九章 神武 十八話 初陣
早朝から、磐余彦の軍は慌ただしく出立の準備に追われていた。
港では兵たちが絶え間なく行き交い、椎根津彦が事前に揃えさせていた大量の物資が次々と運び込まれ、弓矢や油、木材をはじめとする荷が確認されながら船へと積み込まれていく。
今回の行軍はただ兵を率いて南へ向かうだけではなく、椎根津彦が考えた策を実行するためのものであり、そのために必要な物資も普段の出陣とは比べものにならないほど多かった。
兵たちは慣れない積み荷に戸惑いながらも、命じられた通りに船ごとの荷を整え、出航に支障が出ないよう一つずつ確認を重ねていった。
やがて積み込みが一段落すると、磐余彦の配下には改めて作戦の概略が伝えられ、それぞれが自分の役目を確認したうえで持ち場へ散っていった。
全てを細かく知らせる必要はなく、兵たちには自分がいつ、どのように動けばよいのかだけを徹底させ、余計な混乱が起きないよう指示は簡潔にまとめられていた。
準備を終えた船団は順次港を離れ、朝の海へと進み出していった。
先鋒を任された日臣は自ら先頭の船団を率い、周囲の船へ目を配りながら進路を整え、後続が乱れないよう速度を合わせつつ南へ向かっていく。
一方、本隊には磐余彦と椎根津彦が乗り込み、その傍には護衛として竹と浦が控えていた。
二人は出航してからも気を緩めることなく、磐余彦の周囲だけでなく、海上の様子や他の船の動きにも目を配りながら、いつ何が起きても動けるよう備えていた。
ただ一人、大久米の姿だけは船団の中になかった。
大久米は椎根津彦から別の役目を与えられており、本隊が港を離れるよりも早く小舟に乗って先行していたのである。
普段から多くを語らない大久米は、その命令にも余計なことを訊くことなく黙って頷き、自分に与えられた役目を果たすため、誰よりも先に南の海へと向かっていた。
船団が海岸沿いを南へ進んでいく中、竹は先頭を進む船へ視線を向けながら、ふと思い出したように口を開いた。
「それにしても、日臣は船酔い、大丈夫なのかしら?」
「あー、そういえば昔はひどかったわね。船に乗るたびに吐いてたもの。懐かしいなぁ」
浦も同じ方向を眺めながら楽しそうに笑ったものの、竹は少し心配そうな表情を浮かべたままだった。
「あれだけ船酔いが酷かったのに、先鋒の指揮なんて任せて本当によかったのかしら。途中で動けなくなったりしないでしょうね」
「今は陸が見えるくらいの沿岸を進んでいるだろう? 本格的な外洋に出ているわけでもないし、今日は波もそれほど激しくないから、多少は大丈夫じゃないかな」
磐余彦はそう答えてから、少し考えるように先頭の船団へ目を向け、どこか楽しそうに付け加えた。
「それに日臣なら、たとえ船酔いしても指揮だけは続けると思うよ。吐きながらでも『進め!』とか叫んでいそうじゃないか」
「……想像できるわね」
「うん、すっごく想像できる」
竹と浦の頭の中には、船縁にしがみついて顔を真っ青にしながら、それでも意地だけで兵へ命令を飛ばしている日臣の姿が鮮明に浮かび、二人は堪えきれずに顔を見合わせてクスクスと笑った。
一方、その頃、先鋒船団を率いていた日臣は、不意に鼻の奥がむずむずするのを感じたかと思うと、
「へっぐしゅん!」
盛大なくしゃみをして鼻をすすり、何となく嫌な気配でも感じ取ったように後方の船団を振り返った。
「……なんだ? なんか、すっげぇ失礼なこと言われてる気がするんだが……」
大久米は一足先に海岸沿いを進み、椎根津彦から事前に聞かされていた情報を頼りに曾於族の姿を探し続けていた。
敵軍が海岸沿いを北上していることまでは分かっていたため、敵軍に先に発見されないよう慎重に進んでいたところ、やがて遠方に集団で移動する曾於族の軍勢を確認することができた。
敵の位置を確かめた大久米は、そのまま近づきすぎることはせず、敵陣から少し北へ離れた場所まで戻ると、海上からも見つけやすく、なおかつ曾於族には気づかれにくい地点を探して身を潜めた。
彼に与えられていた役目は戦うことではなく、日が沈み、磐余彦率いる船団が海上へ姿を現した時に篝火を焚き、敵陣の位置を味方へ知らせることであり、その合図が作戦全体の成否を左右することを大久米自身も十分に理解していた。
