十章 神武東征 一話 宇佐招聘
西暦二百四十八年初頭。磐余彦が父のもとを離れ、自らの館と領地を任されてから、すでに三年の歳月が流れていた。
幼い頃には兄たちにからかわれるたびに山へ逃げ込み、悔しさを堪えきれず涙を流していた少年も、今では一つの領地を預かり、人々の暮らしと兵を背負う立場となっている。
まだ若さの残る年齢ではあったが、自ら判断を下し、その結果に責任を負わなければならない日々を過ごすうちに、かつての泣き虫皇子と呼ばれていた頃の面影は少しずつ薄れ始めていた。
その年、竹と浦は十九歳となり、二人ともすでに護衛として十分に一人前と呼べる力量を身につけていた。
椎根津彦は十八歳となり、武よりも知略と政務の才を伸ばしながら、磐余彦を支える者として確かな存在感を示すようになっている。
そして磐余彦、日臣、大久米の三人も十七歳となり、それぞれ異なる得意分野を持ちながらも、幼い頃から共に学び、鍛え、失敗を重ねてきた仲間として強い結びつきを築いていた。
まだ誰も、自分たちがこれから向かう先を知らなかった。
それでも、この年の初めに届いた一つの命が、磐余彦たちの人生だけではなく、倭国そのものの行く末を大きく変えることになる。
女王日巫女の名のもとに下された命令は、彦五瀬と磐余彦に兵を率いさせ、宇佐の宮へ参じさせるというものであった。
鵜葺の館には、彦五瀬と磐余彦の兄弟が揃って呼び出されていた。
父から二人同時に呼び出されること自体は珍しいことではなかったが、この日は館へ入った時からどこか空気が違っていた。
鵜葺は普段のような世間話を挟むこともなく、二人が席へ着いたことを確かめると、やや険しい表情のまま本題を切り出した。
「出征の話があった」
その一言に、彦五瀬の表情がわずかに変わった。
「出征? どこを攻めるのでしょうか?」
戦と聞けばまず相手を確かめるのが武人として当然であったが、鵜葺はすぐには答えず、困ったように顎へ手を添えた。
「それが、儂にも知らされておらん。ただ出征命令だけが届いたのだ」
「行き先も分からぬまま、ですか」
彦五瀬が眉を寄せる傍らで、磐余彦は父の言葉を聞き逃すまいと静かに姿勢を正した。
「内容を詳しくお教えください」
「うむ。命じられておるのは、そなたら二人がそれぞれ兵を率い、宇佐の宮へ参じることだ。つまり女王日巫女様のもとへ兵を伴って向かえということになる。ただし、そこから先、どこへ向かうのか、誰を相手にするのかまでは何も聞かされておらん」
兵を伴って宇佐へ参じる以上、単なる挨拶や儀礼でないことは明らかだった。彦五瀬は少し考え込んだあと、腕を組みながら口を開いた。
「宇佐で正式な命令が下るのでしょうが……随分と伏せられた命令ですな」
「そういうことになるだろうな」
磐余彦もまた考えを巡らせていたが、そこで別の疑問が浮かんだ。
「そもそも、何故、兄上と私なのでしょうか。兵を率いる者なら他にもおります」
鵜葺はその問いに対して、今度はすぐに答えた。
「近年は大きな戦もなかったからの。それに、そなたら兄弟は先の戦で随分と名を上げた。今では大倭壱国の中でも、若き英雄として名が知られておるそうだ」
磐余彦としては、英雄と呼ばれることにはまだどこか居心地の悪さがあったが、隣にいる彦五瀬はそれほど気にした様子を見せなかった。
それよりも別のことが気になったらしく、先ほどから考え込んでいた表情のまま、低い声で呟いた。
「ひょっとして……三輪山の邇芸速日が亡くなったという噂は、本当なのかもしれません」
その名が出た瞬間、部屋の空気がわずかに重くなった。
鵜葺は二人の顔を順に見てから、ゆっくりと頷いた。
「その噂は本当だ。三輪山の主、邇芸速日は先月、病で亡くなったそうだ」
磐余彦は思わず息を呑んだ。
邇芸速日は、単に一つの土地を治める豪族ではない。
三輪山を中心として近畿一帯をまとめ上げ、さらに東国の諸国にまで強い影響力を及ぼしていた大勢力の主であり、その力は大倭壱国連合と並び立つほどのものであった。
戦では一度も敗れたことがないとも言われ、政治においても周辺の豪族たちを巧みにまとめながら長年にわたり均衡を保ち続けていた人物である。
その邇芸速日が亡くなった。
それだけで、倭国全体の力関係が大きく動く可能性があった。
「それで出征すると?」
磐余彦が慎重に尋ねると、鵜葺はすぐには断定せず、ゆっくりと首を振った。
