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【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見
十章 神武東征

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十章 神武東征 二話 東征命令

 彦五瀬(ひこいつせ)と磐余彦(いわれひこ)がそれぞれ兵を率い、宇佐へ向かったという知らせは、ほどなく日向にいる那岐の耳にも届いた。


 ただし、伝わってきたのは二人が兵を伴って出立したという事実だけであり、何のために宇佐へ呼ばれたのか、そこから先にどこへ向かうのかまでは分からない。


 磐余彦が自らの領地を離れ、それなりの兵を率いて宇佐へ赴いた以上、単なる挨拶や儀式とは考えにくく、那岐は事情を確かめるため、竹と浦を伴って鵜葺(うがや)の館を訪ねることにした。


 館へ到着すると、知らせを受けた鵜葺はすぐに那岐たちを奥へ通し、自ら立ち上がって迎えた。


「よくおいでくださりました、那岐様。ささ、こちらへ」


 鵜葺は当然のように上座を勧めたものの、那岐は困ったように微笑みながら手を振った。


「私はとっくに隠居した身だからね。このままでいいよ」


 そう言って近くの席へ腰を下ろすと、竹と浦もその後ろへ控える。


 鵜葺は一瞬ためらったものの、那岐が本気で上座を望んでいないと分かると、それ以上は勧めず、自らも向かいへ座った。


「左様で……それで、本日はどのようなご用件でしょうか」


「磐余彦が兵を率いて宇佐へ向かったと聞いてね。少し事情が知りたくなったんだ。一体、何があったの?」


 那岐の問いに、鵜葺は難しい顔を浮かべた。


「それが、出征であるとは聞いているのですが、肝心の行き先までは知らされておらんのです。彦五瀬と磐余彦には、兵を率いて宇佐へ参じるようにとの命が下っただけでして」


「兵を率いている以上、どこかへ戦を仕掛けるのでしょうけれど……そうですか」


 那岐はわずかに眉を寄せた。


 大倭壱国が軍を動かす理由はいくつも考えられるものの、宇佐へ一度兵を集めてから改めて命を下すという形を取った以上、それなりに大きな遠征になる可能性が高い。


 その様子を見ていた鵜葺は、少し迷ったあと、声を落として続けた。


「ただ、あくまで私の予想の範疇を出ませんが……おそらく、三輪山へ兵を向けるのではないかと考えております」


「え?」


 那岐は思わず顔を上げた。


「でも、三輪山には邇芸速日(にぎはやひ)がいるのに……」


 その名を口にした那岐の表情には、はっきりとした疑問が浮かんでいた。


 三輪山を中心とする東の勢力は、大倭壱国連合と並ぶほどの力を持っている。


 なかでも邇芸速日は、周辺の豪族をまとめ上げる政治力と、一度として大きな敗北を喫していない軍事的な実績によって、長年にわたり大倭壱国からの侵攻を思いとどまらせる抑止力となっていた。


