九章 神武 十九話 南方攻防戦
軍議の場にて、鵜葺は磐余彦たちが挙げた戦果を聞き、内心では驚きを隠せずにいた。
敵と正面からぶつかることなく海上から曾於族を翻弄し、こちらは一隻の被害すら出さないまま敵軍を一時的に南へ引き返させ、その北上を二十日近くも遅らせてみせたのである。
伊邪那岐から幼い頃より教えを受けてきた者たちであり、決して凡庸な若者ではないことは鵜葺も以前から承知していた。
それでも、これが本格的な戦をほとんど経験していない若者たちの働きとは、にわかには信じがたいほどの成果であった。
力任せに敵を打ち破ったわけではなく、自分たちの兵力が少ないことを理解したうえで船と夜陰を利用し、敵の心理まで読んで進軍そのものを遅らせたのである。
磐余彦だけではない。その傍には実際に兵を動かす日臣がおり、策を練る椎根津彦がおり、大久米をはじめ命令に従って役目を果たす者たちがいる。
伊邪那岐が育てた子供たちとは聞いていたが、いつの間にこれほど頼もしい若者たちへ成長していたのかと、鵜葺は改めて息子とその近習たちを見つめるのだった。
磐余彦たちが曾於族の北上を大きく遅らせたことで、建設を急いでいた南方の防御柵は無事に完成し、その後も兵や村人たちの手によって補強が続けられていた。
急ごしらえではあったものの、敵の進路を阻むには十分な規模となり、柵の内側には弓兵を配置する足場や予備の武器、負傷者を運び込む場所まで整えられつつある。
軍議の場でその報告を受けた鵜葺は、改めて磐余彦たちが稼いだ二十日という時間の大きさを実感していた。
「よくやってくれた、磐余彦。お前たちが曾於族を南へ引き戻してくれたおかげで、こちらも迎え撃つ備えを整えることができた」
父から直接そう言われ、磐余彦は少し照れたように頭を下げた。
「私一人の力ではありません。椎根津彦が策を考え、日臣が船団を率い、大久米も危険な役目を果たしてくれました。兵たちもよく動いてくれましたから、皆が頑張ってくれたおかげです」
その言葉を聞いていた彦五瀬も、弟を見る目を以前とは少し変えていた。
幼い頃から知っているだけに、磐余彦が兵を率いて戦場に出る姿には、どうしても頼りなさを感じていたところがあったのである。
しかし一隻の損害も出さず、曾於族の大軍を二十日近くも遠ざけてみせた結果は、もはや偶然や幸運だけでは片づけられないものだった。
「正直に言えば、お前がここまでやれるとは思っていなかった。随分と立派になったものだな」
「ありがとうございます、兄上。けれど、まだ一度うまくいっただけですから」
「そこまで慎重なら、今のところ慢心の心配もなさそうだ」
彦五瀬が笑うと、鵜葺もわずかに口元を緩めたが、すぐに表情を引き締めて軍議の席に視線を戻した。
「とはいえ、喜んでばかりもおられぬ。曾於族は再び北上を始め、すでにこちらへ迫っておる。前回のように進路を逸らして時間を稼ぐ手も、今度はそう簡単には通じまい。いよいよ正面から受け止めねばならぬ時が来たということだ」
「防御柵はすでに完成しております。敵がどれほどの兵を連れてこようとも、ここで食い止めてみせます」
彦五瀬は迷いなくそう答えた。
もともと真正面から敵を迎え撃つことを得意とする男であり、完成した防御柵を前にして退く理由などないと考えていたのである。
その隣で話を聞いていた磐余彦は、少し考えたあと、父へ向かって姿勢を正した。
「父上、実は一つお願いしたいことがあります」
「うむ、申してみよ」
「我らの兵は三百ほどで、本隊と比べれば決して多くありません。このまま防御柵へ入ったとしても、大軍の一部として戦うだけでは大きな働きはできないと思います。それならば、私の部隊を本隊から切り離し、遊軍として自由に動くことをお許しいただけないでしょうか」
鵜葺はすぐには答えず、しばらく磐余彦の顔を見つめた。
