九章 神武 二十二話 邇芸速日と五十猛
西暦二百四十六年。磐余彦が日向の地で自立してから、すでに二年の歳月が流れていた。
近畿の中央に勢力を広げる三輪山、その麓に築かれた纏向の宮では、この日、邇芸速日が珍しい客人を迎えていた。
宮の奥へ通されたその男は、老いによって若い頃ほどの力強さこそ失われていたものの、もともとの巨躯はいまだ健在で、長い年月を生きてきた者だけが持つ落ち着きを全身に漂わせていた。
五十猛である。
須佐之男の子として生まれ、かつては父に付き従って各地の戦場を駆け巡り、その怪力と妖力によって数多の敵を退けた猛将も、今では武器を手にすることもなくなり、倭の各地を歩いては木を植え、山を育てることを生涯の仕事としていた。
邇芸速日にとって五十猛は実の兄でありながら、こうして顔を合わせるのは実に五十年以上ぶりのことであった。
倭国大乱の時代には互いに異なる場所でそれぞれの役目を背負い、その後も五十猛は各地を巡りながら植林を続け、邇芸速日は三輪山を中心とした国々を治めることに生涯を費やしてきたため、同じ倭の地に生きていながら、兄弟がゆっくり言葉を交わす機会はほとんど残されていなかったのである。
宮では久方ぶりの再会を祝って酒と料理が用意され、二人は向かい合って座りながら、互いに過ぎ去った年月を埋めるように語り合った。
若い頃の出来事や、一族の者たちの話、すでに亡くなった者たちの思い出まで話題は尽きず、時には声を上げて笑いながら、時には遠い昔を懐かしむように静かに杯を傾けた。
かつて倭の国々を焼き尽くすほど激しかった倭国大乱も、今となっては実際にその時代を知る者の方が少なくなっていた。
戦場で命を落とした者だけでなく、戦乱を生き延びた者たちも老いによって次々と世を去り、若い世代にとっては、すでに親や祖父母から聞かされる昔話へと変わりつつある。
それだけの年月が流れたのだと、五十猛と邇芸速日は、互いの顔に刻まれた歳月を眺めながら改めて感じていた。
それでも二人が向かい合って話している間だけは、遠い昔、まだ父の須佐之男が健在であり、兄弟たちがそれぞれ自分の道を見つけようとしていた頃へ戻ったようでもあった。
長く離れて暮らしていた時間など最初から存在しなかったかのように、二人は杯を重ねながら、夜が深くなるまで昔話を楽しんでいた。
酒を酌み交わしながら昔のことを語っていた邇芸速日は、ふと思い出したように杯を置くと、どこか楽しげな笑みを浮かべながら五十猛へ顔を向けた。
「そういえば兄上、四十年ほど前のことになりますが、那岐様が忍びでこの地へおいでになられたことがありましてな。それだけならまだよいのですが、どういうわけか巫女の姿に化けておられたのですよ」
「なんと!」
五十猛は思わず身を乗り出した。
何百年と生きている祖父が何をしていても今さら驚くことではないと思っていたものの、さすがに三輪山へ忍び込み、しかも巫女の姿になっていたという話までは想像していなかった。
「それがまた見事なものでしてな。衣の着こなしから立ち居振る舞い、祭具の扱いに至るまで何一つ不自然なところがなく、儀式まで完璧にこなしておられました。仕草もすっかり巫女そのもので、結局、最後まで正体に気づいたのは儂くらいのものでしたよ」
邇芸速日が懐かしそうに笑うと、五十猛はしばらく目を丸くしていたものの、やがて納得したように何度も頷いた。
「さもあらん。遥か昔、まだ父上が八岐大蛇を討った頃にも、那岐様が巫女舞を披露して父上を助けたことがあったと聞いておる。あのお方は見た目だけなら昔から巫女姿でも何ら違和感がなかったであろうし、何百年も生きておれば、そのような作法まで身についていても不思議ではないか」