 少なくとも邇芸速日が健在である限り、日巫女が簡単に三輪山へ兵を向けるとは、那岐には思えなかった。


 しかし鵜葺は、その疑問に答えるように静かに口を開いた。


「その邇芸速日は、先月亡くなったとのことです」


 その言葉を聞いた瞬間、那岐の表情が止まった。


 瞬きすら忘れたように鵜葺を見つめたまま、しばらく何も言わない。


 その変化はあまりにも明らかで、後ろに控えていた竹と浦もすぐに気づき、互いにわずかに視線を交わした。


 那岐にとって邇芸速日は、三輪山を治める大勢力の主である以前に、自ら文字を教え、書物を与え、成長を見守った孫であった。


 それでも那岐は、その場で感情を表に出そうとはしなかった。


 唇をわずかに開き、何かを言おうとして一度言葉を失ったあと、ようやく小さく息を吸う。


「そ、そうですか……」


 声が、ほんの少しだけ震えていた。


 那岐はそれを隠すように、普段と変わらない穏やかな表情を作ろうとした。


「ありがとう。教えてくれて……」




 家へ戻ってからの那岐は、いつになく口数が少なかった。


 竹や浦が何か話しかけても曖昧に笑うだけで、食事の間もほとんど箸を動かさず、二人と目を合わせようともしないまま、早々に自室へ引き上げてしまった。


 普段の那岐であれば、どれほど気落ちすることがあっても、少なくとも二人の前では穏やかな笑顔を見せようとする。


 それだけに、その日の沈みようはあまりにも分かりやすく、竹も浦も放っておくことができなかった。


 しばらく時間を置いてから、二人はそっと那岐の部屋を覗いた。


 声をかけても返事がなく、静かに戸を開けて中へ入ると、那岐は寝具の上で横になったまま眠っていた。


 ただ、その寝顔を見た瞬間、二人は思わず足を止めた。


 閉じられた瞼の端から、一筋の涙が頬を伝っていたからである。


 普段は何百年という歳月を生きてきた者とは思えないほど柔らかく笑い、何があっても自分たちを安心させようとしてくれる那岐が、誰にも見られない自室で泣きながら眠っている。


 その姿はあまりにも無防備で、竹と浦は顔を見合わせると、何も言わずその傍へ腰を下ろした。


 浦はしばらく迷った末、眠ったままの那岐の頭をそっと持ち上げ、自分の膝の上へ乗せた。乱れた長い黒髪を指先で優しく整え、そのままゆっくりと髪を撫で続ける。


 竹も反対側へ座り、いつもなら真っ直ぐ前を向いている那岐の顔を、心配そうな眼差しで静かに見守っていた。


 二人とも何か声をかけるべきか迷ったが、結局は起こさないことにした。


 今だけは何も考えず、少しでも穏やかに眠っていてほしいと思ったからだった。


挿絵(By みてみん)


 やがて、どれほど時間が経った頃だろうか。


 那岐の瞼がゆっくりと開き、まだ意識の定まらない様子で天井を見上げたあと、自分の髪を撫でている浦と、すぐ目の前に座っている竹の姿に気づいた。


 どうして二人がここにいるのか理解するまで少し時間がかかったらしく、那岐は何度か瞬きをしてから、自分の頭が浦の膝に乗っていることにも気づいた。


「……心配させてしまったかな」


 少し気まずそうに微笑みながらそう尋ねると、竹は呆れたような、それでいてどこか安心したような表情を浮かべた。


「あからさまに落ち込まれていましたから……あれで心配するなという方が無理です」


 竹の言葉に那岐は返す言葉を失い、小さく目を伏せた。


 その様子を見ながら、浦は那岐の髪を撫でる手を止めることなく、少しだけ顔を覗き込む。


「膝枕はお嫌ですか?」


 その問いかけに、那岐はしばらく浦の顔を見つめたあと、ようやくいつもの柔らかな表情を取り戻した。


「そんなことないよ。ありがとう」


 その返事を聞いて、浦は安心したように微笑み、竹もわずかに肩の力を抜いた。


 那岐も起き上がろうとはせず、そのまま浦の膝へ頭を預けながら、傍にいてくれる二人の温もりを静かに受け入れていた。


「邇芸速日様は、那岐様のお孫にあたる方だと聞いています。いったい、どのような方だったのですか?」


 竹にそう尋ねられると、那岐はすぐには答えず、遠い昔を思い出すようにしばらく視線を伏せていた。


「ん……あの子はね、幼い頃は身体が丈夫なわけでもなく、妖力を使えるわけでもなく、不老長寿の力を持っているわけでもなかったんだよ。須佐之男の子供たちの中では、自分だけが何も持っていないと思い込んでいてね。一族の中で自分は落ちこぼれなんだって、ずいぶん悩んでいた」


