九章 神武 二十一話 和平交渉
襲撃騒動の報は瞬く間に両軍へ広がり、和平交渉の最中であった大倭壱国と曾於族の間には、それまで以上に張り詰めた空気が漂うことになった。
交渉の席に加わっていた磐余彦が狙われたという事実は決して軽いものではなく、ひとつ対応を誤れば、ようやく見え始めていた和平への道が閉ざされ、再び全面的な戦へ戻りかねない状況であった。
磐余彦は、自身が無事であることを父や兄に直接伝えるためにも、早朝から鵜葺のいる本陣へ向かった。
幕舎へ入るとすぐに父の前へ進み、いつものように礼を取った。
「磐余彦! 無事であったか、よかったぞ」
鵜葺は息子の姿を認めるなり安堵を露わにし、思わず立ち上がって磐余彦の全身を確かめるように見回した。
使者から無事との報告は受けていたものの、実際に自分の目で姿を見るまでは安心できなかったのだろう。
「皆のおかげで命拾いしました。ご心配をおかけいたしました」
磐余彦が頭を下げると、鵜葺は大きく息を吐き、ようやく肩から力を抜いたが、その隣に座していた彦五瀬の表情からは、安堵よりも強い怒りが滲み出ていた。
和平のために双方が兵を退き、使者を行き来させながら条件を探っている最中に、弟が夜襲を受けたのである。
しかも襲撃者たちは明らかに磐余彦の命を狙っており、護衛の働きがなければ取り返しのつかない事態になっていた可能性も高かった。
彦五瀬にとって、それは到底見過ごせる出来事ではなかった。
「父上、もう交渉など続ける必要はありますまい。再戦しましょう。今度は我らが攻勢に出て、曾於族の連中を徹底的に蹴散らすのです」
押し殺していた怒りが声に滲み、彦五瀬は拳を強く握り締めた。
これまで曾於族の要求を聞きながら辛抱強く交渉を続けてきたというのに、その最中に弟の命まで狙われたのであれば、もはや相手を信用する理由などないという思いが強かった。
しかし鵜葺は、すぐに同意することなく静かに首を横へ振った。
「まあ、待て。腹が立つのは分かるが、ここで我らまで頭に血を上らせてはならぬ」
鵜葺の言葉を受けても彦五瀬の険しい表情は変わらなかったが、その横で磐余彦はしばらく考え込んだ後、慎重に口を開いた。
「父上、私は今回の襲撃が、曾於族全体の意思によるものとは思えません。捕らえた者の言葉を信じるなら、自分たちの敗北を認められなかった一部の者たちが、勝手に行動した可能性が高いと思います」
鵜葺は何も言わず、続きを促すように磐余彦へ視線を向けた。
「もし曾於族の長たちが襲撃を命じたのでなければ、向こうにとっても困った事態になっているはずです。和平を進めようとしている最中に、自分たちの兵が勝手に相手方の者を襲ったのですから、これまでと同じような強い態度では交渉を続けにくくなるでしょう」
そこまで話したところで、磐余彦は一度言葉を切り、父の反応を確かめてから続けた。
「ならば、この出来事を理由に戦を再開するよりも、むしろ交渉の材料として使うことはできないでしょうか。こちらから必要以上に責め立てるのではなく、再びこのようなことが起きない保証を求めた上で、これまでより現実的な条件を引き出すのです」
鵜葺は磐余彦の言葉を聞き終えると、しばらく黙ったまま考え込み、やがて感心したように小さく頷いた。
「そこに気が付いたか。よい着眼点だ」
怒りに任せて相手を責めれば、曾於族も意地になって引けなくなる可能性があるが、こちらがあえて交渉を続ける姿勢を示せば、襲撃を防げなかった側には大きな負い目が生じる。
その負い目を利用すれば、これまで平行線だった条件を動かせる可能性があると、鵜葺もすぐに理解した。
「ひょっとしたら、これで進展するやもしれんな」
鵜葺はただちに使者を曾於族の陣へ送り、先日の襲撃があったとはいえ、こちらには和平の意思が変わらず残っていることを伝えたうえで、改めて交渉の場を設けたいとの意向を申し入れた。
彦五瀬はそれ以上父を引き留めようとはしなかったものの、表情から警戒の色が消えることはなかった。
「もうお止めはいたしませんが、やはり不安ではあります。今度こそ、交渉の場そのものを狙って襲ってこないとも限りません」
