九章 神武 二十話 襲撃
日向の地を治める鵜葺は、曾於族との戦にひとまず勝利を収めたことで、ようやく和議へ向けた道が開けるのではないかと期待していた。
磐余彦の父でもある鵜葺は、もともと自ら兵を率いて敵を打ち破るような武人ではなく、異なる立場の者たちの話を聞き、互いの利害を調整しながら妥協点を探ることに長けた人物であり、その粘り強い交渉力によって長く日向の地をまとめてきたのである。
今回の争いについても、鵜葺は当初から曾於族との全面的な戦を望んではいなかった。
ただ、曾於族が大軍を率いて突然北上し、日向の地へ侵入してきた以上、こちらから話し合いを求める余裕などなく、まずは侵攻を食い止め、民と土地を守るために兵を出すほかなかった。
戦わなければ交渉の席に着くことすらできないという皮肉な状況の中で、鵜葺は戦の終わりを見据えながら軍を動かしていたのである。
そして今、大倭壱国軍は曾於族の攻勢を退けることに成功していた。
曾於族の軍は大きな損害を受け、日向の奥深くまで進むことを諦めて南へ退いたものの、完全に撤兵したわけではなく、数里ほど距離を取った場所でなお軍勢を維持し続けていた。
戦は終わったわけではないものの、互いに一度距離を置いたことで、ようやく剣や槍ではなく言葉を交わす余地が生まれつつあったのである。
そして鵜葺は軍議の席で、息子である彦五瀬と磐余彦の二人に、曾於族との和議を進めたいという考えを打ち明けた。
彦五瀬はその言葉を聞くなり、わずかに眉を寄せた。
ここまで幾度も攻撃を仕掛けてきた曾於族を相手に、本当に話し合いなど成立するのかという疑念が拭えなかったのである。
対する鵜葺は、すぐに結果を求めるつもりはなく、互いの条件を少しずつ擦り合わせながら粘り強く交渉を続けていけば、いずれ戦を終わらせる道は見つかるはずだと考えていた。
磐余彦もまた、これ以上の戦を続けるよりは、可能であるならば和議によって収めるべきだという父の考えに賛成していた。
「今回の戦は、おそらく今年の海の幸の不漁が大きな原因の一つであろう。曾於族は食糧を求め、生き延びるために北へ進んできたのだ。そうである以上、ただ撃ち破って南へ追い返したところで、持ち帰る食糧が何もなければ、あちらとて簡単には兵を退けまい」
鵜葺がそう説明すると、彦五瀬は納得しきれない様子で父を見つめた。
「まさか父上は、勝っている我らの側から、攻め込んできた曾於族へ食糧を与えようとお考えなのですか?」
彦五瀬は真っ直ぐな性格をしており、戦場で正面から敵とぶつかうことには迷いがなかったが、相手の事情を汲みながら条件を探る交渉や、搦め手を用いて利害を調整することはあまり得意ではなかった。
磐余彦は兄とは異なり、父が何を考えているのかを確かめるように静かに問いかけた。
「父上は、曾於族にどの程度まで譲歩するおつもりなのでしょうか。食糧を渡すにしても、我らの備えまで崩してしまえば、今度はこちらが困ることになります」
「うむ、そこが思案のしどころだのう。我らとて無尽蔵に食糧を蓄えているわけではないし、民が冬を越すための備えまで削るつもりはない。どこまで譲るのか、それに対して曾於族から何を引き出すのかは、これからの交渉次第であろうな」
彦五瀬はなおも納得できず、腕を組みながら言葉を続けた。
「しかし父上、一度こちらから食糧を与えてしまえば、曾於族が今後も飢えるたびに攻め込んでくるようになるのではありませんか。戦えば最後には食糧が手に入ると考えさせてしまえば、かえって禍根を残すことになります」
「彦五瀬の言うことはもっともだ。その危険がないとは言わぬし、何の条件も付けずに食糧を渡せば、そのように受け取られる可能性もあるだろう」
鵜葺はそこで一度言葉を切り、二人の息子を見渡してから穏やかに続けた。
「だがな、物事は考え方次第でもある。ここで曾於族を徹底して追い詰めれば、今年は勝てても、来年も再来年も恨みを残すことになるかもしれぬ。それよりも、こちらが余裕のある立場から一定の食糧を融通し、その代わりに今後の交易や漁場の取り決めを結び、互いに攻め込まぬ約束まで取り付けられるのであれば、戦で勝つ以上のものを得られるやもしれん」