「でも、三輪山ではとても凄い方だったと聞いていますけど……」


 浦が不思議そうに首を傾げると、那岐は懐かしそうに微笑んだ。


「うん。須佐之男も、あの子のことを心配していたんだろうね。それで私のところへ相談に来て、しばらく面倒を見てやってほしいと頼まれたんだ。最初は文字や簡単な計算を教えるくらいのつもりだったのだけれど、少し接しただけですぐに分かったよ。あの子は、とても頭の良い子だった」


 那岐の声には、亡き孫を誇らしく思う気持ちが自然と滲んでいた。


「一度読んだ書物の内容をほとんど覚えてしまうだけじゃない。その意味を自分なりに考えて、ここはこうした方がいいんじゃないか、こういう場合なら別の使い方ができるんじゃないかって、教えたことをそのまま受け取らずに、もっと先まで考えようとするんだよ。だから私もだんだん面白くなってしまってね、文字や算術だけでは足りなくなって、政治や農業、大陸の歴史まで色々と教えるようになった」


「すごいですね……」


 竹が素直に感心すると、浦は少し考えてから、ふっと笑った。


「なんだか椎根津彦みたいですね。教えたことを覚えるだけじゃなくて、自分で考えて別のことまで思いつくところとか」


「ふふ、少し似ているかもしれないね」


 那岐はそう答えたあと、懐かしさを噛み締めるように目を細めた。


「そのうち、父親の役に立ちたいから兵法を学びたいと言い出してね。最初は簡単なものから教えていたんだけれど、それでは足りない、もっと読みたいと言われてしまって、六韜や三略、それに孫子まで探すことになった。兵法書は基本的に門外不出なので、賄賂を使ったり長年の取引相手に無理を言ったりして手に入れたよ、本当に苦労したよ。家にある兵法書はその時の写しが殆どなんだよ」


「那岐様も大変だったのですね」


「大変だったけれど、嬉しくもあったよ。何も持っていないと思っていた子が、自分には学ぶ力があると気づいて、それからは本当に夢中になって勉強していたからね」


 そう語る那岐の表情は穏やかだったが、その瞳には薄く寂しさが宿っていた。


「あの子は、誰かから力を与えてもらったわけじゃない。妖力がなくても、不老長寿でなくても、自分で学んで、自分で考えて、自分の道を切り開いていったんだよ。誇らしくとても立派な子でした」


 竹と浦はしばらく黙って那岐の横顔を見つめていたが、やがて竹が少しだけ不満そうな表情を浮かべた。


「でも那岐様、私たちだって那岐様の玄孫なのですからね」


「そうよ。邇芸速日様のことばかり、そんなに優しい顔でお話しされて」


 浦も冗談めかして口を尖らせると、竹は少し迷った末に、そのまま問いかけた。


「もし……私たちが先に死んでしまったら、那岐様も泣いてくださるのですか?」


 その言葉を聞いた瞬間、那岐の表情から笑みが消えた。


 ほんの冗談のつもりだったのだろうと分かっていても、その問いに軽く答えることだけはできなかった。


 何百年もの間、那岐は数え切れないほどの人を見送り続けてきたからこそ、竹と浦が口にした未来を想像することそのものが耐え難かったのである。


 しばらく何も言わなかった那岐は、やがて目の前にいる双子へ静かに手を伸ばし、竹の手と浦の手をそれぞれ包み込むように握った。


「……死ぬなんて、言わないでほしい」


 声はいつものように柔らかかったが、その言葉には冗談として受け流すことのできない切実さがあった。


 竹も浦も、そこで初めて自分たちが不用意なことを口にしてしまったのだと気づいた。


 那岐を悲しませるつもりなど少しもなかっただけに、二人は申し訳なさそうに視線を落としたが、それと同時に、自分たちを失う未来をこれほどまでに嫌がってくれることが、どうしようもなく嬉しくもあった。