「まったくですな。もっとも、本人にそのようなことを申せば、きっと困った顔をされるでしょうが」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
長い年月を生きてきた者同士だからこそ語ることのできる昔話はいくらでもあり、幼い頃の失敗や一族の変わった逸話を掘り起こしては、酒の肴にして笑い合うことができた。
けれど、どれほど話が弾んでも、決して触れようとしない時代があった。
倭国大乱について、どちらから語り始めることもなかった。
何十年という歳月が流れ、あの戦乱を自らの目で見た者もほとんど世を去っていたが、だからといって記憶まで薄れたわけではなく、飢えた兵が村を襲い、焼かれた田畑の中に死体が転がり、昨日まで隣で笑っていた者が翌日にはいなくなるような日々は、とても酒を飲みながら懐かしむことのできる思い出ではなかった。
そして何より、二人の父である須佐之男の最期についても、どちらから口にすることはなかった。
五十猛にとって須佐之男は、幼い頃から憧れ続け、認められることだけを願い、自らの人生のすべてを捧げようとした父であり、邇芸速日にとってもまた、自分にはない圧倒的な力を持ち、恐れながらも敬い続けた父であった。
その父が戦の果てに命を落とした日のことは、半世紀以上の時が流れた今でも、二人の胸から消えることはなかった。
だからこそ二人は、あえて語らなかった。
楽しかった幼い頃の話をし、祖父の変わった逸話に笑い、遠い昔の出雲を懐かしみながらも、その先にある血と炎にまみれた記憶だけは、互いに踏み込むことなく静かに避け続けた。
それは忘れたからではなく、忘れることなど到底できないからこそ、兄弟の間で言葉にする必要のないものとして、胸の奥深くにしまわれていたのである。
「ところで兄上、この地へは何をしに来られたのです?」
邇芸速日がそう尋ねると、五十猛は待っていましたとばかりに大きく頷き、少し楽しそうに口元を緩めた。
「おお、それよ。この辺りにも木を植えて回ろうと思ってな。せっかくここまで来たのだ、三輪山にも入って種や苗を植えて回りたいのだが、構わぬか?」
「もちろんですとも。兄上が望まれるのであれば、三輪山でも周辺の山々でも好きなだけ入られるがよいでしょう。誰にも咎めさせはしません」
「そうか、それは助かる」
五十猛は満足そうに頷いたものの、改めて弟の顔を眺めるうちに、その表情から笑みが消えていった。
五十年以上もの年月を経て再会した弟は、記憶にある姿よりも明らかに痩せ、顔色にも生気が乏しく、ただ年齢を重ねたというだけでは説明できない衰えが見えていたのである。
「それにしても邇芸速日、お主は随分とやつれたのう。病でも患っておるのか?」
「ええ、まあ。もう随分と長い付き合いの病でしてな。若い頃から付きまとわれてきましたが、近頃はいよいよ身体が言うことを聞かなくなってきました。おそらく、そう長くはありますまい」
邇芸速日はまるで他人事のように穏やかに答えたが、五十猛は眉を寄せたまま弟を見つめていた。
だが邇芸速日はそれ以上自分の病について語ろうとはせず、逆に兄の姿をじっと見つめ返した。
「それよりも兄上こそ、以前お会いした頃とは随分と変わられましたな。身体そのものは相変わらず大きいが、老い方があまりに早すぎるように見えます。妖力を使いすぎておられるのではありませんか?」
「気にするな。儂はこれでよい」
「しかし兄上、妖力を使い続ければ、それだけ身体への負担も大きくなります。兄上ほどの力を長年使い続けておれば、寿命そのものを削っているようなものではありませんか」
心配する弟の言葉に、五十猛はしばらく黙っていたが、やがて静かに首を横へ振った。
その表情には後悔も迷いもなく、長い年月をかけて自分なりの答えへ辿り着いた者だけが持つ穏やかさがあった。