彦五瀬はしばらく考え込んだものの、やはり簡単には信じ切れないようだった。
「理屈は分かりますが、曾於族がそこまで素直に応じるでしょうか。ここまで戦った相手ですし、向こうも我らを信用してはいないはずです」
「だからこそ、一度や二度の話し合いで決めようとは思っておらぬ。向こうが高い条件を出してくるなら、こちらもこちらの条件を示し、少しずつ落としどころを探せばよい。最初から互いに納得できる話など、そうそうあるものではないからな」
鵜葺はそう言うと、わずかに笑みを浮かべた。
「まあ、やってみるしかあるまい。まずはこちらから使者を送り、曾於族に和議の意思があるか確かめよう。話がある程度まとまり、直接会って詰める段階まで進んだなら、その時は私自身が交渉の場へ出向くことにする」
それから数日、両軍の間では使者が幾度となく行き来し、互いの要求を伝え合うための交渉が続けられていたが、先の戦で実際に刃を交え、多くの死傷者を出したばかりの双方に簡単な信頼が生まれるはずもなく、最初から相手に譲歩を迫ることを前提とした高い条件ばかりが突きつけられ、話し合いは一向に進展しなかった。
鵜葺はそれでも交渉を打ち切ることなく、相手が何を求め、どこまでなら退く余地があるのかを見極めるため、使者から届く報告を一つ一つ確認しながら粘り強くやり取りを続け、さらに数日が経ったところで、このまま使者同士に任せていても埒が明かないと判断し、自ら曾於族との交渉の場へ赴くことを決めた。
留守の間の全軍指揮は彦五瀬に任せ、磐余彦を伴って曾於族の陣へ向かった鵜葺は、直接顔を合わせて話せば少しは相手の真意も見えるだろうと考えていたものの、実際に提示された条件は容易に受け入れられるものではなく、曾於族側は日向南部にある村々の支配権に加え、その沿岸一帯の漁場を自分たちに認めるよう強く要求してきた。
曾於族がその土地を占領しているわけでもなく、今回の戦で奪い取ったわけでもない以上、もともと日向の民が暮らし、耕し、海へ出て生活してきた土地をそのまま譲り渡すなど到底承認できる話ではなく、鵜葺も食糧の供与や一時的な漁場の利用であれば交渉の余地はあると示したものの、恒久的な支配権まで認めるつもりはなかった。
一方の曾於族も、何の成果もないまま兵を引けば、飢えに苦しむ民に説明がつかない事情を抱えていたため簡単には要求を下げず、鵜葺が条件を退ければ別の要求を持ち出し、こちらが譲歩案を示しても強硬な態度に変化はなく、両者の隔たりは思うように縮まらなかった。
磐余彦は父の傍らでそのやり取りを黙って見守りながら、戦場で敵を退けることとはまるで違う難しさを感じていたが、その視線の先では、曾於族の兵のうち数名が交渉の内容よりも磐余彦自身を強く睨みつけており、敵意を隠そうともせず、時折仲間同士で何かを囁きながらこちらの様子を窺っていた。
その兵たちは先の戦で本隊の後方を突かれた際、磐余彦の姿を直接目にしていた者たちだったらしく、自分たちの陣を崩し、多くの仲間を死なせた敵将が今は平然と交渉の席に座っていることが、どうしても許せないようであった。
磐余彦は陣屋へ戻ると、入口をくぐったところで大きく息を吐き、そのまま肩の力を抜いた。
長い交渉の席に座り続けていたせいか、身体の疲れよりも、互いに譲ろうとしない話し合いの方が余程こたえているようであった。
そんな磐余彦の姿に真っ先に気づいた竹が立ち上がり、表情を窺いながら声を掛けた。
「お疲れだったわね。随分と長くかかったみたいだけれど」
「はい、まずはこれを飲んで。少しは落ち着くと思うわ」
浦もすぐに温かい茶を差し出し、磐余彦は礼を言いながら受け取ると、用意されていた座へ腰を下ろした。
竹と浦は何も聞かずに傍へ控えていたが、疲れの滲んだ磐余彦の顔を見れば、交渉が順調ではなかったことくらい容易に察することができた。