「……ほう。遊軍として動きたいと申すか」
「はい。正面は兄上と父上の軍にお任せし、我らは別の場所から戦局を見て、必要なところへ動きたいと考えております」
軍議の場に短い沈黙が落ちる中、鵜葺は頭の中で兵数を計算していた。
磐余彦の率いる兵はおよそ三百、確かに全軍から見れば決して大きな割合ではなく、彼らが防御柵から抜けたとしても、正面の守りが著しく弱くなるほどではない。
むしろ少数だからこそ動かしやすく、使い方次第では本隊とは異なる役割を持たせることもできる。
しかし、だからといって三百の兵を好きに動かさせてよいという話でもなかった。
相手は曾於族の主力であり、数で圧倒的に劣る部隊が不用意に敵の前へ出れば、包囲されて瞬く間に呑み込まれる危険もある。
前回は奇襲と欺瞞が見事に噛み合ったが、同じような幸運が二度続く保証などどこにもなかった。
鵜葺は磐余彦の後ろに控えている椎根津彦へ視線を移した。
静かに座しているその若者が、今回も何らかの策を考えているのであろうことは容易に察することができた。
前回の船団を用いた作戦も、元を辿れば椎根津彦の献策によるものだと聞いている。
さらに磐余彦の傍には日臣がいる。
若さこそあるものの、前回の戦では先鋒船団をまとめ上げ、混乱することなく命令を遂行してみせたことで、兵を率いる力があることもすでに証明していた。
人材は揃っている。問題があるとすれば、その若さであった。
初戦で大きな戦果を挙げたことで、自分たちの力を過信してはいないだろうか。
若者というものは一度の成功で視野が狭くなり、自分なら何でもできると思い込むことがある。
鵜葺が心配したのはそこだったが、目の前の磐余彦からはそのような浮ついた様子は感じられなかった。
自らの功績を誇ることもなく、最初に口にしたのは仲間や兵の働きであり、遊軍を願い出る言葉にも、敵を侮るような調子は少しもない。
むしろ、自分たちが三百しかいないことを理解した上で、その少数をどう使えば最も大きな働きができるのかを考えているように見えた。
鵜葺はしばらく磐余彦の顔を見つめながら考え込んでいたが、やがてその申し出を認めるように小さく頷いた。
「よかろう。ただし、好きに動かせる以上、何をするつもりなのか基本方針だけでも聞いておきたい」
許可を得た磐余彦は、自分で説明する代わりに後ろへ視線を向けた。
「椎根津彦」
「はっ」
呼ばれた椎根津彦は一歩前へ進み、軍議の場にいる者たちへ向けて静かに説明を始めた。
「我らは防御柵へ加わらず、さらに南西にある山々へ向かいます。そして敵から姿を隠せるよう、山の裏側に陣を敷くつもりです」
「山の裏とな?」
鵜葺が聞き返すと、椎根津彦は迷うことなく頷いた。
「はい。三百の兵を長く山中に潜ませる以上、食事の支度も必要になりますし、夜になれば火を焚かなければなりません。山のこちら側に陣を置けば、その煙や明かりだけで伏兵の存在を悟られる恐れがあります。ですから敵から直接見えない山の裏へ入り、こちらの存在そのものを隠します」
「なるほど、伏兵ときたか」
鵜葺は顎に手を添えながら、ようやく磐余彦が遊軍としての自由を求めた理由を理解した。
正面の防御柵へ三百を加えたところで大勢を左右するほどではないが、敵から存在を隠した三百が戦の途中で突然後方へ現れれば、その価値はまるで違ってくる。
椎根津彦は続けた。
「ただし、伏せているだけでは意味がございません。戦の様子を十分に見極め、敵が我らへの備えを失った時にのみ攻勢へ移ります。それまでは、たとえ味方が苦戦しているように見えても軽々しく動かず、最も効果を得られる機を待ちます」
それは派手な策ではなかったが、少数の兵しか持たない磐余彦たちにとっては理に適ったものであり、何より椎根津彦の言葉には、自分たちの力を過大に見積もっている様子がなかった。