やがて日は西へ傾き、海も陸も次第に暗闇へ沈んでいった。
大久米は物音を立てないよう息を潜めながら何度も北の海へ視線を向け、味方の到着を待ち続けていたが、しばらくすると暗い海の向こうに小さな明かりがいくつも揺れているのを見つけた。
最初は星明かりにも見えたそれは、やがて船の動きに合わせてゆっくりと位置を変え始め、磐余彦率いる大倭壱国の船団が予定通り接近してきたことを大久米に知らせた。
大久米はすぐに用意していた薪へ火を移し、敵陣から見つからぬよう注意しながら篝火を高く燃え上がらせると、さらに松明へ火を灯して大きく振り、海上の仲間たちへ合図を送り続けた。
何度か同じ動きを繰り返した後、船団側の篝火にも変化が現れたため、自分の合図が届いたことを確認すると、ようやくわずかに肩の力を抜いた。
役目は果たした。それでも大久米の胸には、わずかな物足りなさが残っていた。
これから磐余彦も日臣も竹も浦も、そして椎根津彦も戦いの中へ入っていくというのに、自分だけはその場から離れて見届けることしかできない。
戦うことだけが役目ではなく、この合図がなければ仲間たちは敵の位置を正確に知ることすらできないと理解してはいたが、それでも同じ場所で槍を握り、共に戦いたいという気持ちまで消すことはできなかった。
大久米は遠く海上に揺れる篝火を無言のまま見つめながら、ただ仲間たちの作戦が成功し、誰一人欠けることなく戻ってくることを願い続けた。
椎根津彦は船上に立ったまま、頬を撫でていく風の流れを確かめるように顔を上げ、帆の揺れや篝火から流れていく煙の向きを注意深く観察していた。
風は海から陸へ向かって吹いており、火を使うには都合のよい風向きであることを確認すると、今度は陸側へ視線を移した。
しばらくすると、暗闇の中にひとつの篝火が浮かび上がり、その近くで松明の光が大きく左右へ振られるのが見えた。
先行していた大久米からの合図である。椎根津彦はその位置と松明の動きを見比べ、敵陣が篝火よりわずかに南側に広がっていることを読み取ると、すぐに磐余彦へ向けて合図を送った。
磐余彦はその意味を理解すると静かに頷き、船上に控えていた兵たちへよく通る声で命を下した。
「各自、事前に用意した矢へ布を巻き、その布へ油を染み込ませろ。それから各船の篝火を一斉に増やせ。火を絶やすな!」
命令を受けた兵たちはすぐさま持ち場へ散り、船底や荷の間に積み込まれていた物資を次々と取り出していった。
これまで運んできた大量の荷は、弓矢だけではなく、篝火を増やすための木材、矢へ巻き付けるための布、そして火を長く保たせるための油であり、そのすべてがこの夜のために椎根津彦が事前に用意させていたものだった。
やがて船団のあちらこちらで新たな篝火が灯され、闇に沈んでいた海上が一気に明るさを増していった。
小舟でさえ二本以上の篝火を掲げ、兵を多く乗せた戦船では十本を超える火が揺らめき、遠くから見れば実際の数をはるかに上回る大船団が海一面に広がっているように映る。
兵たちは油を含ませた布を矢へ巻き付け、弓を手元へ引き寄せながら静かに命令を待っていた。
海から陸へ吹き続ける風の中、無数の篝火だけが波間を赤く照らし、あとは敵陣へ向けて火矢を放つ、その瞬間を待つばかりとなった。
先鋒船団を率いていた日臣は、岸辺に広がる曾於族の陣を睨みながら、船団が十分に射程へ入ったことを確かめると、右手を大きく振り上げた。
「火矢を敵陣に向けて放て!」
その号令と同時に、先鋒船団の各船から弓弦の弾ける音が連続して響き、赤々と燃える火矢が夜空へ次々と舞い上がった。
幾筋もの炎は緩やかな弧を描きながら海岸へと飛び、曾於族の陣屋や柵、積み上げられていた薪や藁の周囲へ降り注いでいく。
突然の襲撃に曾於族の兵たちもすぐさま異変へ気づき、迎撃のために武器を手に取り始めたものの、一度燃え移った炎は夜風に煽られて瞬く間に広がり、陣の各所から火の手が上がったことで、兵たちは敵への対応よりも消火や混乱する仲間たちへの対処に追われていた。