少し離れた場所にいた日臣も同じことを感じたらしく、磐余彦の様子を見ながら問い掛けた。
「そのご様子では、交渉はあまり上手くいかなかったのですか?」
磐余彦は湯気の立つ茶へ視線を落とし、しばらく黙った後で小さく息を吐いた。
「交渉そのものは続けるよ。父上があの程度で話し合いを諦めることはないと思うし、まだ決裂したわけでもない。ただ……簡単に纏まりそうにはないね」
そこで椎根津彦が身を少し前へ乗り出した。戦場の報告を聞く時と同じように、相手が何を求めているのかを先に把握しようとしているらしい。
「相手の要望は、どのようなものでございましたか?」
「南の村々の支配権と、その周辺の漁場を渡せと言っている。食糧の援助だけならまだ話し合う余地もあるのだけれど、土地までとなると父上も承諾できない」
その言葉を聞いた日臣は露骨に眉をひそめ、呆れたように鼻を鳴らした。
「なんてがめつい奴らだ。戦ではこちらに押し返されているというのに、よくそんな条件を出せたものですね。むしろ向こうから頭を下げてくる立場でしょうに」
「日臣、そう単純でもないみたいだよ」
磐余彦は苦笑しながら茶を一口飲み、少しだけ表情を和らげてから続けた。
「父上がおっしゃるには、交渉というものは最初から本当に欲しい条件だけを出すとは限らないらしい。まず高い条件を出しておいて、そこから少しずつ譲り合い、互いに受け入れられるところを探していくものなのだそうだ。だから今の要求も、そのまま最後まで押し通すつもりとは限らない」
日臣はまだ納得できていないようだったが、腕を組んだまま黙り込み、椎根津彦は磐余彦の言葉を頭の中で整理するように小さく頷いていた。
「となれば、長期の交渉になる可能性もありますね。曾於族としても、何も得ずに兵を引けば、国へ戻った後に困るでしょうから」
「うん。父上も同じようなことをおっしゃっていたよ。向こうには向こうの事情があるし、こちらにも譲れないものがある。だから時間をかけるしかないのだと思う」
そう言いながらも、磐余彦の声には疲れが隠しきれていなかった。
初めての戦を経験したばかりで、その直後には国同士の交渉にも同席しているのである。
戦場では敵を退ければよかったが、交渉では相手を完全に打ち負かせば済むわけではなく、双方が納得できる落としどころを探し続けなければならない。
その難しさを、磐余彦は身をもって知り始めていた。
竹はそんな磐余彦の顔をしばらく見つめた後、少し強い口調で言った。
「今日はもう横になった方がいいわ。朝からずっと向こうの陣にいたのでしょう。考えるのは明日にして、今夜くらいちゃんと休みなさい」
浦も竹の言葉に頷きながら、空になりかけた茶碗を磐余彦の手からそっと受け取った。
「そうよ。疲れたまま考えていたって、いい考えなんて浮かばないわ。あとは私たちがいるんだから、今夜は何も気にしないで休んで」
二人に揃って言われ、磐余彦は困ったように笑ったが、反論するほどの気力も残っていなかった。
「そうだね。今日はもう休ませてもらうよ。明日になれば、また父上も何か考えてくださるだろうしね」
そう答えた磐余彦の表情から、ほんの少しだけ張り詰めていたものが消えた。
磐余彦の寝所の入口では、竹と浦、そして大久米の三人が交代で番を務めており、磐余彦が余計な不安を抱くことなく眠れるよう、その身辺には幼い頃から共に過ごしてきた者だけを置くことにしていた。
戦場にいる以上、完全に安全な場所など存在しないからこそ、せめて眠っている間だけでも信頼できる者に守らせたいという考えからであった。
その夜も大久米が寝所の入口に座り、周囲の気配へ注意を向けながら静かに警護を続けていると、交代の刻限を見計らって竹がやってきた。
「交代の時間よ。少しでも寝ていなさい」
竹にそう言われた大久米は何も言わずに頷くと、手にしていた槍を持って立ち上がり、そのまま自分に割り当てられている寝所へ向かっていった。
それからは竹が周囲への警戒を引き継ぎ、浦も磐余彦の寝所の片隅に敷かれた寝具へ横になって休んでいる。