「まだ確定したわけではない。だが、可能性は高いと儂も見ておる。邇芸速日が健在であった間、大倭壱国も三輪山へ軽々しく手を出すことはできなかった。それほどまでに、あの男の存在は大きかったからの」
彦五瀬は黙ったまま鵜葺の話を聞いていたが、その目にはすでに戦へ向かう武人の緊張が宿り始めていた。
鵜葺はそんな二人を見ながら、最後に念を押すように告げた。
「いずれにしても、今は命令に従うしかあるまい。二人とも、それぞれ兵を集めて宇佐へ向かえ。留守の間は儂がそなたらの領地と館を預かっておくゆえ、後ろのことは気にするな」
彦五瀬と磐余彦は一度だけ顔を見合わせた。
まだ行き先すら知らされてはいない。
それでも兵を率いて宇佐へ参じよという命令が下った以上、何か大きな動きが始まろうとしていることだけは疑いようがなかった。
二人は揃って姿勢を正し、父へ深く頭を下げた。
「はっ」
兄弟の声が重なり、静かな館の中へ力強く響いた。
磐余彦の館では、日臣、大久米、椎根津彦の三人に加え、妻の吾平津媛も席についていた。
突然の出征命令について磐余彦から一通り説明を聞き終えたところで、日臣が真っ先に反応した。
「邇芸速日が亡くなった?」
驚きの混じった声に、磐余彦は静かに頷いた。
三輪山の主が病で亡くなったという話は、もはや単なる噂ではなく事実であるらしい。
それと時を同じくして兵を率い宇佐へ参じるよう命じられたとなれば、二つを無関係と考えるほうが難しかった。
椎根津彦も事情を頭の中で整理しながら、小さく息を吐いた。
「なるほど……それで出征ですか。時期を考えれば、確かに関係している可能性は高そうですね」
そのやり取りを聞いていた吾平津媛は、聞き慣れない人物について確かめるように磐余彦へ視線を向けた。
「その方は、どのような方だったのでしょうか?」
「ああ……姫は知らないよね」
磐余彦は少し考えてから、できるだけ分かりやすく説明することにした。
「邇芸速日は三輪山を中心に近畿の国々をまとめて、さらに東の諸国にも大きな影響力を持っていた方だよ。単に一つの国を治めていたというより、いくつもの豪族や国々を束ねていた大勢力の主と言ったほうが近いかな」
「しかも、生涯一度も戦で負けたことがなかったとか」
日臣が感心したように腕を組んだ。
「俺は戦の天才だと聞いてます。何度も戦場に出て、それでも一度も負けなかったっていうんですから、とんでもない人ですよ」
すると椎根津彦が、わずかに首を振りながら言葉を継いだ。
「私はむしろ、戦以上に政治のほうが恐ろしい方だったと思っています。戦に勝つだけなら優れた武人にもできますが、その後に東の豪族たちを束ね、長いあいだ大きな争いを起こさせず、我々大倭壱国連合と並ぶほどの勢力を築いた。その統治力こそ、邇芸速日という方の本当の強さだったのでしょう」
それまで黙って話を聞いていた大久米が、そこで静かに口を開いた。
「那岐様の孫でもあられる」
短い言葉だったが、その一言で磐余彦の表情が曇った。
「そうだね……」
磐余彦にとって、それは決して無視できないことだった。
邇芸速日は、自分が幼い頃から世話になり、今も深く敬愛している伊邪那岐の実の孫である。
もし今回の出征先が本当に三輪山なのだとすれば、那岐にとっては自らの子孫同士が争うことになる。
「もし、本当に三輪山への出征であれば……那岐様は悲しまれるだろうな……」
磐余彦がぽつりと漏らすと、それまで静かに夫の話を聞いていた吾平津媛が、不安そうな表情を浮かべた。
「今回の出征は……いつ頃、お戻りになられるのでしょう?」
その問いには、磐余彦もすぐに答えることができなかった。
「分からないんだ。今のところ命じられているのは、兵を率いて宇佐へ参じろということだけだから。どこへ向かうのかも、どれだけの兵が集められるのかも、宇佐に着いてからでなければ分からない」
吾平津媛の表情から不安が消えることはなかったが、磐余彦自身にも安心させられるだけの材料がない以上、無責任に早く帰るとは言えなかった。
少し重くなった空気を切り替えるように、日臣が膝へ手をついて身を乗り出した。
「いずれにしても、兵を率いて宇佐へ向かうことだけは決まっております。なら俺は兵の準備に取りかかります」
「そうですね。ただ、まだ三輪山と決まったわけではありません。今の段階で相手を決めつけて準備するのは避けたほうがよいでしょう」
椎根津彦の慎重な意見に、磐余彦も頷いた。
「そうだね。今は何が命じられても動けるようにしておこう。日臣には軍の編成を任せる。出せる兵の数を確認して、部隊ごとにまとめておいてくれ」