さらにしばらくすると、後方から進んできた磐余彦の本隊も射程へ入り、先鋒船団に続いて戦闘態勢を整えた。
磐余彦は燃え上がる敵陣を見据えたまま、船上の兵たちへ届くよう声を張った。
「我らも火矢を放て!」
その命令に応じて、本隊からも一斉に火矢が放たれ、先鋒から続く炎の雨がさらに激しさを増した。
海上から途切れることなく降り注ぐ火矢によって曾於族の陣は各所で炎に包まれ、怒号や悲鳴が入り交じり、迎撃のために整えようとしていた兵の列も次第に乱れていった。
日臣も自ら弓を取り、矢尻の布に火が十分に燃え移ったことを確認すると、陣の中央付近へ狙いを定めて弦を引き絞った。
これまで何度も弓の稽古を重ねてきたものの、今まで射ってきたのは的や獣ばかりであり、その先に人間がいる状況で矢を放つのは初めてだった。
それでも日臣は指揮官として躊躇を見せるわけにはいかず、息を整えて指を離した。
放たれた火矢は夜風に流され、狙っていた場所からわずかに逸れたものの、敵陣の一角に張られていた陣幕へ突き刺さった。
燃えた布は瞬く間に陣幕を舐めるように広がり、その炎はすぐ隣に積まれていた藁束へと燃え移っていった。
炎の向こうでは、逃げ遅れた兵が倒れる姿が見えた。
日臣の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
これが戦なのだと、ようやく実感した。
自分が放った一本の矢だけではない。自分が「放て」と命じたことで、何十、何百という矢が敵陣へ向かい、その一本一本が陣を焼き、人を傷つけ、命を奪っているのである。
これまで木簡で学んだ戦も、武芸の稽古で想像していた戦場も、目の前で起きている現実とはまるで違っていた。
胸の奥に重たいものが沈んでいく感覚を覚えながらも、日臣は視線を逸らさなかった。
ここで自分が止まれば、後ろに続く兵たちも迷う。
自分は磐余彦に仕える武人であり、今は先鋒を任された指揮官なのだと自らに言い聞かせ、日臣は一度だけ深く息を吸った。
そして再び火矢をつがえ、燃え盛る曾於族の陣へ向けて弓を引き絞った。
指を離す。
火矢は再び夜空を裂き、炎の中へと吸い込まれていった。
磐余彦は船上から燃え上がる敵陣を見つめていた。夜の闇を押し退けるように炎が広がり、次々と陣幕へ燃え移っていくたびに、逃げ惑う曾於族の兵たちの姿が赤い光の中へ浮かび上がっては消えていく。
その光景を前にして、磐余彦は号令を出すことも忘れたように立ち尽くしていた。
自分が命じたのである。
火矢を放てと命じたのは自分であり、その命令に従って兵たちは弓を引き、放たれた矢によって敵陣は燃えている。
遠く離れた船の上から眺めているだけであっても、その炎の向こうで人が傷つき、あるいは命を落としていることくらい分かっていた。
これまで兵法について学んだことは何度もあった。熊を討ったこともあり、戦の話を聞いたこともある。
しかし、木簡に書かれた戦と、自分の目の前で起きている戦はまったく違うものだった。
自分が一言命じれば、多くの兵が動く。
そしてその結果、人が死ぬ。
その事実が、磐余彦の胸に重くのしかかっていた。
そのとき、闇の向こうから放たれた一本の矢が、磐余彦めがけて飛んできた。
磐余彦が気づくより早く、左右から二枚の盾が突き出された。
竹と浦がほとんど同時に前へ出て、磐余彦の身体を覆うように盾を構えると、飛来した矢が鈍い音を立てて盾へ突き刺さった。
「なに呆けているの! 今は戦の最中よ、しっかりしなさい!」
竹は磐余彦を振り返ることもなく、盾の向こうを睨みながら鋭く叱りつけた。
「本当よ。私たちがいないと磐余彦は駄目なんだから。まったく、しょうがないわね」
浦も普段のような軽い口調ではあったが、その目だけは笑っておらず、次に飛んでくる矢がないか闇の向こうへ鋭く視線を走らせていた。
「す、すまない。助かった。もう大丈夫だ、気をつける」
磐余彦がそう答えると、竹と浦は何も言わずに小さく頷き、そのまま磐余彦の左右へ立って警戒を続けた。