竹は座を正したまま入口や陣屋の外へ意識を向け、ときおり聞こえてくる兵の足音や夜風に揺れる草木の音にまで耳を澄ませていた。
しばらくすると、近くで眠っていた浦がもぞもぞと身を動かし、まだ半分眠ったままの顔でゆっくり起き上がったかと思えば、自分の寝具を離れて磐余彦が眠っている方へ歩き始めたため、竹はすぐさま浦の袖を掴んで引き止めた。
「こら、浦。なにしているの」
「ふにゃ……え? なにって……?」
呼び止められた浦は眠たそうに目を細めながら振り返ったものの、自分がどうしてそこまで歩いてきたのかさえ分かっていない様子であり、どうやら寝ぼけたまま無意識に磐余彦の傍へ行こうとしていたらしい。
「あなたの布団はここでしょ。勝手に移動しない」
「えー……うん、そうだね。あれ、なんで私動いているの?」
自分でも理由が分かっていない浦の様子に竹は呆れ、軽くため息をついてから袖を離すと、元の寝具へ戻るよう促した。
「まだ夜は長いわ。寝てなさ……」
だが、竹の言葉は最後まで続かなかった。
ほんの一瞬前まで眠気を残していた浦の表情からも、その緩みが一気に消え去っていた。
竹も同時に身体を強張らせ、二人は示し合わせる必要すらなく同じ方向へ意識を向けると、呼吸を抑えながら陣屋の外から聞こえてくる音へ耳を澄ませた。
風が草を揺らす音とは違う。
湿った地面を踏みしめる、ほんの僅かな足音が聞こえていた。
しかも一人ではない。
慎重に足音を殺しているつもりなのだろうが、幼い頃から護衛として武芸を叩き込まれ、周囲の気配を読むことを習慣としてきた竹と浦の耳までは欺けず、草を踏む微かな音や地面を擦る足運びが、一つ、また一つと闇の中から近づいてきているのが分かった。
竹と浦は互いに顔を見合わせることなく、静かに武器へ手を伸ばした。
何かが来る。
それも、一人や二人ではなかった。
その時だった。陣屋の外で、それまで夜の静けさに紛れていた足音が一斉に速まり、草木を踏み荒らす音とともに数十人もの男たちが闇の中から姿を現した。
「敵襲! 全員起きて!」
竹が鋭く叫ぶのとほとんど同時に、浦も寝所の奥へ届くよう声を張り上げた。
「みんな起きて! 夜襲よ!」
和平交渉が始まってから双方の軍は一定の距離を置いて後退しており、大規模な戦闘が再開される可能性は低いという空気が陣中にも広がっていたため、戦の最中に比べれば夜間の警戒はどうしても緩んでいた。
竹は迫ってくる人影を睨みながら、自分たちもその空気に呑まれていたことを悔やみ、もっと早く日臣に警戒を強めるよう進言しておくべきだったと歯噛みしたが、今さら後悔している暇などなかった。
竹は傍らに置いていた長槍を掴んで素早く構え、浦も剣を抜いてその隣へ並ぶと、陣屋へ駆け込んできた男たちを真正面から迎え撃った。
先頭の男が振り下ろした刃を竹は槍の柄で受け流し、そのまま穂先を返して胸元へ突き入れ、横から竹へ斬りかかろうとした別の男には浦が踏み込んで剣を振るい、その動きを止める。
二人を倒しても襲撃者の勢いは衰えず、三人目、四人目と次々に押し寄せてきたため、双子は互いの死角を補うように位置を変えながら、狭い陣屋の入口を守り続けた。
しかし、竹はすぐに相手の動きに違和感を覚えた。
襲撃者たちは双子を討ち取ろうとしているのではなく、刃を交えることさえ最低限に留め、わずかな隙間さえ見つければ脇をすり抜けて奥へ進もうとしていたのである。
「こいつら、磐余彦を狙っているのよ!」
竹の声に浦も相手の狙いを悟り、すぐさま位置を変えて通路を塞いだ。
「奥には行かせない!」
それでも数で押す襲撃者の勢いは激しく、竹が正面の男を槍で押し返し、浦が別の一人を斬り伏せた一瞬の隙を突いて、一人の男が二人の間を強引に抜けて奥へ駆け込もうとした。
だが、その男が数歩も進まないうちに、背後から鋭い槍の穂先が突き出され、その身体を貫いた。
男が力を失って地面へ崩れ落ち、その向こうから姿を現したのは大久米だった。