「承知いたしました」
日臣は迷うことなく頭を下げた。
「椎根津彦は兵糧と装備、それから遠征に必要になりそうな物資の準備を頼む。行き先が分からない以上、少し余裕を持たせて考えてほしい」
「心得ました。兵数が定まり次第、必要な量を算出いたします。長期の遠征となる可能性も考えて準備しておきましょう」
すでに椎根津彦の頭の中では、米や粟だけでなく水、縄、武具の予備、矢の本数に至るまで必要な物資の計算が始まっているようだった。
磐余彦は続いて大久米へ目を向ける。
「大久米は兵たちの装備を一つずつ確認してくれ。遠征先で武具が壊れてからでは遅いから、槍も弓も盾も、使える状態か確かめてほしい」
大久米はいつものように多くを語らず、力強く頷いた。
その返事だけで、確実に役目を果たしてくれることが磐余彦には分かっていた。
三人への指示を終えると、磐余彦は最後に吾平津媛へ向き直った。
「姫、留守を頼みます」
吾平津媛は夫の顔をじっと見つめていたが、やがて不安を押し込めるように柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。こちらのことは心配なさらず、どうかお役目を果たしてきてください。無事のお帰りをお待ちしております」
「ありがとう」
磐余彦も小さく微笑み返した。
かつて兄たちにからかわれては山へ逃げ込み、悔しさに耐え切れず泣いていた狭野は、もうここにはいなかった。
今では自らの館を持ち、妻を娶り、兵を預かり、出征の命を受ければ家臣たちへそれぞれの役目を与える立場となっている。
泣き虫だった皇子は、いつの間にか一人の大倭壱国の王族として、人々を率いる青年へと成長していた。
数日後、港には彦五瀬と磐余彦がそれぞれ集めた兵が続々と集結し、岸辺には武具や兵糧を積み込む者たちの声が絶え間なく響いていた。
何艘もの船が沖合まで並び、帆や櫂の確認をする海人たちも忙しく動き回っており、まだ行き先すら知らされていないというのに、これから始まる出征が決して小さなものではないことだけは、その光景を見れば誰の目にも明らかだった。
出航の準備がほぼ整った頃、彦五瀬は自らの船へ乗り込む前に、隣で兵たちの様子を確かめていた磐余彦へ歩み寄った。
「今回の戦は長くなるかもしれんな。別れは済ませてきたか?」
普段と変わらぬ調子で問われ、磐余彦は港の向こうに広がる日向の土地へ一度だけ目を向けてから、小さく頷いた。
「はい。でも、生きて戻るつもりですから、あまり大袈裟な別れにはしていません」
「それはそうだ」
彦五瀬は笑いながら答えたものの、すぐに少し羨ましそうな表情を浮かべて磐余彦を見る。
「俺はまだ嫁も貰っていないからな。こうして出征する前に帰りを待ってくれる者がいるお前が、少し羨ましいぞ」
「兄上の婚姻については、日巫女様が長く差し止めていたと聞いたことがあります」
磐余彦は以前から気になっていたことを思い出し、声を少し落とした。
「もしかすると、そのことも今回の出征と何か関係しているのでしょうか」
彦五瀬も同じ疑問を抱いていたのか、すぐには答えず、沖に並ぶ船団を眺めながらしばらく考え込んだ。
「分からん。俺にも何も知らされていないからな。ただ、わざわざ俺たち兄弟に兵まで率いさせて宇佐へ来いという命令だ。何の意味もないとは思えん」
彦五瀬はそこで磐余彦へ視線を戻し、肩を軽く叩いた。
「いずれにしても、宇佐へ行けば分かることだ。それまでは余計なことを考えても仕方あるまい」
「はい。兄上が大将として命を受けられるのであれば、私は精一杯お支えいたします」
その言葉を聞いた彦五瀬は満足そうに笑った。
「頼りにしているぞ、磐余彦」
二人は短く頷き合うと、それぞれ自らが率いる兵のもとへ戻っていった。
やがて岸と船を繋いでいた綱が外され、櫂が一斉に海面へ差し込まれると、船団はゆっくりと港を離れ始める。
磐余彦は船上から遠ざかっていく日向の山々を見つめていたが、この時の彼には、これが故郷を目にする最後になるとは知る由もなかった。
彦五瀬もまた、これから先に待ち受ける運命を知らぬまま、弟とともに宇佐を目指して東への第一歩を踏み出していた。
この何気ない出征は、やがて倭の国々を大きく揺り動かす長大な遠征へと姿を変え、後の世に「神武東征」と呼ばれることになる。
そしてこの日を境に、彦五瀬も磐余彦も、生涯二度と日向の地へ戻ることはなかった。




