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【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見
九章 神武

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九章 神武 二十三話 巨星落ちる

 西暦二百四十八年、磐余彦が日向の地で自立してから、すでに三年の歳月が流れていた。


 年が明けて間もない纏向(まきむく)の宮は、冬の冷気に包まれ、いつもなら人の出入りが絶えることのない館も、この日ばかりはひどく静まり返っていた。


 その一室で、長きにわたって三輪山を治めてきた邇芸速日(にぎはやひ)が、病の床に伏していた。


 かつては戦場に立ち、幾度もの戦を勝ち抜き、纏向の宮から広大な土地を治めてきたその身体にも、もはや往年の力は残されておらず、自ら上体を起こすことさえかなわないほどに衰えていた。


 何度も病を患いながら、そのたびに持ち直してきた邇芸速日であったが、今回ばかりは様子が違っており、本人もまた、自らに残された時間がわずかであることを悟っていた。


 静かな寝台の傍らには、息子であり、すでに三輪山の当主を継いでいる宇摩志麻遅(うましまじ)が座り、その少し後ろには、長きにわたり邇芸速日を支えてきた安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)が控えていた。


 三人ともほとんど言葉を発することなく、わずかに上下する邇芸速日の胸元を見つめながら、その細くなった呼吸の音だけに耳を澄ませていた。


「そろそろ儂の番のようですな」


 邇芸速日は、静かにそう口にした。その声には死を恐れる響きも、自らの運命を嘆く色もなく、まるで長く続けてきた役目をようやく次の者へ渡す時が来たのだと告げるような、穏やかな響きだけがあった。


「何をおっしゃるのですか。この程度の病、治りますとも」


 長髄彦はすぐさま否定したが、その言葉にいつもの力強さはなかった。


 邇芸速日が日に日に衰えていることも、もはや自力で身体を起こすことさえ難しくなっていることも、誰より近くで見てきた長髄彦自身がよく分かっている。


 それでも、目の前にいる男が死ぬという現実だけは、どうしても受け入れることができなかった。


 長髄彦にとって邇芸速日の存在は、いつしか主君という言葉だけでは収まらず、信仰に近いものへと変わっていた。


 最初に出会った時、二人は敵同士であり、長髄彦は自らの軍勢を率いて邇芸速日と戦い、完膚なきまでに叩きのめされた。


 それでも命を奪われることはなく、やがて妹を嫁がせて義弟となり、その後は主君として仕え、気がつけば半世紀以上もの歳月を共に歩んできた。


 戦場では敵の策を見抜き、政では先を読み、敗者をいたずらに踏みにじることもなく、必要とあれば自ら責任を引き受ける。


 長髄彦の目に映る邇芸速日は、あまりにも大きく、あまりにも完成された存在だった。


 若き日に敗北を喫した相手は、いつしか背中を追い続ける主となり、その長い年月の中で、長髄彦自身も気づかぬうちに、邇芸速日のいる三輪山こそが変わることのないものだと思うようになっていた。


「無茶を言うな。儂はもう立つことすらできぬ」


 邇芸速日は苦笑するように言った。その言葉に長髄彦は何も返せず、ただ唇を固く結んだまま、床に伏す主君を見つめ続けた。


「宇摩志麻遅を頼む」


 そう告げられても、長髄彦は返事をすることができなかった。


 その頼みを受け入れてしまえば、邇芸速日がもうすぐこの世を去ることまで認めてしまうように思えたからである。


 長髄彦は黙ったまま拳を握りしめ、その大きな身体をわずかに震わせていた。


 邇芸速日はそれ以上返事を求めることなく、今度は安日彦へ視線を向けた。


「安日彦……長く世話になった」


「とんでもございません。あなたのような名君にお仕えできて、幸せでございました」


 安日彦は深く頭を下げた。長髄彦のように感情を表へ出す男ではなく、これまで邇芸速日に対する敬愛を声高に語ることもなかったが、その胸に抱いているものは決して小さくなかった。


 弟と共に邇芸速日に敗れ、その後は新たな秩序を築くために仕え続け、気がつけば同じ道を歩んで半世紀以上もの年月が過ぎていた。


 その長い歳月の中で、国が変わり、人が変わり、幾度となく困難が訪れた。


 それでも邇芸速日は常に三輪山の中心に立ち、自ら考え、自ら決断し、人々を導き続けてきた。


 安日彦にとって、そのような為政者と同じ時代を生き、その傍らで国造りに携われたことは、何物にも代えがたい誇りとなっていた。


「宇摩志麻遅」


 父に名を呼ばれ、宇摩志麻遅は枕元でわずかに身を乗り出した。


「はい……」


 邇芸速日は息子の顔をしばらく見つめていたが、その眼差しには、これまで三輪山を支えてきた当主としての厳しさよりも、一人の父親として息子を見守る穏やかさが浮かんでいた。