鵜葺はしばらく考えた末、納得したように頷いた。
「たしかに、それならば面白い働きができるやもしれぬ。よい、やってみよ。ただし無理はするな。三百の兵で戦そのものを背負おうなどとは考えぬことだ」
「ありがとうございます。では、さっそく現地へ向かわせていただきます」
磐余彦が深く頭を下げると、その隣で一連のやり取りを聞いていた彦五瀬が感心したように口を開いた。
「それにしても磐余彦、お前の配下には知勇に秀でた者がよく集まったものだな。策を考える者もいれば、それを実際の戦で動かせる者もいる。兄として少々羨ましくなるほどだ」
その言葉を聞いた鵜葺は、今度は彦五瀬へ視線を向けた。
「いずれ、お前が総大将となり、磐余彦を従えて遠くへ兵を進めることもあるやもしれぬ。その時に弟やその家臣たちの力を十分に使えるよう、お前も今のうちに戦というものをよく見て、経験を積んでおくことだ」
彦五瀬は父の言葉を正面から受け止めると、姿勢を正して力強く頭を下げた。
「はっ、心得ました」
軍議を終えた磐余彦は、そのまま自らの部隊を率いて南西の山へと向かった。
曾於族の進路から外れた山中へ身を隠し、戦が始まるまで存在そのものを悟らせないことが今回の役目であり、三百ほどしかいない磐余彦の部隊にとっては、正面から敵とぶつかるよりも遥かに重要な意味を持っていた。
山道へ入ってしばらくすると、先頭付近を歩いていた椎根津彦が周囲の地形を確かめながら振り返り、皆へ改めて作戦について話し始めた。
「今回は、そこまで難しいことをする必要はありません。私たちがやることは二つだけです。敵に見つからないよう隠れること、そして動くべき時が来るまで待つことです」
「たしかにそうだな。俺たちは三百ほどしかいないんだ、曾於族の主力と真正面からぶつかったところで勝算なんてない」
日臣が当然のことだと言わんばかりに答えると、その隣を歩いていた大久米も無言のまま大きく頷いた。
前回の戦では少数の兵で敵を翻弄することに成功したとはいえ、今回は曾於族も警戒を強めているはずであり、力任せにぶつかれば数の差に押し潰されることは誰の目にも明らかだった。
そうした戦の話が続く中、竹は周囲に生い茂る木々の奥へ何度も視線を向けていた。
山の中へ入ってからというもの、いつものような落ち着きがわずかに失われていることに浦が気づきかけたところで、竹が少し遠慮がちに口を開いた。
「……この山、熊も出るのかしら?」
その言葉を聞いた日臣は、少し意外そうに竹の顔を見た。
「そりゃ山なんだから、どこかにはいるだろうな」
竹の表情がわずかに強張った。幼い頃、狭野たちと勝手に熊を討伐しに山へ入り、一頭を仕留めた直後にさらに三頭もの熊に襲われかけた経験は、今でも竹の記憶には鮮明に残っていた。
武芸では日臣にも大久米にも負けるつもりなどない竹だったが、熊だけはどうにも苦手意識が抜けきらないのである。
その様子に気づいているのかいないのか、椎根津彦は真面目な顔のままさらに付け加えた。
「熊だけとは限りませんよ。この辺りなら猪もいるかもしれませんし、夜になれば他の獣が近づいてくる可能性もあります。食べ物の管理には気をつけた方がよいでしょうね」
「えー……そんなところで何日も寝泊まりするの?」
浦が露骨に嫌そうな顔をしながら山の奥を見回した。
普段なら多少の野宿くらい気にも留めない浦だったが、戦を待つために何日になるかも分からない山暮らしとなれば話は別である。
「仕方ないだろ。これも作戦なんだから我慢しろよ」
日臣がそう言って肩をすくめると、しばらく黙って話を聞いていた磐余彦が急に楽しそうな顔を見せた。
「それなら、せっかく山に入るんだし、待っている間に獣狩りでもしようよ。食料にもなるし、暇つぶしにもなるじゃないか」