幼い頃から何度も守られてきた二人に、また助けられてしまったのだと磐余彦は思ったが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
戦はまだ終わっていない。
磐余彦は大きく息を吸い込み、もう一度燃え盛る敵陣へ視線を戻した。
「磐余彦様」
傍らに控えていた椎根津彦が、炎の広がりと曾於族の混乱を見定めながら静かに声をかけた。
「敵はまだ混乱しております。あと少し撃ち続ければ、さらに大きな被害を与えることができます」
磐余彦は答えなかった。
炎の向こうでは、まだ多くの兵が走り回っていた。
燃えた陣幕を消そうとしている者もいれば、傷ついた仲間を引きずって逃げようとしている者もいる。
その一人一人にも、自分たちと同じように帰る場所があり、待っている者がいるのだろう。
勝つためなら、ここでさらに火矢を撃ち込むことは間違っていない。
敵へより多くの損害を与えれば、それだけ追撃される危険も減る。椎根津彦の判断は軍略として正しかった。
それでも、磐余彦は首を横に振った。
「いや、もういい」
椎根津彦が磐余彦へ視線を向ける。
「私たちの目的は、曾於族をここで皆殺しにすることではない。この軍を南へ戻らせて、北へ進む時間を遅らせることだ。もう十分だよ」
椎根津彦はしばらく磐余彦の横顔を見つめていたが、異論を口にすることなく静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
磐余彦はもう一度、炎に包まれた敵陣を見つめた。
戦である以上、誰も傷つけずに終えることなど出来ない。そのことは分かっている。
必要ならば戦わなければならず、人を殺すことから逃げ続けることも出来ないのだろう。
それでも、殺さなくてよい者まで殺す必要はない。
磐余彦はそう自分に言い聞かせながら一度深く息を吐くと、船上の兵たちへ向かって声を張り上げた。
「ここまでだ! 火矢を止めろ! 全船、撤収する!」
号令が船から船へ伝えられ、火矢を放っていた兵たちが次々と弓を下ろしていく。
やがて船団はゆっくりと向きを変え、磐余彦の命令に従って南へ進み始めた。
竹と浦が左右で警戒を続け、椎根津彦が船団の動きを確認する中、磐余彦だけはしばらくその場から動かなかった。
船が南へ進み、敵陣との距離が開いていっても、磐余彦は振り返ったまま燃え盛る炎を見つめ続けていた。
あの火を放ったのは、自分なのだ。
初めて兵を率い、初めて戦い、初めて自分の命令によって人の命を奪った。
戦場の炎は次第に小さくなり、やがて夜の闇へ飲み込まれて見えなくなったが、磐余彦は最後の光が消えるまで、ただ黙ってその方角を見つめ続けていた。
曾於族の陣では、ようやく混乱から立ち直った兵たちが弓を取り直し、燃え広がる陣幕や荷を避けながら海岸へ集まり始めていた。
指揮官たちも散らばった兵を呼び戻し、海上の敵に向けて迎撃の態勢を整えようとしたが、その頃には大倭壱国の船団はすでに弓の届かないところまで離れており、いまさら矢を射かけたところで届く距離ではなかった。
敵を追い払ったと考えた兵もいたが、すぐに異変に気づいた者が声を上げた。
大倭壱国の船団は北へ退いていなかったのである。
日向へ戻るのであれば北へ進むはずなのに、海上に浮かぶ無数の篝火は、そのまま南へ南へと移動を続けていた。
しかも海上から見える火の数は尋常ではなかった。実際には小舟や漁船まで集めた船団に過ぎなかったが、一隻ごとに複数の篝火が焚かれ、大きな船ではさらに多くの火が並んでいるため、暗闇の中では実際の船数を見分けることなどできない。
曾於族の兵たちの目には、海を埋め尽くすほどの大船団が、自分たちの領地へ向かって南下しているようにしか見えなかった。
「南へ向かっているぞ!」
誰かが叫んだ瞬間、それまで敵を追い払った安堵に包まれかけていた陣の空気が一変した。
「待て、南には兵をほとんど残していないぞ!」
「村には年寄りと女子供しかいない! まさか、我らをここに引きつけている間に里を襲うつもりではないのか!?」
兵たちの間に動揺が広がっていった。