休息に入っていたはずだが、双子の叫びと外の騒ぎを聞きつけるなり槍を掴み、駆けつけてきたのである。
「助かったわ、ありがとう!」
浦が声を掛けると、大久米は何も答えず小さく頷いただけだった。
「まだ来るわよ、油断しないで!」
竹の言葉にも大久米は黙って頷き、槍を握り直すと、その大きな身体を前へ押し出すようにして襲撃者たちへ突進した。
大久米が加わったことで入口の守りは一気に厚くなったものの、襲撃者たちはそれでも三人を倒すことには執着せず、刃をかわし、身体を押し退け、何としても奥へ抜けようとし続けた。
竹は長槍を横に振って道を塞ぎ、浦は素早く動いて抜けようとする者を斬りつけ、大久米は正面から押し寄せる男たちを力ずくで押し返していたが、数の差までは埋めきれなかった。
一人の男が、大久米の槍を紙一重でかわすと、そのまま身体を低くして竹の脇を抜けた。
「待ちなさい!」
竹が振り返って槍を向けた時には、男はすでに寝所の奥へ踏み込んでいた。
浦も追おうとしたが、新たな襲撃者が前を塞いだため動くことができず、大久米も数人を相手にしていてすぐには戻れない。
男は迷うことなく寝所へ駆け込み、起き上がったばかりの磐余彦へ一直線に迫った。
だが、磐余彦は逃げなかった。
枕元に置いていた武器を掴むと、迫ってきた男が刃を振り上げるより先に一歩踏み込み、その胸へ正面から刃を突き立てた。
勢いのまま飛び込んできた男の身体が大きく震え、驚いたように磐余彦を見つめたまま力を失うと、やがてその場へ崩れ落ちた。
磐余彦は荒く息を吐きながら、倒れた男からゆっくりと刃を抜いた。
そこへ、陣屋の外から大勢の足音と怒号が響き、日臣が兵たちを引き連れて駆け込んできた。
日臣は外郭に設けられた兵舎で休んでいたが、騒ぎを聞きつけるや否や飛び起き、周囲で眠っていた兵を次々と叩き起こしながら磐余彦の陣屋へ急行してきたのである。
「押し返せ! 磐余彦様に近づけるな!」
日臣の号令とともに兵たちが一斉に前へ出ると、それまで竹、浦、大久米の三人だけで食い止めていた襲撃者たちは、たちまち数の上でも押され始めた。
「遅いわよ! 何していたの!」
槍を構えたまま竹が怒鳴ると、浦も荒い息を整えながら続けた。
「でも、助かったわ。もう限界だったから」
「すまない! だが、もう一人たりとも近づけさせん!」
日臣は短く謝ると、自ら兵の先頭に立って襲撃者を押し返していった。
普段なら竹の小言に言い返すところだったが、今はそんなことをしている場合ではなく、磐余彦の命を守ることだけに意識を集中させている。
騒ぎを聞きつけた椎根津彦も遅れて姿を現し、慣れない槍を手にしながら磐余彦の傍へ駆け寄った。
自ら敵を追うよりも、まず主君の安全を確保することを優先したのである。
周囲では日臣の率いる兵が襲撃者を押し返し始めていたが、椎根津彦はその様子を見渡すと、すぐに磐余彦へ顔を向けた。
「一人でもよいです。捕らえられないでしょうか?」
襲撃者をすべて斬ってしまえば、誰が何のために襲撃を仕掛けたのか確かめる術がなくなる。
磐余彦もその意図をすぐに理解し、わずかに頷いてから兵たちへ声を張った。
「一人は生かして捕らえなさい! 事情を聞く!」
命令はすぐさま兵たちへ伝わり、それまで敵を討ち取ることに専念していた者たちも、捕縛を意識して動きを変え始めた。
だが襲撃者たちも、自分たちの企てが失敗したことを悟っていた。
磐余彦を討つどころか、陣屋の兵まで集まり始めた以上、このまま留まれば全滅しかねないと判断したのだろう。
前線にいた者から次々と後退を始め、その動きは瞬く間に撤退へ変わった。
「ここまでだ!」
「引け!」
闇の中へ走り去ろうとする襲撃者たちを見た日臣は、すかさず剣を掲げた。
「追え! 逃がすなぁ! 一人は必ず捕らえろ!」
日臣は数十人の兵を率いると、そのまま逃げる襲撃者たちを追って夜の闇へ駆け出していった。
一方、大久米は深追いすることなく磐余彦の元へ戻り、血の付いた槍を構えたまま周囲へ鋭い視線を巡らせていた。