その瞬間、竹は勢いよく磐余彦の方を振り向いた。
「いや……もう熊はいいわぁ……」
普段なら磐余彦を叱りつける側の竹が、心底嫌そうな声を漏らしたものだから、浦が最初に吹き出し、それにつられて日臣まで声を上げて笑い始めた。
椎根津彦も口元を緩め、大久米もわずかに肩を揺らしている。
これから戦場へ向かう途中だというのに、六人の間には一瞬だけ幼い頃の山遊びへ戻ったような空気が流れ、磐余彦も皆につられるように楽しそうに笑うのだった。
二日後、ついに曾於族の軍勢が姿を現した。
遠目からでもかなりの兵数を抱えていることが分かり、先頭の兵だけでなく、その後方にも次々と人影が続いている様子から、今回は小競り合いではなく、日向の南方を守る防御柵そのものを力ずくで突破するつもりなのだと容易に察することができた。
磐余彦率いる三百の兵も、それに合わせて南西の山々の裏側から静かに移動を開始した。
山の斜面や木々を遮蔽物として利用し、曾於族から姿を見られぬよう慎重に進みながら、少しずつ敵軍の側面から後方へと回り込んでいく。
やがて布陣を終えた曾於族は、ためらう様子もなく防御柵へ攻撃を開始した。
迎え撃つ大倭壱国軍の最前線では、彦五瀬が自ら兵を率いて陣頭指揮を執っており、柵の前に殺到してくる曾於族の兵を次々と押し返していた。
木槍や弓矢が飛び交い、怒号と悲鳴が入り乱れる中、曾於族は尋常ではない数の負傷者を出しながらも、一向に攻撃の手を緩めようとはしない。
食糧を得なければ生き残れないという切迫した事情を背負っているからなのか、倒れる者が出ても、その後ろから新たな兵が押し寄せ、防御柵へ何度も何度も体当たりするような攻撃を繰り返していた。
彦五瀬も必死に兵を動かして応戦したが、ついに激しい攻撃に耐えきれず、防御柵の一角が崩れた。
柵の隙間から曾於族の兵が雪崩れ込み始める。
それを見た彦五瀬は、すぐさま崩れた場所へ向かい、自ら兵を率いて侵入してきた敵を押し返し始めた。
周囲の兵も彦五瀬に続き、狭い隙間を盾と槍で塞ぎながら、何とか敵の進入を食い止めようと踏みとどまる。
山の木々の間からその様子を見ていた磐余彦は、思わず身を乗り出した。
「兄上の支援をしなきゃ……椎根津彦、まだなの?」
焦りを隠せない磐余彦に対し、椎根津彦は戦場から目を離すことなく答えた。
「まだです。今は動いてはいけません」
「でも、このままだと兄上のところが破られるかもしれないよ」
磐余彦が今にも兵を動かしかねない様子を見せたため、今度は日臣が低い声で諫めた。
「磐余彦様、ここは彦五瀬様の手腕を信じましょう。我らが出るのは、まだ早すぎます」
椎根津彦も続ける。
「敵は前線へ兵を送り込んではおりますが、後方にはまだ予備兵が残っています。ここで我らが姿を現せば、敵はすぐにその兵をこちらへ差し向けるでしょう。そうなれば三百しかいない我らは、前後から囲まれて潰されます」
理屈では分かっていた。
自分たちの役目は、防御柵を守ることではない。
曾於族が前方の戦いへ意識も兵力も集中させ、後方が手薄になる瞬間を待ち、その一点を突くことである。
それでも、目の前で兄が危険に晒されている姿を見ながら何もせずに待つことは、磐余彦にとって決して容易なことではなかった。
「……わかった」
そう答えると、磐余彦は強く握りしめていた手をゆっくりと開き、今すぐ駆けつけたい衝動を必死に抑え込んだ。
その間にも、崩れた防御柵では激しい戦いが続いていた。
彦五瀬は雪崩れ込もうとする敵兵を押し返しながら、その背後では別の兵たちに柵の補修を急がせていた。
前線を維持しながら修復作業まで同時に進めるという難しい指揮であったが、彦五瀬は混乱しかけた兵を落ち着かせ、一人一人に役目を与えることで崩壊寸前だった防衛線を立て直していく。
やがて応急的ながらも柵は再び塞がれ、侵入しかけていた曾於族の兵も押し戻された。