「構わぬ。儂はもう妖術も長寿もいらぬのだ。人より遥かに強い力を持ち、長く生き続けることが、人を人でなくしてしまうというのなら、そんなものは使い切ってしまえばよい。木を育てるために使えるのであれば、なおさら惜しくはない」
「ですが、それでは兄上の寿命が……」
「邇芸速日」
五十猛は弟の言葉を遮るように名を呼んだものの、その声に荒々しさはなく、ただ自分の考えをきちんと伝えようとする静かな響きだけがあった。
「儂は化物でも神でもない。人間だ。だから人間として生き、人間として死にたい。ただ、それだけなのだ」
邇芸速日はそれ以上、言葉を続けることができなかった。かつての五十猛は、父である須佐之男だけを見て生きていた男だった。
父に憧れ、その強さを追い、その期待に応えることだけを願い、父の進む道が正しいのかどうかを考えることすらせず、ただその背中を追い続けていた。
だが、その父を失ってから長い年月が流れた。戦から離れ、各地を歩き、木を植え続けるうちに、五十猛はようやく父とは違う自分自身の道を見つけたのだろう。
かつて武器を握ることしか知らなかった兄が、今では自らの命を削ってまで森を育てようとしている。
その生き方を前にして、邇芸速日がこれ以上何かを言うことなどできなかった。
「そこまで兄上のお心が決まっておられるのであれば、儂からはもう何も言いますまい。ただ、無理だけはされぬようにしてください」
「ははは、分かっておる、分かっておる」
五十猛は豪快に笑ったあと、ふと思い出したように膝を叩き、先ほどまでとは打って変わって楽しそうな表情を浮かべた。
「そういえばな、日向の地で実に面白い御子に出会ったのだ。まだ若いのだが、これがなかなか聡明な御子でな、人の話をよく聞くうえに、困っている者を放っておけぬ性分らしい。少々泣き虫ではあるが、それもまた可愛げというものよ」
「ほう。兄上がそこまで褒められるとは珍しいですな。それほどの御子なのですか?」
「うむ、それはもう将来が楽しみな御子よ。きっと立派な人物になるぞ。いや、儂が保証してもよいほどだ」
五十猛が語っている御子とは、日向に暮らす磐余彦のことであった。
まだ若く、世に名を知られる存在でもない磐余彦のことを、五十猛はまるで自分の孫でも語るかのように嬉しそうに話し続けていたが、その評価には明らかに贔屓が混じっていた。
邇芸速日はそんな兄の様子を眺めながら、何度か相槌を打っていたものの、やがて堪えきれずに小さく笑った。
五十年以上ぶりに再会した兄が、これほど楽しそうに誰かの話をする姿を見ることになるとは、かつての自分であれば想像すらできなかっただろうと思ったのである。
それから五十猛はしばらく纏向に滞在し、朝になるとまだ霧の残る山へ入って木々の間を歩き回りながら苗木を植え、夕暮れになると衣も手足も泥にまみれた姿で宮へ戻ってきた。
邇芸速日と食事を共にして静かに昔話をする夜もあれば、山を下りるには遅くなったからと、そのまま山中に設けた小さな小屋へ泊まり、翌朝になると再び土を掘り返して木を植えることもあった。
五十猛の植林は三輪山だけに留まらず、周辺の山々からさらに南へと広がり、時には海を望む山地にまで足を延ばしていた。
誰かに命じられたわけでも、何か大きな功績を残そうと考えているわけでもなく、ただ木の少ない場所を見つけては土の状態を確かめ、そこに合う木を選び、一本ずつ丁寧に植えていった。
若い頃には槍や剣を握り、数え切れないほどの戦場を駆け抜けてきた巨大な手は、今では小さな苗木を傷つけないよう根元へ土を寄せ、付着した泥をそっと払うために使われていた。
かつて人を倒すために鍛え上げた力を、今は大地へ命を残すために使っていることを、五十猛自身は特別なことだとは考えていなかった。
「大きく立派な木になれよ」
植え終えたばかりの苗木にそう声を掛けると、五十猛は満足そうに立ち上がり、また次に植える場所を探して歩き始めた。