北へ進軍するため、働ける男たちの多くは軍に加わっており、南に残された村々を守る兵力はわずかしかない。
そこへ、これほどの船団が上陸したならどうなるのか。
家族を殺されるかもしれない、家を焼かれるかもしれない、わずかに残された食糧まで奪われるかもしれない――そんな想像が、一度生まれてしまえば止めることはできなかった。
つい先ほどまで目の前の敵を憎み、日向へ進むことだけを考えていた兵たちも、自分たちの妻や子、親や兄弟の顔を思い浮かべれば平静ではいられなかった。
敵が本当に村を襲うつもりなのか、それとも単なる撤退なのか、それを確かめる術もない以上、見過ごすことなどできなかったのである。
曾於族の指揮官たちは急ぎ協議した末、焼けた陣を守るために一部の兵を残し、主力を南へ転じさせる決断を下した。
もし海上の船団をそのまま放置して村々を襲われれば、たとえ北の戦で勝ったとしても、自分たちの帰る場所そのものを失いかねないからだった。
こうして曾於族の軍勢は、それまで目指していた北への進軍を中断し、遠ざかっていく無数の篝火を追って、今度は自ら南へと引き返していった。
翌朝、東の空が白み始め、海面に薄い朝日が差し込む頃になると、磐余彦は曾於族の追撃を十分に南へ引きつけたと判断し、船団に岸から離れるよう命じた。
陸から船影を確認できないところまで沖へ出てから、今度は進路を大きく北へ転じ、そのまま一路、日向の地を目指して帰還することになった。
昨夜からほとんど休まず船を動かしていた兵たちには疲労が色濃く浮かんでいたものの、敵の追撃を受ける様子はなく、船団は大きな損害を出すこともないまま日向の港へ戻ることができた。
港へ船が着き、兵たちが次々と陸へ降りていく中、先鋒船団を率いていた日臣もようやく地面へ足をつけたのだが、その途端に緊張の糸が切れたように膝から崩れ、そのまま地面へ倒れ込んでしまった。
戦闘中は何とか耐えていたものの、帰路で沖へ出たことで波が強くなり、結局いつもの船酔いに襲われていたらしい。
青ざめた顔のまま地面に横たわる日臣を見下ろした竹は、呆れたように腰へ手を当てた。
「だらしがないわね……それでも指揮官なの?」
「うるせぇ……戦闘も指揮も、ちゃんと最後までやったわ……だが帰りがな……うう……」
言い返すだけの元気は残っているらしいが、起き上がる力までは残っていないようで、日臣は地面に寝転がったまま眉間に皺を寄せていた。
その様子を見た磐余彦は苦笑しながら水の入った器を受け取り、日臣の傍まで歩み寄って差し出した。
「ご苦労様。水、飲むかい?」
「おお……助かります、磐余彦様……」
日臣がゆっくり身体を起こして水を飲んでいると、浦が港の向こうへ視線を向け、こちらへ近づいてくる一人の大柄な少年の姿に気づいた。
「あ、大久米だよ。戻ってきたみたい」
別行動を取っていた大久米も、遅れて無事に帰還してきたのである。
昨夜、大久米は敵軍の位置を知らせる役目を終えた後も陸に残り、曾於族の軍勢が本当に南へ引き返したのかを見届けていたため、船団とは別行動になっていた。
大久米が皆の前までやってくると、椎根津彦はすぐに歩み寄り、結果を確かめるように問いかけた。
「どうでした? 曾於族は南に釣られましたか?」
大久米はいつものように言葉を発することなく、ただ一度、力強く頷いた。
その返答を見た瞬間、椎根津彦は胸の奥に張りつめていたものがようやく解けたように息を吐き、普段はあまり表情を変えない顔に、ほんのわずかではあるが安堵の笑みを浮かべた。
自分が立てた策によって敵を南へ誘導し、その進軍を遅らせることができたのである。
兵を失わず、敵に決定的な損害を与えることも目的とせず、ただ時間を稼ぐために考えた策が、想定以上の成果を生んだという事実は、椎根津彦にとって何より嬉しいものだった。
こうして椎根津彦の策は見事に成功し、北上を続けていた曾於族の軍勢は一度大きく南へ引き返すことになり、再び日向へ向けて進軍を整えるまでに長い時間を要した。
その結果、当初は十日ほど稼げれば十分と考えられていた時間は、最終的には二十日近くにまで延びることになった。