その様子を見届けた磐余彦は、ようやく小さく息を吐いた。
「兄上はすごいな……あそこから本当に立て直した」
日臣も素直に感心した様子で戦場を見つめていた。
「あの状態から兵をまとめ直して、柵まで直させるとはなぁ……やっぱり彦五瀬様は大したものです」
しかし、戦況が立て直されたからといって、磐余彦たちの役目が始まるわけではなかった。
磐余彦は再び椎根津彦へ顔を向けた。
「椎根津彦、私たちの出番はまだかな?」
「まだです」
先ほどと同じ答えだったが、椎根津彦の声には迷いがなかった。
「敵の予備兵がまだ残っています。それに、あの後方に固まっている一団がおそらく曾於族の本隊でしょう。あそこにはまだ十分な兵がいます。敵がさらに前線へ兵を送り込み、本隊の守りまで薄くなるのを待たなければなりません」
椎根津彦は遠くの敵陣を注意深く見つめながら続けた。
「我らに機会は一度しかありません。三百の兵で敵の後方へ入る以上、失敗すれば立て直す余裕はありません。ですから、もう少しだけご辛抱ください」
先ほどなら、磐余彦はもう一度食い下がっていたかもしれない。
しかし、彦五瀬が自力で危機を乗り越えた姿を目の当たりにしたことで、磐余彦の中にも少しずつ冷静さが戻っていた。
「うん、分かった。今度はちゃんと待つよ」
そう言って磐余彦は戦場へ視線を戻した。
助けに行くことだけが味方を助けることではない。
自分に与えられた役目を守り、最も効果のある瞬間まで動かないこともまた戦なのだと、磐余彦はこの時ようやく少しずつ理解し始めていた。
だが、磐余彦たちが待たされる時間は、それほど長くは続かなかった。
防御柵を一度は崩しかけながらも彦五瀬の働きによって修復され、攻勢を食い止められた曾於族の軍は、今度こそ防御線を突破しようと予備兵を次々と前線へ送り込み、さらに後方に控えていた部隊まで投入して、休む間も与えない波状攻撃を仕掛け始めたのである。
前線へ兵を送り込めば送り込むほど、当然ながら後方の守りは薄くなっていく。
山林の陰からその様子を見続けていた椎根津彦は、曾於族の本隊を守っていた兵まで前方へ吸い出され、後背が大きく開いた瞬間を見逃さなかった。
「今です。攻勢に出ましょう」
待ち続けていたその言葉に、磐余彦は迷うことなく頷いた。
「わかった。いくぞ!」
「待ちわびたぜ! 承知!」
日臣が勢いよく応じると、それまで黙って機を待っていた大久米は、誰よりも早く立ち上がり、そのまま先頭へ向かって駆け出した。
日臣もすぐさま兵を率いてその後を追い、磐余彦は竹と浦を左右に従えながら、部隊全体の動きを見渡せる位置から少し遅れて続いた。
曾於族の本隊へ真っ先に突入したのは大久米であった。
敵が後方からの襲撃に気づいて振り返った時には、すでに大久米はその懐へ飛び込んでおり、振るう刃には一切の迷いがなく、立ちはだかる兵を次々と打ち倒しながら凄まじい勢いで奥へ奥へと斬り進んでいった。
「待て、大久米! 突出しすぎだ、少しは待て!」
後方から追いつこうとする日臣の声が飛ぶと、大久米はその命令を無視することなく、ほんのわずかに歩みを緩めた。
しかし敵兵が目前に現れれば、再び迷いなく刃を振るい、その勢いそのものを完全に止めることはなかった。
日臣も槍を振るいながら必死にその背を追い、次々と敵兵を押し退けて前へ進んでいったが、戦いながらも大久米の動きから目を離すことができなかった。
前回の戦では斥候の役目を担っていたため、本格的に敵兵と刃を交えるのは今回が初めてに近いはずなのに、そこには初陣の者にありがちな迷いや躊躇がほとんど見えず、幼い頃から知っていた大久米の意志の強さが、戦場ではこれほどまでの力となるのかと、日臣は改めて思い知らされていた。
