を閉じれば、昔の光景がいくらでも蘇ってくる。
まだ幼かった子供たちを並べて文字を教えれば、椎根津彦だけは目を輝かせて木簡へ向かっているのに、その横では日臣が落ち着きを失い、大久米も無言のまま外へ視線を送り、気づけば誰かが座を抜け出して逃げようとしていた。
捕まえて連れ戻しても、しばらくすればまた誰かが立ち上がるものだから、勉学を教えているのか追いかけっこをしているのか分からなくなった日もあった。
春になれば皆を田へ連れ出し、自分も泥の中へ入りながら苗を植えた。
少しでも楽しく作業できるようにと田植え歌まで歌ってみせたものの、張り切りすぎた翌日には腰を痛め、子供たちから心配されるどころか笑われたことまで、今となっては懐かしい。
夕餉の支度を皆に任せた日には、浦が作った料理を口へ運んだ瞬間、誰もが一斉に黙り込んだこともあった。
食べられないほどではない、と自分へ言い聞かせながら箸を進める那岐の横で、竹は眉を寄せ、日臣は水を何度も飲み、大久米だけが無言で最後まで食べ続けていた。
夜になれば、今度は寝相の悪い子供たちとの戦いが待っていた。
せっかく毛布を掛けても、少し経てば誰かが蹴り飛ばし、別の誰かが隣へ転がり、また掛け直して自分の寝床へ戻った頃には、今度は反対側で毛布が床へ落ちている。
結局、まともに眠れないまま朝を迎えた夜も一度や二度ではなかった。
あの頃は大変だった。
毎日が騒がしく、思い通りにならないことばかりで、静かな時間が欲しいと思ったことさえ何度もあった。
けれど、いざその静けさだけが残されてみれば、あれほど欲しかったはずのものが、ひどく寂しいものに感じられる。
子供たちは大きくなった。
磐余彦は自ら館を持ち、妻を迎え、今では兵を率いて遠く東へ向かっている。
日臣も、大久米も、椎根津彦も、その傍で自分たちの役目を果たしている。
竹と浦も、八歳の少女ではなく、もう一人前の武人として自分の考えを持ち、自分の意思で歩いていける娘になった。
それこそ、自分が願ってきたことだった。
いつまでも庇護されなければ生きていけない子供ではなく、自ら考え、自ら働き、誰かを支えられる人間になってほしかった。
望んだ通りに育ったというのに、胸のどこかでは、もう少しだけ幼いままでいてほしかったなどという身勝手な気持ちまで湧いてくる。
「……できることなら、ずっとあのままでいたかったな」
誰に聞かせるでもなく、那岐は小さく呟いた。
けれど、時は戻らない。
戻らないからこそ、きっと大切なのだろう。
那岐は家の中をゆっくり見回し、その一つ一つを目に焼き付けるようにしてから、ようやく外へ出た。
そして振り返り、長く暮らした家をもう一度眺めたあと、戸へ手を掛ける。
静かに閉じられた戸が、かすかな音を立てた。
それだけで、一つの時代が終わったような気がした。
「那岐様、早く行きましょう」
少し離れたところから浦が笑顔で手を振り、竹も荷を抱えたままこちらを待っている。
「置いていきますよ」
「はいはい、今行くよ」
那岐はいつもの柔らかな笑みを返し、二人のもとへ歩き出した。
笑顔で新しい場所へ向かおうとする竹と浦の後ろを、那岐は一人だけ少し名残惜しそうに振り返りながらついていった。