「わかっておる。こちらとて同じ失敗を繰り返すつもりはない。油断はせぬよ」
鵜葺はそう答えると、傍らにいた磐余彦へ顔を向けた。
「磐余彦、そなたも付いてまいれ」
「はい。父上の身辺警護、私が務めさせていただきます」
磐余彦は深く頭を下げ、今度の交渉では自ら父の傍を離れず警護に当たることを決めた。
ところが実際に交渉を再開するより先に、曾於族の側から使者が訪れ、先日の襲撃について正式な謝罪が申し入れられた。
襲撃を行った者たちは曾於族全体の命令を受けて動いたものではなく、戦で仲間を失った一部の者たちが独断で起こしたものであり、曾於族の指導者たちも事前には把握していなかったという。
もっとも、自らの軍中にいた者たちの暴走を止められなかった責任まで消えるわけではない。
鵜葺はその点だけは曖昧にせず、今後同じようなことが二度と起こらぬよう強く求めたものの、必要以上に責任を追及することまではしなかった。
ここで相手を追い詰めれば、せっかく再び開きかけた和平への道を自ら閉ざすことにもなりかねない。
鵜葺が求めているのは謝罪でも賠償でもなく、この戦そのものを終わらせることであった。
こうして改めて交渉が始まったが、曾於族の態度はそれまでとは明らかに違っていた。
以前のように南部の村々や漁場の支配権を強硬に要求する姿勢は薄れ、双方が現実的に受け入れられる条件を探ろうとする空気が生まれていたのである。
先日の襲撃によって曾於族側が交渉上の立場を悪くしたことも理由の一つだったが、それ以上に大きかったのは、彼ら自身がこの戦を長く続けられる状況にはなかったことだった。
曾於族が北へ攻め込んできた最大の理由は、海の幸の不漁によって深刻な食糧不足に陥ったためである。
戦に勝とうと負けようと、食糧を得られないまま故郷へ帰れば、待っているのは飢えでしかない。
だからこそ、曾於族にとっては面目よりもまず、この難局をどのように乗り越えるかが最も重要な問題となっていた。
鵜葺はそこを見逃さなかった。
日向側が保有する備蓄の中から、米や粟を一定量提供することに加え、南部の漁場についても一年に限って曾於族の利用を認める案を提示したのである。
もちろん、その条件は無制限ではなかった。
翌年以降まで恒久的な権利として認めるものではなく、あくまで今年の食糧難を乗り切るための一時的な措置であり、曾於族もその条件を受け入れた。
ただし、大倭壱国側が一方的に施しを与える形にしてしまえば、曾於族にとっては屈辱となり、後々まで禍根を残しかねない。
そのため、曾於族からも後日、南方で得られる特産品や希少な品々を返礼として贈ることが取り決められた。
形式としては、一方がもう一方を救済するのではなく、互いに必要な品を交換する交易の延長として扱うことにしたのである。
それによって曾於族は敗者として施しを受ける面目を避けることができ、大倭壱国側も食糧をただ無償で差し出したわけではないという体裁を保つことができた。
双方が完全に満足したわけではなかったものの、少なくとも再び兵をぶつけ合う理由は失われつつあった。
その後も話し合いは続き、今後は両地域の交易そのものを増やしていくことや、互いの領地へ軍を侵入させない相互不可侵の取り決めなど、戦を終えた後の関係についても一つずつ条件が詰められていった。
すべてを一度の交渉で決めることは出来なかったため、双方から代表者を残し、細かな条件については引き続き協議を続けることとなったが、少なくとも軍勢を対峙させたまま話し合う必要はもうなかった。
こうして大筋で和平への合意が成立し、大倭壱国と曾於族はそれぞれ軍を引き、長く続いた緊張状態にもようやく終わりが見え始めた。
交渉の場をあとにした磐余彦は、自らの陣屋へと戻ってきた。
入口では日臣と大久米が待っており、磐余彦の姿を認めると、日臣がすぐに歩み寄って深く頭を下げ、その隣では大久米も無言のまま静かに礼をする。
「お帰りなさいませ、磐余彦様。交渉はいかがだったでしょうか?」
「ほぼ私が望んでいた形になりそうだよ。父上の交渉は本当に粘り強かった。あの状況まで見事に利用して、最後には話をまとめてしまったんだからね」