先頭を切る大久米の斬り込みによって敵陣に穴が開き、その直後から日臣の率いる兵たちが一気に雪崩れ込んだことで、曾於族の本隊は瞬く間に混乱へ陥った。
彼らは正面の防御柵を突破することばかりに意識を向け、後方から敵が現れるなど考えてもいなかったため、兵の配置も防御の準備も整えられておらず、どこからどれほどの敵が襲ってきたのかさえ把握できないまま、指揮系統を寸断されてしまったのである。
突然背後から現れた敵兵に斬り込まれたという事実は、実際の損害以上の恐怖となって曾於族の兵たちへ広がっていった。
一人が退けば隣の兵も不安になり、その動揺がさらに後方へ伝わり、命令を受ける前に持ち場を離れる者まで現れ始めると、もはや本隊をひとつの軍として立て直すことは難しかった。
大将と思われる人物だけは護衛に守られながら辛うじて戦場を離れ、その身柄を押さえることまではできなかったものの、指揮の中枢を失った曾於族本隊は完全に統制を失い、兵たちは我先にと逃走を始めた。
敵将を取り逃がしたことは惜しかったが、本隊そのものを崩壊させた影響は、それを補って余りあるほど大きなものとなったのである。
大久米がようやく足を止めた頃には、その全身に無数の切り傷が刻まれていた。
どれも致命傷には至っていないものの、腕にも肩にも頬にも血が滲み、それでもつい先ほどまで痛みなど意に介さないかのように敵を追い、ひたすら前へ斬り進んでいたのである。
後方から駆けつけてきた竹と浦は、その姿を見るなり表情を変え、すぐさま大久米の傍へ寄って傷の具合を確かめ始めた。
「なんて無茶をしているの、あなたは。命がいくつあっても足りないわよ!」
竹は怒ったように言いながらも、その手つきは丁寧で、深い傷がないか一つずつ確かめていく。
「でも、どの傷も浅そうだから大丈夫よ。ほら、じっとしていて。ちゃんと手当てしてあげるから」
浦もそう言って布を取り出し、血の流れている箇所を拭いながら傷口を押さえていった。
大久米は何も答えず、ただ黙って直立したまま二人の手当てを受けていたが、その胸の内には、普段なら決して言葉にすることのない想いが静かに広がっていた。
大久米は竹と浦のことが好きだった。
自分は昔から言葉にすることが苦手で、何を考えているのか分からないと言われることも多かったが、竹も浦もそんな自分を変わった人間として遠ざけることはなく、幼い頃から当たり前のように叱り、世話を焼き、ときには笑いながら傍にいてくれた。
その姿は大久米にとって、本当の姉と呼んでもよいほど近しく、かけがえのないものになっていた。
そして二人が磐余彦へ特別な想いを抱いていることにも、大久米はずっと前から気づいていた。
二人自身がその想いに気づくよりも早かったのかもしれない。
だからこそ、いつかその願いが叶えばよいと思っていたし、誰よりも幸せになってほしいとも願っていた。
そんな二人に今こうして叱られながら傷の手当てを受けていることが、大久米には不思議なくらい嬉しかった。
同時に、胸の奥にはもう一つ、強い満足感があった。
ようやく戦で役に立つことができた。
前の戦でも自分に与えられた役目が重要なものだったことは理解している。
敵の動きを確かめ、合図を送り、作戦を成功へ導くためには必要な任務だったし、決して軽い仕事だったとは思っていない。
それでも大久米の中には、いつか自分の力そのもので磐余彦の役に立ちたいという想いが残り続けていた。
自分には椎根津彦のような知恵はない。
日臣のように兵をまとめ、言葉で人を動かすことも得意ではない。竹や浦のように器用に立ち回れるわけでもない。
けれど、自分にはこの身体がある。
前へ出て道を開くことならできる。敵が立ちはだかるのなら、自分がその前に立てばいい。
誰かが傷つくくらいなら、自分が代わりに傷つけばいい。
今回、ようやくそれを形にして示すことができた。