敵がすべて撤退した保証はなく、どこかに伏兵が潜んでいる可能性もあるため、主君の傍を離れるつもりはなかった。
竹と浦も同じだった。
戦闘がひとまず収まりつつあることを確認しても武器を下ろさず、磐余彦を挟むように左右へ立ったまま、その場から離れようとはしなかった。
襲撃者の狙いが磐余彦ただ一人であったことを知った以上、二人にとって今夜だけは、もう一瞬たりとも主人から目を離すという選択肢はなかった。
半刻ほどが過ぎた頃、陣屋の外から複数の足音が近づき、やがて日臣が兵を引き連れて戻ってきた。
逃げた襲撃者すべてを捕らえることはできなかったものの、命じられた通り一人だけは生かしたまま拘束しており、両腕を押さえられた男が兵たちに囲まれて磐余彦の前へ連れてこられた。
「ご苦労、日臣。よくやったよ」
磐余彦が労うと、日臣はわずかに頭を下げたものの、その表情には納得していない様子が残っていた。
「取り逃がした者もおります。申し訳ありません」
「いや、十分だよ。一人でも捕らえることができたのだから」
磐余彦がそう答えると、椎根津彦はすぐに捕虜の前へ歩み出た。今この場で最も必要なのは、誰が何の目的で襲撃を命じたのかを確かめることである。
「これは誰の命令だ。お主たちはどこの部隊に属している?」
椎根津彦は静かな声で問いかけたが、男は答えようとはせず、兵に押さえつけられながら磐余彦だけを激しい憎悪のこもった目で睨み続けていた。
やがて男は押し黙ることをやめ、吐き捨てるように声を上げた。
「誰の命令でもない! 俺たちが決めたことだ! 貴様が卑怯にも本隊を後ろから襲わなければ、我らは勝っていたのだ!」
声を荒らげると同時に男が身をよじって暴れ始めたため、大久米はすぐさま前へ出て槍を突きつけ、その動きを封じようとした。
槍の穂先は男の喉元近くに据えられていたが、殺すためではなく、あくまでそれ以上暴れさせないための牽制であった。
「暴れるな。大人しくしていれば命まで取らん」
日臣が強い口調で制すると、男は鼻で笑い、磐余彦たちを見回しながら吐き捨てた。
「ふん、命など、お前らに助けられたいとは思わん」
その直後、男は再び激しく身体を動かした。
大久米は逃亡を防ぐため槍をわずかに持ち上げ、穂先を男の首元へ寄せて動きを抑えようとしたが、その瞬間、男は突然、自ら一歩前へ踏み込んだ。
誰も予想していなかった行動だった。
大久米が異変を察して槍を引こうとした時には、すでに遅かった。
男は自ら喉を穂先へ押しつけるように身体を進め、槍は深く突き刺さった。
大久米は反射的に槍を引いたが、男の身体は力を失い、そのまま地面へ崩れ落ちた。
周囲にいた者たちは一瞬、何が起きたのか理解できず、誰も言葉を発することができなかった。
大久米は手にした槍を見つめたまま固まっていた。敵とはいえ、自ら殺そうとしたわけではない。
それでも自分の持っていた槍で男が命を絶ったという事実だけは変わらず、普段ほとんど表情を変えない大久米の顔にも、わずかな動揺が浮かんでいた。
椎根津彦は倒れた男の傍へ膝をつき、息が残っていないことを確かめると、ゆっくり立ち上がった。
「死なせてしまいましたか……。ですが、今の言葉が真実であるなら、今回の襲撃は曾於族全体の命令ではなく、一部の者たちが独断で行った可能性が高いと思われます」
椎根津彦の言葉に、磐余彦はしばらく倒れた男を見つめていた。
「うん……でも、これで交渉はどうなるのだろう」
襲撃された側として強く抗議することはできる。
しかし、ここで曾於族全体を敵と断じれば、せっかく始まった和議そのものが潰れかねない。
一方で何事もなかったように扱えば、今後も同じことが起こるかもしれず、こちらの兵たちも納得しないだろう。
戦場であれば敵を退けるために命令を下せばよかったが、今目の前にある問題は、槍や剣で解決できるものではなかった。
磐余彦には、この襲撃をどのように扱い、和議をどう続ければよいのか、その答えをすぐに見つけることができなかった。