しかし、その日の身体はいつもより重く、しばらく歩いただけで息が上がり、足にも思うように力が入らなくなっていた。
長い年月にわたって妖力を使い続けた身体は、本人が自覚していた以上に老い、すでに限界へ近づいていたのである。
五十猛は山道の途中にあった大きな岩へ腰を下ろすと、額の汗を拭いながら、しばらく休んでから続きをしようと考えた。
周囲には自ら植えたばかりの若木が並び、その向こうには、これまで何年もかけて育ててきた木々が風に揺れていた。
葉が擦れ合う静かな音を聞いているうちに、五十猛のまぶたは次第に重くなっていった。
「少しだけ……休むかのう」
そう呟いて岩へ身体を預けると、五十猛は穏やかに目を閉じた。
それは長い旅の途中で取る、いつもの休息と変わらないように見えた。
だが五十猛が再び目を覚ますことはなかった。
長年にわたって妖力を使い続けたことで老化は急速に進み、その身体にはもう次の朝を迎えるだけの力が残されていなかったのである。
戦場ではなく、自ら木を植え続けた山の中で、五十猛は静かにその生涯を終えた。
しばらくして、山中で息を引き取っていた五十猛の遺体が発見され、知らせを受けた者たちの手によって纏向の宮へと運び込まれた。
長い年月を生き、かつては戦場で誰よりも勇猛に槍を振るっていた大男は、もはや何の力も示すことなく静かに横たわっており、その表情には苦しみの色もなく、ただ長い旅を終えて眠りについているような穏やかさだけが残されていた。
邇芸速日は人払いをすると、しばらく何も語らず兄の遺体を見つめ続けた。
幼い頃から自分とは何もかもが違い、父譲りの巨躯と力を持ち、戦場では誰よりも頼もしく見えた兄であったが、父を失ってからは戦から離れ、残された人生の大半を木を植えることに費やし、最後には誰に看取られることもなく山の中で静かに生涯を閉じていた。
その姿を前にして、邇芸速日は長い年月の重みを噛み締めるように目を伏せ、やがて小さく息を吐いた。
「兄上……先に逝かれましたか」
それ以上の言葉は出てこなかった。
何を語ったところで、もう兄から返事が返ってくることはなく、それならば残された自分に出来ることは、兄が歩んだ長い人生を忘れず、その志を後の者へ残していくことだけなのだと邇芸速日は考えた。
五十猛の遺体は丁重に弔われ、やがて人々の手によって土へと還されたが、邇芸速日は埋葬だけで終わらせるつもりはなく、兄を祀るための社を建立するよう命じた。
若き日の五十猛は戦士として生き、父である須佐之男に認められることを何よりも願い、その期待に応えるために己の肉体を鍛え、数えきれないほどの戦場を駆け抜けてきた人物であったが、長い人生の後半に選んだ道は、武器を握ることでも国を奪うことでもなく、荒れた土地へ木を植え、その木が育ち、いつの日か人々の暮らしを支えることを願う道であった。
かつて槍や剣を握り、敵を薙ぎ払っていた巨大な手は、最後には小さな苗木を支え、その根元へ丁寧に土を寄せるために使われていた。
若き日に多くの命が失われる戦を経験したからこそ、その後の五十猛は新しい命を育てることに己の残りの人生を捧げ、誰かに命じられたわけでも、名誉や褒美を求めたわけでもなく、ただ黙々と倭の各地へ木を植え続けたのである。
邇芸速日は、その兄を戦の神として祀ることはしなかった。五十猛が最後に選び、生涯をかけて歩み続けた道こそが兄の本当の姿であると考え、その社には木を育て、山を守り、人々の暮らしを支える神として五十猛を祀ることにした。
こうして五十猛命は木の神、植林の神として人々の記憶に残り、その信仰は時代を越えて受け継がれ、遥かな後世に至るまで、山に生きる者や林業に携わる者、木材を扱い暮らしを立てる人々から篤く敬われることになるのであった。