 十二年ものあいだ傍で育ててもらいながら、それでも二人は時折、自分たちはあくまで護衛として預けられただけなのではないかと思うことがあった。


 しかし今、強く握られた手から伝わってくる温もりに触れながら、その不安は静かに消えていった。


 那岐にとって、自分たちはもう単なる護衛でも、遠い血縁の娘たちでもない。


 竹と浦はそう感じながら、握られた手を振りほどくことなく、ただ黙って那岐の傍に寄り添っていた。




 宇佐へ到着した彦五瀬(ひこいつせ)と磐余彦(いわれひこ)は、兵を宿営地へ留めたのち、揃って宇佐の宮へと赴いた。


 主祭殿の二階に設けられた広間へ通されると、その奥には月読が静かに鎮座していた。


 壱岐や対馬の海人族、伊予や瀬戸内海の諸国すら束ね、長年にわたって女王日巫女を支えてきた人物だけあって、その姿には自然と人を緊張させる威厳があり、二人は広間へ入るなり姿勢を正して深く頭を下げた。


「彦五瀬、磐余彦、よく参った」


「はっ」


「はっ」


 二人が揃って返事をすると、月読はしばらくその姿を見つめたのち、今回わざわざ日向から兵を率いて宇佐まで参じさせた理由を語り始めた。


「この度、そなたらに来てもらったのは、大きな戦になる可能性を想定してのことだ」


 彦五瀬はわずかに身を乗り出し、すぐに問い返した。


「それで、相手はどこでしょう」


 月読は余計な前置きをせず、ただ一言だけ答えた。


「三輪山だ」


 その名を聞いても、彦五瀬と磐余彦が驚くことはなかった。


 日向を発つ前から、三輪山の主であった邇芸速日(にぎはやひ)が亡くなったとの噂を耳にしており、この時期に軍を集める以上、出征先として最も可能性が高いのは三輪山であろうと予想していたからである。


 月読は二人の反応を確かめると、自らの傍らに置かれていた宝物へ手を伸ばした。


「まず、これを渡す。彦五瀬」


 呼ばれた彦五瀬が前へ進むと、月読は丁重に包まれた宝物を差し出した。彦五瀬は両手でそれを受け取りながら、その扱いが尋常ではないことを察して眉を寄せる。


「……これは」


「三種の神器だ」


 その言葉に、さすがの彦五瀬も表情を変え、傍らにいた磐余彦も思わず神器へ視線を向けた。


「これが噂の……」


 三種の神器は、大倭壱国の王権と権威を示す宝であり、単なる贈り物として遠征軍へ持たせるようなものではない。


 それを彦五瀬へ直接授けるということが何を意味するのか、二人にはすぐに理解できなかった。


 月読はそんな二人へ向け、今回の遠征に託された本当の目的を告げた。


「三種の神器を持ち東へ赴き、三輪山の一族の娘と婚姻し、その地の主となるべし」


 彦五瀬が黙って月読を見つめる中、意味を理解した磐余彦が確認するように口を開いた。


「つまり兄上が、天孫降臨をされると」


「その通りだ」


 月読は迷うことなく頷いた。


 この時代における天孫降臨とは、天上から神が地上へ舞い降りるという意味ではない。


 大倭壱国の王統に連なる男が土地の有力豪族の娘を娶り、その一族へ迎え入れられたうえで新たな支配者となる、婚姻を用いた政治的な統合を指していた。


 武力によって土地を奪い、既存の支配者を滅ぼすよりも、婚姻によって双方の血を結び付け、新たな親族関係を築きながら支配権を移していく方が、戦による損害も反発も少なくて済む。


 月読が彦五瀬へ三種の神器を授けたのは、単に軍を率いて三輪山を征服せよという意味ではなかった。


 三輪山の一族と婚姻を結び、その血統と権威を受け継いだうえで、東の地を治める新たな主となれ。


 それこそが、彦五瀬へ託された今回の出征における最大の役目だったのである。


 月読は二人の返答を確かめるように静かに頷くと、そのまま今後の行程について説明を続けた。


「まずは宗像にある社へ向かい、航海の安全を願う祈願の儀式を受けるがよい。すでに当地には各地から兵を集結させておるゆえ、そなたらが日向より率いてきた兵と合流し、そこで改めて東征軍として部隊を編成するのだ。その後は阿岐国を経て吉備国へ入り、瀬戸内を東へ進みながら三輪山を目指しなさい」