磐余彦の表情には疲れが残っていたものの、交渉が大きく前進したことへの安堵も見えており、その言葉を聞いた椎根津彦が少し身を乗り出した。
「ということは、双方とも兵を引くことになったのですか?」
「うん。ここの陣も引き払うよ。まだ決めなければならないことは残っているみたいだけど、そこから先は双方の使者を残して交渉を続けることになった」
それまで黙って話を聞いていた竹が、少し意外そうな顔をしながら口を開いた。
「国と国との交渉というものは、ずいぶん長くかかるものなのですね」
「今回、父上のそばで実際に交渉を見て、それがよく分かったよ。曾於族もただ欲を張って攻めてきたわけではなくて、向こうには向こうで生き残らなければならない事情があった。私たちにも守らなければならない土地や民がいるし、向こうにも同じように背負っているものがある。だから簡単に引き下がることもできないし、譲れないものだってあるんだ」
「めんどくさそう……」
浦が心底うんざりしたように呟くと、椎根津彦は少し考えてから、これまで那岐から学んできた兵法を思い返すように口を開いた。
「那岐様からいただいた兵書にも、『戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』とする考えがありました。これまでは言葉として理解しているつもりでしたが、今回の戦と交渉を実際に見て、その意味が少し分かったような気がします」
「そんなことを言ったって、結局は戦が起きる時には起きるんだ。こっちが戦いたくなくても、向こうから攻めてくることだってあるだろう」
日臣が腕を組みながら現実的な意見を返すと、磐余彦はその言葉を否定することなく頷いた。
「それもその通りだよ。戦わなければ守れない時があることは、今回のことで私にもよく分かった。でも、椎根津彦の言っていることも正しいと思う。特に今回は、父上の交渉をそばで見て、本当に多くのことを学ばせてもらった。もし交渉がまとまらなければ、私たちはこの先も戦い続けなければならなかったし、たとえ勝ち続けたとしても、大倭壱国にはほとんど得るものがない。兵は死に、米は減り、村は荒れ、最後に残るのが恨みだけでは何のために勝ったのか分からないからね。終わらせられる戦なら、出来るだけ早く終わらせた方がいいよ」
その話を、大久米は少し離れた場所で黙ったまま聞いていた。
戦うべきなのか、戦わない方が正しいのか、交渉によって敵だった者と手を結ぶことが本当に良いことなのか、大久米にはまだよく分からなかったし、おそらくこれから先も自分には簡単に答えを出せないことなのだろうと思っていた。
けれど、自分に出来ることだけは分かっている。
磐余彦が進むと決めたならその道を守り、敵が襲ってくるなら槍を持って前に立ち、仲間が危険なら自分が盾になればよい。
それが正しいかどうかを難しく考えるより、自分に任された役目をこれからも果たし続けようと、大久米は胸の内で静かに決めていた。
「そっか……陣を引き払うのね」
浦がぽつりと口にした声には、戦が終わることへの喜びとは少し違う響きが混じっていた。
その言葉を聞いた竹は、すぐに妹が何を考えているのか察してしまった。
戦が終わり、この陣を引き払えば、磐余彦は自らの館へ戻り、自分たちは那岐のもとへ戻ることになる。
戦のあいだだけとはいえ、こうして再び昔のように皆で集まり、同じ陣屋で食事をし、朝から晩まで磐余彦のそばにいられた日々も、これで終わってしまうのだ。
もちろん、戦が終わったことは喜ばなければならないし、誰も死なずに帰れるのなら、それ以上に望むことなどない。
それでも、磐余彦とまた離れて暮らすのだと思うだけで、竹の胸には説明しにくい寂しさが広がっていった。
浦も同じことを考えているのだろう。いつもなら戦が終わったことを真っ先に喜びそうな妹が、どこか沈んだ表情で磐余彦を見つめている。
いつの日か、戦や任務という理由がなくても、当たり前のようにこの人のそばで暮らせる日が来るのだろうか。
その願いを言葉にすることは出来ないまま、竹と浦は互いに何も言わず立ち上がると、磐余彦たちと過ごす最後の夜のために、夕餉の支度を始めるのだった。