「そちは三輪山の当主だ。これからは儂に遠慮することはない」


 宇摩志麻遅はその言葉を聞くと、すぐに返事をすることができず、やがて視線を落としたまま、絞り出すように答えた。


「当主ではありますが、所詮は親の七光りでございます。私など、父上のお力がなければ……」


「当主の座を渡して十年もたっておるのに、まだそんなことを言うでない」


 邇芸速日は呆れたように言ったものの、その声に責めるような響きはなく、むしろいつまでも自分を大きく見過ぎる息子を案じているようであった。


「ですが、父がおられたからこそ、今の三輪山があります。私が当主を名乗ることができているのも、父上が築いてくださったものを受け継いでいるからに過ぎません」


 宇摩志麻遅にとって、それは謙遜ではなかった。


 纏向の宮を築き、周囲の国々をまとめ、争いの絶えなかった土地に秩序をもたらしてきた父の姿を、幼い頃から誰よりも近くで見てきたからこそ、自らがその後を継ぐことへの重圧を長く抱え続けていたのである。


 邇芸速日はそんな息子の胸中を見透かしたように、ゆっくりと言葉を続けた。


「なあ、宇摩志麻遅よ。儂は政治思想の違いから、大倭壱国とは組まなんだが、それは儂が自分で考え、自分で選んだ道だ。だからといって、お主まで同じ道を歩まねばならぬ理由はない」


 邇芸速日は、大倭壱国の女王である日巫女の能力を決して軽んじてはいなかった。


 むしろその知性も、国々をまとめ上げる政治力も、長きにわたって倭国を導いてきた手腕も高く評価しており、彼女自身が極めて優れた為政者であることについて疑うところはほとんどなかった。


 それでも邇芸速日が最後まで大倭壱国と歩みを同じくしなかったのは、日巫女個人への不信があったからではなく、神託を政治の頂点に置くその仕組みそのものに危うさを感じていたからである。


 日巫女ほど聡明で、自らを律することのできる者が常に後を継ぐとは限らず、神の言葉を名乗る者が現れれば、その言葉を確かめる術を持たない民は従うほかなくなり、やがて反対する者を神意に背く者として退ける時代が来るかもしれないと、邇芸速日はその先を恐れていた。


 だが、その考えすらも息子に受け継がせようとはしなかった。


「お主には、お主の考えがあるはずだ。儂が大倭壱国と組まなんだから、お主も組んではならぬなどと思う必要はないし、反対に儂の考えを捨てねばならぬということでもない。三輪山を預かる者として、自分の目で見て、自分の頭で考え、そのうえで信じる道を進みなさい」


「父上……」


 宇摩志麻遅は父の顔を見つめたまま、それ以上の言葉を失った。


「お前も、もう十分よい年ではないか。いつまでも父の背中だけを見て歩くでない。儂が正しいと思ったことでも、お前が違うと思うのであれば従う必要はないし、儂が選ばなかった道であっても、お前が三輪山のためになると思うのであれば選べばよい。これから先は、お前自身が考え、そして信じる道を進みなさい」


 父の言葉を一つ一つ胸に刻むように聞いていた宇摩志麻遅は、しばらく俯いていたが、やがて静かに顔を上げた。


「わかりました……父上には遠く及びませんが、私なりに考え、三輪山を守るために務めさせていただきます」


 その返事を聞いた邇芸速日の表情が、ほんのわずかに和らいだ。


 そして邇芸速日は布団の上からゆっくりと右手を持ち上げ、宇摩志麻遅へ向けて差し出したため、宇摩志麻遅はその痩せ細った手を両手で包み込むように握りしめた。


 続いて邇芸速日は残された力を振り絞り、反対側に控えていた安日彦と長髄彦へ左手を差し出した。


 その手が伸ばされた瞬間、長髄彦は堪えきれないように身を乗り出して強く握りしめ、その上へ安日彦がゆっくりと自らの手を重ねた。


挿絵(By みてみん)


 息子と、長い年月を共に歩んできた者たちの手に触れながら、邇芸速日は天井を仰ぐようにわずかに顔を上げた。


「やれることは、全てやった。随分と長く生きたものだし、思えば好き勝手にやらせてもらった。国を治め、戦もして、人とも争い、それでも最後まで自分の考えを曲げずに生きることができたのだから、もう十分満足だ……」


 その言葉を最後に、邇芸速日の胸はゆっくりと上下することをやめ、それまで宇摩志麻遅たちの手をわずかに握り返していた指からも、静かに力が抜けていった。


 誰もすぐには声を上げることができず、宮の一室には、三人が握ったままの邇芸速日の両手だけが残されていた。


 三輪山の地を長く治め、纏向の宮の主として東の国々をまとめ上げてきた偉大な為政者、邇芸速日は、こうして静かにその生涯を終えた。


 その遺体は後に桧窪山へと運ばれ、長く彼を支えてきた者たちに見送られながら葬られることとなり、死後にはその功績を偲んで「大物主」という贈り名が与えられ、やがて各地に社が建立され、その名は一人の為政者から神の名へと変わりながら、後の世まで語り継がれていくことになる。