 月読の示した進路を頭の中で思い描いていた彦五瀬は、吉備国という名が出たところでわずかに眉を寄せた。


 阿岐国までは大倭壱国と関係の深い土地であり、軍勢を率いて通過することにも大きな問題はないと思われたが、吉備については事情が異なっている。


「しかし月読様、吉備国は大倭壱国連合には加わっていないはずでございます。そこへこれほどの兵を率いて入れば、向こうから侵攻と受け取られる恐れもありましょう。場合によっては、三輪山へ至る前に吉備との戦になりかねません」


 彦五瀬が率直に懸念を口にすると、月読は少しも動じることなく答えた。


「心配はいらぬ。吉備国は大倭壱国連合である」


 その言葉には彦五瀬だけでなく、傍らで聞いていた磐余彦も思わず月読の顔を見返した。


「吉備が……ですか? そのような話は一度も聞いたことがございません」


「聞いておらぬのも当然であろう。表向きには連合へ加わっていないことになっておるからな」


 月読はそう言うと、わずかに口元を緩めた。


「先代の吉備冠者との間で、必要な時が来れば大倭壱国へ協力するという密約を結んである。この日のために、長い年月をかけて仕掛けておいたからくりの一つよ」


 磐余彦は思わず息を呑んだ。今になって突然まとまった話ではなく、東へ勢力を伸ばすことを見越したうえで、月読たちははるか以前から瀬戸内沿岸へ布石を打っていたのである。


「では、我らが兵を率いて吉備へ入れば、その時点で吉備国は大倭壱国連合として協力するということでしょうか」


 彦五瀬が確認すると、月読はゆっくりと頷いた。


「そういうことだ。ただし、こちらに協力するからといって、吉備を従属国のように扱ってはならぬぞ。あれはあれで自らの国と民を持つ勢力であるから、礼を欠けばせっかく築いてきた関係を自ら壊すことになる」


「心得ました」


 彦五瀬が頭を下げると、月読はそのまま声をわずかに低くし、今度は三輪山への対応について念を押した。


「それと彦五瀬、三輪山へ向かう間も使者を絶やすでない。こちらの目的は三輪山を焼き払い、民を奪うことではないのだ。可能な限り交渉によって話をまとめ、現地の一族との婚姻をもって天孫降臨を成し遂げるよう努めよ。戦は最後の手段であると心得、避けられる戦であるならば、できる限り避けなさい」


「承知いたしました。まずは使者を送り、話し合いによる決着を目指します」


 彦五瀬の返答を聞いた月読は、次に磐余彦へ視線を向けた。


「磐余彦、そなたも兄をよく支え、このたびの大役を無事に果たすのだ。兵を率いるだけが役目ではない。兄が前へ進みすぎる時には止め、迷った時には力となり、二人で東征軍を導きなさい」


「承知いたしました。微力ながら、兄上をお支えいたします」


 二人の返事を聞いた月読はしばらく満足そうに眺めていたが、やがて傍らに控えていた者へ合図を送り、さらに二つの品を運ばせた。


「それと、これも持っていくがよい」


 二人の前へ差し出されたのは、丁寧に畳まれた二旒の旗であった。


 一方には陽光を思わせる金色の円が大きく描かれ、もう一方には夜空に浮かぶ月を思わせる銀色の円が描かれており、どちらも遠目からでもはっきりと見分けられるほど鮮やかな意匠となっている。