そのためなら恐ろしくない、などと大久米は思ってはいなかった。
敵の刃が迫れば怖いし、命を失うことだって恐ろしい。それでも、その恐怖よりも守りたいものの方が大きかった。
これから先も、命ある限り守ってみせる。
磐余彦も、竹も浦も、日臣も、椎根津彦も、誰一人として失いたくない。
自分にとって彼らは、幼い頃から共に食事をし、学び、笑い、喧嘩をしながら育ってきた、この世で何より大切な家族なのだから。
言葉にする必要はない。
うまく喋れなくても構わない。
自分にできるやり方で示せばいい。
これからも槍を握り、誰よりも前に立ち、この大切な家族を守り抜くことで、自分の想いを行動と結果に変えてみせる。
竹と浦に叱られながら傷の手当てを受ける中、大久米は誰にも告げることなく、胸の内で静かにそう誓っていた。
日臣は、竹と浦に手当てを受けている大久米の姿を黙って見つめていた。
つい先ほどまで見せていた、無謀とさえ思えるほどの突進は確かに危うく、あと少し判断を誤っていれば命を落としていても不思議ではなかったが、あれは恐怖を知らない者の動きではないと日臣には分かっていた。
敵の刃が自分へ向けられる恐ろしさも、一歩踏み込めば死ぬかもしれないという恐怖も、大久米はきっと誰より強く感じていたはずであり、それでも守りたい者たちのために恐怖を押し殺し、自分の意思で前へ進み続けたのである。
死を軽んじているわけでも、自分の命を捨てているわけでもなく、戦場で感じる恐怖そのものを鋼のような意思で押さえ込み、それを勇猛さへ変えて道を切り開いていたのだ。
だからこそ、大久米には手綱が必要なのだと日臣は感じた。
あの力を好きなように振るわせれば、いずれ敵陣の奥深くまで突き進み、戻れなくなる時が来るかもしれない。
ならば自分が止めればいい。進むべき時には進ませ、危険なところまで踏み込もうとしたなら引き戻し、大久米を死なせることなく、その強さを最大限に生かしてやればいい。
それが兵を率いる者の役目であり、自分が磐余彦に仕える将として身につけなければならないものなのだと、日臣は初めてはっきりと理解した。
「磐余彦様、このまま追撃なされますか?」
日臣の問いに、磐余彦は逃げていく曾於族の兵たちをしばらく見つめたものの、すぐに首を横へ振った。
「追わなくていいよ。もう十分だ。これ以上の殺生は必要ない」
その判断を聞いた椎根津彦も静かに頷いた。
曾於族の本隊は崩れ、いまなら追撃すればさらに多くの敵を討つことも出来るだろうが、自分たちはわずか三百ほどの少数部隊にすぎず、敗走する敵を深追いした先で相手が態勢を整え反転すれば、今度はこちらが包囲される危険すらある。
すでに本隊を崩して曾於族の指揮系統を乱した以上、この場で余計な欲を出す必要などなく、勝敗を決するために必要な働きは十分に果たしていた。
やがて最前線で防御柵を攻め続けていた曾於族の主力にも、後方に控えていた本隊が襲撃を受けて崩壊したという知らせが伝わり、前線の兵たちの間に大きな動揺が広がっていった。
背後を支えるはずの本隊を失ったまま戦いを続ければ、今度は自分たちが取り残されることになるため、これまで激しく防御柵へ攻撃を仕掛けていた兵たちも次第に後退を始め、それを見逃さなかった彦五瀬はすぐさま兵を励まして前へ押し出し、崩れ始めた曾於族の軍勢を一気に押し返していった。
前線と後方、その双方で戦線を維持出来なくなった曾於族は、ついに軍全体を南へ退かせ始めた。
無理に踏みとどまろうとする部隊もなく、各所で撤退の動きが広がっていくのを確認した磐余彦は、敵を追って南へ向かうことなく、ただちに自軍へ西への転進を命じた。
そのまま敗走する曾於族の軍勢との接触を避けながら山沿いを迂回して北へ進み、やがて父・鵜葺と兄・彦五瀬が率いる大倭壱国本隊のもとへ合流するのだった。