 邇芸速日が隠れたという報せは、瞬く間に倭国各地へと広がり、それまで辛うじて保たれていた均衡を根底から揺さぶることになった。


 西には宇佐を中心として広大な勢力圏を築き上げた大倭壱国連合があり、東には三輪山と纏向を中心として諸国を束ねる東国連合が存在しており、両者は長らく倭国を二分する巨大な勢力として互いに睨み合っていた。


 いずれ戦になるのではないかという噂は以前から絶えることがなかったが、それでも決定的な衝突に至らなかった最大の理由の一つが、三輪山に邇芸速日が存在していたことであった。


 政治においても軍事においても卓越した手腕を示し、長い年月をかけて東国の諸勢力をまとめ上げてきた邇芸速日は、ただ一人の為政者という枠を越え、その存在そのものが西と東の間に戦端が開かれることを押しとどめる巨大な抑止力となっていたのである。


 その邇芸速日が、ついにこの世を去った。


 東国の諸王や豪族たちは後継者となった宇摩志麻遅の動向を窺い、西方の諸国もまた大倭壱国がどのような判断を下すのかに神経を尖らせた。


 半世紀以上にわたって動かなかった巨大な岩が取り除かれたかのように、倭国全体が次に訪れる変化を予感しながら、静かな緊張の中へと沈み込んでいった。


 やがて邇芸速日の訃報は、遠く宇佐の宮にも届けられた。


 使者からその報せを聞いた日巫女は、しばらく何も言わず、ただ静かに目を伏せた。


「……そう。あの子は逝ったのね」


 半世紀以上前、まだ少年と呼んでもよい年頃でありながら、自らの考えを一歩も曲げることなく、真正面から日巫女と対峙した聡明な若者の姿が脳裏によみがえった。


 あの時から邇芸速日は、日巫女の予想を遥かに越える勢いで成長し、やがて一国の主となり、政治でも軍事でも類い稀な才覚を発揮しながら、東国の諸勢力を束ねるまでになった。


 大倭壱国の威光にも屈することなく、自らの思想に従って国を治め続けた邇芸速日は、いつしか日巫女にとって無視することのできない存在となり、倭国統一を目指す道の前に立ちはだかる巨大な壁となっていた。その壁が、いま消えたのである。


 日巫女はゆっくりと顔を上げると、その瞳に先ほどまでとは異なる強い光を宿した。


 この日がいつか訪れることは、ずっと以前から分かっていた。


 そして邇芸速日がこの世を去った時には、決して機を逃さず動くと決めていたのである。


 傍らに控えていた月読もまた、姉の表情を見ただけでその考えを察しており、長い年月を経て、ついにその時が訪れたのだと理解していた。


「惜しい人物でした。そして今しかありません」


 日巫女の声には、邇芸速日を悼む気持ちと、それとは切り離された為政者としての決意が同時に込められていた。


 長年にわたり倭国を東西に分けてきた時代を終わらせ、倭国統一へ向けた最後の戦を始めるのであれば、東国が新たな体制へ移ろうとしている今をおいて他にはない。


「月読、伝令を出します」


「はい。どちらに伝令を」


「日向の地にです。彦五瀬(ひこいつせ)に、天孫降臨を行う時が来たと伝えなさい」


 彦五瀬には、これまであえて婚姻を結ばせていなかった。


 いずれ三輪山へ進出し、その地を大倭壱国の秩序の中へ組み込むことになった時、東国の有力な家と婚姻を結ばせることまで視野に入れていたからであり、日巫女にとって彦五瀬の婚姻は、個人の縁ではなく国を動かすための重要な一手でもあった。


「彦五瀬は、よき若者に育っております」


 月読が静かにそう答えると、日巫女は小さく頷いたあと、もう一人の名を思い出したように続けた。


「それと、先の日向での戦で目覚ましい働きをした者がいましたね」


「磐余彦(いわれひこ)ですな。父上が大切に育ててきた秘蔵っ子だとか」


 その名を聞いた日巫女は、わずかに目を細めた。日向の地で実戦を経験し、その中で確かな働きを見せた若者であるならば、この先に待つ戦いを知る者として連れてくる価値は十分にある。


「両名に命じなさい。兵を率いて、宇佐へ参るようにと」


「承知いたしました」


 月読は深く頭を下げると、直ちに伝令を出すためその場を離れていった。


 邇芸速日という巨星が地上から姿を消したことで、長きにわたり保たれてきた倭国の均衡は終わりを迎えようとしていた。


 そしてその死を境として、止まっていた大きな流れが再び動き始め、倭国は統一を巡る最後の争いへ向かって進み始めたのである。

狭野(磐余彦)の成長と邇芸速日の退場において九章を終えました。

ついに十章に向かいます。

最終章神武東征、長かった本作もいよいよ最後になります。

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