 月読はその二つを見下ろしながら告げた。


「日之御旗と月之御旗だ」


 彦五瀬は近くで旗の織りと意匠を確かめ、感嘆したように息を漏らした。


「これは見事な御旗でございますな。これほど目立つものであれば、遠くからでも我らの軍勢だと分かりましょう」


 磐余彦も二つの旗を見比べながら、その意味をすぐに察した。


「日之御旗は日巫女様を、そして月之御旗は月読様を表しているのでございますね」


「うむ。日は姉上を、月は儂を示す。日之御旗は大倭壱国の女王の威を示し、月之御旗は海と瀬戸内を束ねてきた儂の軍旗でもある。二つを掲げて進めば、沿岸の国々にも誰の命を受けた軍であるか一目で伝わるであろう」


 月読はそこで一度言葉を切ると、彦五瀬と磐余彦を交互に見つめた。


「この二旒を預ける以上、そなたらには大倭壱国を背負って東へ赴いてもらうことになる。大軍を率いるからといって驕ることなく、無用な争いを起こさず、必ず役目を果たして戻ってまいれ。頼んだぞ」


 彦五瀬と磐余彦は姿勢を正すと、ほとんど同時に深く頭を下げた。


「はっ」




 主祭殿を出た彦五瀬と磐余彦は、先ほどまで月読から告げられていた命令の重さを噛み締めながら、しばらく言葉少なに廊下を歩いていた。


 単なる出征ではなく、宗像でさらに兵を集め、阿岐国と吉備国を経由しながら三輪山を目指す大遠征であり、しかも彦五瀬には三種の神器まで託されている。


 これほど大掛かりな軍事行動になるとは、二人とも宇佐へ向かう時点では考えていなかった。


「今回の出征は、長くなりそうですね」


 磐余彦が先に口を開くと、彦五瀬も歩みを止めることなく頷いた。


「宗像にも兵を用意してくださっているという話だったな。どれほど集まっているのかは分からんが、俺たちが連れてきた兵と合わせれば、相当な数になるだろう」


「阿岐国でも兵を募るのでしょうし、三輪山へ着く頃には、今まで率いたことのないほどの大軍になっているかもしれませんね」


 そう言われると、彦五瀬はどこか楽しげに口元を緩めた。


 武人として育ってきた彼にとって、大軍を任されるという話には緊張だけでなく、高揚を覚えるところもあるのだろう。


 しかし、その表情はすぐに別の意味を帯びた。


「それにしても……俺の婚姻の話がいつまで経っても出てこなかったのは、今回の東征を想定していたからだったのかもしれんな」


 彦五瀬は少し遠い目をしながら呟いた。


 大倭壱国の王族ともなれば、成人してから婚姻の話が持ち上がっても不思議ではない。


 それでも彦五瀬には具体的な縁談が進められてこなかった。


 その理由が、三輪山の一族との婚姻を前提にしていたからなのだとすれば、これまでの不自然さにも説明がつく。


 磐余彦はそんな兄の横顔を見たあと、少しだけ悪戯っぽく笑った。


「そのようですね。せっかく遠くまで出向くのですから、美しい姫だとよいですね」


 彦五瀬は一瞬だけ目を丸くし、それから苦笑した。


「こいつ、からかうな」


 そう言うなり、彦五瀬は歩きながら磐余彦の頭を軽く小突いた。


「いたっ。何をするのです、兄上」


挿絵(By みてみん)


「お前が余計なことを言うからだ。それより自分はすでに妻を迎えているからと、随分余裕そうではないか」


「そのようなつもりではありません。ただ兄上にも、よいご縁があればと思っただけです」


「よく言う」


 彦五瀬は呆れたように笑ったが、その声には怒気などまるでなかった。


 これから先に待ち受けているものが容易な道ではないことを、二人とも十分に理解している。


 それでも今だけは、遠征へ向かう兄弟として、昔と変わらない軽口を交わすことができた。


 重い命を背負ったばかりでありながら、二人の間にはまだ、これから先も当然のように並んで歩いていけるという空気が残っていた。

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